壱番世界の19世紀末、霧の街倫敦に酷似した世界。 建築物はヴィクトリア調の物で、行き交う人々の衣装も洋装だ。 石畳は馬車の車輪ですり減って、癖のようなものが出来ていた。 霧の深い街並みは、ガス燈が照らす周囲だけが人の顔の判別が出来る。 ガス燈自体の数が少なく、貌を判別するのは容易ではない。 5メートル先は闇だと言えた。 足下にごみ屑が落ちていないのは、拾い屋たちがせっせとかき集めているからだ。 街を形作る職業は、多種多様。 石畳の下に広がる下水道は、迷路のように広がり、泥を掬う者やネズミを駆逐する者など、目にしない場所でも世界が広がっている。 細分化された職業は、いくつかが集まって一つの物を作り出す通りを作り、組合が取りまとめて、職業の偏りが起こらないように調整などをする。 個人主義の多い住民にとっては、過ごしやすい街なのかもしれない。 霧の街は今、連続殺人犯が潜んでいるということで、街人の多くを震え上がらせていた。 殺人が重なり、犯人像を絞っている間に、次の殺人が行われて、一連の殺人事件を扱う殺人捜査班は街人の失望させていた。 広く犯人につながる手がかりを求めては居たが、未だに犯人につながる手がかりは見つかって居ないのだという。 紳士たちが立ち止まり、話題にするのはたいていがこの事件の事だった。 犯人推理をするという課程が、知的思考をするのに丁度いいのだろう。 工夫を凝らした看板にガラスのショーウィンドーに並んだ様々な品物は、人々の足を止める。 ショッピングストリートを幾筋か離れた通りには、夕刻から営業を開始する店が集まっていた。 俗に歓楽街と呼ばれる地域は、堅く閉ざした扉に店の名前が記されたプレートとガス燈の明かりだけの質素な店構えばかりが並ぶ。 店の実態がわかるのは、入店してからとなっているようだった。 そのうちの一件で起こった事件は、娼館の主を退屈から解放することになる。 館内は毛足の長い絨毯と天鵞絨のカーテン。 どこかオリエンタルな柱の彫刻や調度品、シノワズリ様式の壁紙。 暖色の洋燈が館内を照らし、独特の空間を作り出している。 娼館の主の子として生まれ、今では後を継ぎ娼館の主となった那智・B・インゲルハイムは、悪い印象と色気を感じさせる危うい均衡で衣装を着崩して、数ある部屋の内の一つである応接室を兼ねた主の部屋で、香茶を味わって退屈を紛らわせていた。 作りなれた営業用の笑顔を浮かべ、身なりを整え、丁寧な物言いをすれば、必要とされる主人のイメージ通りの振る舞いが出来る。 娼館を形作るパーツとして違和感のないように。 主は営業時間が始まり、客に好みの子を斡旋して送り出してしまえば、暇といって良かった。 娼婦たちは、自分の職場である部屋を個性ある内装に変え、客をもてなす。 客と共に部屋に入ってしまえば、基本的にはその娼婦は貸し切りとなる。 部屋が満室となれば、店名のプレートの下に花を下に向けて吊り下げられ、訪れる客に斡旋する娼婦は居ないと知らされた。 目当ての娼婦を自分以外の客に合わせたくない場合には、娼婦を期間で買い、接客をさせないようにする。 資金が続けばいいが、続かなければそれまでの縁となるのは、致し方のないこと。 思い入れが強ければ強いほど、溺れてしまう客も数多く居たが、この娼館では長く客となってくれるように、無理な金のつぎ込み方をしない客を選んであった。 短期間に身持ちを崩す客よりも、安定して長く遊んでくれる客の方がいい。 主とは別に、娼婦たちを監督する者は別に居たし、主が表に立たなくても問題はないのだが、あまりにも暇すぎて気分を紛らわせるために、時折、接客をしていた。 朝靄が広がる時刻になると、娼館は店じまいとなり、娼婦は客を送り出す。 客を全員送り出してから、娼婦達はようやく仕事を終えることが出来、自由な時間が訪れる。 まずは、湯を浴びてすっきりとしてから眠る者、睡眠欲に負けてそのまま寝入ってしまう者、次の日に休みを貰っている者はそのまま身綺麗にして出かける準備をしたりと、過ごし方は様々だ。 リネン類を回収してメイクし直すのは、昼になってから。 小姓たちは、娼婦の部屋以外の場所を静かに綺麗に磨いていく。 それらが一通り終われば、娼婦たちの好みに合わせてブランチを用意する。 できあがったころに、目覚めを促しにいくのだが、部屋の主である娼婦が殺されているのが見つかった。 小姓は最初、熟睡していると思ったらしい。 だが、何度毛布越しの身体を揺すっても起きなかったので、強く揺すったところ、枕から頭がぐらりとかしいで胸元に広がる血の海が広がった。 それに驚き、慌てて知らせに来たらしかった。 那智は、殺人現場となった娼婦の部屋に入ると、香水と血の馨に微かに頬を緩ませた。 「ど、どうしましょう、旦那様」 小姓が部屋の入口でこわごわと覗き込みながら、那智の方を見やる。 「首都警察でいいんじゃないかな。治安判事を呼びに行くほどじゃあないよね。呼んできてくれるかい? 私はちょっとこの子の状態を診ているから」 「はい!」 やってくる警察のために、なるべく動かさないようにしつつ、傷口や爪の間、筋肉の具合などを確かめる。 小姓が慌てて出て行った後は、娼婦たちが身を寄せ合って部屋を覗き込んでいる。 「君たちは、自分の部屋でじっとしていてくれるかな。もう少ししたら警察がやってくるからね。変なことを聞かれるかもしれないけれど、大人しく答えるんだよ」 表情を強ばらせて頷いて去るのを見送ると、那智は血にまみれた自分の掌を見やり、拭う物を探すが、無いとわかると、諦めて胸元を飾る真っ白なレースチーフを抜き取り、血で染める。 「これは取れないよね」 チーフを指で摘み、残念そうに呟く。 ばたばたと足音が響き、那智の居る部屋へと到達した人物に話しかける。 「犯人、捕まえてもらえますか」 「犯人はお前じゃないのか!」 「ち、違います。ご主人様は犯人じゃないです!」 一緒に戻ってきた小姓が慌てて、首都警察の男に説明する。 「ということだよ。残念だったね、即犯人逮捕じゃなくて」 にっこりと笑みを浮かべ、那智はやってきた者たちをみやり、制服を着ていない男に注意を向けた。 「彼は?」 現場検証を始めさせて指揮しているらしき男に尋ねる。 「連続殺人犯に繋がる事件について貰っている探偵だ」 「へぇ、探偵」 探偵は遺体の側から立ち上がり会釈すると、今回の事件と街を騒がせている連続殺人犯についての関連性を否定する仮説を唱え始めた。 「君は違うと思うんだ?」 「ああ」 いくつか相違点をあげていくのを聞いて、那智は頷く。 「じゃあ、行動を共にしよう。私も彼女が殺されたのには心を痛めているからね」 「我々は、連続殺人犯の仕業とみるがね」 首都警察の男は、探偵を不機嫌な表情で見上げ、吐き捨てるように言葉を続けた。 「探偵先生は、こっちの主人と一緒に行動を共になさるということでよろしいですな」 黙って頷く探偵。 遺体の運び出しを終えたのを見送りながら、思い出したように呼び止める。 「監察医に見せるんですか」 「そのつもりだ」 「綺麗に元に戻してやってください。葬儀はこちらで行うつもりですから」 「一応、言付けておく」 片付けを任せると、探偵と共に娼館を出た。 後で葬儀屋の準備もしておかなければらならない。 「探偵事務所あるんですよね? そこで検証しませんか」 「かまわない」 那智は店先でフィッシュ&チップスを手に戻ってくる。 「ここのは味は美味しい方ですよ。ミルクティはお願いします」 「エールの方が合うと思うが」 「まだ昼ですからね」 薄汚れた壁の建物の3階。 鋳物の艶やかさが硬質な雰囲気を醸し出す螺旋階段を上ると、一番奥にある部屋が探偵事務所だった。 飴色の扉にプレートが掛かっているが、経年変化で文字が読み取れなくなっている。 この部屋に事務所を構えて随分月日がたっているらしい。 「探偵事務所は独りで?」 「事務員を雇う余裕はないんでね」 住居と事務所が一緒になっているらしく、雑然としていた。 独り暮らしの男性独特の匂いを消し去るほどの煙草の匂い。 壁紙は茶色く色を変えている。 「話はここでなくとも良かったんじゃないか」 「探偵事務所がどういうものなのか、一度目にしてみたかったんですよ」 那智はにっこりと人好きのする笑みを浮かべるが、探偵は胡散臭そうな者をみる表情を浮かべながら、ミルクティーを淹れたカップをテーブルに置いた。 互いの推理を披露した後、那智は探偵事務所を後にする。 建物から出た那智の後ろ姿を事務所の窓から見つめ、何か言いたげな表情を浮かべたが、すぐに消し去った。 事件は数日後、解決した。 娼婦の葬儀を行っている最中に、犯人が乗り込んできたからだ。 正確には、娼婦の客の間で諍いが始まって、犯人が炙り出されたのだ。 娼婦と夜を共にする機会の多い客を恨みに思った別の客が、自分よりその客を贔屓にしていると焦りを募らせ、ようやく共に出来た夜に問い詰め、色よい言葉を引き出せなかった客は、衝動的に殺してしまった。 新聞を賑わせている霧の街に潜む連続殺人犯のあやかって、殺人方法を真似たのだが、そんなうまくいくわけもなく、模倣にもならない殺しをすることになる。 教会の片隅で始まった諍いは、他の列席者に取り押さえられることで、沈静化した。 私は悪くないと、何度も繰り返す客を都市警察に引き渡す。 「これで解決、ですね」 「あんたと探偵の言うとおりだったのは残念だが、犯人を捕らえられたんだ。由としておく。……そういえば、探偵先生、昨日辺りから見かけないそうだ。監察医に話を聞きたいって言っていたんだけどな」 「私も一度会ったきりですね。何か調査されているんじゃありませんか」 「そうだろうよ。まぁ、探偵先生の事をそんなに理解してるわけじゃあないがね。騒がせて悪かったな」 そう言って、男は引き上げていった。 「探偵事務所に解決したことを報告に行くついでに、様子をみてこようか」 葬儀を終え、埋葬も済ませて、一段落したところで、那智は店の営業準備を任せ、探偵事務所へと向かう。 途中、監察医の元に寄り道をすると、この監察医宛に探偵から手紙が届いていた。 緊急の事件解決を求められ、取りかかっている事件の解決をみることが出来ないこと。 非常に残念だが、監察医に会いに行く用件のキャンセルすることを記されていたという。 「こちらは、探偵事務所と聞いてきたのですけれど……」 「ええ、そうです。お困りになっていることを解決させて頂きますよ」 綺麗に片付けられた事務所内へと那智は案内すると、席を勧める。 テーブルに白いテーブルクロスを敷き、白いティーセットを用意し、香茶を淹れ終わると、安心させるような笑みを浮かべた。 「あなたのお悩み、お聞きしましょう」
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