インヤンガイ封箱地区。他の街区などから見れば実に小規模なその街の中に、流行りの廃れたゲームと電脳空間(インターネット)にアクセスすることのできるパソコンを数台ばかり置いてある小さな店がある。決して趣味が良いとは言えない、ド派手な電飾を飾った看板には“電脳中心”と書かれてある。実のところ、インヤンガイでは“壷中天”という機器を用いてバーチャルリアリティ空間にアクセスすることが可能となっていて、最新機器を導入しているところは相応の賑わいを見せているのだ。が、封箱地区の電脳中心にはその機器を導入していない。店主であるリュオンの腰が持ち上がらないためもあるが、むろん、そのための費用がないということも大きな要因のひとつだ。 封箱地区は、スラム街と言ってしまっても過言ではない。炉辺には用途の知れないような鉄くずやネジ、片方しかない靴や袖のとれたシャツを売っているインチキくさい男たちが点在している。細い路地に折れれば体を売ることを生業としている女や男が蠱惑的な笑みを浮かべ、あらゆる手管を用いて通行人を誘う。麻薬を購入することももちろん可能だ。――もっとも、そのような光景は、インヤンガイであるならばどこでも目にするものなのだが。 リュオンは先ほどまで人相の悪い男と対峙していた。男は界隈を根城とするマフィアの一端に属する者であり、いわゆる情報を売買している。その男がリュオンに持ってきた情報を耳にした後、リュオンは店内の入り口近いカウンターに頬杖をついて、私用の小さなパソコンの画面を見るともなく見つめていた。 配線屋が、もう丸二日、戻って来ないのだという。 もちろん、失踪という現象自体は珍しいことでもない。自ら行方をくらます者もいれば、何らかのトラブルに巻き込まれた上での失踪を遂げる者もザラにいる。が、配線屋の場合は少し事情が異なるというのだ。 龍活劇場。封箱地区の一郭にある、小さな劇場の名前だ。かつてはジンジュウと呼ばれる一行が訪れ、その劇場で華やかな夢を演目してみせていたのだが、今はもう踏み入る者すらまばらな廃墟と化してしまっている。先だってはその劇場内で事件が生じたりもしていた。その事件以降はいよいよ忌諱される場所となってしまったのだ。 配線屋は工事のために渋々ながら龍活劇場に足を踏み入れ、そしてそのまま出て来なくなってしまった。同じような形で龍活劇場に入り、そのまま戻ってこなくなった者は配線屋で三人目になる。 『暗房(アンフォン)』。そう呼ばれる空間が、劇場奥に広がったのだ。人々は口々にそう喚きたてる。ロストナンバーならば“暴霊域”という名称で呼ぶであろうその空間の中に踏み入り迷うと、ついには囚われてしまい永遠に出て来る術を失ってしまうのだという。 暗房内には『影魂(ジンワン)』という魔物たちがいる。影魂は打ち捨てられた物に悪霊がとり憑き自ら可動するようになってしまったモノを言う。彼らは知能と呼べるものを持たず、ゆえに外部からの来客を闇雲に攻撃してくるのだ。また、攻撃パターンも非常に少ないとされている。例えば古本が影魂になってしまったものならば、燃やしてしまえば手っ取り早く滅することができる。あるいは水で濡らせば動きを鈍らせることもできるらしい。……もっとも、それらは末尾に“らしい”が付き纏う、とても不確かな情報でもあるのだけれど。 「思ったんだけど」 カウンターから少し離れた位置にイスを置き腰かけていたユエがリュオンに声をかけた。リュオンは視線だけをユエに移し、瞬きだけで肯く。「もしかしたら、変飛(ビンフェイ)になってしまったんじゃないのかな」「配線屋がか?」「配線屋さんの前に入っていった人たちが、よ。配線屋さんはまだ二日しか経ってないもの」 言われ、リュオンは小さな息をつく。 配線屋の前に劇場に入っていったのは剥きエビ屋の親父、それにヤカン売りだっただろうか。剥きエビ屋の親父は「自分には魔を退ける力がある」などと嘯き、劇場の中に入って行ったのだ。以前に劇場内の怪異は収められているというのにも関わらず、彼は耳を貸さずに勇んで行った。結果、いまだに戻らない。ヤカン売りは剥きエビ屋の親父と親しく、もしかすると劇場のどこかに隠れているのかもしれないと言って追いかけていった。いずれにせよ、二人が消えたのはもう半月も前のことだ。二人が仮に暗房に囚われてしまったのだとするならば、影魂に殺されてしまったか、あるいは、ユエの言うように、“変飛”になってしまっているのかもしれない。「……ねえ。前にさ、いろいろと助けてくれた人たち、いるじゃない。あの人たちさ……また助けに来てくれたりしないかな?」 イスを軋ませながらユエが呟く。 リュオンは頬杖をついたまま、視線をパソコンの画面に戻してため息をついた。
世界司書から依頼を請けインヤンガイに足を運んだのは四人だった。軽い挨拶を口にしつつ皆の身体のあちこちを撫で回した男は、封箱地区に足を踏み入れるとすぐに路地の向こうに姿を消した。もう一人の男は半ば駆け足気味に龍活劇場に向かっていった。気がつけば、残ったのはアカカンガルーを連れた銀髪の少女だけとなっていた。 生活排水を吐き出すパイプ、その影響か、あるいはパイプが這う狭い路面に住まう住人達によるものなのかは判然としないが、いずれにせよ辺りには鼻をつく異臭が漂っている。それに紛れ鼻先をかすめるのはどこから流れてくるものとも知れない食卓の気配だ。粗末な箱を縦に細長く積み上げただけのようにも見える建物の中には、まぎれもなく何者かが住んでいるのだろう。 ヴェロニカ・アクロイドはさらさらと風に踊る銀髪を背中に流し、小さな身体には不釣合いな大きいリュックを背負っている。今のヴェロニカは九歳の子どもの姿をしているのだ。ひらひらとひらめく金色の眼差しで炉辺のあちこちを確かめる。路上に直接腰を落とした、生気の感じられない、年齢すらも定かではないような人間たちが、監視するかのような眼差しを無遠慮に寄せてきている。ヴェロニカは居心地の悪さに頬を膨らませたが、耳に触れた声で、彼らはルークに注視しているのだと知った。 ルークはアカカンガルーの姿をした獣人だ。彼は言語を解し、もちろん話すことも出来る。見目からはイメージし辛いが、口調はとても穏やかな好青年なのだ。が、どうあっても外貌はカンガルーにしか見えない。ロストナンバーが相対するのならば良いのだろうが、そうではない者が“言語を操るカンガルー”を目の当たりにすれば大騒ぎになってしまうだろう。――もっとも、カンガルーが街中を闊歩している時点で、充分すぎるほどの注目を寄せてしまっているのだが。 ルークは二メートル近い体長を誇っている。強靭な脚力は、三メートルもの高さの壁を悠々と越えることの出来るハイジャンプやキックを生み出すことができるのだ。むろん、本来であればさほど時間を要さずに、龍活劇場に辿り着くことも可能だろう。だが今は小さな少女の姿をしたヴェロニカと連れ立っている。治安の悪いインヤンガイの街中に彼女を一人にすれば、もしかすると何らかの犯罪に巻き込まれてしまうかもしれない。 足をとめて肩越しに振り向くルークの視線を見つめ、ヴェロニカは頬をゆるめて駆け出した。世界司書が依頼内容を説明していた時、ヴェロニカは退屈して司書の部屋の中を見回していた。寝起きだった。低血圧ゆえに思考力の落ちていた頭では、司書の話す内容など半分も飲み込むことはできなかった。ただ、どこかに向かい人を探すだけの簡単なものであるらしいことだけは理解できた。簡単なものならば難しく考えることもない。話し相手になってくれたルークは穏やかで優しい少年だったし、軽い遠足気分で向かえばいいのだろうと、その程度にしか考えていなかったのだ。リュックにはチョコレートやスナック菓子など多様なおやつを入れている。水筒には温かなココアを入れているし、足を休める際に使うクッションはふわふわのお気に入りのものだ。――リュックの一番底には一回分の血液パックも収められている。軽い遠足には不要かもしれないが、一応のために真鍮製の杭も二本、護身用に持ってきた。とりあえずは居心地の悪いこの場所を脱し、早く目的の場所に着いておやつを食べたい。考えながら、ヴェロニカはルークの脚に抱きつき、身丈のまるで違うルークの穏やかな双眸を仰ぎ見た。ルークもまたヴェロニカを見つめて微笑み返した。 エイブラム・レイセンは封箱地区に着くと同時に一人電脳中心を目指した。司書が言うには、この地区で起きている事件には大抵ユエという少女が絡んでいるらしい。ユエは電脳中心という店に頻度高く出入りしているようだし、彼女から情報を引き出すならば電脳中心に足を運ぶのが早いように思えたのだ。何より、名称から察するに、その店が電脳、すなわちインターネットに通じるようなものに関わる環境を揃えている可能性も高い。 暴霊域――この近辺では暗房というのだったか。その中から戻ってきていない三名の中には配線屋が含まれているという。配線屋が立ち入るという事は、内部に電気が通っているという事だ。配線屋がどの辺までの作業を進めてくれたか、あるいは進めてくれているのか、調べてみないことには見当もつかない。 派手な電飾で飾られた看板を掲げたドアを押し開ける。エイブラムを出迎えたのは数台のゲーム筐体と、それらが放つ賑やかな電子音だった。鉄製のドアを開けてすぐ右手に小さなカウンターがある。広さはざっと十畳分ほどといったところだろうか。決して広くはないが、驚くほど狭いわけでもない。十歳ほどの少年が一台の筺体の前に座っている他には、客らしい者の姿は見当たらない。 エイブラムは右手のカウンターに顔を向けて口角を持ち上げ笑みを浮かべた。 「ここの店主ってアンタで正解か?」 カウンターに片肘をのせ、カウンターの向こうに立つ男の顔を下から覗きこむような体勢を作る。カウンターの横では少女が椅子に腰かけてこちらを窺っていた。 男は怪訝そうに眉をしかめエイブラムの顔を検めていたが、ほどなく「ああ」とうなずき、両腕をカウンターの上に置いて顔を突き出してきた。相対するエイブラムを威圧するかのような格好なのだが、エイブラムはまるで気にする事もなく言葉を続ける。 「暗房から三人戻って来てないんだって? そいつらが今どうしてんのか調べてやるから、とりあえず情報くんねェかな?」 言って、頬をゆるめる。ついで間を開けずに口を開き、ゴーグルで隠された視線を横手へと向けた。眼前に立つ男に比べれば年若い少女。 「アンタがユエちゃん? はじめましてだねェ。俺ちゃん、エイブラムっての。よろしく」 満面の笑みを頬にたたえたままで挨拶を述べる。 「……情報とは」 「そうだなァ。とりあえずは三人の人相、身体情報。体つきがゴツいの細いのあるだろ? あとは劇場の見取り図、これは分かる範囲内のものでいい。あとはパソコンを一台貸し手もらいてえんだけど」 一息にそう告げる。一度言を切って間をあけ、視線を再び男の顔へと戻した。 「それと、この辺ってゴロツキがけっこういやがんのな。ネエちゃんとかがいそうな飲み屋もけっこうあるみてえだし。……どうせこの店もどこぞに属してんだろ?」 喉を鳴らすように笑いながらそう続けたエイブラムを、男は表情を険しくしながらねめつけた。エイブラムはわざとらしく肩をすくめ、詫びの言葉を口にしてからカウンターごしに男の顔を覗き見る。 「暗房内の探索、行方不明になっている三人の捜索、何なら配線工事も請け負ってやるよ。――終わったら、この界隈で一番の娼婦か男娼をまわしてくんねえかな、にいちゃん」 ささやくような口ぶりでそう告げて、男の片腕を軽く叩いた。 ファルファレロ・ロッソは龍活劇場の中に足を踏み入れ、小さなエントランスフロアに足を踏み入れる。光源となるものを持たず、半ば入り口のドアを蹴破らんばかりの勢いで劇場内部に乱入した後、ファルファレロは拳銃を構え持ったまま薄暗い風景を睨み眺めた。 小さく狭そうなカウンターがある。その上に小さなランプがひとつ置かれていた。ランプの灯はだいぶ弱々しいものになっている。頼りなさげなその灯が、しかし、暗闇ばかりが広がる空間を仄かに照らしているのだ。 エントランスからすぐの場所に朽ちて用途をなしそうにない観音開きのドアがある。――数ヶ月ほど前、この劇場内で事件が生じたらしい。その時もやはりロストナンバーたちがここを訪れ、事件を解決に導いたのだという。 人気のない暗闇の中をファルファレロは躊躇することもなく歩き進む。観音開きのドアの向こうには小さな舞台を擁した空間が広がり、舞台脇にある吹き抜けの通路へと続いた。一応のために全箇所を検めてはみたが、当然のように、怪しい箇所などひとつもない。以前にここを訪れたロストナンバーたちも同じように広く確認したはずだ。怪しい箇所があれば、その時点でもう既に解決されているだろう。 ――いや、 思いついて、ファルファレロは口を結んだ。 暴霊域が発生したのがつい最近のことだとすれば、前回ここで事件が生じたときとは異なる点があるはずだ。 もう一度改めて入り口まで戻り、再度隅々までを見渡す。天井には路面と同じくパイプが這い回っている。照明がパイプの間に見え隠れしているが、そのほとんどが壊れていた。 「配線屋が入ってったって言ってたよなァ……。それじゃあ、こん中にゃ電気が通ってるってことにもなるよなァ」 独り言を落としつつ、視線をゆっくり足もとに戻す。治安の悪いこの街で、廃墟とはいえ、電気も通り雨風を凌ぐことの出来る環境にあるこの建物内に、隠れ住まう者の気配がまったくないというのも珍しい。足を踏み入れることも厭われるような場所だということか。 カウンターの上でランプが小さな灯を揺らしている。 何を思うでもなくランプに視線をあてたファルファレロは、か細く、今にも立ち消えてしまいそうな弱々しい光の中に、小さな違和感にも似たものがあるのを目にした。歩み寄り、感じた違和感の正体を検める。――カウンターの後ろに、四角い小さなドアのようなものがあるのが見えた。 「いなくなったのはどれもオッサンばかりだな」 心底つまらなそうに眉をしかめながらエイブラムはため息を吐いた。 電脳中心の店主リュオンが見せてくれた数枚の写真は、いずれも龍活劇場から続く暗房内に足を踏み入れ戻ってきていない“剥きエビ屋”“ヤカン売り”“配線屋”に関するものだ。写りも悪く、三人の顔は少しぼやけている。が、彼らの人相を確認するには充分なものだった。かろうじて配線屋は比較的若年なのかもしれないが、エイブラムの食指の動くような外貌ではなかった。 ゲームに勤しんでいた子どもが視線を持ち上げ、エイブラムの顔を見つめる。「剥きエビ屋の子どもだ」リュオンがエイブラムに耳打ちをした。子どもは、見たところ十歳ぐらいだろうか。表情のない顔をゲーム台ごしにこちらに向け、まっすぐエイブラムを見つめている。エイブラムは少年の視線を受けて頬をゆるめ、小さく手を振ってみせた。 「そんで? 劇場内の見取り図なんかはあんの?」 手を振りながらリュオンに問いかける。リュオンは一枚のディスクを手にとって首をかしげた。 「配線屋が持っていたものらしい。一応確認はしてみたが、入っているデータは一つだけだった」 「劇場内部の見取り図か?」 訊ねると、リュオンは応えるかわりに小さくうなずく。エイブラムはリュオンの手からディスクを受け取ると視界に映るものを端から検めた。 「電脳中心って看板掲げるぐらいだ、パソコンぐらいあるんだろ?」 「一階はゲームフロアだ。二階に置いてある。……満足してもらえるような物ではないかもしれないがな」 「二階だな? ちょっと借りるぜ」 言い置いてフロアを奥へと歩み進む。 剥きエビ屋の子どもは無表情な顔のまま、ただじっとエイブラムを見たままだ。 「アンタの父ちゃんも探してやるよ」 すれ違う瞬間に声をかけてみたが、子どもは口を結んだまま、二階フロアに続く階段をのぼるエイブラムを見送るだけだった。 廃墟というに相応しい建物の入り口をくぐる時には、ヴェロニカはあからさまに不機嫌な顔を満面に浮かべていた。ルークがそれを宥めながら“龍活劇場”と書かれた看板の脇をすり抜けて劇場内部へと足を踏み入れる。 「真っ暗じゃないか!」 ルークの足に抱きつきつつ、ヴェロニカが声をあげた。「私、ランプとか持って来てないぞ!」 「まっくら……っていうわけでもないよ、だいじょうぶ」 ヴェロニカの頭を軽く撫でながら、ルークはふとヴェロニカのリュックに目を向けた。小さな身体に不釣合いな、ぎゅうぎゅうに詰まった大きなリュックだ。 「リュック、何を持ってきたの?」 「ん?」 劇場内部を見渡していたヴェロニカは、ルークの言葉に顔を持ち上げて首をかしげる。 「おやつだが?」 「え、おやつ?」 「そう。見てみるか? いっぱい持ってきたからルークにもくれてやる」 言いながらルークの足を離れリュックをおろし、おもむろにおかしや水筒を取り出して広げる。スナック類やチョコレート類など、確かに多彩に用意されていた。 「な?」 ドヤ顔でこちらを見上げて笑うヴェロニカにうなずいて、ルークは改めて劇場の中を見渡してみる。 小さなカウンターの上に、今にも灯の消えそうなランプがひとつ置かれている。それが落とす光のおかげで、内部はかろうじて“真っ暗”にはならずにすんでいるのだろう。視界も暗さに馴染んできたようだ。うっすらと周囲の様子を確認することも出来るようになってきた。 両手で包み込むようにして水筒を持ち、ココアを飲み始めたヴェロニカを横目に、ルークは、ふと、カウンターの上で揺れるランプの灯の奥に見える違和感を見つめて目を瞬かせる。 「ヴェロニカ。あれ、見て」 言いながらカウンターの向こうを示した。ヴェロニカの視線もそちらに向けられる。 「? あれ、何だ? 小さいけど……ドア?」 薄闇の中、ヴェロニカは目をこらしながら数歩歩み進めた。 カウンターの裏にあたる壁に、半間分ほどの大きさのドアがある。 「音がするんだ、あの中から」 ――確かに、小さなドアの向こうで物音がしていた。否、それは物音と言うよりは 「これ、銃声じゃないのか!?」 言うがはやいか、ヴェロニカは床に置いたリュックもそのままに駆け出していた。しかし両手にはココアを入れた水筒を大事に持ったままだ。少なくとも、戦闘態勢をとろうという気概があるわけではないらしい。 ルークはヴェロニカのリュックを拾い持ち、「待ってヴェロニカ、危ないよ」と言いながら一歩を踏み出した。次の瞬間、劇場内部に金属を叩いたような鈍い音と「ぎゅいい!」という小さな呻き声が響く。ヴェロニカが驚いて振り向くと、そこには頭を抱えうずくまるルークの姿があった。――ルークはカンガルーだ。つまり移動する際にはぴょんぴょんと跳躍することになる。二メートル近い体長、跳躍力も高い。くわえて、天井の高さはもちろんルークの跳躍力に対応してなどいないのだ。ごく普通に跳躍をしてしまったルークは見事に天井に激突してしまったのだった。 カウンターの後ろにあった小さなドアをくぐりぬけた先にあった細長い階段を下りて行くと、そこには無機質な空間が広がっていた。コンクリートをうちっぱなしにしただけの、一見すれば地下などに作られる広い駐車場や、あるいは着工されかけたまま途中で放棄された建築物のような場所だ。人が三人は並んで歩けるであろう幅をもった通路、その脇には壁が続いている。壁の中には大小様々な部屋、あるいは通路や階段があった。天井の高さは龍活劇場のそれよりは高く、しかし同じようにパイプが無尽に這いまわっている。壁の向こうに繋がる穴は吹き抜けのものもあれば鉄製のドアがついているところもあり、あるいは鉄格子がついているものもあった。ドアは施錠されているもの、されていないものとある。一つ一つ確認しながら、ファルファレロは躊躇することなく通路を歩き進む。 薄暗さにも視界は随分と馴染んだようだ。どの辺に何があるのかがはっきりと見てとれる。どうしても見えにくい場所があれば、その時は銃弾を放てば弾道が刹那その場を照らしてくれた。 空気が澱んでいる。重々しく、息苦しい。ファルファレロは舌打ちをしながら天井を睨む。 「辛気くせえ場所だな。暗ェし、迷路みてェに入り組んでやがるしよ」 睨みあげる天井には照明らしいものがついている。劇場で見たそれとは違い、壊れてはいないようだ。――照明があるということは、この中にも電気は通っているということか。ランプが置かれてあったということを考えれば、配線屋もこの中に踏み入ってきているのかもしれない。考えながら、ファルファレロは目についたドアに手を伸ばす。ヒヤリとした感触が掌に伝わった。 相対したものは想像以上に型番の古いパソコンだった。ネットワークには一応繋がるようだが、それにしても信じられないほどに動作が遅い。エイブラムは、始めこそ日頃触れることのない低スペックのそれを楽しんでいたが、すぐに飽きてしまい、終いには苛立ちを覚え、眉間にしわを寄せて舌打ちをした。この程度のもので繋ぐことの出来るネットワークなど知れている。店主はこの程度のもので満足しているのだろうか? ――いや、カウンターの上に私物と思われるものが置かれていた。おそらくはこれらとは段違いのものなのだろう。 襟足から伸びるコードを伸ばし、ネットワークに繋ぐ。思った通りのしみったれた性能だ。 「ちょっといじらせてもらうぜ」 誰に向けるものでもない言葉を吐き、次の瞬間、エイブラムの意識はネットワークの内部に紛れこんでいた。正確にはいくつかに分割した意識の内の一つなのだが、いずれにせよ、エイブラムの意識はネットワークの波の中にある。 「垢抜けねえ田舎娘も、磨けば見違えるもんさ」 舌なめずりをして頬をゆるめた。 小さなドアを抜けた先に広がった空間の中を歩き進めていたルークとヴェロニカは、途中、奇妙なものと対峙した。端が欠けた茶碗だ。茶碗に細い手足がはえているのだ。それが吹き抜けとなっている壁の向こうから走り出てきて二人を威嚇したのだった。陶器が擦れるような音を鳴らしている。 しばらくの間呆気にとられていた二人だったが、ほどなくしてヴェロニカが歩み出てしゃがみ、手足のはえた茶碗をしげしげと見つめだした。真鍮の杭を手にして先端でつついてみようとすると、茶碗は一層甲高い音を鳴らし、その後に火柱を噴出してきたのだった。火柱は思ったよりも大きく、ヴェロニカの顔のすぐ真ん前にまで達した。 結果からすればルークによって茶碗は破壊された。トラベルギア「サザンクロス」を装着したことにより一層強靭さを増した足で踏み潰すと、奇妙な茶碗はあっさりと消滅したのだった。 「もしかして、これが“影魂”ってやつかな」 ルークの言にヴェロニカもうなずく。 「茶碗が動くとかヘンだよな」 一応の説明は世界司書から聞いてきた。だが司書も直接目にしたわけではないのだ。当然ながら情報は薄い。 「変飛っていうのはどんなだと思う?」 続けて口を開いたヴェロニカにルークは首をかしげる。 「なんか、字面からすれば飛びそうだけどな」 独り言のように続けたヴェロニカの視界に、今度は歩く本が映りこんだ。さらにその向こうには糸のほつれた人形がいる。 ヴェロニカは水筒を口に運ぶ。それを庇うような体勢をとり、ルークはカイザーナックルを装着した両手を構えた。じりじりと距離をとりながら移動する二人の耳をつんざくように銃声がとどろいたのは、そのすぐ後だった。 「ノロノロしてんじゃねえぞ」 トラベルギアである拳銃を構え持ち、ファルファレロはヴェロニカとルークを睨めつける。二体の影魂は五芒星の魔方陣に囲まれて消滅していくところだった。 「……ったく、しけた場所だぜ。ポルノ本の一冊ぐれぇ落ちていれば少しは楽しめんのによ。……一緒の連中も、こんなガキと動物じゃあな」 「私も一応、年頃のレディなんだけどな」 舌打ちをしつつ吐き出したファルファレロに、ヴェロニカがチョコレートをかじりつつのらりとこぼした。ファルファレロはヴェロニカのぼやきを耳にしたのかしていないのか、再び現れた別の影魂に向かい銃口を向けている。 「どうでもいいけどな、俺ァひとまず動くもんがあれば片っ端から潰していくからな」 言いながら、横手にあるドアを蹴り破る。施錠の有無などファルファレロにはさしたる問題ではないようだ。 ――と、蹴り破り開けたドアの向こう、ファルファレロは目にしたものを食い入り眺めるようにして眉を寄せる。次いで、ドアの向こうからもうもうとたちこめる湯気が溢れ出てきた。 「な、なんだい、これ!?」 ルークがファルファレロの横に向かう。ドアの向こうを覗きこみ、文字通り目を丸くした。―-―がらんと広がる部屋の中、大きなヤカンが一つだけ置かれていた。湯気はヤカンから発せられていたのだ。コンロ台も何もないのにも関わらず、ヤカンはしゅんしゅんと音をたてている。 ヴェロニカも同じように部屋の中から漏れ出る湯気を見やってはいたが、ファルファレロやルークのような態度を浮かべるでもなく、リュックにしまってあったクッションを取り出して腰を落とし、スナック菓子の封を開けながら視線だけを横に向けた。 湯呑みがいる。手足を持った湯呑みが右に左に跳ね回りながら少しずつこちらに近付いてきている。ヴェロニカは、それでもさほど関心を向けるでもなく、ルークたちを呼ぼうとして視線を移した。が、ルークたちは部屋の中に踏み入ってしまっていた。視線を再び湯呑みの姿をした影魂に向ける。――そこには影魂と連れ立ち、大きなエビが立っていた。 否、正しく言うならば、エビの顔を持った人間、とでもいうのだろうか? 首から下はかろうじて人間と思しき姿態をしている。 「……なんだ? お菓子わけてほしいのか?」 クッションに腰落としたまま、ヴェロニカはエビ人間の顔を仰ぎ見る。生臭い臭気が鼻先をかすめ、思わず表情を歪めた。 「おまえ、すごい臭いだな。お菓子がマズくなりそうだし、とっととどこかに消えてくれないかな」 通じるかどうかも分からないが、一応のために声をかけてみる。その瞬間、エビ人間は弾かれたように跳ね上がり、両手を大きく広げてヴェロニカに襲いかかろうとした。ヴェロニカは面倒くさげに頬を膨らませ、取り出した杭を構えて大きく振るう。 杭がエビ人間に届くか届かないかという距離にまで達したとき、しかし、エビ人間の動きが唐突に止まった。停止ボタンを押した静止画面のように、空中でピタリと動きを止めたのだ。 「お嬢ちゃん、怪我はないか?」 現れたのはエイブラムだ。エイブラムは満面に笑みをたたえ、指先からは細い糸のようなものを伸ばしている。糸はエビ人間の全身を絡めとり、それによって自由を制しているのだ。 「……まあな」 ヴェロニカは構え持った杭を一度検めた後、首をすくめて床に置いた。 「どうでもいいけど、それ、はやくどこかに連れてってくんないかな。……おやつにしたいんだけど」 蒸気を放出するヤカンには人間のものと思しき“目”があった。影魂とは異なり、手足となるものはない。ヤカンは両目をぐるぐると動かし、ルークとファルファレロの顔を見つめた後に数度ばかり瞬きをした。 「これ……これも影魂かな?」 ルークが独り言のように呟くと、ファルファレロは大仰に肩をすくめてから首をかしげる。 「さあな。あいつらと違って、こいつには敵意みてぇなのはねえみたいだけどな」 言って、躊躇いもなく銃口をヤカンの両目の真ん中に向けた。 「バケモンだってことには違いねえんだろ?」 半笑い気味に口角を吊り上げて続ける。 「いや、もしかしたら失踪した三人のうちの一人かもしれないし」 あわあわと両手を振りヤカンの前に身を躍らせたルークに、ファロファレロは苦々しい表情を浮かべて舌打ちをする。 「俺ァかまわねぇぜ、てめぇごとそいつをぶっ殺してもな」 「それは困るよ。おれまだ死にたくないし。でも敵意はないみたいなんだし、確認してからにしようよ」 両手を広げてかぶりを振るルークの後ろでは、ヤカンが蒸気を放出していた。 と、その時だ。 「変飛、っていうらしいな」 エイブラムの声と同時、それまでは薄闇に支配されていた周辺が、突如明るさを得たのだ。驚き、声の主を検めたルークは、人間の身体にエビの頭を持った奇妙な何かを目にとめてさらに驚いた。 照明が点いている。エイブラムが電脳中心のネットワークを介して侵入し、電気系統の修繕を済ませていたのだ。 「そいつが“ヤカン売り”か。あーあ、文字通りのヤカンになっちまって」 壁に背を預けた格好のエイブラムがニヤニヤと笑っている。ファルファレロは眉をしかめてエイブラムを睨みつけ、ついでエビ人間とヤカンの姿を順に確かめた。 「こいつ――もとは剥きエビ屋だったらしいんだけどな。こいつから話を聞いたのさ。この暗房の中に長くいると、ココをやられちまうんだとよ。しかもここは暴霊域だ。場の力が作用するんだろうな。自分が一番慣れ親しんでいたモノに変身しちまうんだと」 ファルファレロの視線など気にとめることもなく、エイブラムはそう続けてから数歩前に歩みだす。 「いやぁ、あんたたちに発信機しこませてもらってよかったよ。迷子になられちまったら、ミイラ取りがなんとやらってな」 言いながらファルファレロの肩を叩いた。細い糸をつまみあげて、これみよがしに見せ付ける。ファルファレロは苦々しい顔でエイブラムの手を振り払い、エビ人間に視線を投げた。 「配線屋の居場所も捜すんだろうが」 吐き出して、連れているセクタンに探索を命じる。バンビーナと名付けられたセクタンは主の命を受けるとすぐさま飛び立った。 配線屋は暗房の中にある部屋の一つに身を潜めていた。いわく、龍活劇場に配線工事に踏み入った折、偶然に暗房にも踏み入ってしまったらしい。まだ日が浅かったためか、彼はまだ人間の姿を保っていた。 「劇場に地下はないはずなんだよな。設計図は確認したし、全部頭ん中に入ってる。カウンターの後ろにドアなんてもんはついてねえはずなんだ」 エイブラムが言う。 「どうでもいいけど、つまんない場所だな。帰っておやつにしよう、ルーク」 ヴェロニカはルークの顔を仰ぎ見て笑い、いち早く劇場を出て行った。ルークはヴェロニカの背を見送った後、エイブラムとファルファレロの顔も見つめ、首をかしげてからヴェロニカの後を追う。残されたファルファレロはエイブラムのにやけた顔を一瞥してから、カウンターを蹴り上げて劇場を後にした。 ヤカン売りと剥きエビ屋は、もう暗房の外に出ることはできない。エイブラムの糸の力を借りて正気を取り戻した剥きエビ屋も、いずれはヤカン売りのように物言うことも出来なくなってしまうのだろう。配線屋を無事に戻せただけでも良しとするべきなのだろうか。 配線屋の仕事を手伝い、劇場内部の電気系統も修繕し終えたエイブラムは、最後にパチリと指を鳴らす。 暗房内部にも電気は通してきた。一通り歩いた場所の数箇所にはネットワークに繋ぐ簡易的な設備も設置してきた。これで、万が一に暗房内に何者かが立ち入り道に迷ってしまった場合には、その設備を通じて外部――電脳中心に連絡をとることが可能だ。 エイブラムの指が鳴ると同時に、劇場の中の電気がすべて一度に立ち消えた。おそらくは暗房の中の電気も消えただろう。 「さてと、報酬、報酬」 歌うように呟いて、エイブラムもまた劇場を後にした。
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