――ほぉら、やっぱりなぁ。あんたの負けさ 痛んだ木造のカウンターに肘をついた那智・B・インゲルハイムのほっそりと長い指がドブ水よりはマシなコーヒーの入ったカップを弄ぶ。 その耳にはラジオから漏れる歌姫イライザの唄声と、ドスのきいた男たちの雑談が流れ込む。 とろりっとした蜂蜜色に街を染められた黄昏時。 労働者が一日の稼ぎを握りしめる、朝から夜の貌に街が変わる最も活気立つ時刻。それに合わせるようにしてどこからかしっとりと湿った鉄錆の匂いをさせた霧が立ち込め始める。 通称、霧の街。 夜になれば夜闇よりも煤煙を交えた霧が世界を白く濁し、それに誘われるように悪魔の囁きが人の心を容易く堕落させる都。 繁栄とはうらはらに貧富の差は激しく、いま、那智が夕食前の一杯に立ちよったバールも貧民街に存在する。店の前では娼婦が立ち、斜め向かいでは阿片窟やカジノが軒を連ねて喧騒が絶えない。そんななか良心的な値段でドブ味のコーヒーとサンドイッチを提供してくれる店は黄金よりもずっと貴重だ。 むさくるしい労働者の集まったそこに眼鏡にスーツ姿の那智は浮いていた。どう見てもその姿は労働とは無縁で、仕事前の男娼という毛もない。 しかし、そんな些細なことを短い夜の一時を娯楽に費やすことばかり考える男たちはさして気にとめない。 「おい、お兄さん、サーカス知ってるかい?」 「いや、何かあるのかな?」 「なんだい。あんた、あの素敵な夢と希望の詰まったサーカスを知らないのか! 空中ブランコの素晴らしいこと。ハラハラして、手に汗握ったもんだ」 「あの踊り子の別嬪なこと!」 「いやいや、ピエロの滑稽なことといったら、そりゃあ腹を抱えて笑ったねぇ」 「忘れちゃいけねぇよ。身一つで鮮やかに動く軽芸師!」 男たちが楽しげに語るのは今から一週間ほど前にやってきたサーカスのことだ。 サーカスがやってきた当日は華やかな音楽と動物に衣装を着た人々がちらしを配り歩るき、まるで祭りのような賑わいだった。 それから一日も欠かすことなくサーカスは夢と希望を生活に人々に提供し、日に日に客は増えていったが 「ああなっちまったらなぁ」 「ああなった?」 那智の相槌に一人がため息をついた。 「昨日、燃えちまったんだよ」 「ああ、昨日は外が騒がしかったがサーカスで火事があったのか」 「お兄さん、あんた、新聞は読んでるのかい? ああ、そういや、ここ最近、まともな新聞の記事は一日遅れだったか。しっかしよ、街に出れば噂で持ち切りだぜぇ」 労働者は呑気な那智に呆れた顔をした。 「サーカスの奴ら、みんな死んじまったのさ」 「そうさ。この街でも驚くほど陰気な事件!」 「事件? 火事なら事故じゃないのかい?」 再び那智の相槌。 「いやいや、ただのピュロマーネの仕業じゃないぜ」 そこでもったいぶったように労働者はヤニで黄色くなった歯を見せて笑った。 「なんでもなかに首を絞められちまったやつ、血肉が飛んじまうほど殴られたやつ、刺されたやつといたらしい」 「警察は隠してるがな」 「そんな情報をきみたちはどこで知ったのかな?」 那智はぱさぱさのサンドイッチをつまみながら尋ねた。 労働者と、カウンターにいるマスターの五人ほどが那智を囲むと悪戯が大好きな子供のように顔を寄せ、声を低く囁いた。 「俺の知り合いが、警察のモルグに勤めているんだがよぉ、そこで死因が変なもんがあるって教えてくれたのさ」 「ひぇー」 「怖いもんだ。誰が殺したんだ? 盗人か?」 「いやいや、手口がどれも異なるからな。それだとサーカスの仲間割れじゃないのか? ほら刺されたやつが最後まで生きていて、火を放った」 「死体の性別は? 女が一人いたのか? 男と女のもつれってやつか? くくっ!」 各々好きな推理や推測を……とは言えない、かなりいい加減なことをぽんぽんと思いつきで口にしていく。 那智は会話にはくわわらず、眼鏡の奥に潜む夕闇色の瞳がカップの底にある黒く濁った液体を眺めていた。 「もしかしたら、『不可視の殺人鬼』かもな」 霧の街に現れる、殺人鬼。その姿を見たものは未だにおらず警察も手を焼き、いつの間にか人々がそう呼び始めた。 被害者に男女老若の差はなく、目的もわからない。 「少し前に若い娘さんが殺されていたな。シル、なんだったけ?」 「そのあと音沙汰がねぇからなぁ。また殺す時期か?」 「サーカスひとつは大量すぎるぜ」 「それに手口が違うしなぁ」 労働者たちは顔を見合わせてはじめからそんなことは期待していなかったとばかりに肩を竦めた。 「おや、そこにいた色男はもう出ていっちまったのか」 労働者たちが振り返ると、そこにいたはずの那智は消えて、かわりにコーヒーとサンドイッチの料金が置かれていた。 腐った果実が潰れたような霧に灯、客引きの声、喧嘩が飲まれ――灯りの届かない裏通りは静寂に包まれていた そこへ霧を振り払う様な陽気なダミ声の唄声が響く。 ボロを纏った、あきらかに労働者階級の男が酒瓶を片手に握りしめて千鳥足で歌う。自分がどこに進んでいるのかも、アルコールと阿片の与える陶酔に顔をとろりと溶かして確認一つせずにずんずんと進んでいく。 すっとそこに黒い陰が近づいていく。 音もなく、気配もなく。 男は歌い続ける。 音もなく、気配もなく。それは。 男は歌い続ける。 ざ、シゅ。 男は喉が掻き斬られた痛みすら理解できなかったに違いないが、素直な体は崩れ、倒れていく。霧が白から赤を孕む。陽気な歌声は続く。それを興味深そうに殺人鬼は見つめていた。まだ生きているかと思って観察していると白く濁った瞳はもう生気を宿してはいなかった。 「阿片のせいかな」 殺人鬼はその手に持つナイフを回転させ、もう一度、今度はわざと男の心臓を貫いた。それでも陽気な歌声は響く。 その歌声に耳を傾けていた殺人鬼は顔をあげた。まるで陽気な音楽に惹かれたように近づいてくる足音が聞こえてきた。 あー、あ゛あ゛――。 霧にぱっと血を撒いたような真っ赤なものが飛び出してきたのに殺人鬼は眼鏡越しに眸を細めた。 その踊り手はふらふらと、まるで糸の切れた人形のようにめちゃくちゃなステップを踏んで観客の前までやってきた。 赤だった。 元はなに色をしていたのかわからないほどに髪も、服も、手も、足も赤黒く染まっていた。 ただ赤いのではない、肌は焼けて紅色、髪は茜色、眸は鮮血。しかし、左目は怪我をしたのか片手で覆っている。 踊り手の右目がぎょろりと動いて観客を睨んだ。 あ゛、あああ゛――。 「……これは」踊り手は呟いて、歌い手と観客を交互に見比べて数秒ほど黙っていたが納得したように頷いた。「ああ、あんたが」真っ赤な男は疲れた顔に、わずかばかりの自尊心の残った笑みを浮かべた。 「噂の殺人鬼か」 観客はこの予想外のハプニングに動揺することなく、腕を組んだまま赤い踊り手を見ていた。その顔はありありと、どうしたものかと語っている。 「死にたいのかな、君は」 「殺してくれるのか、殺人鬼」 殺人鬼は眉を持ちあげた。 「死にたい人間を殺して何が楽しいのかな」 あ゛、あああああ゛ー。 「楽しい? 楽しみのために人を殺すのか? イカれてる。変態野郎」 「君は、私を怒らせようとしているのかい?」 「……」 「それこそ無駄じゃないかな。激昂してそれで私が君を殺すというのはかなり陳腐で興味がそそられないストーリーだよ」 「くそったれ」 「……」 「なに笑ってるんだ。見せものじゃないぞっ!」 「君は今、私の前にいるんだよ。そしてこの霧のような仮初とはいえ生殺与奪の権が私のこの両手にある。そうなれば楽しみを考えるしかないじゃないか」 「……いかれてる」 「人の生命は快楽と共に生まれる。ならば快楽のために失われたとしても、おかしな話ではないだろう?」 「……」 あ゛、ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ。 「そうだ、賭けをしようじゃないか」 「賭け?」 「君の願いが叶うかもしれない、賭けさ」 「何を言って」 どすン。 「え? あ……あっ」 痛みと衝撃に倒れながら赤い男は信じられないという顔で目の前の男を見る。いや、そもそもこいつは殺人鬼じゃないか。 ぞっとするほどに美しいのに、空っぽの微笑みが、見る。見る。見る。 「安心するといい、ナイフはしっかりと狙って刺しておいたから、君は死なない。もちろん、ナイフを抜けば大量出血で死ぬ。君にその勇気があればだけどね」 「ゆう、き?」 「ここにいるのは死ねなかったんだろう?」 「……」 「自分に出来ないことを他人に頼もうとする人間はもっと礼儀正しく謙虚であるべきだ。だが、このままほっておくのもつまらないから賭けにしよう。君が自分で死ねるか、それとも生き残ってしまうのかな?」 「狂ってる」 泣きだすような声で赤い男は吐き捨てた。 「っ、いたい、いたい、いたいっ――く、そっ」 「ナイフを抜いたら、今よりももっと苦しんで、時間がかかるだろうがきちんと死ぬことが出来るはずだよ。さぁ、どうする」 「くそ」 「私は君が死ぬのに賭けようかな」 「……痛いっ、あ、ああっ」 「君は自分が生きるほうか、死ぬほうか、どっちにするんだい?」 「……っ、あ……っ」 「生き残るほうかな。賭けの結果を楽しみにしているよ」 あ゛ああああああああああああああああああ――。 擦れた唄はひと際大きく唸りあげて、終わりを告げた。 それに観客は背を向けて去っていく。 倒れたまま赤い男は朦朧とする意識で、ナイフを見ていた。これを抜けば死ねる。しかし数時間に及ぶ苦痛を考えると冷たい手は動かない。 痛みがじわじわと体と心を蝕んでいくのを永遠にこのままかと己を憐れみながら嘲笑っていると不意に足音が聞こえた。 「イライザの舞台を見た帰りは機嫌よくしていたいというのに、困ったものだ」 それに続いてすぐに「こいつ見たことありますよ、サーカスのやつだ」「生き残りか?」「死んでなかったのか」と囁きが聞こえた。 「ハロー、死に損ないの死体。死体がふらふらとしてはいけない。さぁて、私は機嫌がいいから始末してやろう」 とたんに激痛が走り、去っていった。ナイフが抜き取られたのだとわかった。 赤い男はじっと涙に濡れた目で男を見た。擦れた視界にまるで深淵のような大きくつり上がった唇が見えた。 「運べ」 「ボス、しかし、これは」 「これはただの死体だ。どうしようと誰も咎めたりはしない」 薄れゆく意識のなかで、深淵に飲みこまれる俺は死人だと男は悟った。 ☆ ☆ ☆ 辻馬車が行きかい、酒と阿片に酔った人々の怒声と狂乱……それに混じって歌姫の唄声がどこの店から漏れ聞こえる。 那智はそのなかをすたすたと歩いていた。ひと仕事を終えて、そろそろ夕食の時刻だ。 太陽が完全に没し様としているとき、ふと足を止めた。 全身が血塗られたな真っ赤な男がいた。 世界が紺碧に覆われる。 その男は血まみれてはなかった。赤髪赤眸、それに黒スーツの上に赤いコートをまるで意図しているように着ている。左目を包帯で隠し、背には大きな筒を背負っている姿はやや奇抜だが娯楽を追及するのに忙しい人々は気にもしない。 男はなにか探している様子だったが、那智の視線に気がつくと動きを止めた。 那智が寂れたバールに入ると男もついてきた。カウンターの席では当然のように横に腰かける。 「コーヒーをひとつ」 「俺も同じもの。この男の奢りで」 赤い男はさも当然のように注文した。 「賭けはあんたの負けだ。なら賭け金を払うべきだ」 「安いな」 マスターが二つのカップを置いて離れるタイミングで赤い男は口を開いた。 「あのあと……結局、ナイフは抜けなかった。だから賭け金は安くしておいてやる。誰がかわりに抜いたと思う? 『片目』、この一帯を牛耳るマフィアだ。俺はそいつの下で殺し屋の真似ごとをしてる」 那智は興味なさそうに店の棚に置かれている酒瓶のラベルをひとつ、ひとつ見つめていく。男もさして気にする風もなく淡々と話す。 「流れのサーカスで、しかも焼け死んだやつは何かと都合がいいそうだ」 「傷もきれいに治って、まるで別人みたいだ」 「あの夜、逃げていた殺人犯は死んだのさ。だから好きにしてもいいと言われたが……俺が人を殺した真実は変わらない。真っ当に生きたいと思うほど厚顔でもない。だからクヴァール」 「へぇ」 「片目が面白がってつけたんだ。名無しのままでも困るからな……しかし、あんた凄いな」 クヴァールの一言にこめられた皮肉と感嘆に那智は肩を竦めた。 「心外だ」 言葉とは裏腹に唇から漏れたのは甘美な笑みだった。
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