――ホテル“Le point du chemin”にて起こる出来事を彼に語って貰うとしよう。 彼の地、賢者の脳髄市は、もっとも安全な都市と言われて久しいですが、住み慣れたモノにとっては比較的という注釈がつくのでございます。 一見のお客様は、肝に銘じておかれると良いでしょう。 それこそは、闇の領域“八百万廟”である事を――。 並ぶ建物は優美な輪郭持ち、落ち着いた色合いは街に統一感を持たせている。 石壁は歴史が刻まれ、壱番世界の歴史遺産でもあるプラハを思い起こさせるが、高度な魔道と科学が息づく。 生者死者を問わず客として迎えるホテル。 深い赤の絨毯に、趣味の良い飴色の調度品。 ところどころにあしらった金は、曇りなく輝いている。 美しくカッティングされたクリスタルガラスが、ホテルを訪れるモノたちを照らし出す。 風景を写し取り、油絵で描いた絵画。 磨き抜かれたガラスは、外の景色を曇りなく見渡せる。 屋敷全体が、身じろぎするように鳴動した。 生き物のような仕草も、八百万廟ならばありえること。 ホテルにいるモノすべてに、何かが起こることを知らせる。 その出来事に従業員たちは、変に身構えることなく、普段と変わらぬ動きを取り戻す。 ホテルの総支配人が、乱れ一つない装いでコンシェルジュデスクの奥から現れた。 「大丈夫。もう間も無く“神様”が参ります」 迎えるべき客がくると、口元に微かな笑みを刻んで伝達した。 従業員はどのような客だろうかと詮索はしない。 どのような姿や格好でも、死人であろうと生者であろうと、このホテルへと訪れるモノすべてが客なのだから。 支配人の伝達で、歓待の準備は進み、あとは迎えるべき“神様”を待つのみ。 準備万端の中、高級感を漂わせるファサードに降り立ち、ドアマンに迎えられるべく歩いてきたのは、神妙な面持ちをした青年だった。 だが、青年を押しのけるようにしてドアマンの開いた玄関からエントランスホールに飛び込んできたのは、薄汚れた服を身につけた中年男性。 「ようこそ、いらっしゃいました」 左右に並んだ従業員たちに迎えられる男。 青年は、背後から不意にぶつかられたことにより、前のめりになって転倒してしまう。 顔面を怪我しなかったのは、とっさに両手をついたからだが、かすり傷は負ったかもしれない。 「な、なんなんだ……」 青年は、何が起こったのかわからず、大理石の床から身を起こそうとする。 まっすぐな茶色の髪が乱れ、ジャケットも少し汚れていた。 「痛てて……」 「大丈夫でございますか」 ドアマンは、最初に迎えるはずであった客の前に跪き、白手袋を填めた手を差し出す。 「何とか……。けれど、今のは」 「急ぎのお客様のようでした。申し訳ございません。傷の手当てが必要と見受けられます。どうぞ、こちらで手当をさせてくださいませ。お召し物もクリーニング致しますので」 青年はドアマンの手を借りて立ち上がる。 「もともとここに泊まるつもりだったから、チェックインしてからでかまわないよ。このあとに出かける予定もないし」 急いではいないからと、ホテル内からやってきた従業員にも聞こえるように言う。 「それでは、お客様の望み通りに」 客の要望が第一。 従業員がドアマンに視線をやり、互いに頷く。 ドアマンは青年に礼をし、ホテル内へと誘う。 従業員にバトンタッチし、青年の荷物を受け取り、先導して案内する。 「僕が転んだ原因って、彼?」 小さな声で、従業員に確認する。 ホテル内にいる従業員以外のモノは客である以上、悪口などは言えない。 従業員は申し訳なさそうな表情を浮かべたのに、 「いや、君を責めるつもりはないから。チェックインのサインするの、あそこでいいかな」 そういって、青年がソファセットを指で示す。 「はい。書類をただ今持参いたしますので、お待ちください」 青年がソファに身体を預け、ため息を落とした。 ロビーで異彩を放つ客が、ホテルの雰囲気を読まずに大声で喋る。 どれほどシャワーを浴びていないのかわからない脂で固まった髪。 肌はてかり、目元は不摂生をしているのか隈ができている。 眼差しは、けして善人ではない歪みを孕んでいた。 それでも。 「お部屋に案内いたします」 にこやかに歓迎する。 マナーが悪くともお客様。 「早く案内しろ。こっちは疲れてるんだ」 薄汚れたバッグを投げるように従業員に押しつけた。 「こちらへどうぞ」 丁寧にバッグを持ち直し、怒りを表にだすことなく、微笑さえ浮かべて従業員がエレベーターホールへと案内する。 男は誰に話しかけるわけでもないのだが、ホテル内の装飾一つ一つに文句をつけ、まるで世界すべてに腹をたてているよう。 客が移動する場所は騒がしかったが、客室に押し込められたあとは、元の静けさを取り戻したのだった。 男は、ホテルに連泊し、最上階のレストランでフルコースを食し、最上級のワインを浴びるように飲んだ。 少しでも供するのが遅ければ、客であることを振りかざす。 不意に遭遇する自分と同じ客が自分より良い物を口にしていたら、それよりも良い物を要求する。 従業員に自分の要求が何でも叶えられるのだとわかると、男の要求はエスカレートしていった。 それは、身につける物や身体のメンテナンスや果ては色事にまで。 金を支払っているのだから、要求は通るのだ。 たっぷりの金さえ与えれば、ホテルの者たちは動く。 「愉快だな。金さえあれば、すべてが動く」 綺麗に整えられた爪先、髪。 男は、コニャックの入ったグラスを手にバーのウェイターにつぶやく。 カウンターテーブルには、男だけが席についている。 グラスとともにあるのは、ビターチョコレートとカットされたドライフルーツ。 「お客様は“神様”というではないか」 「はい。その通りでございます」 にこやかに応じるバーテンダーに満足そうに頷く男。 男に与えられる言葉はイエスのみ。 従順に従う姿は男に支配欲のようなものを抱かせる。 男の気持ちを知っていながらも、従順に頭を垂れた。 ホテルの従業員に無理難題を要求しても、男のすべてを叶えてしまうのをつまらないと思ったのか、夜が明ければチェックアウトしようと考える。 すべてを叶えてくれるのは、最初は王になったような気分だったが、それも最初だけ。 要求が呑まれるのが当たり前になり、男のいうことは絶対になる。 だれも逆らわない。 だれも男の本心を覗きにはこない。 まるで裸の王ではないか。 贅を尽くしたもてなしも、どこか乾いて見えた。 男は初めて疑問を抱く。 何故だ、と。 何でもにこやかに願いを叶える従業員たちの顔が浮かんでくる。 男にとって、従業員たちは命令を下すだけの者たちだったから、どんな顔をしていたのか思い出せない。 命令を下すのはすべて家具とでも思っていたからだ。 他の客のように、翌朝に去らなくても良いだろう。 金は払ってあるのだ。 今でもいいだろう。 夜であったが、男にとっては関係ない。 男は決意すると、身一つで出て行こうと部屋を出た。 エントランスホールにいる従業員たちが、男を見送るためではなく、迎えるべく並んでいた。 「なんだ」 ドアマンが両開きのドアを内側から錠をかけ、太く赤い組紐でつないだポールを左右に立てた。 そして、ドアを背後にして、病的に白い肌の中で青白く光る眼差しを向けた。 「当ホテルは、お客様のために特別な催しをいたします」 ドアマンと反対側にいる総支配人が、表情を変えることなく、淡々と語る。 初めて男が訪れた時の声色と全く同じに。 男の最期となる夜が、本当の意味で始まった。 「お客様は神様です。この地に捧げられる“生贄の神様”なのです」 「“生贄の神様”なのです」 総支配人の言葉を唱和する従業員たち。 にこやかな笑顔で、男を取り囲んでくる。 「や、やめろ……!」 男が腕を振り回して従業員たちを振り払おうとするが、次々と手が差し伸べられてくる。 男にとって、無数の手が襲いかかってくるように思えた。 「その為に贅を尽くし、おもてなししたのです」 総支配人が、腕を上げる。 「その為に贅を尽くし、おもてなししたのです」 従業員たちの男を掴む力が強くなる。 「放せ……! くそっ! 放せぇぇぇぇ!」 男が髪を振り乱して暴れる。 足掻いても、足掻いても、その腕の力が弱まることはなく。 「違う、知らなかった! ただ、早い者勝ちと思ったんだ!」 「お客様は当ホテルの望みを引き受けられました。そして、私どもはお客様の望みを引き受けました」 「金は……! 金は払っただろう!」 「ホテルの用意したお金を支払われておりました」 生贄を望んだホテルが、男に自分が金を持っていると錯覚させていたのだ。 男が持っていたのは、最初から身一つと薄汚れたゴミしか入っていない鞄一つ。 「さあ、お客様。参りましょう」 にこやかに、総支配人が宣言する。 それが呼び声であるように、ホテルが、“Le point du chemin”が鳴動した。 従業員たちがホテルと一つになるように、男に覆い被さって、たくさんの腕が男を掴み、生き物のように脈打つ赤い絨毯に押しつけた。 無数の腕が絨毯と同化して男を捕らえる。 ずぶりと沈み込んでいく男。 「や、やめ……」 口を従業員の手が掴み、爪が頬を傷つけた。 それでも、男は叫ぼうと試みるが、赤い絨毯から手が伸び、髪を、頭を掴んで引きずり込んでいく。 逃げられない。 もう、逃げることなどできないのだと男の心を絶望に染めた。 後に残るのは、総支配人とドアマンだけ。 従業員たちは、ホテルの望みを叶えるべく動いている。 ドアマンは微笑んで深々と礼をした。 「お客様は神様です」 神様である男を見送り、解錠して通常業務に戻る。 エレベーターホールから到着を知らせるベルが鳴った。 「何があったんだ」 ホテルが鳴動したことをいっているのか、総支配人に尋ねる。 「ホテルが生贄の神様を欲しておりましたので、望みを叶えたところでございました」 「それは……?」 青年の疑問を丁寧に説明する総支配人。 だんだんと青年の顔色が悪くなっていく。 男性が自分を押しのけていなければ、生贄になっていたのは自分であったかもしれないのだ。 運がいい……、そう思っていいのか悪いのか。 青年は、逃げるようにしてホテルを去った。 「またのおこしをお待ちしております」 ドアマンの見送る言葉を背に感じながら。 彼の地、賢者の脳髄市は、もっとも安全な都市と言われて久しいですが、住み慣れたモノにとっては比較的という注釈がつくのでございます。 そうでございますね。 一見のお客様は、肝に銘じておかれると良いでしょう。 今回、お客様はホテル“Le point du chemin”に記憶されました。 幸運と悪運は紙一重。 それもまた闇の領域“八百万廟”らしい出来事であるという事を――。
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