ここはターミナルの一角、飲食店が軒を連ねるエリアの外れ。 華やかなパティスリーやオープンカフェ、どこか懐かしい定食屋に賑やかなスポーツバー……様々な業態の店がひしめきあう大通りから角を二つ三つ曲がり、心地よい街の喧騒もどこか遠くに感じられる裏路地に足を踏み入れふらりと歩けば、ターミナル外周の壁は意外とすぐに現れる。そんなところにひっそりと在るのが、カーサ＆カフェバル『アガピス・ピアティカ』。 濃い緑色のオーニングが目を引く入り口には扉が無い。 中には六席ほどのカウンターと、手前でほとんどオープンカフェになっている二人掛けのテーブルが二つ。それから奥の大きな食器棚には、様々なテーブルウェアの類に値札がつけて並べられているようだ。オーナーの趣味だろうか、壱番世界の北欧食器や日本の塗り箸などが節操無く並んでいる光景はどこかシュールに感じられる。コーヒー豆の香りにつられて一歩足を踏み入れれば、ほどなくあなたを迎える声が聞こえるだろう。「あ……いらっしゃいませ。お食事ですか、お買い物ですか？」 店の奥からほのかに甘やかな香りを漂わせて現れた声の主はレイラ・マーブル、このバルで働くツーリストの少女だ。店の制服と思しき七分袖のカットソーに生成りの前掛け、その上に肩からふしぎな色合いのストールを羽織るという少し変わった出で立ちをしている。 あなたの姿を捉える銀の瞳がやわらかく細められる。どうやら歓迎されているようだ。「あっ、ええと……初めてのお客様ですよね。手前のこちらがカフェスペースで、奥はテーブルウェアのお店です。わたしが作ってるものもあるんですよ」 ブルーインブルーの製法で機織の手習いをしているというレイラが、奥の食器棚に飾られた布製のコースターやランチマットを指して控えめに笑う。「食器選びのご相談とか、何でも聞いてくださいね。見ての通りお客さん、いませんし……」 ごゆっくり、と一礼し、レイラはメニューを出してカウンターに引っ込んだ。 お茶を楽しむのもいいし、食器棚の品物をあれこれ冷やかすのも楽しそうだ。時間が止まったようなこの場所で、穏やかなひとときをどうぞ。
カスミソウ、ペンステモン、ユーストマ。茎を短めにそろえてもらった切り花の束を片手に抱え、那智・Ｂ・インゲルハイムはいつもの花屋を後にした。あの店は白い花の品揃えがいい、彼のお気に入り。 那智は月に一度か二度、こうして事務所に飾る切り花を自分で調達している。普段の彼の素行からいって、こういう雑事は助手の一夜にまかせてしまいそうなものなのだが、何故だか那智は律儀に足繁く花屋へ通い、何種類かの切り花を買って彼は事務所へ帰る。 「ペンステモンがお好きなんですね」 暑さと換気に気をつければ比較的育てやすいペンステモンの花は、季節の移ろいに欠けるターミナルの屋内で飾るにはちょうどいい花なのかもしれない。……というのは花屋の考察。那智はその時あるなかで目を引いたもの、蕾の多いものを選び、最後にかならずペンステモンを少しだけ注文する。白い花弁が、紫色にも見える濃い桃色を吸い上げる様は、まるで乙女が恥じらいに頬を染めるようだ。 今日は、さて。どうだろうか。 花屋から事務所への帰り道には、濃い緑色のオーニングが張り出したちいさなカフェバルがある。 ◆ 「那智さん！」 「やあ」 花束を軽く上げてみせ、那智は如才ない、淡い微笑みをレイラに向ける。ちょうど店の前の掃き掃除をしていたレイラは、忘れるはずのない姿にぱっと瞳を輝かせる。 「今日も静かそうだね」 「そうですね……今日は那智さんが最初のお客様です」 指先で店内を軽く指し、立ち話ではない旨を示すと、レイラは嬉しそうにホウキを立てかけて那智を先導した。 「じゃあ折角だから腰を落ち着けていこうかな、昼食もまだだし」 「ふふ、ありがとうございます」 渡されたメニューを眺める……が、今日の日替わりランチセットはピーマンと生ベーコンのピザトースト、グリーンピースと鶏ささみのコンソメ煮、にんじんのポタージュ、と書いてあり、軽い絶望感が那智を襲う。 「……すまないが、宗教上の理由でグリーンピースとピーマンと人参は食べることが出来ないんだ、除いてくれると助かるよ」 「えっ、あっ、はい！ じゃあええと……」 今この席に彼の助手とその妹が居たら、さてどんな顔をされるのだろうか。 ◆ 「お待たせしました、ツナと玉ねぎのバジルトーストに鶏ささみの親子スープ、トマトスライスとモッツァレラチーズです」 「うん、ありがとう」 冷蔵庫の中身と相談した結果、どうにか那智の食べられるランチを出せたようで、レイラはほっと息をつく。胡椒のきいたツナと玉ねぎのフィリングは那智の好みに合ったようで、時折目を細め黙々と食べる様子を何となく嬉しそうに眺める。 「そうだ、お食事の後の飲み物はどうしましょう？」 「いつもは紅茶を淹れてもらうんだけど……折角だ、コーヒーを淹れてもらおうかな」 詳しくないからお任せでね、と那智が付け加えると、レイラは笑って頷きカウンターの奥に引っ込んだ。挽かずにストックしてあるいくつかのコーヒー豆の瓶を手に取り、やがて心を決めたのか一つの瓶に手を掛ける。電動ミルのスイッチがかちりと入り、一杯分、那智のためだけに選んだコーヒー豆がガリガリと音を立てて挽かれてゆく。 「いつもはグァテマラのイタリアンローストを使うんですけど、今日はモカにしてみました」 「……へえ、いい香りだ」 エスプレッソも、ふつうのコーヒーも、深く焙煎した苦味と香りの強いものがこの店のコーヒーの特徴だ。だが紅茶派の那智にそれはあまり合わなかろうと、どちらかといえばフルーティでやわらかい酸味のある豆を選んでみせたのは、きっとレイラなりの気遣いなのだろう。 ◆ 食器も下げ、食後のコーヒーもほとんど飲んでしまったところで、話題が尽きてふたりは時々どこでもない宙に視線を彷徨わせた。共通の話題は勿論、次にいつ会えるか分からない那智に、レイラはきっと言っておきたいことがあるはずなのだ。だが、どこか声をかけづらい雰囲気を察し、レイラはカウンターに座った那智を気にかけつつ皿洗いを始める。 「そういえば」 「？ はい」 不意の問いかけ。何か、聞かれるのだろうか。 「ここはお酒は出さないの？」 「出しますよ、オーナーの方針で提供時間が決まってるんです。チェンバーじゃないんだし時間なんか気にしないでいいと思うんですけど」 「へえ、食器店でもあるならお酒は無理だと思ってたよ」 「オーナー、酔っぱらいの人にすごく厳しいんです。だからあの棚のものが壊れたりすることってそうそう無いんですよ」 また途切れる会話。伏せた目線の先には。 「ねえ」 「はいっ」 レイラの心を読むように、那智が笑う。 「食器棚のあれは、手作り？ 器用だね」 「あ、ありがとうございます。まだまだ修行中ですけど……」 「そんなことは無いさ。私は男性だからね、ああいう可愛らしくて繊細なものにはとんと縁がない」 壊すのは得意なのに作るのはからきしだよと笑い、那智が食器棚に近づいて手織りのコースターを一枚手にとった。 「身近に十歳の女の子が居るんだけど、彼女の為にこういう手織りものを一揃え作ってくれないかな？ 勿論お代はきちんと払うよ」 「わ、ありがとうございます！ 喜んでお作りいたします、色柄のご希望とかありますか？」 「そうだね……年頃の女の子だ、きっと可愛らしいものが好きだと思う。これは少し大人っぽいかな」 那智が生成りに青や碧の糸を織り込んだ葡萄柄や千鳥格子の品物を指すと、レイラは興味深げに小さく頷く。 「そういえばそうですね、女の子らしい色柄もの……やってみます」 ランチオンマット、コースター、お弁当箱を包む大判の刺繍ハンカチ。一揃い出来上がったら連絡が欲しい旨を那智が告げる。 「じゃあ、二人で楽しみに待っててくださいね」 「ああ、待ってるよ」 約束に、品物をやりとりする以外の深い意味は、きっと無い。 だけど。 「それまで、この花は枯れずに咲いているかな」 ランチセットのお代をカウンターに置き、寝かせていた三つの花束の中から、那智はペンステモンのそれを手に取りレイラに差し出した。 「じゃあ、またいずれ」 「？ はい、出来上がったら……連絡しますね」 ありがとうございました、またどうぞと、型通りの挨拶で見送られ、那智は二つの花束を手に恋する食器棚へ背を向けた。小さな約束の裏側にある花言葉に、気づかれることはあるのだろうか。 「……あのっ、お花ありがとうございました！ 大事にしますね！」 それじゃあ、またいずれどこかで。
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