初春の、芽吹いたばかりの薄い色彩に挟まれた林道をくぐり、足を寄せたのは、まだ冬の名残を感じさせる、山の裾野にある山桜の木の前だった。 ソメイヨシノのそれとは異なり、赤茶けた葉と共に花を開かせるこの手の桜は、同時期に短期間内での満開を迎え一斉に終わりを迎えるというわけでもない。 視界にあるいくつかの木々が桜の木であることは知れる。が、少なくとも、今こうして満開を迎えているのは、眼前にある一本かぎりであるようだった。 ヴィヴァーシュ・ソレイユは小さな息を落とし、薄紅の花をひっそりと仰ぐ。 フリーチケットを用いて訪れた壱番世界。特に当て所もなく、そういえばちょうど桜の見頃であったのを思い出して、都心の喧噪をはずれ移動してきた先でのこと。 旧い史跡を多く抱えるその土地は有名な観光地でもあった。訪れている人の数も比較的に多く、駅近くや有名な寺社仏閣は相応の賑わいの中にある。 賑わいを嫌い、そうして足を運んだのが、山裾近くにある林道の前だった。 ――いいや、そうではない。 ヴィヴァーシュの、月光のような銀色の髪が風に揺れる。 恐らくは未だ雪も残っているのだろう。吹く風は初春のものというには、幾分まだ肌寒さを残していた。 白皮で作られた眼帯で隠されていない側の、ペリドットのような色彩を浮かべた眸が、何事かを考えこんでいるような光をひらめかせる。 ――恐らくは、呼ばれて来たのだろう。 考えながら、ヴィヴァーシュは桜の花が風に散るのを黙したままに見つめた。 かつて、壱番世界のとある国文学者は、桜の花を死者の魂に喩え述べたという。 陽光の下では白々と愛らしく咲き誇るその花も、宵の中、桜の色は死者の霊魂を思わせるような青褪めたものへと変じる。 あるいは、咲き誇り潔く散り朽ちていくその様が、大和に住まう者たちの感性に重なり、相まっているのかもしれない。 いずれにせよ、確かに。 たとえば、冬に眠る大地の下で、黄泉の世界もまた眠りの中に沈むのだとして。春を迎え目覚めた彼らが、生者たちへのことばの具現として開かせるのが桜の花であるとするならば。 生者たちは、死者たちのかたちを成さないことばに引き寄せられ、懐かしむようにして、その下での宴をひとときもうけるのではないのだろうか。 ならば、今、自分をこの場まで引き寄せたのは、果たして何者であるというのだろうか。 考えながら、ヴィヴァーシュは視線を移ろわせる。 ソメイヨシノのそれよりは濃色な山桜の花が、風に散り、視界を染めた。 ふと、山桜の木の裏に、ひとりの幼い少女の姿があるのを目にとめる。ヴィヴァーシュは目をすがめて少女を検めた。 白い衣に薄紅色の袴。艷やかな黒髪は背でひとつに結いまとめ、窺うような目でこちらを見ている。 つかの間、桜に身を隠す少女を見つめ返した後、ヴィヴァーシュは静かに数歩を進めた。少女の表情にわずかな緊張が走ったのが知れる。 けれど、ヴィヴァーシュは己の表情は何ひとつとして変えるでもない。ただ黙したままで歩みを進め、ほどなく、少女のすぐ近くで足を止めた。 「貴方はここで何を?」 訊ね、少女を見下ろす。間近に見れば、少女の齢はおそらく十にも届かぬほどだろうか。くるくると動く丸みをおびた双眸が、どこか不安げにヴィヴァーシュを仰ぐ。 「……」 少女は応えない。ヴィヴァーシュも特に応えを望もうとも思わなかった。ゆえに少女から目を離し、周りの風景に視線を向ける。 薄緑で包まれ始めた山肌の中、眼前に咲く山桜と同種であるのか、あるいは亜種であるのか。桜の花が色を添えていた。 抜けてきた林道を囲む風景の中には菜花の色が彩りを加え、上空に広がるのは雪解けの水を連想させるような青をたたえた蒼穹だ。 頬を撫で、髪を梳いていく風の冷たさに目をすがめる。 「……あの」 幼い声がヴィヴァーシュを呼んだ。視線を落とし、再び少女を検める。 やはりまだどこかおどおどとした様子ではあるが、それでも少女は桜の木に片手をあてたまま、窺い見るような目でヴィヴァーシュの顔を仰ぎ見ていた。 迷子なのだろうかとも思ったが、周りには住宅のようなものはおろか、車や、少女と共に足を運んできたであろうはずの大人の姿も見当たらない。 いや、そもそも。 眼前にいる少女が人とは異なるものであとうことは容易に知れた。生者であれば頭上にあるはずの数字も持たず、おそらくはロストナンバーでもないだろう。 考えながら、この場所に至るまでの流れを思い出す。――そうだ、呼ばれて来たような気がしたのだ。けれど、何に呼ばれたのかは分からなかった。 「貴方だったのか」 「え」 言葉にすれば、それはするりと染み込むようにして理解することが出来た。ひとり納得するヴィヴァーシュに、少女は首をかしげるばかり。 なんでもありませんと言いながらかぶりを振って、ヴィヴァーシュは少女の前で屈みこんで目線を合わせた。 「遊んでいるのですか?」 訊ねる。少女はふるふるとかぶりを振った。 「……待ってるの」 「待ってる? 誰を?」 消え入りそうなほどに小さな少女の声を、ヴィヴァーシュはていねいに拾い取って首をかしげる。 少女はわずかに逡巡し、それから触れたままの桜の木を仰いだ。つられるようにして視線を持ち上げたヴィヴァーシュの目に、山桜の鮮やかな紅が一面に映り込む。 仰ぎ見ているうちにむせ返りそうになるほどの満開を迎えている花が風に揺らぐのを、つかの間そうして見上げていた。が、少女は再び、やはり消えそうな声で呟いた。 「……あとをまかせるって、言われたの」 「任せる?」 少女の言葉が含む意味は、今ひとつと判然としない。しかし少女はうなずいて見せただけだ。 桜の幹に目を向ける。 見れば、ずいぶんと老いを重ねてきているようだ。木肌は剥がれ、根もずいぶんと痩せているように思える。 ふと、ヴィヴァーシュは理解した。 「この木はもう、」 今季を最後に、あとはもうニ度と花を咲かせることはないだろう。 桜を仰ぎ見ていた視線を少女へと戻す。少女はヴィヴァーシュの顔をまっすぐに見上げ、それから小さな指で頭上に揺れる数多の枝のひとつを指した。 風が流れ、ヴィヴァーシュの髪を揺らす。かすかに花の芳香を含んだ、春のそれだった。 風の心地よさに目をすがめた次の時、ヴィヴァーシュの足もとに、桜の枝がひとつ、静かな音を立てて落ちてきた。 少女が小さな声をあげて、迷った後に、それまで離さずに触れていた片手を木の幹から離し、枝を拾い上げたヴィヴァーシュのそばまで走り寄る。 小さな手のひらがヴィヴァーシュに差し伸べられ――否、ヴィヴァーシュの手の中にある桜の枝に差し伸べられた。一心に、懸命に背伸びをしてまで、少女はその枝を欲しがっている。 ヴィヴァーシュは少女の手に桜の枝を手渡し、艷やかな黒髪を静かに撫でた。 少女は手にした枝をしげしげと検めた後、満面に嬉しそうな笑みを浮かべ、両手で抱えるようにして抱き包む。それから再びヴィヴァーシュの顔を仰ぎ見て、抱きしめた桜の枝をヴィヴァーシュの手へと戻す。 「?」 再び戻された枝を手に、ヴィヴァーシュがわずかに眉をしかめると、少女はふわりと笑ってうなずいた。 風が吹き、桜の花が吹雪を描く。蒼穹の中、紅色の花びらが舞い上がり、消えていった。 紅色の吹雪に視線を奪われた刹那。再び少女に視線を戻したが、その姿はもうどこにも見当たらなかった。木の裏側や菜花の中も探してはみたが、やはり少女はどこにもいない。 残されたのは末期を迎えた老齢の木が落としたひと振りの枝。枝に咲く桜やつぼみや赤茶けた葉も、風を受けて密やかな揺らぎを見せていた。 ――ああ、なるほど。 ヴィヴァーシュは理解した。自分は何に呼ばれてここまで足を運んだのかを。少女に呼ばれたものだとばかり思っていた。しかし、それは違ったようだ。 命は繋がれていくものだ。 例えば彼の国文学者の言葉の通り、桜の花が黄泉に住まう死者たちの声の具現のものであるとして。死者は輪廻を重ね、いずれは再び黄泉の坂より生者の世界へと立ち戻るものだとするならば。 拾い上げた桜の枝を、散りゆく桜の木の隣に植えてやった。 いずれ、もしかするとこの枝は大地に確かな根を張って、死していく親木に代わり新たな花を咲かせるのかもしれない。 その助力を成すために、自分はここまで呼ばれて来たのだろう。考えて、ヴィヴァーシュは小さな息を吐いた。 今はまだ小さく弱々しい小枝でも、長い歳月を経て、いつかきっと。 振り仰いだ桜は風を受けて波打っている。 その音の中に少女の声を探しながら、ヴィヴァーシュは静かに目を伏せた。
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