おばあちゃん先生、とオゾ・ウトウは呼びかける。 名は、ヤグナといった。オゾの大叔母に当たるそうだ。 子ども達にちょっとした手習いや、術の基礎を教えていたため、大叔母としてではなく先生として触れ合うことの方が多かった。 そのため、オゾも自然と「おばあちゃん先生」と呼んでいた。 「なんだい、オゾ」 初老の婦人は、そう言って静かに微笑む。返ってきた言葉に、オゾはほっと息をつく。いつもと変わらぬ表情と声が、安心感を与える。 「聞きたいことがあるんだけれど」 オゾが言うと、ヤグナは一つ頷き、家の中へと招き入れてくれた。 ヤグナの家は、不思議なもので溢れている。様々な道具や書物が、至る所に並んでいた。だがしかし、雑然としているように見えても、なんとなく整っていた。 ヤグナにしか分からぬ、何らかのルールでもあるのかもしれない。 「ほれ」 こと、と音をさせ、温かな茶をオゾの前に置いた。ふわりと湯気から香るのは、匂い慣れた薬草茶だ。 「珍しいね、オゾ。そんなに切羽詰ったような顔をするなんて」 「そう見える?」 オゾの問いに、ヤグナは静かに微笑んだ。 「おばあちゃん先生は、色んな事を知ってるんだよね?」 「全てではないけれどね」 ヤグナは謙遜するが、オゾが知る中で一番の物知りで、多芸であった。 産婆や治療師、地鎮の儀式の心得まであったらしい。 「……翼が、欲しいんだ」 薬草茶を一口飲んでから、オゾは口を開いた。 「集落の防護壁の保安員になりたいんだ。そのためには、翼がいるんでしょう」 ヤグナの顔つきが変わる。 「修練がいるね」 「うん、そう聞いた。だから」 力強く言うオゾに、ヤグナは大きな息を吐き出す。 「生半可な覚悟じゃ駄目だよ、分かってるんだろうね」 「分かってる」 「本当に分かってるのかい?」 「分かってるよ! だから、おばあちゃん先生のところに来たんだ!」 オゾは真っ直ぐにヤグナを見据え、叫ぶように答える。 その顔を、じっとヤグナは見つめる。ただ、じいっと。 オゾも負けじと見つめ返す。目を逸らしたら負けのような気がして、瞬きすらもできずに。 しばらく見つめあった後、ふ、とヤグナは息を吐きだした。 「いいや、分かってない」 「……決め付けるの?」 「オゾ、お前は、分かってないんだよ」 諭すようにヤグナは言う。思わずオゾは顔を真っ赤にし、机を叩いて立ち上がる。 「分かってる、分かってるよ!」 「分かってないよ、オゾ。さあ、茶を飲んだら帰るんだ。静かに、もう一度自分に問いかけるんだね」 オゾはぐっと言葉につまり、そのままヤグナの家を飛び出した。 (分かってる、分かってるのに!) 頭の中で、ぐるぐるとヤグナの声が回る。 分かっていないと決めつける、静かな声。もう帰れという、諭すような声。 オゾの頭の中まで真っ赤に染まるかのように、ただただ悔しかった。 翌日、オゾは気を取り直し、再びヤグナの家へと向かう。 「おばあちゃん先生」 昨日よりもはっきりと呼びかけ、まっすぐに見据える。 分かっていない、といわれてしまった原因の一つとして、己の信念を店切れなかったのでは、と思ったのだ。 「よく来たね、オゾ」 ヤグナは昨日と変わる事無く、オゾを招き入れる。オゾはぐっと唇を噛み締めつつ、ヤグナに招かれるままに家の中へと入る。 再び出された薬草茶に、今度は口もつけずに本題へと入る。 「翼が欲しいんだ。修練がいるというのは、知ってる」 「知っているだけだろう?」 「分かってる!」 オゾがむきになって言うと、ヤグナは静かに微笑む。 「いいや、分かってない」 「何でだよ……なんで、分かってくれないんだよ?」 強くヤグナに言うも、ヤグナはただ静かに首を振る。 分かっていない、分かっていないんだよ。 幼子を諭すかのように、そればかりを繰り返す。 「さあ、茶を飲んでお帰り」 ヤグナが勧めるも、オゾはぐっと唇を噛み締めたまま、茶に口をつける事無くヤグナの家を後にした。 数年間、その繰り返しばかり行われてきた。 喧嘩腰になっても、だめ。 泣いてすがっても、だめ。 冷静に言っても、だめ。 ヤグナの返答は変わらない。やり取りの方法は違っても、返答は揺るぐことが無かった。 オゾはそれでもヤグナの家に通った。 翼を得たい、保安員になりたい、という思いも揺るぐことが無かった。 どれだけヤグナに「分かっていない」といわれようとも、オゾは決して意志を曲げることは無かった。 「……おばあちゃん先生」 その日も、同じようにヤグナの家を訪れていた。また同じことが繰り返されるだろう、と覚悟しつつ。 「おお、オゾか。またやって来たんだね」 いつも通り、ヤグナは静かに微笑み、オゾを迎え入れる。出してくれる薬草茶も、変わることが無い。 「翼が欲しいんだ」 「相変わらずだね」 「修練が必要だということは、分かってる。その、覚悟も」 ヤグナはいつものように、微笑んだ。 「いいや、分かってない」 オゾは、また帰るように言われるだろう、と小さな溜息をつく。そうして、手元に置かれている薬草茶に手を伸ばす。 ほ、とする、いつもの薬草茶だ。 ヤグナはオゾをじっと見つめ、す、と立ち上がる。 ヤグナは何も言わない。帰れ、とも、再び分かっていない、とも。 ただ何も言わず、身振りだけで部屋のオクへと誘う。 「先生?」 薬草茶を置き、オゾは立ち上がる。先に部屋の奥へといったヤグナを追う様に。 「オゾ」 ただ一言、ヤグナはそれだけ言った。それだけ言い、両手を取り、皺だらけの手で包んだ。 どくん、どくん、という脈打つ音が、オゾとヤグナに伝わる。 オゾは何かを問おうとしたが、結局何を問うていいのか分からず、口をつぐんだ。 暫くし、ヤグナはやさしくオゾの手を握り締める。 「お帰り」 いつものヤグナの台詞だ。 オゾは黙ったまま頷き、ヤグナの家を後にした。 あれは何だったのだろうか、という疑問は、未だに答えを知らぬ。 ほどなくし、オゾは成人し、翼を得ることができた。 必要だと思われた修練は、結局こなしてはいない。ヤグナに再三言われた「分かっていない」という言葉も、否定できてはいなかった。 「おばあちゃん先生」 オゾはヤグナの家を訪ねる。 数年前よりもさらに皺を増やしたヤグナが、微笑みながらオゾを出迎えてくれた。 「お入り、オゾ」 家の中に招きいれ、再びいつもの薬草茶を出してくれた。 変わらない味、変わらない雰囲気。 違うのは、確実に年月が経ったと思わせる、オゾとヤグナの風貌だ。 「翼を、得ました」 「そうだね」 ふふふ、とヤグナは笑う。 「実はね、私は教える自信が無かったんだよ」 ヤグナは悪戯っぽく笑いながら、言う。 「自信?」 「そう、自信がなかった。だから、ああやって『分かっていない』というしかなかったんだ」 「先生」 「だから、それはお前の力だよ」 嬉しそうにヤグナは言い、自らの入れた薬草茶を美味しそうに啜った。オゾも続けて啜る。 ふわりと香る湯気は、初めて出されたものと何ら変わりは無い。 「そろそろ、行こうかね」 ヤグナはそう言って、オゾを見て微笑む。 「行くって、どこにですか?」 「お前の叔父のところだよ。体のあちこちが、随分痛んでね」 ああ、とヤグナは納得する。 そういえば、そろそろ家に呼ぶつもりなのだと、叔父から聞いていた。一人暮らしが大変だろう、体も辛かろうと、随分心配をしていた。 「子ども達には、場所が変わってすまないけれどね」 「……気にしないと思います」 「そうだと良いけれど」 ヤグナは笑う。皺が増え、肉が減り、老いを感じさせる動きを携えて。 それでも尚、昔からちっとも変わる事の無い表情で。 「引越しの際は、手伝ってくれるかい?」 「もちろんです」 即答するオゾに、ヤグナは嬉しそうに微笑んだ。 ――ヤグナが亡くなったのは、それから数年後のことであった。 オゾは思い出す。 空へと向かう煙を見つめ、ヤグナという存在を。 (謎の、存在だ) ずいぶんと色んな経験をつんだ人なのだろうとは、元々思っていた。そうに違いないとも察していた。 だが、葬儀の時、いろいろな人からヤグナの話を聞き、更なる謎ばかりが生まれていった。 「おばあちゃん先生」 目を閉じ、問いかける。 もうあの薬草茶は出ない。笑みも返ってこない。分かっていない、と諭されない。 それでも思い出さずには、いられない。 背にある翼を思うたび、奥底から溢れるような温かさが掌に宿るのだ。 ――オゾ。 ヤグナの声が聞こえた気がした。 オゾは目を開き、空に笑う。 時折思い出す、不思議な懐かしい人へと向かって。 <笑みを携え・了>
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