扉を開けた瞬間。 グラリとした一瞬の暗転。 慌てて目を瞬くと、ぶわりと、 宙を泳ぐ魚の群れが迫る。 銀のウロコが煌めいた途端に魚は体をすり抜け。 丸いクラゲが笑うように周囲で円を描いた。 深海魚がぬらりと、 長い体で足元をすり抜ける。 周囲が深い青に染まっていく。 引き込まれる。 引き込まれる。 海に。 魚たちがぐるぐると。 歌を歌っている。「おや」――ザッ、と。 魚と青が身を引いた。 明るい店内。 壁は一面木棚でその上には大小の瓶や紙辺――と、体の透けた魚たち。 ところ狭しと地面に置かれた、皮や骨、石、古びた本。樽、瓶…… 何となく感じる圧迫感。「いらっしゃい」 声は正面のカウンタの中。 カウンタの上も床と同様に雑多な様子だが、その声の主の上、 狭い店内にカウンタに牙を剥くように固定された、巨大な竜の骨に驚く。「魚たちが悪さをしてすまなかったね」 その骨の頭を撫でながら、声の主は怪しげに口許をあげた。 声は若い男のものだ。重そうなフードを被っている。細い体にシンプルなシャツ。フードから続く分厚いマント。 骨の下で広げた手が。妖しく。退廃的。「わたしは博物学と魔法の融合について、試しているんだよ」 男はこちらが返事をしなくとも、勝手に話している。「0世界は他の世界の生き物の持ち込みが禁止だからね、魔法で他の世界の生き物を再現して、調べるんだ」 男が手を振ると幻影の馬が店内を駆け抜けた。 足が多い。「体を持たせてやってもいいんだけどね。幻は楽だし。お客さんも喜んでくれるでしょう?」 クスクスと笑うと男は、パン!と手を叩いた。 ふっと体が軽くなる。 あの圧迫感は、 生物の生と死の…… 意識。「お客さん、何か素敵な生き物を知らないかな。」 男は、傍らにあった小さな木片に火をつける。 紫の煙が細く立ち上るのを、口を下にしたガラス瓶で集めた。 微かに振ると、蝶の形に固まる。 ふと視線をあげると目があった。 細められた銀色の瞳。「出会ったことのあるモノ、物語に出てきた架空のモノ、何でもいいよ」 瓶の口を上に向けると、蝶が舞い飛んだ。「魔法の手伝いもしてもらいたいな。勿論お礼はさせてもらう」 妖しい店。 魔法使いと、 生きていない生き物たち。
目の前を行く銀色の魚を見て、ルンは勢いよく顔を突き出して噛みついた。 ガチン! と、歯が噛み合わされ、それでもルンは探るようにムグムグと口を動かした。首を三回くらい捻ったあと、ルンは店の主に言う。 「味しないぞ?」 男はその反応に嬉しそうな顔でカウンターへ手招きをした。 「お茶と焼菓子があるからこちらへおいで」 プクプクと湿度の高い泡を上げていた容器から熱水が注がれ、踊る葉が香りと色をにじませた。パカリと開けられた華やかな柄の描かれた缶からは甘い香りのするクッキー。 ふわりとした良い匂いにルンは相好を崩してカウンターの背の無い椅子に飛び乗った。 「金いるか? 店では金でモノ、買う。さ・い・き・ん、覚えた!」 うんうん、とフードを揺らした男は引きだしからカップを取り出して、茶を注ぎながら言う。 「これはサービス。お金はいらないよ」 「そうか!」 差し出された焼菓子をパッと手に取り、ぽいと口に放り込む。 「うまい! ルンはルン、お前名前は?」 「博物屋とか、店主とか、店長って呼ばれてる」 「テンチョ。時々聞く名前! 覚えた」 ルンはカウンターから見える風景と匂いをもう一度確認した。ゴチャゴチャと雑多に棚に詰め込まれたモノ、床に散らばるモノ……いくつかは体に良さそうな、そしていくつかは毒の匂いもする。テンチョからは嗅ぎ慣れた緑の香りもした。そして、もうひとつ嗅ぎ慣れた…… 「サキ居るのか? 匂いする」 「あぁ君がトレーニング相手の子か、サキが世話になってるようだね」 「コロシだち!」 「コロシだちかぁ……凄い響きだねぇ。 サキはここの上に住んでるから、今日は居ないけどまた遊びにおいで」 「わかった! この上だな!」 そのまま玄関を使わずに突っ込んで行きそうな言い方だったが、店長は特に気にせずに聞き流した。スルスルと泳いでくる魚の幻を、店長とルンはしばらく一緒に眺める。 「テンチョ、さっき魚、味しなかった」 魚を見たままルンが言う。 「生き物。見る、狩る、食べる。それで分かる。味しない、分かった内に入らない」 「ふむ、なるほどね。確かに」 「テンチョが作る、理解のため。だったら、味付きがいい。本物でもいい。喰える喰えない、ルン1番大事。テンチョは違う?」 「味を作るのは難しい。というか、食べ物を作るのは難しい。食べられるか、試すのが危ないから」 「食べれるかわからない?」 「そうか、君ならわかるかも」 ポンと店長は手をついた。 「やってみようじゃないか。食べられる生き物。もちろん素敵な。何でも良いよ、君が覚えているの、教えてくれないか」 * ルンはうーんと、考えた。 バッファローは部族みんなで食べられた。 鯨ならターミナルの全員で食べられる。 大きいモノが良い。大きければ食べられる部分も多くなる、そうすれば飢えることがない。それから大きい生き物は皮や骨が丈夫で、脂も多い。 「草原、茶色、四足。角あり、群れ。大きさ、この部屋位? 皮鞣した、テントに使った。旨かった」 「それは大分、覚えがある。部屋のサイズ程は無かったが……予言の力を持ち、豊穣や爆発的な力の象徴とされ、天地開闢にも深く関わる神聖な生き物だと……その鳴声は低く良く響き、人の心におおらかさを想起させる……これじゃないか?」 ピラッと、店長は自分の座っていた歪な形の置物のようなものに被せてあった布を剥いだ。 ――牛だ。 「小さいな!」 「でもこれだろう」 「うん、毛も短いが、だいたいこれっぽい」 「美味いよなー」 「旨い」 じゃあ、とルンは指をピンと立てた。 「海の中、大きい魚。鳴く。きっとターミナルの全員で分けられる。旨そうだった、旨いと聞いた。無駄になるない、聞いた」 「ふむ、ちょっと馬鹿みたいにデカそうで面白そうだな。やるならこのくらいの方がいいか」 「味付きでも、本物でも。ルン、どっちでもいい。どっちも食べたい」 「魚なら塩でもあれば美味しくいただけるんじゃないか? よし、それで行こう。 うーん、姿は、絵は描けるか?」 「絵?」 ルンがペンを差し出され、難しい顔をする。 * ガラゴロと、デカイ荷車をルンが引いていた。 荷車には布にくるまれた化石になった骨や、『変な匂い』のする乾いた花の山。不思議な模様の描かれたマントが二組、長く丈夫な棒も二組。それからそれらを準備した博物屋本人。 「みっ、みっ、道、が悪いね。私は、歩いたほうが早くっ、な、いか?」 「歩いた方が遅い」 「そ、そうかっ」 荷車は樹海の広い空き地を目指している。 ルンに人の居ない広い場所を聞いたところ、大分森の深くに来た。 今のところ遭遇したワームは全てルンが撃ち落としている。思ったより危険なところまで来てしまったなぁ、と店長は思っていた。一人で帰れないかもしれない。 やっとこ、辿りついた広場で、その魔法の儀式は行われた。 まず二人とも怪しいマント装着し、『変な匂い』の花をお互いの頭から被せ合う。 それから店長がぶつくさと呪文を言うと、3m程の魔法陣をひとつ、怪しい液のしたたる棒で描く。それを頂点として綺麗な三角になるよう、それぞれがひとつずつ同じ魔法陣を地面に。 店長は測量の魔法を使おうとしたが、ルンが目視で正確な位置を出せたので省略。 それぞれの魔法陣の所定の場所に化石を設置し、二人はひとまず森の縁まで撤退した。 「おしまい? 大きい魚、出る?」 「まぁうん、多分、君は記憶力が良さそうだし、さ、覚えてる姿をじっと頭に浮かべて。目をつぶって、集中して」 「うん」 二人が片手に棒を、もう片方の手を力強く握り合うと、周囲に魔力が集まって紫色の光が生まれる。魔法陣も同じ色にゆっくりと発光をはじめ、くるくると強い光が円を辿るように回っていくのが、目をつぶっているルンにもはっきりと脳裏に見えた。 鼓動が光の回転とともに早くなっていく。 「もう少し」 店長が耳慣れない発音の言葉をつらつらと発していく。 先ほどの呪文はちゃんと言葉に聴こえたのに。 今は聴こえない。 * まったくありえない感じで、マッコウクジラがその地より地表数キロ上空にいきなり出現してしまって、これはこの生物が自然に生息できる場所ではもちろんない。 というような話を、店長は読んだことがあった。 のが、どうも良くなかったのか、その哀れなクジラはぐしゃっという音を残して地面に沈んだ。 「形はだいたいわかった。知ってるカンジだった」 と、店長は後に語った。 「グロかった」 見事に血と脂にまみれた二人だったが、ルンは割りとケロリとした顔をしている。潰れた鯨を見るのは初めてだったが、潰した動物を見るのは初めてではない。 とりあえずすっかり叩きのようになってしまった鯨から荷車に積める程度の部位を黙々と切り取っていると、ルンが金色の眼を光らせながら店長に尋ねた。 「ルン、死んで短い。神さまの国、長くない。 テンチョの方が、多分ずっと物知り。知りたい、教えてくれ。 今まで、テンチョが1番好きだと思った、生き物。良ければ、見せてくれ」 「……内緒だよ?」 血でビタビタになったマントを投げ捨てながら、店主が言った。 「人間、ルンにちょっと似てる、見せることはできないし、食べさせることも勿論できないけど、好きだったんだ」 「番い?」 「サキは羨ましいよねぇ」 店長の晴れやかな顔を見て、ルンはニカッと笑って答えた。 「そうだな!」 (終)
このライターへメールを送る