インゲルハイム事務所のドアを押し開けて、当たり前のように入り込んできたのは山之内アステだった。その手には号外で配っていた最新のジャーナルが握られている。 「聞きましたか、那智さん!」 揚々とした足取りで、半ば小走り気味に、デスクの椅子に腰掛けている那智・B・インゲルハイムの背中に近寄る。 「また出たんですよ。不可視の殺人鬼です。本当に神出鬼没で、出現場所が読めませんよ」 片手で額を押さえ、大仰な仕草でかぶりを振った後、アステはデスク近くのソファに腰をおろす。ジャーナルを開いて記事を確認した後、やはり大袈裟にため息を落とした。 那智は壁に顔を向け――アステに背中を向けたまま、双眸を糸のように細め薄い笑みを浮かべる。膝の上で重ねた手の指が爪をたてスーツに食い込んでいた。 「やあ、アステくん。今日も来たのだね。毎日毎日、わざわざ来てくれなくても良いのだよ。君も忙しいのだろう?」 ようやくアステの方に身体を向けた那智の顔には穏やかな笑みがたたえられている。デスクの上に置いてあったカップに手を伸ばし、冷めかけた紅茶を口に運んだ。 けれど、相対するアステは那智の言に含まれる真の意味など解するわけもなく。 「大丈夫です、僕これでもちゃんと仕事やってますから!」 言って、開いたジャーナルを那智にも見えるように持ち上げ、掲げる。 紙面を飾っているのは『不可視の殺人鬼』に関する記事だ。霧の街を賑わせ、恐怖させている連続殺人。正体の知れないその殺人鬼は霧深い中現れ、瞬時に惨劇を終えて去っていくのだ。一筋の迷いすら伺い見る事のない手口に、街の人々は恐怖しながらもどこかでそれをはやし立ててさえいた。 犯人像、次なる犠牲者の想像、出現場所。その手口。 アステは新聞記者として多くの聴衆を相手に、自らの推理も織り交ぜながら論じるのだ。やがてそれはラヂオを通し伝播されるようにもなっていた。 「ぼくの新しい考え、聴いてくれました?」 ソファに腰かけたまま、アステはくるりと那智に顔を向ける。視線の先、那智はやわらかな笑みをのせたまま、わずかに肩をすくめてからかぶりを振った。 「悪いね、アステくん。なかなか時間が取れなくて」 「そうですよねー。那智さんお忙しいでしょうし。ああ、いいんです、お気になさらないでください。ぼくの推理なんてあてにならないんですから」 自嘲めいた言葉を口にしながらも、アステは何かを期待したような眼差しで那智を見る。 那智は小さく笑みを浮かべた。 「そんな事はない」 「そんな、照れますって、やめてくださいよ!」 那智の一言にアステは身をよじらせる。 「でも、ぼく、こうして那智さんの事務所に出入りしてると、その内街のみんなから”アステは探偵になったのか”なんて思われちゃうかもしれませんよね」 さらに向けられる期待をこめた視線。 「すまない、アステくん。もうすぐ人が来るんだ」 その視線にこめられた次なる期待を流しつつ、那智はもう一度「すまないね」と続けた。 那智の事務所に出入りするようになってからしばらく経っている。その中で、那智に恋人らしい女がいる事を、アステは知った。 シルヴィア、とかいう名前だったか。ほっそりとした白い首。齢はアステと変わらないぐらいだろう。もっとも、見た目だけで言うならばアステのほうがずっと年下に見えるのだが。 幾度か見かけたその女に、アステは得体の知れない感情を抱いていた。 嫉妬――ではないだろう。特に恋愛的な興味を惹かれたわけでもない。ともすれば簡単に折れてしまいそうな細い首。その首に那智の指先が触れているのだ。想像すると、羨望のような情が心の底に浮かぶ。 羨望――? 浮かんだそれに首をかしげ、アステは事務所を後にする。視線をやればレンガ敷きの道の向こうから女が歩いてくるのが見えた。 霧の街を覆う霧が晴れる事は滅多にない。時おり思い出したように晴れていくが、仰ぎ見る空は比較的曇天である事が多いのだ。 潮の気配を含んだ霧に紛れ蠢く殺人鬼は月日を経ても動きを止めようとはしなかった。警察は矜持をかけた捜査を続けていたし、記者達もまた矜持と興味を抱き街を走り回っていた。 アステは相変わらず那智の事務所に入り浸り、己の推理を街角でするのと同じように論じてみせた。 首や腹、時おり額を裂かれている者もいる。やわらかな箇所を真一文字に切り裂き、脈や臓物が覗かせながら息絶えていく被害者を、不可視の殺人鬼は恍惚とした表情で見下ろしているのだろう。 「ぼく、この殺人鬼は力のある男だと思うんですよ。きっと体格も大きくて、刃物の扱いに慣れている」 「へえ、なるほど」 「ごろつきみたいな労働者がけっこういるじゃないですか。あいつら、安い賃金で重労働させられてるから、色々溜め込んでると思うんですよ」 なぜか声を低め、眉をしかめて語りだしたアステに、那智はやはりおだやかな笑みのままに首肯する。それからデスクに戻り、椅子に腰を落として壁を向いた。背中ごし、アステの声はまだ続いている。 那智は浮かべていた笑みを消して眉をしかめる。組んだ足に片肘をのせてほおづえをつき、腹の底で嘆息した。 アステの推理論はまだ続いている。 シルヴィアという女が那智と生活を共にするようになってから、さらに幾ばくかの月日をまたぐ。 その頃にはさすがにアステもシルヴィアと顔を合わせる事も多くなっていた。言葉を交わす機会も多くなり、彼女の人柄や家庭環境――すなわち、シルヴィアの姉もまた不可視の殺人鬼に殺された被害者の一人なのだという事実を知る。 那智がシルヴィアのため『不可視の殺人鬼』を追っている事も知った。ならば那智は、アステが散々論じてきた推理や情報に関する事もすべて知っていたのだろう。 アステはわずかに唇をかむ。それでも、あるいは那智の知らない情報を入手する事もあるかもしれない。小さな期待をこめてアステは街中を走り回った。 すべての現場を巡り、目撃者の在不在を確認し直し、被害者の身辺を探る。 被害者が発見された位置に同じように身を横たえ、感情を寄せてみる。被害者は何を見て、何を聞いたのか。どう切り裂かれ、どう思ったのか。 現場にある残滓を感じ取る能力などアステにはない。けれど現場をひとつひとつ巡る内、アステの心には小さな波紋が打ち始めるようになった。 無残な末期を迎えた死体が転がっていた場所に横たわり、瞬きを繰り返しながら、アステはぼんやりとシルヴィアの細い首を思う。 あの皮膚の下には幾筋もの脈があり、それぞれが生を謳い動いているのだ。その脈が裂かれれば、当然に、赤黒い血脈が噴き出てくるのだろう。 あの白い皮膚の下に通う血脈を、殺人鬼だけが目にする事ができるのだ。 忙しなく目を瞬かせる。指先が無意識にレンガを掻いていた。 「ところで、アステくん」 那智から声をかけてくるのは珍しい。アステは思わずソファから立ち上がった。 那智はデスクの椅子に腰掛けたまま、アステが持ってきたジャーナル誌に目を落としている。 「この『不可視の殺人鬼』だけれど。最近時々、これまでとは違う手口による案件がまぎれこんでいるとは思わないかい?」 訊ねながら、那智はわずかに視線を持ち上げてアステの顔を伺い見た。 アステは紅茶の入ったカップを口に運びながらわずかに首をかしげる。 「そうですか?」 「最近の被害者の中には撲殺や絞殺で殺されている者もいるようだ。これまでの手口と異なるじゃないか」 「それはぼくも思いました。ぼくなりに調べもしているんですが、手口の他にはそんなに大きな違いっていうものはないんですよね」 「では、きみはすべて同一犯によるものだと?」 「わかりません。でも『不可視の殺人鬼』ほどに名を知られてしまうと、便乗犯や模倣犯が出てくるのは避けようのない事だと思う」 紅茶を干し、アステは笑みを浮かべた。 那智は眼鏡の奥の双眸を静かに細めて口をつぐむ。 それきり黙ってしまった那智をしばらく見つめた後、アステは勢いよくソファを立ち、退室の挨拶を述べた。 「それじゃあ、ぼく、調査に行ってきます」 那智よりも先に犯人を見つけ出す事で、アステはただの新聞記者ではなく、探偵を名乗る事が許される。 那智はうなずきもせず、ただ双眸を三日月のように細めたままアステを送り出した。 常よりもさらに霧が深まり、一メートル先すらろくに見えなくなる。潮の気配が霧に入り混ざり重々しく夜の静寂を圧迫している。 熟した果実を叩き潰すように、アステは両手で抱え持ったレンガを振り上げては下ろすのを繰り返していた。 ぐち、ぐちゃ、ぶちゅ、ぐちゃり 糸を引くような音が辺りに響く。けれどその音さえ、霧は飲み込んで消してくれるのだ。 「ひ、ひひゃは、ひゃひゃひゃ、はひゃひひ」 口の端からこぼれ落ちる唾液を拭おうともせず、アステはひたすらにレンガを上下させる。 浮かぶのは愉悦に満ちた表情。 「ぶひひゃひゃはははひゃははひひっひひひひゃ」 気狂いじみた笑い声だけがひっそりと一郭に響き渡っていた。 その翌々日の事だ。 那智の恋人シルヴィアが、無残な死体となって発見されたのは。 鎮魂の鐘が響く。 シルヴィアの墓石の前で佇む那智を見つけたアステは、しばし逡巡した後に意を決して近付き、声をかけた。 「……シルヴィアさん、ヤツに殺されたそうじゃないですか」 重々しい口調で訊ねる。 那智は応えない。たた唇を噛みしめ、感情を押し殺したような顔で墓石を見つめている。 アステは言葉を続けた。 「……許せませんよ。……こんな」 思い出すのは、シルヴィアのあの白く細い首筋だ。華奢な体躯、那智に触れる細い指先。 握りしめた手の中、爪が皮膚を破り血を滲ませる。鈍い悼みを感じながら、アステもまたシルヴィアの墓石に目を向けた。 訪れる、しばしの沈黙。 身じろぐ事もなく墓石の前に立つ那智に向けて、アステが思い切ったように口を開いたのは、数分の後の事だ。 「ぼく、那智さんに協力します。勝負なんかもうどうでもいい。ぼく、那智さんに力をお貸ししますよ!」 そう述べたアステに、那智がようやく視線を動かす。光の宿らぬ、混沌とした双眸だ。 「じつはぼく、あてになりそうな情報を持つ人を見つけてあるんです。今度その人から情報を聞こうと思ってたんですが……ぼく、その人を那智さんに紹介しますよ!」 「……アステくん」 「いいんです! ぼくはまた別の事件を解決して、それであなたと肩を並べてみせますから!」 「……」 息を巻くアステを見据える那智に、アステは大きく首肯する。 「任せてください!」 得意気に何度も首肯した。 アステが那智に紹介したのは年高の男だった。街にある飲み屋のいくつかを経営しているというその男は、立場上、あらゆる客からあらゆる情報を耳にする事も多いのだという。 男は渋々といった風に口を開けた。何しろ客から聞いた情報なのだ。それを漏らすという事は、そのまま信用問題にも繋がりかねないのだ。 ――街の外から来た余所者の挙動が不審だ。 男は告げた。 ――タチの悪い麻薬に冒されて、頭もイカれているらしい。妙な被害妄想もあるらしいんだ。殺らなきゃ殺られる。安酒をあおりながら、ブツブツそう言ってやがるんだ。 その男が身を置いているのは街の外れにある廃屋だという。 那智は礼を言い、幾ばくかの金を置いて、教えられたその廃屋に足を伸ばした。 角を折れるごとに霧は深くなる。 運河から立ちのぼる潮のにおいが鼻をつく。 全身にまとわりつくような粘ついた霧を払うように、那智は廃屋の中に足を踏み入れた。 施錠など無意味な程に錆び付いたドアを押し開け、ともすれば踏み抜いてしまいそうな程に劣化した床板を踏み鳴らす。 確かに浮浪者が寄り付きそうな物件だ。安い酒瓶が転がっている。 袖で鼻と口を押さえ、漂う臭気から逃れるようにして歩みを進める。床板が軋む。 階段を見上げ、その先に広がっているであろう構築を覗き込む。埃が積もる階段にはランプが飾られているが、ひとつ残らず割れている。どれも使い物になどならないだろう。 階段に片足をかけた時、那智は背中に何者かの気配を感じて振り向いた。 振り向いた、すぐそこにあったのは、レンガを掲げ持ったアステの、見た事もない、喜色を浮かべた顔だった。 「ぶひひゃはははっひうあはふあはひゃひゃひゃはははは!!」 笑いがにじむ。下半身に疼きを感じる。これが快楽なのだろうか。これが絶頂というものか。 アステは振り上げたレンガを幾度も幾度も振り下ろす。 那智は両手で頭を庇うようにしながら倒れこみ、そのまま身を丸くした。アステはそれを追うようにして膝をつく。 「ねえ、ねえ、ねえ! どういう気持ち!? 今、どういう気持ち!?」 口の端から泡を溢れさせながらアステは叫ぶ。割れた眼鏡の向こうにある那智の眼は、あらゆる感情をない交ぜにした色を浮かべてアステを見ていた。 レンガが那智の腕を殴る。何かが砕けた音がした。アステは腕を振り上げる。レンガを振り下ろす。 「あんたが悪いんだよ! ねえ! あんたが悪いんだ! いつだって! ぼくの! 前に立って! 邪魔なんだよ!」 ガツン。重い音がした。ようやくレンガが那智の頭を直撃したのだ。振り上げたレンガが血の糸を引いている。 那智の表情がようやくわずかに歪んだ。腕のせいで顔の全容が窺い見れないのが腹立たしい。アステは再びレンガを持ち上げる。 「……おまえ」 「声をあげてんじゃあねェエエエエよォオオオオオ! 誰が許可したんだよォオオオ! ひひゃはやははははひはっひひ!!」 レンガを振り上げたままアステは笑う。那智は身を丸め、そうして、アステの腹に片足を蹴りこんだ。 ぐひ くぐもった声をあげ、アステが後方に吹っ飛ぶ。壁に背中を打ち付け、アステはわずかに目眩を起こした。 「痛! 痛いだろ!」 叫びながら身を起こす。けれど、次の瞬間、アステは目を疑った。 「な、那智さん!?」 名を叫ぶ。 そこに転がっているはずの那智がいない。赤黒い血だまりが床板の上に広がっているだけだ。 「那智さん!?」 もう一度名を呼ぶ。周りを見渡すが、どこにも那智の姿はない。逃げた? そのはずはない。数秒で逃げきる事など出来るはずもないのだ。 「那智さん!」 階段を上り、下りる。床板を踏み抜きながら廃屋中を巡る。どこにも那智の姿はない。 手に持ったままのレンガには生々しい痕跡が残っている。大きく身震いすると、アステはそれをその場に放りやってかぶりを振った。 「ぼ、ぼくじゃない。ぼくが悪いんじゃない。くそ、くそ、くそ!」 大きくかぶりを振り、頭を抱え込みながら、アステは忙しなく目を瞬かせた。 それから思いついたように廃屋を飛び出て外を捜す。どこにも那智の姿はない。逃げた痕跡もない。 アステは大きく咆哮し、そのまま霧に沈む街の中を走り出した。 殺さなければならない。 そうでないと、 粘着く霧の中、アステはまろびながら走る。その顔に浮かんでいる表情も、深い霧が覆い隠していた。
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