轟々と嵐が吹き荒ぶ。 天は砕けよと言わんばかりに哭いている。 垂れ込めた暗雲が空を覆い尽くす。雷鳴が鼓膜を叩き、稲妻は地上を終焉の時のごとくに照らし出す。 弾丸めいた雨粒が、立ちすくむ人々を責め立てる。 誰もが苦悩と痛みを張りつけ、そこにいた。 その視線の真ん中に、うずくまる男の姿がある。 「違う、そうじゃない!」 男は、兵士の出で立ちをした青年を抱きかかえている。 青年にはもう、呼吸も鼓動もない。 男の腕に抱かれ、むしろ安堵したように、どこか満足げですらある風情で、青年はこと切れている。青年の身体を、冷たい雨が叩いていく。閉ざされた瞼は、もう二度と開くこともない。 男は、雨と見紛う涙を噴きこぼし、うわ言のように叫んでいる。 「こんなつもりじゃなかった!」 力を失い、ぐったりと横たわる青年を抱きしめ、空を仰ぎ、男は吼える。 立ち尽くす人々は、言葉なく拳を握り締め、こうべを垂れるほか、ないのだった。 雨は、無情にも、もはや動かぬ青年から、最後の熱を奪い去る。 * 地上世界征服の野望に燃える地底世界“オ・バルナリ”から、魔道司祭ディ・シバンが地上へ亡命するに至ったのには理由がある。 ディ・シバンは心優しい理想家だ。 地底世界の平和と繁栄を願い、彼はその偉大なる力でもって『子ども』たちをつくり、生みだした。 人造の子どもらは、強い力を持った兵士となって、“オ・バルナリ”の繁栄のために働いた。 兵士にとって、働くことはすなわち殺すことだ。壊すことであり、殺されることでもある。子どもらは父たるディ・シバンへの愛、兄弟たちの光ある未来のため、身を削って働いた。何人もの兄弟たちが、虚しく命を落とし、存在そのものを抹消されていった。 虚しい連鎖が続く中、ある日ディ・シバンは卒然と悟るのだ。 このままでは、誰も幸せにはなれないと。 地底と地上が争って、世界にいったいどんな未来があるのかと。 そして、その争いに我が子らを――引いては罪なきすべての子どもたち巻き込み、憎悪の連鎖を押し付け続けることに、いったいどんな正しさが、喜びが、光があるのかと。 地上世界を滅ぼし、地上を我がものとするに成功したとして、地上の人々に哀しみを、憎しみを与えた地底人たちは、同じように憎まれ、やがて滅びてゆくことになるだろうとも。 ディ・シバンは懸命に説いた。 憎しみから一歩退き、客観的に先を見据えることこそよりよき未来につながるのではないか、と。 しかし、上層部は耳を貸さぬ。 それどころか、危険思想の持ち主として、ディ・シバンを――祖国のためにあれだけ貢献してきた彼を――排除しようとさえしはじめた。人知れず、何度も命を狙われるに当たって、ディ・シバンは決断し、実行する。 ならば、地上へと逃れ、根気強く協力者を探すしかない。 すべてを理解し合うことは不可能でも、穏やかに、平和に生きたいというその願いにおいて、判り合い譲り合うことは出来るはずだ。 そう信じて、ディ・シバンは地底世界を脱出する。 ――無論、それは半分以上が賭けだった。 地上に理解者が見つけられず、地底からの刺客の前に斃れれば、彼の願いはそこで潰え、すべては無駄になる。 子どもたちのことも気がかりだった。 一般的に、人造兵士は道具である。 ディ・シバンにとっては可愛い子どもたちだが、本来、地底世界において人間扱いはされない。創造者たるディ・シバンがいなくなれば、彼らの扱いはさらに悪くなるだろう。 ディ・シバンは悩んだ。 無垢に、純粋に、まっすぐに自分を慕ってくれる愛しい子どもたち。 彼らを振り捨てるように出てゆくことが許されるのかと苦悩した。 しかし、彼らを連れてゆくことも出来ぬ。 彼らが人造の存在だからという理由ではない。 成功の見込みの低い、危険な『仕事』だ。 無駄死にさせる可能性があると知って、強引に連れだせるはずもない。 志を果たせず彼が死んだとしても、ここに留まっていれば、子どもたちだけはいつか光を見る日もあるかもしれない。そう思うと、危険を犯してでもいっしょに、とは到底言えなかった。 だが、期限は迫りつつある。 じきに、ディ・シバンは完全な反逆者の刻印を押され、追われ殺されることになるだろう。 もはや一刻の猶予もならぬ。 「すまない、アイロ、トウリ、マエラ、セオル、……ナウラ。それでも、私は」 子どもたちひとりひとりの名を呼び、彼はその日、“オ・バルナリ”をあとにした。 地底と地上に融和を、その熱い使命感だけを胸に帯びて。 * ディ・シバンの子どもたちは、父が姿を消した後も、地底世界のため献身的に働いた。 特に、長兄アイロは、使役者や上層部に何を言われても、それがどんなにプライドを殺す任務であっても、どれだけ危険な仕事であっても、口答えひとつせず忠実に励んだ。 いつか人造兵士も認められ、待遇も改善されるだろうと。 そのための礎となるべく、自分たちが働くしかないのだと。 アイロをはじめとした兄弟たちは、父の亡命には理由があると理解し、信じていた。あのやさしい父、自分たちを心から愛してくれた創造者が、私利私欲のために世界を、自分たちを裏切るはずがない、と。 兄弟たちは誓い合った。 いつかまた、必ず父に会おうと。そのために、今は耐えて任務をこなし、人造兵士たちの待遇改善に尽くそうと。 彼らは仲のよい兄弟だった。 彼らをヒトと認めてはくれない人々に虐げられつつ、支え合い、助け合って日々を過ごし、生きた。 それでも、少しずつひずみは積み重なってゆく。 厳しい、危険な任務に投入され、兄弟たちは次々と死んでゆく。 そしてその死は、報われることがない。 長兄アイロが少しずつおかしくなりはじめたのもそのころからだった。 父と兄弟とともに満ち足りた生をいきたい。 愛と理想、差別と現実の齟齬に葛藤し、苦しみ、そのずれを受け入れられず、アイロは人知れず狂っていく。 ――その日も、数名の兄弟たちとともに、アイロは地上へ向かった。兄弟の中にはナウラもいた。その時のナウラは、まだアイロの変質に気づいてはいなかった。 潜伏中、運悪く彼らを目撃した地上人がいた。 彼らは人造の存在だが、ヒトの姿を持っている。 目撃されたから、すぐさま地底世界の者とばれ、騒がれるようなものではない。そもそも人間の記憶ほど曖昧なものはないのだから、速やかにその場から立ち去り、追跡されなければそれでいいのだ。 しかし、アイロは彼らを殺した。 近くを通りすがり、彼らを目にしただけの地上人たちを。 無論兄弟たちは驚愕した。 彼らは、戦時においては優秀な兵士だが、父たるディ・シバンの教えもあって、非戦闘員たる民を殺すために戦ってはいない。特に、父への愛がひときわ深く、父の願いを誰よりも理解していたはずのアイロの行いとは思えない虐殺だった。 「アイロ!?」 一撃で殺し損ねた地上人が必死に命乞いするのへ、アイロは仮面のような無表情でとどめを刺そうとする。 何かがおかしいと気づいた兄弟たちはアイロに組みつき、羽交い絞めにして彼を止めようとした。 「アイロ、どうしたんだ。我々は“虐殺のための道具ではない”、父さんの言葉を忘れたのか!」 しかし、アイロはその兄弟たちさえ手にかけたのだ。 アイロの能力は“全身武器化”。 兄弟たちの中では、もっとも戦闘に特化した能力を持っていたことも、不幸に拍車をかけた。 彼の全身から生えた無数の刃が、至近距離にいた兄弟たちを貫く。咄嗟に防御した兄弟も、目にもとまらぬ速さで動いたアイロの刃によって斜めに斬り下ろされ、驚愕の表情を浮かべたまま斃れた。 返す刃で最後の目撃者を斬り捨てたのち、 「駄目だ」 呆然と立ちすくむナウラと、こと切れた兄弟たちを見下ろして、アイロは哀しげに首を振る。 「君たちがそんなザマでは、お父さんは褒めてくれない」 その時ナウラが殺されなかったのは、ひとえに、ナウラの能力が任務に必要だったからだ。さもなくば、他の兄弟たちといっしょに『任務遂行を阻んだ反逆者』として始末されていたことだろう。 アイロの心が決定的に壊れてしまったことを、ナウラはそこで知ったのだ。 「アイロ……どうして……」 「どうして? お父さんの子どもとして恥じない行いをしなくては。“オ・バルナリ”のために働き、栄えさせる。僕の力で」 「そのために、罪のない人たちを殺して?」 「罪がない? だって彼らは邪魔をしたじゃないか、正しい行いをする僕の。それだけで、死に値する罪だ」 もう、言葉も届かない。 あの時に感じた寒々しい哀しみを、ナウラは今でも克明に思い出すことが出来る。 * ディ・シバンは、幸運にも、平沢明人率いる平沢特別探偵社に保護された。 最近、巷で頻発している失踪事件を調査し、地底世界人とその尖兵の存在に気づいた平沢は、彼らが次に任務を行うと推定される場所を割り出し、ディ・シバンとともに赴いた。 ――そこで、この悲劇は起きた。 もはや正常な意識を欠いたアイロは、父との再会を喜びながらも、父を『任務を妨害する敵』と認識、笑顔で彼に刃を向けたのだ。 「いけない、アイロ!」 父を傷つけてもっとも苦しむのはアイロだ。 それが判るから、ナウラは彼を止めようと戦った。 彼を助けたかった。 父が来てくれた。 なら、きっと、アイロは正気に戻れる。 犯した罪は償って、また以前のように仲のいい兄弟として、家族として暮らせる。 ――しかし。 「アイロ、父さんだ! 父さんが来てくれたんだよ!」 自らの身体を硬化させつくりだした刃を合わせながら、ナウラは必死に呼ばわったが、 「“オ・バルナリ”に反するなら敵だ。僕は父さんと兄弟を護るんだ……僕が、戦わなくては。だから、殺す。君たちを殺して、僕らを認めさせる!」 笑みを絶やさぬアイロが、武器を引くことはなかった。 ディ・シバンが、父がアイロを呼んでいる。 しかしその声も、アイロにはもう、届いていないようだった。 惑い揺れる心に鞭打って、父を、兄の心を護るため、ナウラは戦った。 嵐の吹きすさぶ荒天下にて戦い、結果、命を落としたのはアイロだった。 攻撃力では圧倒的にアイロが上だったが、ナウラには防御力と、土の中でなら地上より素早く動けるという特殊技能があった。何より、兄の心をこれ以上壊したくない、彼にこれ以上罪を重ねてほしくないという、祈りに似た強い決意がナウラにはあった。 すれ違いざまの一撃が明暗を分けた。 アイロの刃はナウラの髪をひと房斬り飛ばしただけ。ナウラの刃は、アイロの胸を正確に貫いていた。 よろめき、膝をつく兄を――ゆっくりと倒れてゆこうとする兄を、ナウラは呆然と呼んだ。 「アイロ」 ナウラを、穏やかな兄の目が見上げる。 駆け寄ったディ・シバンがアイロを抱き起こす。 「お父さん」 悲痛な眼差しで己を見つめる父を見上げてアイロは微笑んだ。 「お父さ、」 ――それが、兄の最期の言葉だった。 父と呼べたことに安堵したように、満足したように、彼は最後の息を吐き、それきり、動かなくなった。 父と兄弟のために。 私心も利己もなく、それだけのために身を、心を削り、壊れていった兄の表情は穏やかで、本当に眠っているようにしか見えない。 ナウラは唇をかみしめ、拳を握り締めた。 篠突く雨は、人々を手ひどく打ち据え、少しずつ体温を奪ってゆく。 そんな中、ディ・シバンは、冷たくなってゆくアイロを抱いたまま、低く呻き続けていた。 「なぜだ。なぜ、どうしてこんなことに」 我が子に刃を向けられる哀しみ、我が子同士が殺し合う哀しみ。それらが、ディ・シバンの心をどれほど傷めたか、想像に難くはない。 しかし、なぜアイロが壊れたか、なにゆえの、この別れであったのか、父は知らなかったのだ。 「こんなことのために、つくったんじゃない……!」 血を吐くような慟哭は、しかしナウラの心をひどく傷つけた。 その時のナウラは、アイロの苦悩、父を慕う子どもたちの思い、それらが彼に通じなかったことが――アイロの根源が理解されなかったことが、ただただ苦しく、辛かった。衝撃が心を打ち据え、ナウラから冷静さを奪い去る。 目の前が赤くなる。 衝撃は激情へ変わり、それは耐え難い衝動になる。ナウラは父に飛びかかった。父の、いくらか小さくなったような――痩せたような気がする身体を押し倒し、 「貴方に、私たちの何が判ったと!」 硬化し、刃化した手を父に突きつける。 ――本当はこのまま殺してしまうつもりだった。 そのくらいの怒りだった。 しかし、どうしても、刃はそれ以上先へは進まなかった。 驚愕の表情をした父が、それでも、抵抗しようとも逃げようとも、弁明を口にしようともしなかったからかもしれない。 父には父の想いがある。 そのことに思い至りつつも、認められなかった。 「二度と顔を見せるな!」 そう叫び、飛び離れるのが精いっぱいだった。 ナウラの、悲鳴のような叫びに、父は大きく目を見開き、哀しげに微笑んだ。 よろよろと立ち上がり、ぐっしょりと濡れそぼった憐れな姿のまま、無言で去ってゆく。その背を平沢が追い、今にも倒れそうな彼を脇から支える。 ナウラはそれを、唇を噛みしめて見送った。 それ以降、彼には会っていない。 * 「……そうか」 村山静夫は静かに頷いた。 「それで?」 ナウラは、白い壁をじっと見つめている。 「アイロが苦しんだように、父には父の苦しみがあった。あの時の私には、それが理解できなかった。ただ、心が、アイロの想いが通じなかったことがつらくて」 「つらくて?」 「……逃げたんだと、今は思う。あっちへ行けと言ったって、私に都合の悪いものが消えてしまうわけではないのに。何より、父が哀しんでいなかったわけでは、断じてなかったのに」 積み重なり、未だ解けぬまま残りつづける後悔。 ああすればよかった、こうすればよかった。こうできていれば、違った道があったのかもしれない。未来を予測することなど、神ならぬ身にかなうはずもない。しかし、悔いはヒトの心を毒し、魂の奥底にわだかまり続ける。 「兄を拘束し、任務を放棄すればよかった。父とも、もっともっと、お互いに話をすればよかった。私たちは、それぞれ、どう頑張ったってお互いにはなれないのだから、理解しようとつとめるべきだった」 ぽつりぽつりと、雨だれのように、朴訥な悔恨の言葉が零れ落ちる。 村山はそれを黙って聞き、ときおり続きを促した。 言葉にして語ることで、ヒトは内面を整理することが出来るという。 語られる過去は哀しみに満ちていたが、ナウラの眼に絶望はない。そこには事実と真実の確認と、静かで強い決意があった。過ちを過ちとして認めつつも、自分なりの最善を進もうという、強い覚悟だ。 「村山、私は」 ああ、と頷き、村山はこの、どうにも純粋な兵士を見やった。 表情豊かに輝く双眸は、ナウラが、確かに愛され、大切にされていたこと、ナウラ自身がそれを深く理解していることを教えてくれる。 ナウラはぎゅっと手を握り締めた。 「いつか必ず、父に伝える。アイロの、兄弟たちの想いを」 「ああ」 「そして、私も聴きたい。父の、私たちへの想いを。彼が私たちのためにどれだけ力を尽くしてくれたか、彼が私たちをどれだけ愛してくれているのか。それを知ったうえで、ちゃんと謝って、感謝したい」 背景を慮ることなく、激情に駆られ父を否定し傷つけた、そのことをずっと、自分が傷ついたことよりもなお深く心に残し、ナウラは後悔しているのだろう。 素直で可愛い、真面目なやつだ、と、村山はひそやかに微笑む。 「確かに聴いた。俺が証人だ……なんて言うつもりはないが、忘れるなよ」 「……もちろんだ」 返る言葉は力強く、 「私は信じる。私の努力によって、道が開けることを。心が通じることを」 朴訥で無垢な真情は、やはり村山を微笑ませる。 「それでいい。そうすりゃ、うまくいくさ」 手を伸ばし、ぐしゃりと髪をかき混ぜる。 鬱陶しいと邪険にされるかと思ったが、ナウラは無言で唇を引き結び、小さくうなずいた。 ああ、まったく、可愛いやつめ。 こみ上げる、温かな笑みを押し留め、村山はナウラに寄り添う。 いずれ訪れるであろう別れ、村山には理解の及ばぬ未来――『その時』を思いながら、ではあったけれど。
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