柔らかな絨毯に足が埋まる。 静かで上品な音楽が、自己主張しすぎないボリュームでゆったりと流れている。 隣の温室では、色鮮やかな小鳥が熱帯の空気の中を飛んでいくのが見える。眼を射るほど強く濃い緑の植物たちが、偽りの天へ向かって聳え立つように枝を、葉を伸ばし生い茂る。 「別世界、って感じだな」 エイブラム・レイセンはかすかな笑みとともに天井を見上げ、その異様なまでの高さに呆れた。値踏みするような色彩が、銀の眼をかすめる。 が、その、少々皮肉っぽい表情も、 「あ、おーい、こっちだよエイブラム。チェックイン済ませたし、自由に過ごしていいってさ」 フロントから蓮見沢 理比古の声がかかったとたん崩れ、エイブラムは満面の笑みになった。 「やー、嬉しいな、アヤちゃんのお誘いなんて。俺ちゃん感激ー」 いそいそと歩み寄り、ごくごく自然な動作で肩を抱くエイブラムに、理比古がやわらかい笑みを向ける。 この、華奢でどこか幼い印象の青年が、実はエイブラムより十以上年上だなどと、いったい誰が信じてくれるだろうか。 とはいえ、守備範囲が異様に広く、可愛いと感じられたらOK、というエイブラムにしてみれば、年齢などは特に関係がない。いつものお邪魔虫こと付き人の男もいないことだし、脳内はちょっと人様には言えない妄想でいっぱいである。 「壷中天でお世話になったからね。ちょうど、異世界のアミューズメントがどんなものか調べたいっていうのもあったし」 「えー、俺ってついで?」 「んー、どっちかっていうと、調べるほうがついで? こういうご時勢だからね、新事業開拓とか一族が張り切ってて」 「ふーん……? ま、いいや。荷物は部屋に置いときゃいい?」 「うん。レストランでランチの予約してあるから、とりあえず食べに行こうよ。エイブラムのために刺激物のフルコースを頼んでおいたからお楽しみに」 「おっマジで? それは楽しみだな」 従業員に恭しく先導され、ふかふかの絨毯を踏み締めて今日の宿へ向かう。相当いい部屋を取ったようで、エスカレーターはぐんぐん上層階へと上がっていく。 辿り着いた先は最上階のスイート、見上げればクリスタルガラスが燦然と輝く豪奢なライト。内装からも調度からも、その他の他愛ない小物に至るまで、手抜きも安っぽさも一切存在しない、真の豪奢さが見て取れる。 「アヤちゃん、確かここってこの辺り一のリゾートホテルなんだよな? これ、結構したんじゃ……?」 「うん? まあでも、お礼だし?」 実はかなりの名家の出という理比古は、特に頓着するでもなく、ごくごく自然な動作で部屋に踏み込み、無造作に少ない荷を置いた。 「……ここだけ見たら、インヤンガイなんて判らないだろうな。壱番世界もそうだけど、格差が物凄くはっきりしたところなんだね、ここは」 「俺もそれ思った。要するに、あるところにはある、ってことだよな」 明日の食にも困る人々と、有り余る娯楽に興じる人々。 どちらの、何が正しいというものではないが、理不尽な壁の存在を感じるのもまた事実ではある。 「ま、来たからには楽しまなくちゃね。とりあえずご飯にして、それから泳ぎに行こうよ。南国をイメージしたすっごく大きいプールがあるらしいよ。あ、スパでゆっくり、っていうのも悪くないけど!」 * * * * * 「なあなあアヤちゃん、俺、『はいあーん』ってしてほしいなー」 「ん? そうなの?」 戻した干水貝を刻んだ茎山葵で和えたもの、特大海老の老酒煮、鴨肉のペッパーロースト、唐辛子と豚肉の煮込み、激辛の肉豆腐、微塵切りにした赤唐辛子がこれでもかというほど入った餡かけ炒飯、温野菜サラダにライムと生の青唐辛子をたっぷり加えたドレッシングを添えて。 理比古がエイブラムのためにチョイスした刺激物フルコースは、しかし、一流レストランの手にかかるとどれもこれもが素晴らしい味わいとなった。乱暴なまでの辛さを持つ唐辛子を使いながら、何故か上品に仕上がっている。 「んー、美味い。雑味の多い辛味も好きだけど、こういう、一本筋のとおった辛さも悪くねぇな」 「うん、辛いんだけど、あとひく美味しさっていうか。気に入ってもらえたみたいでよかった」 おっとりと笑う理比古は、流麗で上品な箸さばきで――そのくせ素晴らしく旺盛な食欲で、次々と目の前の皿を空にしていく。 「……アヤちゃんて見かけのわりによく食うよな」 「うん、燃費悪いからね、俺」 青梗菜と干し貝柱の煮込みを咀嚼する理比古はとても幸せそうだ。 「食べ終わったらどうする? プール? スパ? ゆっくりするなら温室もいいよね」 「プールかスパならアヤちゃんの生肌が拝めるわけか……うーん、どっちがいいかな……」 「ん? 何か言った、エイブラム?」 「いや、何でも? うん、せっかくだしその南国風プールっての、行ってみるか」 「うん、じゃあスパは夜に行こう」 「お、一挙両得」 自分の欲求に忠実すぎるエイブラムと気づいていない理比古、若干不毛というかお付きの男が見たらやきもきしそうな会話を交わしつつも、仲良く昼食を平らげて、次なるお楽しみへと出かけていくのだった。 * * * * * スイムウェアに着替えてさあ泳ごうか、となったところでホテル全体を激しい震動が襲った。 客が不安げに周囲を見やる中、先ほどまでほどよい暑さと湿度に保たれていたはずのプールが、嫌な重さを伴った冷気に包まれていき、理比古は素肌の上にパーカーをまとう。 照明がちかちか瞬いたかと思うとパッと消え、辺りは非常灯の仄かな明かりだけの薄暗い空間に落ちる。 どこかで女性の悲鳴が上がった。 「……なんだろ。エイブラム、判る?」 「今調査中……ん? ホテル全体か、これ。でも、金持ちを狙った武装集団の襲撃……って感じじゃねぇな」 「どういうこと?」 「色んな系統を一気に制圧してる割にゃ生命反応がねーのよ」 「ってことは、つまり、」 言いかけたところで、再び盛大な震動。 床が跳ね上がるようなそれに、客がバランスを崩して転ぶ。 おおおおおおぉおぉんんん。 ホテル全体が鳴動し、非常灯の光が届かない、濃い闇の中から生々しい肉色の触手がずるりとあふれ出した。 それらは、血管めいた不気味な拍動を繰り返しながら、軟体動物の動きで人間を捕らえようとする。 あちこちで金切り声。 「暴霊……か。ホテルに何か、恨みでもあるのかな?」 「その辺は判らねぇけど……俺様とアヤちゃんの楽しいひと時を邪魔するなんざいい度胸だ、あの触手全部ブッ千切ってテメェの口ン中に放り込んでやるぜ……!」 妄想欲望願望入り混じった『お楽しみ』を邪魔されたエイブラムはご立腹だ。 「規模のでかい暴霊みたいだな、全体を自領域化してやがる」 「それもしかしてそいつを斃さなきゃ皆出られないとかそういう……?」 「ご明察。ホテル全体を薄い膜みたいなモンが覆ってる所為で、出るのも入るのも不可能だ。このまま放っときゃ、全員こいつに消化されちまうかもしれねぇな」 「ああ、それは困るな。とっておきのチョコレート、食べずに来ちゃったのに」 「アヤちゃんてそういうとこ図太いってか肝が据わってるよなー」 緊迫感に欠ける会話を交わしつつ、ふたりの行動は迅速だった。 理比古が小太刀を引き抜き、発生させた炎で触手を焼き払うと、 「あ、やっぱ持ち込んでるんだな、ギア」 「紳士淑女の嗜みだよね」 「ロストナンバー界の紳士淑女限定だとは思うけどな!」 エイブラムもまた、トラベルギアの右手袋から無数の糸を飛ばし、絡みつかせた触手を電撃で灼いた。怖じたように触手の群れが一瞬退き、その間にふたりは客を救い出す。 「エイブラム、他のお客を安全な場所に避難させるって出来る?」 「安全な場所か……ん、正面ロビーを電撃の結界で覆えばいけるな。ちょいと待ってくれよ、監視システムを支配下に置いて避難誘導するから」 「おー、さすがエイブラム。よっ、男前!」 「興奮するからもっと褒めるといいと思う!」 エイブラムが、監視システムを駆使して正面ロビーへの避難を呼びかけつつ、張り巡らされたケーブルを有効活用して電撃の結界を作成するという二足の草鞋的な作業に従事する中、理比古は素晴らしい身のこなしで湧き出す触手を次々と斬り飛ばし、焼き尽くしていく。 「アヤちゃん体力ねぇだろ、あんま無理すんなよ。まだボス戦が残ってんだし」 「うん、ご飯食べたばっかりだし今のところ大丈夫。でもあの触手見てるとお腹空いてくるなー」 「え、何で」 「たこ焼き食べたい」 「理解は出来るけどスゲーなその食への飽くなき執念」 やはりどうにも緊張感に欠ける会話とともに、触手から客を護りつつ正面ロビーへと撤退する。 一流リゾートホテルだけに従業員の教育が行き届いていたのと、エイブラムの的確な誘導もあって、客と従業員全員の避難が完了するまでそれほど時間はかからなかった。今のところ死者も怪我人も出ていない。 エイブラムがシステムをいじって作成した電撃の結界は、非常電源を使用しているため、支配人曰く発電機が破壊されない限り持ちこたえるだろうとのことだった。 「よし、後顧の憂いもなくなったことだし、さくっとボス戦行きますかー。エイブラム、場所判る?」 「ん、最上階のスイート……ってコレ、俺らの部屋の隣じゃねぇか。暴霊のクセになんでそんなとこ陣取ってやがんだ」 「うーん、なんか未練でもあるのかな?」 電気が止まっているので、最上階までは徒歩である。五十階建てという巨大建造物の最上階を目指す旅が、持久力の低い理比古にとってどれほどの苦行かは特筆する必要もないだろう。 「……アヤちゃん大丈夫か? なんかスゲー汗だけど」 「うん、だいじょ……うぶじゃないかも……」 「暴霊と対峙する前に力尽きてそうだな。背負うか抱くかして行こうか?」 「でもそれだと触手の群れに急襲されたとき対処できないし。まあ……うん、何とかなるよ。たぶん。きっと。……だといいな」 「どんどん不安になってくるんだけど、それ……」 * * * * * エイブラムが蹴り開けたドアの先で、身体が半分透けた男が窓辺から地上を見下ろしている。 冴えない、矮躯で小太り、ちょっと頭髪に不自由した中年の男は、ブランデーのグラスをぎこちない手付きで回しながらニヒルに笑った。 『フッ……贅を尽くした一時の前では、地上の喧騒が何もかも馬鹿らし、』 「この展開で何を寛いでんだよそこの暴霊様は!?」 苛立ち紛れの飛び蹴りがヒットし、暴霊は『げふァ』などという生々しい悲鳴を上げて普通に吹っ飛んだ。転がったグラスが濡れた音を立てて砕け散る。 『クッ……いいパンチだったぜ……』 「しかもツッコミ待ちとかどんだけ暢気で高度な暴霊!? テメェが変な襲撃キメてくれた所為で俺とアヤちゃんのらぶらぶデートが台なしっつーかアヤちゃんが受けた苦しみを思い知れ! 熨斗烏賊みたいになれ!」 生身と同じような手ごたえ、反応のある暴霊が床を転がるのへ追いすがり、機械化した脚でげしげし踏みつける。 『ちょ、潰れる潰れる、真っ平らになる! あっでもちょっと気持ちよくなってきたかも……もっと踏んで女王様!』 「誰が女王様だ、突っ込むとこ多すぎて演算が追いつかねぇわ! つぅかアヤちゃんの弔い合戦だゴラァ! テメェの魂微塵に刻んでやるから覚悟しやがれ!」 「いやいやいや、死んでない死んでないよエイブラム。念のために言っておくけど生きてるからね俺」 「そこは言葉の綾ってやつだ! ――……アヤちゃんだけに!」 「えええ、なんかすっごい巧いこと言ったみたいな顔されてる! 今回は俺のほうがツッコミなの……!?」 徹頭徹尾緊迫感に欠けるやり取りのあと、まだ汗だくの理比古が息を荒らげるエイブラムを羽交い絞めにして暴霊から引き離す。 「どうどう、エイブラム。なんか話の出来そうなヒトだし、力尽くで浄化はちょっと待って」 「俺としてはこのまま消滅させたい」 『ああっ、アナタのそんな冷たい瞳も素敵……!』 「あっやっぱパス」 中年暴霊の流し目に寒気を覚えてエイブラムが脚を引く。 「で、えーと……なんでここ襲ったの? 何か恨みでも?」 『襲う? 恨み? 何の?』 「え?」 『死ぬまでに一度、ここに来たいと思って毎日働いていたのに、先日ちょっとした事故で命を落としてしまって』 「はあ」 『……その程度の未練でも暴霊化できるものなんだな、と』 「えーと……要するに、消える前にリゾート楽しんじゃおう的な?」 『そう』 「停電とか触手は? あれ皆滅茶苦茶怖がってたよ?」 『それは申し訳ないことをした。ちょっと静かにしてほしいと思ったら、一部が暴走したようだ。すぐに引っ込める』 事情が判ってみると脱力しか感じない。 「そっか……うん、まあ、確かにあんまり攻撃的じゃないなとは思ってた、んだけど」 「なあアヤちゃん、殴っていい? コイツ殴っていい?」 もう疲れた、とその場に座り込む理比古と、握力500kgの拳を握り締めるエイブラム。 暴霊の男はというと、窓から地上を再度眺め下ろし、 『この風景を独り占め出来ただけで充分だ。これ以上は贅沢というものだろう』 満足げな――本人はたぶんニヒルでカッコいいと思っているであろう――笑みを浮かべた。 『ありがとう、最期に君たちと話せてよかった。道行のよい土産になりそうだ……向こうで、君たちの幸いを祈っている』 芝居がかった仕草で手を振り、ゆっくりと消えていく。 収まらないのはエイブラムだ。 「え、ちょっ、そこ、イイ話でまとめようとすんじゃねぇよ! 俺たちの貴重な時間をどうしてくれやが……ああッ、もう勝手に浄化されてるし!? 待て、やっぱ最後に一発殴らせろオオオオォ!」 地団駄を踏み悶絶する彼を後目に暴霊が消えると同時に、沈黙していたすべての電気が復活し、あっという間にホテルは元通りになる。 ――エイブラムのやるせなさ、プライスレス。 * * * * * 「昨日は酷い目に遭った……けど、まあ、悪くはなかったか」 翌日。 ホテルからの感謝と計らいで豪奢なディナーが出されたり、夜には夜でお楽しみがあったりして、エイブラムの機嫌もどうにか持ち直した。 「うん、俺は楽しかったな」 おっとりと笑った理比古が、ふと気づいたように鞄を探る。 「あ、そうだ、エイブラムに贈り物があったんだ」 「え、なになに? アヤちゃんが俺のために?」 期待感たっぷりに理比古を見つめるエイブラムの目の前に、 「前、欲しいって言ってたよね?」 ――イナゴの佃煮がみっしり詰まった木箱が差し出される。 「!!??」 この世の何よりも虫が嫌いで、身構えていなければ失神するというエイブラムにその衝撃は落雷級だった。 当然、欲しいなどと言った覚えはなく、エイブラムとお付きのしのびの会話を半端に漏れ聞いたことによる理比古の誤解である。 「……あれ? エイブラム?」 その場に立ち尽くしたまま意識を手放したエイブラムを、理比古が不思議そうに見ている。 「おーい、どしたの? イナゴじゃなくてコオロギのほうがよかった? おーい?」 へんじがない、ただのしかばねのようだ。 ――真っ白になって燃え尽きているエイブラムを、従業員が生ゴミにまわしたか粗大ゴミに出したかは、読者諸氏のご想像にお任せする。
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