ヴィヴァーシュ・ソレイユは、どちらかといえば屋内で過ごすことが多い。 一日の起点は、もっぱら馴染みのアンティークチェア。ともすれば物見遊山に出かけるよりかは、読書や思索に耽りがち。人混みが苦手なのも引きこもる一因かも知れない。 一方で、仮宿も長居をすれば調度品が増えていく。いずれ劣らぬ選り抜きの、彼らしい落ち着いた空間を演出する品々だ。そしてこの青年が纏う衣類に装飾の調和を見れば、外出と買い物をいとう者の手並みではないことが窺える。 しかし、遥か高空にて寒さと隣り合わせの暮らしを送ってきたヴィヴァーシュにとって、春とも秋ともつかぬ0世界は実に過ごし易い。まして冬物などは偶の旅行用に必要な分を揃えてしまえば充分で、良くも悪くも以降の散財には繋がらないのが実情だ。 寒がるでもなく、けれど寒さが元で、青年は自室にこもる。 冬、ならば。 とりとめもない思考は、隻眼を窓の外――ターミナルの街並みへと誘う。 そんな中、あからさまに薄手の肩も顕わな通行人が目に止まった。 ならば、夏。 夏の訪れし折は、いかなるかな。 コンダクターなどは四季に備えそれを謳歌してさえいる。時に季節感を本来無味な0世界に持ち込み市中を彩ってまで。 ――自分も、今年こそは備えよう。 芽吹いた決意を芯に据えた。 どう備える? いつの間にか心許ない長さに減った煙草を揉み消し、椅子から立ち上がる。腕組みし、曲げた人差し指を口元に当てて、再び思考の海へと沈む。 衣服の素材を変えてみる。 更なるインドア生活に邁進してみる。 思い至ったのは、このふたつ。 「…………」 ヴィヴァーシュは、己の発想力の乏しさがたまらず、溜息をついた。 しかし、そもそもが手探りの領域。闇雲に手を広げるよりは少ないながらも浮上したこれらを指標とすべきだろうか。 丁度読みかけの本にしおりを挟んで閉じるようにヴィヴァーシュは思索を中断し、彼にしては勢い良く立ち上がった。 刹那、硝子が圧殺された、ばりっともみしりともつかぬ音が足元より響く。 それが少し前に失くしたモノクルとの再会を示す調べであり、同時に訪れた不幸な別離の音色でもあることを、ヴィヴァーシュは良く理解していた。 無残な姿に変わり果てた読書の供を見つめながら、ヴィヴァーシュはもう一度溜息をついた。 「ありがとうございます、またお越しくださいませ」 早口な店員の挨拶を背に眼鏡屋のスペースを抜け出してから、ヴィヴァーシュは周囲を見回した。目を凝らすと、少し離れたところに探し求めていた売り場の看板が認められたので、次は其方へ向かうべく歩み始めた。 ヴィヴァーシュは今、とある百貨店に来ている。 手始めに夏物の――砂漠での活動にも耐えるという触れ込みの――スーツを購入した。ほどなく眼鏡屋を見かけたので、ついでに壊してしまったモノクルを仕立て直したところである。 もし、本日求めているうちの何れか一品のみ探すのならば、散策を兼ねてターミナル中の専門店をあたっていそうなものだ。だが、ここのテナントも侮れぬ粒が揃っているようであり、その甲斐あってか館内は年を通してまずまず賑わっていた。 特に女性客を多く見受けられるのは百貨店の常だろうか。 当の女性達が擦れ違い際振り向いて己を見つめていることなどまるで無頓着な美丈夫は、歩調を乱すことなく目的地に辿り着いた。 『MUSTANG』と刻まれた青みがかった暗緑色のプレートが壁に打ち込まれたその店は、占有する僅か五メートル四方を埋め尽くさんばかりの帽子で、文字通り溢れかえっていた。照明は薄弱で黒ずんだつや無しの板張りが災いしてか、うっかりすると気付かずに通り過ぎてしまいそうなほど気付き難い。 「かっこいいおにいちゃん、いらっしゃい」 帽子の山からひょっこりと、童話の妖精を連想する三角帽子を被った子供が顔を出した。前歯の欠けた笑顔をみせて舌足らずな挨拶をしてから「なにかさがしてるの?」と好奇の目を向けてくる。 ヴィヴァーシュは少々面食らいながらも顔には出さず、手短に用件を伝えた。 帽子については既にある程度イメージがある。 壱番世界は亜熱帯――確かエクアドルという名の土地――発祥の、いわゆるパナマ帽子に分類されるものだ。 一言でパナマ帽子と括るのは簡単だが、クラウンとブリムの特徴次第でも大まかにフェドラ、アウシン、オプティモ、チェミセ、ダイヤモンドなど分類は多岐に渡り、そこから更に細分化されていて同じものがひとつとして存在しない。帽子選びの難しいところであり、同時に魅力のひとつでもある。不慣れな者ならばたじろぐ場面も、ヴィヴァーシュにとっては充実のひと時だ。 「ぱなまぼう? ぱなまぼうはね――」 三角帽子は、こちらからは窺えぬ帽子の影で何やらごそごそと忙しなく手を動かし、やがて、 「――はい、これ。こっちのほうがいいかな。こんなのもあるよ」 次々と様々な色、生地、形状の帽子を、やはり他の帽子に大半が占拠されて狭くなった卓上に積み上げていく。全てパナマ帽子だ。 ヴィヴァーシュは、とりあえずひとつを手に取ってみた。 「ああ、かがみはそっち」 三角帽子は客に目もくれずに鏡のあるほうを指差し、尚も手元を探る。 そして。 ヴィヴァーシュが熟慮の末選び抜いたのは、中折れ具合がソフト帽に似た汎用性の高いフェドラ型と、こちらはやや冒険となるが鍔広のオプティモ。それぞれ透かし縫いの暗灰色と、荒目ながらも確りと編まれた漆黒色だった。 リボンも幾つか買い足して、コードの幅を広げたいものである。 「えへへへ、またきてねえ」 店を後にするヴィヴァーシュに、三角帽子は幼子の見目に相応しいあどけない言葉を送った。 ところで。 夏らしい調度とは、どのようなものなのだろう。 ヴィヴァーシュはそんな薄ぼんやりとした疑問を抱きながら、意匠を凝らした、あるいは一風変わった日用品を物色していた。闇雲に店内をうろついてみても、今ひとつ定まらない。何にせよ爽やかで、且つそれとなく品の感じられるものが望ましい。 どう見ても私服の女性が話しかけてきたのは、丁度その時のことである。 「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」 帽子屋と同じ問いに対するヴィヴァーシュの答えは、やはり手短だった。 「夏、でございますか」 一見して客との見分けがつかない販売員はヴィヴァーシュが発したキーワードを繰り返し、暫し店内を見渡す。そうして不意にくるりと向き直り、穏やかと言うには少し味気ない笑みを浮かべて、声を弾ませた。 「それでは」 目の前の紳士が金払いの良さそうな客と踏んでのことか。店員はここぞとばかり、ウィロー製の家財道具一式をはじめ、マットやクッション、タペストリーに使途不明の不思議なオブジェ、終いにはクマの縫いぐるみまで勧めてきた。 好みはさておいて何れ劣らぬ魅力的な品ばかりだ。 ――いっそ纏めて買ってしまおうか。 大味な気がしないでもないがものは考え様。玩具箱の如き店内を隅々まで確かめる手間と時間が省けたと思えば悪くないのかも知れない。 ――いや。 ヴィヴァーシュは俄かに冷静さを取り戻す。 脳裏を過ぎる囁きは、おそらく疲労に因るものだ。大体、これら全てを持ち帰ったら確実に足の踏み場がなくなる。そもそもの目的は居住空間の見直しなのに、それでは本末転倒だ。 「あのう……お客、様?」 気付けば店員が引き攣り気味に笑ってヴィヴァーシュの顔を覗き込んでいた。 否、顔色を伺っていたと言うのが正しいか。客の気分を害したと思ったのだろうか。 ヴィヴァーシュは皺を寄せた眉間に手を当てて目を瞑り、それから傍目には憂いを帯びた柔らかな眼差しを以って、女を見た。実際は何を憂いているのでもなく、なるべく穏やかな顔を作ろうとした彼なりの気遣いに過ぎないのだが、元が良いだけに効果は覿面である。 案の定、女は目を奪われ、ヴィヴァーシュとしてははからずも自身のペースに持ち込むことができた。 ヴィヴァーシュは無口を詫びて、店員の勧めの中から品定めに入った。 気になったものといえば――白い陶器の置時計や花瓶、ラムネ色のボトルとグラス、海辺の町を想起させる涼やかなデザインのタペストリ、ランチョンマット、クッション、ハンガー、ビー球に硝子細工、土鈴、クマ、の……――ぬいぐるみ? 『彼』は、ただでさえ暑苦しい毛むくじゃらの上からスーツを着込んでいた。 つぶらな瞳は「連れて行って」と訴えかけている、ような気がする。 ヴィヴァーシュは負けじと見つめ返して当惑を示した。それでも『彼』の瞳は主張しているように思えてならない。 ――そんな目で見られても……。 困る。 例えば、そう。アニモフを連れ帰るようなものだ。 ――……アニモフ? 五分後、会計の場には結局『彼』が紛れ込んでいた。 果たして正しい選択だったのか、ヴィヴァーシュは財布を取り出す今も自問していた。何故手に取ってしまったかと言えば『なんだか放っておけなかった』のだ。 ヴィヴァーシュが慣れた手つきで手荷物をバランス良く両手に割り振り、最後にクマを小脇に抱えると女性店員が「とても良くお似合いですよ」と猫撫で声で褒めた。ヴィヴァーシュにしてみれば素直に喜ぶべきか否か難しいところだ。 ヴィヴァーシュが帰途に着こうと踵を返す刹那、店員が呼び止めた。 「宜しければ、お持ち下さい」 「沢山お買い上げ頂いたので」と差し出されたのは、鋭く思えるほど細く絞られた、一本の傘だった。 店員は荷沢山の客を気遣って、まずは留め具を外して開いて見せてくれた。 グリーンベースの落ち着いたタータンチェックを白く縁取った生地。内からシャフトが貫いたように布が石突側へと引っ張られたカバーは浅く、不思議とオリエンタルな優美さを感じさせる。パゴダタイプの日傘だった。 ヴィヴァーシュは帰宅するなり日傘と帽子を掛けて、衣服をクローゼットに収めた。それから一息も入れずに荷を開けて、改めてシックな自室を見渡す。 雑貨屋で買った品の数々は、自分にしては明る過ぎる気がしないでもない。 後悔にも似た思いが浮き沈みする。 ――しかし。 これもまた賢い買い物をするまでの学習投資と考えることもできる。 ここは前向きに捉え、そして買った以上は積極的な活用を試みるべきだ。 すなわち模様替えである。 ――タペストリーは入り口から見える場所がいい。 ――ボトル類は壁棚、置時計と硝子細工はキャビネットの上にタペストリーを敷いて飾るのが良いか。 ――土鈴はやはり窓辺が一番だろう。 時折思案しながらも、着々と室内に清涼感が齎されていく。 数々のアンティークの風合いにより重厚感が行き渡った部屋も、爽やかな雑貨小物で彩ってみれば、存外調和が望めるものだ。何のことはない。 さて、残るは――。 ヴィヴァーシュはやり場に困ってとりあえずベッドの上に乗せた『彼』を横目で窺った。『彼』もまた、やはりあの困らせる目でヴィヴァーシュを見ていた。 ――どうしたものだろう。 まさか抱いて眠るわけにもいかず、再び室内を見回す。 既にあらかた他の調度が配置されており、空いているのは床か足の長いチェストの上ぐらいのものだ。 ――土足の床では忍びない。 やはりチェストだろうと置いてみれば、存外具合が良い。 しかし――何か引っかかる。あと少し、収まりが悪い。 ――何か、忘れているような。 今朝からのことを思い返し、ふと懐に手を入れてみた。 懐中には新しく仕立てたばかりのモノクルが入っている。この読書の供は、何度買い直したか知れぬほど頻繁に失くし、見つけると同時に壊してしまう。その悪癖を自覚しながら、どうしても改めることができなかった。 目の前には、奇しくもヴィヴァーシュと同じ格好をした居候が居る。 「…………」 暫しモノクルとクマを見比べていたヴィヴァーシュは、やがて『彼』の左目にモノクルを装着してみた。 とても良くお似合いですよ――女性店員の猫撫で声を思い出した。 ――なるほど。 クマが紳士然としていると、どことなくある世界司書のことを想起させるが、さておき良く似合っているのは確かだ。クマとしても異論はないらしく、実に行儀良く静かにしている。 ヴィヴァーシュは、もう一度つぶらな瞳を見て「よろしく」と、目で伝えた。
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