チョーン、チョーン、と、拍子木の音。「ほう、こいつぁ珍しいな」 村山静夫は足を止めた。 傍らにはナウラ。連れだって、特に目的もなくターミナルの街をそぞろ歩いていたときのことだ。 建物の隙間に、ぽっかりと開けた空地に簡素な遊具が置かれているという壱番世界風の公園だった。「紙芝居屋さん?」「ああ、そうだな。懐かしいもんだ」 自転車の荷台に木箱を据えた男のシルエットが見てとれた。 菓子を買うと紙芝居を見せてくれる紙芝居屋は、壱番世界のニッポンでは昭和のはじめ頃まであった。ちょうどその頃の日本に近しい風俗をもつ村山たちの世界では現役だ。「見ていくか」「えっ」 水を向けられて、ナウラは黙り込み、ふるふるとかぶりを振った。「別に。もう行こう」 紙芝居は子どもが見るもの――自分は子どもではないからべつに興味などないのだ、とナウラは言いたいようだった。背伸びなどせず子どもらしくあればいいのに、と村山は内心で思った。 そんな一幕から、すこし経った日のこと――。「あ」 今度はナウラ一人で歩いていたとき、同じ紙芝居屋を見かけた。正確には同一人かはわからなかったが、こんな時代遅れの商いがそうそうあるとも思えぬ。 ナウラはべつだん恥じることでもないのにきょろきょろとあたりを見回してから、そっと近づいてみた。「いらっしゃい」 紙芝居屋は翁の面で顔を隠している男だった。声や背格好から壮年から初老のあいだとわかる。「いや、私は」 ちょっと物珍しいから近づいただけだという姿勢のナウラへ、男は水飴の瓶を開けながら、「今日は客が少ないからおまけするよ」 と言うのだった。「そんなわけには。払います。幾らですか?」 お代を渡し、水飴を巻いた割り箸を受け取る。 そっと口に含むとやさしい甘さが広がった。 チョーン、チョーン、と、拍子木の音。 小さな木箱の劇場に、ナウラはたちまち引き込まれた。 達者な筆致が描き出すのは、どこか懐かしい街並みの風景だ。 夕暮れの屋敷町や、ひとけのない廃工場。煤煙を吐く煙突。真っ赤な夕日。絹を引き裂くヒロインの悲鳴。銃声。高笑い。バサリと翻る怪人のマント――。(あれ) 見覚えがある。あの外套は………… 紙芝居を食い入るように見つめるナウラ。その瞳が微動だにしない。 いつのまにか、ターミナルも黄昏の色に染まっていた。 はて今日は『夜』が来る日だっただろうか。 遊具の影が、男とナウラの影が、長々と伸びてゆく。 その影法師が、ニンマリと嗤ったような、そんな錯覚があった。 * * *「寝る子は育つって言うが、寝すぎじゃねえか」 公園で発見されたナウラは、穏やかな寝息を立てて眠り続けている。 だが揺すろうが擦ろうが目をさますことはなかった。 村山が図書館の医務室に運び込んで少しした頃、世界司書が村山を呼んだ。「実は、他にも同様の事例が二、三、続いているんだ」 司書――モリーオ・ノルドは言った。「症状としてはいつかのアーカイヴ遺跡の不具合でロストメモリーが昏睡してしまったのと似ているよね。事実、これはなんらかの特殊能力により記憶を奪われたことが原因のようだ」 村山は腕を組む。 それで、と眼で続きを促した。「今回、犯人とおぼしき人物が『導きの書』に浮かんだよ。蛇ノ目玄尉(ジャノメ・ゲンジョウ)と呼ばれているナラゴニアのツーリストだ。彼の目的は不明だがこの行為はむろん見過ごすことはできない。ただ図書館からナラゴニア政府に申し入れて捜査の了承はとれているものの、できればあまり大げさにならずに解決したいんだ」「俺が、ナラゴニアに潜入して“穏便に”ひっとらえてくればいいんだな。そいつは反図書館派ってことか?」「いや、それがそうではないようなんだ。情報では、彼は図書館との融和政策をむしろ歓迎していたというんだね。理由としては故郷の世界に帰れるチャンスができた、と。世界樹旅団は団員の帰還については無頓着だったからね」「ふむ」「そこも含めて調べてほしいんだ。彼は通称『地獄横丁』と呼ばれる地域を根城にしているらしい。ここはいわばナラゴニアの貧民窟。上階層の影になる場所にぎっしりとバラックが立ち並ぶスラム街のようなところだ」「『地獄横丁』ねぇ……」 * * * くっくっくっ――。 集まった、集まった。 どいつもこいつも、胸糞悪い思い出ばかり。だがそれがいい。 嫌な記憶を取ってやるのだから、文句はないだろうさ。 眠り続ければ、嫌な辛い記憶は増えないのだから。 さァ、もうひと踏ん張りだ。 いつか帰れる日がくりゃあ、こうして蓄えたものが、おれの力になるんだからな。 * * * すえた臭いが鼻を衝く。 トタンの壁はぼろぼろで、容易に中を覗くことができる。暮らしぶりは思いのほかひどいようだ。鉄鍋で得体の知れないどろどろとしたものが煮られていた。 無気力に道端に座りこんでいる男たちがいる。 はすっぱな嬌声をあげる女たちがいる。 どこかで子どもが泣く。うるせぇ、殺して喰っちまうぞ!と怒号があがる。 場違いなジンタの音がちぎれてきたりもする。 村山は、そんな町へとつながる、ドブ川の橋の前に立った。 これより先は『地獄横丁』。ナラゴニアの底辺だ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>村山 静夫(csrr3904)ナウラ(cfsd8718)=========
『どーーーん、どーーーん。 砲撃の音が響けば、建物が震える。さァ大変だ、沖合いにあらわれたあの黒金の船は、煉獄博士の実験戦艦バビロンだ。こいつは屹度、孤島の刑務所に収監された博士の身柄を取り戻しにきたに違いない。 忽ち刑務所は非常事態。刑務官たちは手に手に武器をとり、上陸してきた怪人たちの軍団に立ち向かう。 あァ、しかし、まさに絶体絶命。このままでは煉獄博士が逃げ出してしまう! 平沢特別探偵社の探偵たちも、おっとり刀で駆けつける。 そのときだ。 どォーーーん! ひときわ大きな砲撃に、探偵社の面々の生死や如何に!』 「待て!」 ナウラの叫びは、直後に起こった爆発にかき消された。 熱風と粉塵。ざらつく煙を吸い込めば、喉が灼けるようだ。はげしく咳き込みながら、涙のにじむ目を必死に開けて、もうもうと立ち込める煙の向こうをにらみつけた。 風が――海から吹き込む風が、すべてを晴らしてくれた。 破壊された獄の壁。がれきの向こうに不釣合いに青い海と空、そしてその中にぽっかりと開いた地獄の穴、あるいは黒々とした闇そのものような《バビロン》の威容が見えた。 そしてがれきの山のうえに、その姿があった。 猛禽の頭をもつ黒衣の怪人。そいつが肩に煉獄博士を抱え上げ、つめたい瞳をナウラのほうへ向けた。 「逃がさない!」 ナウラは駆けた。 爆風に倒されたのか、それより先に怪人の手にかかったか――途上には平沢探偵社の面々が累々と横たわっていた。生きていてくれ、という願いを今は心の片隅に、ナウラはかれらを飛び越えて怪人へと飛び掛った。 怪人はひらりと身をかわした。長身に、人ひとりを抱えているにしては随分な身軽さだ。 ナウラは勢いあまって、がれきの山の向こう側。どうにか踏ん張ったが、眼前には切り落としの断崖だ。はるか下方で波が白く砕けている。冷たい潮風がびゅう、と頬を冷やした。 「この!」 振り返る。 怪人はナウラには目もくれず、空をにらんでいた。バラバラと近づいてくるプロペラの音。ヘリコプターが縄橋子を落としたようだ。 ナウラの手が硬化した。 ちらりと、目の端に、倒れ付す仲間がうつる。ぴくりとも動かぬ体。床のうえに血が流れ出している。 許さない。絶対に! だがナウラの一撃が怪人にきまることはなかった。 反対に革靴の爪先を下腹に喰らい、ナウラの小柄な体は吹き飛ばされる。 もんどりうって倒れる床のうえ、にじむ視界に、煉獄博士と怪人が空高く昇ってゆくのが見えた。 「……っ、ま、まて……」 待てと言われて大人しく待つ悪漢がいるものか。 そのときすでに、ナウラと敵との間には取り返しのつかない距離があったはずだが、不思議にも、ナウラは黒衣の怪人と目が合った気がした。 鋭い猛禽の瞳は、冷たくはあったが、なぜだか、哀しみをたたえているように見え――だがそのときのナウラは、噴出す怒りに叫ぶほかは、語る言葉をもたなかった。 「いつか必ず貴様を倒す!」 その声が、果たして届いたのかどうか。 * 「火ィ、くれねェか」 「いいぜ」 村山の差し出す煙草に、相手はライターの火をつけてくれた。 地獄横丁とはよく言ったもの。なるほど酷い環境だが、しかしどんなところも住めば都とでも言おうか、いやおうなしに人々の暮らしはそれなりに営まれていくものだということを村山は知っている。 事実、うす暗い路地を歩き、一度も洗濯したこともなさそうな暖簾をくぐれば、湯気立つ煮込み屋のカウンターに、昼酒をちびちびやっている連中のたまり場があった。 「やるかい」 「ありがてぇ」 煙草を一本、くれてやる。 男は見るからに肉体労働者風で、おそらく今日の仕事にあぶれたのであろう。 村山はそれをきっかけに、いろいろと話しかけてみた。 上等でない外套を選んでひっかけてきた村山の姿は、この界隈になじんでいた。ただ恰好だけではこうも溶け込めないものだ。人にはまとう空気や匂いのようなものがある。だがこの町は、村山がかつて育った町に似ていた。 目を閉じれば思い出せる、路地裏に沈んでゆく夕日の赤。豆腐売りのラッパ。よその家のお勝手から匂う夕餉の気配。ゴミを漁る野良猫。やがて日が落ちれば、壊れた街灯が照らさぬ路は闇に包まれ、どこかしら遠くで悲鳴と怒号が響く。酔漢たちがふらふらと千鳥足で歩けば、路地の暗がりから「兄さん、ちょいと」と街娼が呼びかける。 そんな町で過ごした時間が、村山には沁みついているのだろう。誰も不審に思われるでなく、村山は呑み屋の会話に混じった。 「時に、聞いた話なンだがね」 村山は安酒のグラスを揺らしながら言った。 「記憶を盗まれて眠り込んじまうってな事件が起こってるらしいね」 「へえ、そうなのか」 慎重に、村山は水を向けたが、人々の反応は薄い。そんな話は知らず、日々の暮らしにせいいっぱいといった風情だ。ターミナルではその事件は噂にのぼっていたから、玄尉は標的を図書館のロストナンバーに限っているらしい。それはそれで業腹だが、村山は安心してもいた。 玄尉はおのれの同胞を手にかけるつもりはないということだからだ。横丁のものまで手を出していたら、いよいよ許せぬところであった。 村山は聞きたいことをあらかた聞き出すと、代金を置いて店を出る。 襟を立て、背中を丸めて路地を行く。念のため、尾けられていないのを確かめると、その足でバラックのあいだにわずかばかりに開けた空き地へ向かった。そこに、子どもらが遊ぶ声がするのを聞いたからだった。 * 『ザアザアと、バケツをひっくり返したような大雨だ。 そこへサッと稲光。どどーんと天地をふるわす雷鳴に、あたりは真昼のように明るくなる。 ややっ、誰だ。ああ、ついに見つけたぞ。 そこにいるのは《黒外套》。 憎っくき仇だ。ここで会ったが百年目。今日という今日こそ、あの日の落とし前をつけてやろう――』 ナウラはまっすぐに黒外套を見据えた。 豪雨に煙る、ビル街の屋上だ。屋根から屋根へ、怪人を追い、鍔迫り合いを繰り返しながらここまで来た。 「何故だ」 ふいに、黒外套が口を開いた。 「何故、戦う。おまえは何を望むのだ」 「何故、だと――。知れたこと!」 ナウラは声を張り、胸を張って応える。 「見ろ、この街を!」 ふたりが対峙するビルヂングの屋上からは、帝都の町並みを見渡すことができた。 通りを見下ろせば色とりどりの傘の花が行き交い、自動車のヘッドライトが光の河のように流れている。 立ち並ぶ建物のいくつもの窓にも灯りがともっている。怪人がそれらを一瞥したのを確かめて、ナウラは言った。 「あの光のひとつひとつに、人々の暮らしがある。家族の団欒があり、幸せがあるんだ」 「……」 「私はそれを守りたい。煉獄博士はおのれの欲望のためにそれらを犠牲にすることも厭わないだろう。だが私は……誰ひとり、何ひとつ、あの幸せを失いたくないんだ。そろそろ夕餉の時間だ。私は冷たい雨のなか、悪漢と戦っている。でも街のみんなは家族と笑ってご飯を食べていてほしい。平凡で、平和な時間を過ごしていてほしいんだ」 ナウラは言い放った。 黒外套たち、怪人の所業を思えば――あの日のことを思い返せば、激しい怒りに身体が震える。だが感情的になってはだめだ。カッとなっては負ける。ナウラは黒外套の目を見た。静かな目。すべてを計算しつくす怜悧で冷徹な目だ。そしてその奥に、なみなみならぬ覚悟が小昏い炎として燃えているのを感じる。並大抵のことではこの男に勝てまい。 「どうだ、悪漢に負けず劣らず私は欲張りだろう。それさえ守れるなら、例え百遍撃たれてもへっちゃらだ!」 ナウラはわざと、挑発するような声高さで言った。 黒外套は回答に満足したのかしないのか、その表情に変化は見られない。 ナウラは地を蹴り、間合いを詰める。 黒外套が身を翻す。雨を含んで重いはずの裾が、それでも怪鳥の翼のようにはためいた。 (これは賭けだ) ナウラの身体が、勢い余ってそのままビルの屋上から飛び出した。 「!」 せつな、黒外套の手が、ナウラの腕を掴んでいた。 「――っ」 「……!」 しまった、と目が語っていた。 そうだ。これがナウラの狙いだった。黒外套は冷酷な怪人。しかし、なぜかその目は哀しみを抱いている。それにナウラは賭けた。賭けに負ければナウラは死ぬ。ナウラは勝った。しかし。 掴まれたのと逆の腕が瞬時に硬化する。半身を回転させて、渾身の突き。 この賭けに勝ったということは、黒外套に人の心があるということではないか。 その矛盾を、ナウラの中の正義の炎が瞬時に焼く。一抹の逡巡が、消し炭となる。 ナウラの腕が黒外套の胸を貫き、その身体ががくりと崩れた。 「!」 ナウラは見る。 その目が、最後に微笑ったことを。 そうだ、それでいいんだ。 どこか満足げな、運命の皮肉に苦笑するような、そんな笑みを浮かべて、男は斃れる。 怪人・黒外套の、それが最期だった。 * 「……?」 蛇ノ目玄尉は、小首を傾げた。 商売道具を積んだ自転車を押して空き地に入ったが、いつも出迎えてくれる子らがいなかったからだ。 「子どもはいいねェ」 弾かれたように振り替える。 ものかげにもたれて、村山はどこで手に入れたものか、ヨーヨーをもてあそぶ。 「疑うことを知らない。駄賃をやって駄菓子屋へおっぱらったよ。……なぁに、そう警戒するこたぁない。紙芝居屋がいると聞いて懐かしくなってね。一人でゆっくり見せてもらいたいと思ったまでさ」 「……」 「俺も子どもに戻りたいもんさ。あの頃はなんの不安もありゃしなかった。今はそうじゃない。もう……忘れたいのさ。なにもかもね」 「……どこで俺のことを」 へへへ、と村山は笑ってごまかす。 「あんた、知ってるんだろ。もうじき、ツーリストがそれぞれの世界へ帰れる日がやってくる」 「……そうさ。俺はその支度をしてるだけさ。……俺の紙芝居、見せてやろうか」 「代金は何を支払えばいいんだい? 聞いた話じゃ、おまえさんの紙芝居、ちとお代が高くつき過ぎやしねぇか」 次の瞬間! がつん!と村山になにかがあたった。 「野郎――」 脱兎のごとくとはこのことか。玄尉が自転車で走りだす。 投げてきたのは水あめの瓶だ。頭からべたべたになったことに悪態をつきながら、村山は敵を追う。 「待ちな! 事情を聞きてぇだけだ、問答無用で殺されやしねぇよ!」 声を荒げる。 玄尉は細い路地を巧みに走る。地の利があるから相手に有利だ。村山は跳躍した。ゴミ箱の上から板塀の上、トタン屋根やと駆け上がる。 建物から建物へ渡した洗濯紐をかいくぐり、屋根の上を突っ切って相手を追う。 「ごめんよッ!」 窓から飛び込めば、薄い布団で絡み合う男女が声をあげたが、構わず反対側の窓から飛び出す村山。 そしてひらりと舞い降りた。 キキッ、と玄尉の自転車のブレーキが悲鳴を響かせる。まんまと先回りして見せた。 「さぁ、神妙に――」 跳びかかろうとしたせつな。 チョーン、チョーン、と、拍子木の音。 「!」 「さぁさ、寄ってらっしゃい、観てらっしゃい」 荷台のうえの紙芝居。 その絵が、ぶわり、と眼前に広がる。 (砲撃の音) (待て!と響いた溌剌とした声) ぐらり、と村山の身体が傾いだ。 チョーン、チョーン、と、拍子木の音。 (そうか。あの……音が) 玄尉の能力は、紙芝居の絵に力があるのではない。拍子木の音から伝わってくるのだ―― そのときだった。 「あ。おっちゃん!」 はっ、と、玄尉が息を呑む気配があった。 子どもらだった。村山が遠ざけたはずの、空き地の子どもたち。はなたれ小僧たちが「紙芝居屋のおっちゃん」を見つけてわっと駆け寄ってくる。 「く、くるな!」 玄尉が焦ったような声を出した。 その一瞬で、よかった。 村山の放ったヨーヨーが玄尉の拍子木を叩き落とす。続いて抜いたルガーの銃口をぴたりとすえれば、抵抗の手段も意志も失って、紙芝居屋はがくりと肩を落とした。 蛇ノ目玄尉は、罪に問われるかもしれない。 奪った記憶をおのれの力として蓄え、いつか帰還がかなったときのための備えにしようとした。それは利己的な目的と言えるだろう。 だが。 この男に人の心がないわけではない、と村山は思うのだ。 空き地の子どもらを巻き込むまいとした姿がそれを証明している。それはちょうど、あの雨の日の決戦で、とっさにナウラの腕を掴んだ村山と同じだと、彼は思うのだった。 * がばり、と飛び起きた。 長い長い、夢を見ていたような気がする。 ナウラはあたりを見回し……空気の中、ものの焼ける匂いを嗅ぐ。 庭へ出てみた。 そこに、焚き火をする男の背中をみとめて、ナウラは「あ」と小さく声をあげた。 「やっと起きたのかい。寝坊もたいがいにしとけよ」 男の背中がそう言った。 彼は、紙の束を火にくべていた。焼かれているものが、ちらりと目に入った。瞬間、ナウラの中に記憶が戻ってくる。 紙芝居屋。拍子木の音。ああ、そうか。 (知られてしまった) われしらず、熱い涙があふれてきていた。 「……。誰にだって」 男の背中が、再び語った。 「忘れちまいたいことはある。けれど、紙のように燃やしちまうことはできねぇんだ。……けどな。嫌な思い出も、案外、なにかの役に立つときがくるかもしれないんだぜ。俺ぁさ。いつも思ってんだ。おまえが――」 「馬鹿!」 ナウラは叫んだ。 「そんなことはどうだっていいんだ、馬鹿!」 「……」 「私のことはいい。気を使わなくても……何か残そうとか、そういうことは思わなくても。そんなことより、おまえだ。おまえのことだ。背負う物を少し分けろ。苦しくたってお前よりも耐えてやる。お前くらい助けてやる。だって……だって……」 鼻水をすすりあげながら、ナウラは声をふりしぼる。 「私は正義の味方だ!」 「……。そうかい」 パチパチ、と焚き火のはぜる音。 煙は、0世界の青い空へゆっくりと昇っていった。 ――『怪傑!黒外套~記憶ヲ奪フ紙芝居ノ巻~』、これにて一件の落着。 (終ワリ)
このライターへメールを送る