ブリリアント蝶子(※ペンネーム)は同人作家だ。 普段はごく普通の会社員としてアニメなんて子供の見るものですよという態度を崩さず、裏では近年一般の書店でも度々目にするごく個人的な情熱を込めた薄い本を描き続けて、もう何年経ったのだろう。 バチン、ホチキスが分厚い紙束の折り目を貫通する。両面コピーのA4用紙が折りたたまれ、A5の小冊子の出来上がりだ。 つるりとした背表紙を指先で撫でて、蝶子は大きく伸びをした。ホチキス針が本の内に入り込んでいる中綴じは、他本の表紙を痛めることがないものの、平綴じより多少手間がかかる。(また徹夜してしまった) 蝶子にはイベント前夜になると突発でコピー本を作りたくなる癖があった。それを見越して数日前から荷造りは万端に整えてあるので、焦ることは無い。(新刊と無料配布のエコバッグはもうスペースに置いてある、既刊はダンボールに入れてカートの上。突発コピー本も製本完了。ポップポスター敷き布おつりの用意も出来ている。サークルチェックも完璧、軍資金と地図とチケットはダンボールの中) シャワーを浴びて汚れとトーンカスを落としながら、蝶子は準備に抜けがないか確認に余裕が無い。年にたった二回、出展するのも困難な晴れ舞台のチケットを得たからには、一つのミスも無い完璧なイベントの楽しさを提供したい。(売り子が私だけなのが少し心配だけど) 蝶子が今はまっているのは「機動戦記0028(ダブルオーニャー)」というアーケードゲームだ。巨大ロボットを操り宇宙コロニー間の戦争に繰り出す猫アバターは愛らしく、クレーンゲームのぬいぐるみやファンシーショップでも良く見かけるようになった。 数ヶ月前に始まったアニメは有名声優をこれでもかと起用したことが話題に上り、放送後は台詞が全て「ニャー」だったことでまた話題になったりと、ハマった人間が増えた状態、いわゆる「バブル」を迎えている。 しかしアニメが始まったのは、この一大イベントの申し込みが終わってしばらくの後。圧倒的な供給不足が続いている。(……まあ、何とかなるでしょう) 重たく軋むカートに製本したばかりの小冊子を詰め込んだダンボールをくくり付け、蝶子は慎重にアパートの階段を下りた。こんな時間にこの大荷物、アパートの住人に見つかったら「夜逃げです」としか言い訳しようが無い。「まぶし……」 アパート前、長く伸びた坂に太陽の光がまぶされていた。ピンク色の光はきっと夕日のなごりだ。 疲労と眠気のせいだろう、すぐにまぶたが重くなる。 頭の中ではコピー本の内容がぐるぐる回る。 眠い。爆発する衛星。暗闇。連邦の白いネコ。暗闇。広がる爆発。眠い。眠い。「ニャー……」眠い。暗闇。暗闇。カラス。闇。闇。ポリバケツに。眠。埋もれる。眠。白いネコ。眠。うにフラッシュ。 ≪異世界に来てしまったニャー!≫ 目を開ける。 そこには廃墟になった秋葉原があった。 ***「……で、俺たちは何をすればいいんだ?」 そのロストナンバーを保護すればいいのかと言外に滲ませて見上げれば、「彼女の代わりにそのイベント? というやつ参加してきて欲しい。」 シドは加工された本の表紙のようにつるりとその期待を受け流した。転移先は秋葉原ジェノサイダーズだから、その内E・Jから保護依頼が出されるだろうと付け加えて。「で、そのイベントというのが『アマチュア現代アーティストが作品を展示・販売するための場所』らしい」 間違っていないけど何か違う。 よくよく見ればシドはいつもの導きの書ではなく折りたたまれたメモを読み上げていた。おそらく、多分、確実に、E・Jの入れ知恵だ。「彼女はこの日のために本を作ったり、何ヶ月も前から準備していたらしい。それを不意の覚醒でポシャらせてしまうのは余りにも不憫だろう? 何、簡単なことらしいぞ。転移の際に置き去りにされた荷物は長手道が確保したそうだから、お前達はそれを受け取って、イベント会場へ行って、決められた場所で彼女が作った本を売れば良い。買い物メモらしきものもあったそうだから、代わりに購入してやったら喜ぶかもな」 シドはチケットを差し出した。サングラスの向こうの目は純粋だった。「壱番世界の夏休みには、美術館や博物館を見に行くのが定番らしい。日本の夏は大変そうだが、非日常を体験する楽しさを味わって来るのも良いんじゃないか?」 非日常が濃すぎます、先生!
【1.祭りへGO】 ガタゴトゆれる車内の内装は見慣れたロストレイルのそれではなく、壱番世界の近代的なそれだ。 乗り込んでいる人々は大小の差こそあれ、誰もが大荷物を抱えていて、その目的地を沈黙の内に明らかにする。 「この人たち皆、壱番世界のアーティストなんですね……! 蝶の努力を無駄にしないよう、今日は精一杯頑張ります」 一息に言って、レヴィ・エルウッドはぐっとこぶしを握り締めた。 レヴィの手には丸められた紙束が握られている。パンフレットから切り取られた、イベントの注意事項ページだ。 なにせレヴィはツーリスト、壱番世界のルールや決まりごとにはまだまだうとい。楽しいはずのイベントをしらけさせてしまう行動を、思いならずもとってしまうとも限らない。 (ええと、着いたらまずは近所のサークルに挨拶、と……) その思いから、レヴィは現在急ピッチでマナーを勉強中なのだ。 電車は地下に掘り進められたトンネルを進み、車窓の景色はどこまで行っても変わりはしない。 ダンボール満載のカートを押さえつつ、奥村 奈々は何とはなしに誘導灯を目で追っていた。鏡のようになったガラス窓には背後の車内と、こちらを見てはきゃあきゃあ小声で盛り上がっている少女たちがくっきり映りこんでいて、気づかれない程度に眉をひそめた。 (絶対、コスプレと思われてるんだろうなー……) 青白い肌に白い髪、赤い目の持ち主である奈々は、壱番世界では非常に目立つカラーリングの持ち主だった。ここに来るまで同じような視線を向けられたこと数知れず、一度など「あのーすいません、それってウニャークのコスですか?」と面と向かって聞かれたこともあった。 (思いっきり私服なんですけどー……というかウニャークって誰で何? そのアニメだかゲーム知りませんからー、あー) ぷちぷちと心中不平を呟く奈々。 その服裾をくいと引くのは、三人目の参加者である森間野 コケだ。背中には膨らんだ風呂敷、腕には壱番世界の漫画本が大事そうに抱きかかえられている。 「……答え、見つけた。奈々は多分、これと勘違いされてる」 「なにこれ?」 差し出されたのは、腕に抱えられたマンガ本。開かれたページの中、白猫を抱いた女性がこちらに向かって笑顔を浮かべていた。頭上の花を隠すための帽子の下、コケのどんぐりまなこがキラリと光り、白猫を指し示す。 「機動戦記0028、パラレル外伝。ニャアたち、普通の猫だったらの話。……奈々、ウニャークと目と髪の色、一緒」 「人間のほうじゃなくて!? いやこれ猫じゃん、髪っていうか毛並みじゃんこれ」 「……奈々、強そうな雰囲気ある。それも一緒」 「こ、コスプレってオーラまで含むものだったのー……?」 そのキャラクターと同じ格好をするものとだけ思っていたが、多少見た目が違っていてもオーラがあれば許されてしまうなんて……奥深い世界だ、コスチュームプレイ。 「森間野さん、この本はどうしたんですか?」 「ん、借りた」 「誰から?」 「ラジカセ」 一通り注意事項をさらったらしいレヴィが、コケの隣に寄ってくる。 三人に向けられる「コスプレかなあ」という視線の圧力がいや増すが、レヴィにはこうもりに似た翼、コケは緑の髪色、そして奈々には白髪と赤目。 壱番世界の人間にはそうそうありえない部位を備えていることを考えれば、むしろその程度の扱いは軽微な被害なのかもしれない。 《次は――……、――……。本日大変混み合いますので、降車の際は十分お気をつけて……》 【2.仲間とはどんなものかしら】 「おー」 「凄い、広い……!」 「壮観だねえ、これは」 ホールに入った順にコケ、レヴィ、奈々。それぞれの感嘆の声が、ロストレイルを何個も詰めそうに高い天井にわんと響く。 目の前にずらりと並ぶのは、机と机とまた机。 紙束を抱えてホールを往復するもの、ダンボール満載の台車を押すもの、巡回するスタッフ。それぞれが目的を持って動く数え切れないほどの人々。 「……アタシも学生時代に友達と一回だけ、町の公民館貸し切りでやってたイベントに行ったことがあるけど……こんなに大きなイベントは初めてねー」 意外な奈々の告白に、レヴィとコケが口をそろえて「おおー」と感嘆の声を上げる。 建物も人の数も、全てのスケールが桁違いに大きい。人ごみをすり抜けすり抜けたまにぶつかりつつ、ようやっと蝶子がいるはずだった場所へ到着する。 割り当てられた配布場所は、周囲を見る限り机の半分ほどのスペースであるらしい。机上では折りたたまれ重ねられたパイプ椅子が、チラシの山に埋もれていた。机下の空きスペースには、印刷会社の名前がプリントされたダンボールが二つ、でんと鎮座している。 「じゃ、ちゃっちゃと支度しちゃいましょうかー」 「……ん」 「頑張ります!」 蝶子の残したメモ書きを頼りに、三人てきぱきと動く。途中、本に値札を貼り付けていたレヴィが「この数字の書かれたマークは何ですか?」と質問して奈々が返事に窮したり、またしてもコスプレと思われて写真を撮られそうになったりとハプニングはあったものの、数十分の後には立派なレイアウトが完成していた。 「こんな感じ、ですかね」 額ににじんだ汗をぬぐって、レヴィが奈々を見る。 「そうねー、多分こんな風だったと思うわー」 こちらも滝のような汗を流す奈々がワンテンポ遅れて返す。 「……暑い」 コケがぽつりと呟いた。 着いた当初は太陽照りつける道路から日陰に入れたこともあり、とても涼しく感じられたのだが。こう動き回っているとやはりじめじめと暑い。開け放されたシャッターの向こう側、濃い緑のくっきりと浮かぶ景色を見るに、野外の惨状はなおひどいのだろう。 「あっついわー……」 奈々が腕時計に視線を落とす。開場まではそれなりに余裕があるが、このままここにいたら本を買う前に体力が尽きてしまいそうだ。 「アタシ、飲み物買ってくる……レヴィとコケちゃんも何か飲む?」 「ありがとうございます。では、お茶を」 「……水」 「わかった。それじゃーちょっと行って来るわー」 ふらふら危なっかしくホールを横切る奈々を見送り、レヴィはパイプ椅子に腰を下ろした。背もたれに寄りかかろうとして、汗ばんだシャツの湿った感覚にあわてて身体を引き剥がす。 「レヴィ」 「はい?」 「コケ、ちょっと出かける」 いつの間にやら、作業の邪魔になるからと解いていた風呂敷を背負いなおしたコケが、机の下を這って通路側へと回る。 「すぐ戻る。コケ、チャレンジ」 ぐっとこぶしを握るコケ。オリーブ色の双眸に、きらりと決意が光ったように見えた。 「……何を?」 「お楽しみ」 はにかんだような笑顔を浮かべ、コケはさっと身をひるがえす。とりあえず手を振って見送ってみたが、レヴィの頭の仲は疑問符でいっぱいだ。 二人がいなくなると、急に静かになったような気がする。実際は、刻一刻と迫る開場時間にあわてた人々の声や紙ずれの音で満ちているというのに。ぼんやりと通路を行き来する男女を眺めていたレヴィの耳に、控えめな声がかかった。 「あの、すいません。こちら、蝶子さんのスペースですよね?」 「えっ? あ、はい! そうですけど……あなたは?」 「私、隣のスペースのものです」 そう言って頭を下げたのは、レヴィとそう年の変わらなさそうな女性だった。ダンボールを詰んだカートと帽子に飾られたネコの缶バッジ(おそらく0028関係のグッズなのだろう)から、彼女も蝶子と同じく0028を愛好する一人なのだろう。 (えっと、挨拶するんだよね、確か) 今朝読んだばかりのパンフレットの内容を記憶の中から引っ張り出しつつ、レヴィはぎくしゃくした動きで椅子から立ち上がる。 「おはようございます、今日は一日よろしくお願いします」 「こちらこそ。売り子の方ですよね、蝶子さんはどちらに?」 「え、蝶と知り合いなんですか!?」 「まあ、趣味が一緒なもので」 趣味、のところで女性が一瞬、後ろめたそうに目をそらすが、レヴィには理由はわからなかった。 「実は蝶は、その、体調不良というか急な旅行といいますか。それで僕たちが代理で参加してるんです。あ、僕は蝶の『仲間』でして、その関係で」 まさか「ディアスポラ現象のせいで異世界に行っちゃったので、代理参加の依頼が出されました」とは言えない。現地人に真理やそれにまつわる諸々を話すのは、旅人の掟に背く。 「はあ、仲間、ですか……」 女性の眉根がひそめられ、指が顎先に当てられる。何か不味いことを言ってしまっただろうかと、レヴィの心臓が早鐘のリズムで胸を叩いた。 ……だが実の所、女性をいぶかしめているのはレヴィの言動ではなく、容姿のほうだった。 (何のジャンルのレイヤーさんなのかな……。男の子だし外国人だし、とてもじゃないけどオタク仲間には見えない、というかこんな世界のこと知ってて欲しくないというか! 蝶子さんの交友関係ってどうなってるんだろう!?) 対戦型アーケードゲームにしては珍しく男女比3:7で女性支持の強い機動戦記0028の、さらに女性の比率が高いスペースの一角にいるには、レヴィのまとう雰囲気は純すぎた。 レヴィと隣人の間に流れるぎくしゃくした空気が払拭されたのは、出かけていた奈々とコケが戻ってきた頃だった。 「遅くなってごめんねー。自販機すごい並んでてさ、西のほうまで行っちゃったー。はいお茶」 (あ、この人、凄いウニャークっぽいオーラ……! これからコスプレするのかな?) 隣人が、憧れの先輩を見るような目つきで奈々を盗み見る。だがコスプレ扱いの視線に慣れきってしまった奈々は気づかず、きょろきょろと何かを探すように周囲を見回す。 「コケちゃんは?」 「それがよく……。何かにチャレンジしてくるらしいんですけど……」 「ただいま……ニャー」 (きゃあああああっ!) レヴィと奈々がそろって振り向く。隣人は必死で叫び声をかみ殺した。 机の前に立っていたのは、長い緑髪を頭の左右でお団子にまとめたコケだった。服装も、普段の自然味あふれるやわらかなものではなく、裾の擦り切れた漆黒の長ランに身を包んでいる。 「どうしたんですか、その格好?」 「リリイ、一晩で縫ってくれた」 「さすがの腕前ねー……それも何かのキャラなの?」 (パラレル外伝に出てくる赤毛のニャアのライバルですねわかります!) 「このキャラ、ニャア大佐と戦う。戦って、友情芽生える。かっこよくて、すてき」 ああもう超似合ってる! と心の中だけでガッツポーズをとる隣人。 (あの男の子はつき合わされただけの一般人で、メインはこの二人でしょ! ジャンルの美麗レイヤーさん売り子にしてくれるなんて蝶子さんありがとう!) お隣さんの0028への愛は、ちょっぴり暴走気味だった。 【3.ビバ戦場】 開場のアナウンスと共に、ホール中から拍手が鳴り響く。各入口からはスタッフに誘導された幾千もの人々がどっとホールに流れ込んできた。 「コケ、本を売るの自信ない……。だから買いに行くのをしたいと思う」 「僕もあちこち見て来たいなあって思ってるんですけど……」 「ん、いいよ。アタシがこっち見とくから、気が済むまで二人で行ってきなよ」 ざわめきを増すホールの中、準備を整えたコケとレヴィに奈々がひらひらと手を振る。 元々この依頼は「蝶子の本の販売」がメインであり、本の購入はおまけのようなものだ。だが書き込みだらけの地図や詳細のびっちりと記入された購入計画表からは、蝶子がどれだけこのイベントを楽しみにしていたかがひしひしと伝わってきたし、加えてレヴィもコケも「どんな素敵な作品に出会えるだろう」と胸をときめかせていた。 蝶子の買い物以外にも、自分用に何か買いたい、見て回りたい! 二人の中ではそんな情熱が熱くたぎっているのだ。 「地図と蝶子の軍資金は持った?」 「バッチリです」 「……いざという時。売っているサークルの場所、近くの人に聞く。教えてくれるかな……」 「きっと大丈夫ですよ。では行ってきます!」 レヴィが横長の地図、コケが購入表を握り締め、その場に背を向ける。 瞬間。 奈々の脳裏に警鐘が鳴り響いた。 「……待って、買い物ちょい待って! その地図貸して! お願い!」 ただならぬ雰囲気に、二人はすぐさま手に持った紙を差し出す。礼もそこそこに地図と購入計画表をにらみつけ、奈々が猛然と何かを書き付け出した。 繰り返すが、奈々は三人の中で唯一のイベント経験者だった。だから彼女だけがこの場で――見渡す限りサークルも買い物客も女性しか見えないこの一角で――どのような本がやりとりされているのか、正しく、把握していた。 ペンの蓋が閉じられる。ラインマーカーで色分けられた地図のあちこちに、☆のマークが書き足されていた。 「……ええと、この、☆印しつけたとこ、ここは行かなくていいから。後で、アタシが買ってくるから」 「あ、そうですよね。奥村さんもあちこち見て回りたいですよね」 「……大体そんな感じ」 どこまでも純粋なレヴィの言葉を斜めに受け止め、地図を返す。隣のサークルの主の「大変そうですね」という目と、じゃれあう猫の描かれた見る人が見ればなんでもない本(蝶子絵)が視界に映った。 「……じゃ、今度こそ、行ってくる」 「気をつけてね、本当に気をつけてねー!」 人ごみにまぎれて確認できなくなるまで二人を見送る奈々の姿は、まるでお母さんのようだった。 人の波。その言葉にふさわしく、コケとレヴィは荒れ狂う濁流に翻弄されていた。 初めてホールを訪れた時は広く感じていた通路も、先を争って押しかける人々の勢いにおびえて縮こまってしまったようだ。 奥へ行きたい人間と戻りたい人間と本を買いたい人間が渾然一体となり、急流を生み出している。 「大丈夫?」 「はい、平気で……あああああ」 「レヴィ、つかまれ!」 反対方向に向かう一団に押されて、レヴィの声が尾を引いて遠ざかる。伸ばされたコケの手を掴むレヴィは必死だった。 「あ、ありがとうございます……」 「手、離さないほうがいいな。繋いでいよう」 「はい」 レヴィよりだいぶ小柄なコケがこう落ち着いていると、自分の慌てようが少し恥ずかしい。視界だってレヴィより低いはずなのに、器用に人ごみをすりぬける学ラン姿の背中はとてもとてもたくましかった。 「機動戦記0028、可愛いけれどカッコいい……あ。これメモにあった。一冊下さい」 「あ、このサークルさんお隣だ。並んでおくね」 二人手分けしてサークルを巡る。細かく模様の入った切り絵の絵本や星のようにきらめく表紙は、眺めているだけでわくわくする。 「これで全部?」 腕いっぱいに本を抱えたコケが、重たそうに荷物をゆすり上げる。 「そうですね……売り切れと、星マークのついた所以外は全部買えました」 「ミッションコンプリート……、あっ」 「森間野さん?」 小さく声を漏らし、コケが頭を抑える。元から丸い目がさらに大きく見開かれて一点を見つめていた。その視線の先にあったのは、 ネコミミ。 茶トラ、ぶち、黒、赤茶、白。 さまざまな色の猫耳ヘアバンドが、机の上いっぱいに並べられている。値札にニャア専用、ウニャーク用等と書かれていることから察するに、それぞれのキャラクターを模したハンドメイド作品なのだろうか。 「……し、しすてむおーるぐりーん」 自らに言い聞かせるように言って、コケがごくりとつばを飲み込む。髪を押さえつける指の間から、大きなつぼみが開きたそうにぷるぷる震えているのが見えた。 太陽に向かって枝を伸ばす木のように、ネコミミだらけの机の前へ引き寄せられるコケ。気づいたサークルの主がほほえましそうな笑みを浮かべる。 「よかったら試着どうですか?」 「いいの? ありがと!」 嬉々として伸ばされた手が掴んだのは、やはりというか赤い毛並みのニャアだった。机に備え付けられた鏡には、喜色を満面にたたえたコケの顔が映りこんでいて、レヴィも自然と笑みが浮かぶ。 「……これ、下さい。ウニャークと、あとこれも」 ありがとうございますと主が応え、白と赤茶のネコミミが包まれる。赤いネコミミはコケの頭上で動きにあわせてぴこぴこ上下していた。 「おみやげですか?」 「うん。これ、レヴィの分。……貰ってくれる?」 「良いんですか? ありがとうございます、大切にしますね」 丸っこい形のネコミミは、見た目どおりの柔らかな肌触りをしていた。頭に飾る瞬間は少し恥ずかしかったが、コケの楽しそうな顔を見ているとこういうのも悪くないんじゃないかと思えてきて、レヴィは己の現金さに少し笑った。 腕いっぱいに本やグッズを抱えて、さらにはネコミミまで生やしてきたコケとレヴィに、奈々は苦笑気味のおかえりを言う。 「随分堪能してきたみたいだね?」 コケもレヴィも両腕いっぱいに本を抱えていた。その上レヴィは小さいものから大きいものまで何かのグッズをこんもりと抱えていて、いまにもぽろぽろ落っことしてしまいそうだ。広告満載の紙バッグにグッズをいくつか放り込んで、ようやくレヴィの満足げな顔が発掘できた。 「奥村さん、見てください。このこうもりぬいぐるみとこうもりストラップとメモ帳とイヤリングと指輪とストラップと根付とキーチャーム! あっちにこうもりグッズ出してるところがあって、全種類買ってきちゃいました! 世の中にこうもり愛好家がこんなにいたなんて……幸せです」 「随分遠くのほうまで見に行ってたのねー」 パンパンになった紙袋を机の脚に立てかける。トランクに収まるかなあこれ。 「奈々、本は売れた?」 「いつもどのくらいではけてるのかわからないけど、多分上々なんじゃない? 昔に発行した奴だともう在庫ないのもあるし」 「おー」 「それじゃ、アタシは買出し第二段に行ってくるね。お店番よろしく」 「お任せ下さい!」 空いたダンボールに購入した本を詰め、奈々と入れ替わりに椅子に腰掛ける。 ……今まで何十個ものサークルを巡ってきたはずなのに、いざ自分が本を売る側になるとどうしても緊張が生まれた。なんとか笑顔を浮かべるが、どうしても少しぎこちないものになってしまう。 宣伝用のボードの裏には、蝶子の作った本のタイトルと価格が一覧表にしてまとめられている。机の上の本は出がけよりも詰まれた高さが低くなったような気がする。 そういえば、蝶子がどんな本をつくっているのかレヴィはまだ知らない。販売する側が商品のことを知らないのではお客様に説明を求められた時、大変ではないだろうか。 (今はお客様もいないし、一冊くらい平気ですよね?) 机に並んだ本の一冊を手に取るレヴィ。それは二匹のネコがじゃれあっている表紙の、今朝方奈々を凍らせた質問の元凶である、数字のマークがついた本だった。 今まさに、一人の少年が禁断の世界に足を踏み入れようと手をかけたその瞬間。レヴィと本の間をさえぎるように一冊の本が差し出された。 「これうちの新刊なんですけど、良かったら貰って下さい!」 救世主は隣のサークルの主だった。蝶子と親交深い彼女は蝶子の作風もよく知っていたし、レヴィが一般人の感性を備えていることもばっちり見抜いていた。 (蝶子さんの新刊はさっきのウニャークっぽい方から購入済! あれは一般人の、しかも男子には見せられない! よかったー私の新刊ほのぼの系で) 「いいんですか? こんなに厚い本ばかり……」 「どうぞどうぞ、蝶子さんにはいつもお世話になってますから」 こうして、お隣さんの機転でレヴィの精神の平穏が保たれている頃、奈々はと言えば。 「……キャー☆」 一般人男子にとっての地雷原を鼻歌交じりで闊歩していた。 蝶子のサークルから拝借してきたエコバッグの中は、怪しいオーラを放つ薄い本でぎっしりだ。年少組に買いに行かせなくて正解だったな、と一人ごちる。もっとも買いに行ったところでおそらく売ってはくれなかっただろうが。 しかし、と奈々は考える。通り過ぎるだけのサークルの机には、雌ネコがいちゃいちゃしている表紙の本が並んでいた。 男と男――この場合はオスとオスになるのだろうか――って綺麗な印象があるんだけどさ、男から見たら女と女の絡みの方が綺麗に見えるらしいのは何故だろうね。 (女なんて、そんなに綺麗な物じゃないし、強いて言うなら真実はとってもグロテスク) お互い夢、見すぎなのかねと心中に思いを巡らせつつ、身体はどこまでも任務に忠実、蝶子の目当ての本を買い込んでいく奈々だった。 【4.グッドカーテンコール】 真昼の暑さもじわじわととおざかり、ホール内には海の冷気が忍び込んでいた。 机の上にはもう何もない。本はあらかた売れてしまった。残った本は買った本と一緒にまとめて、ダンボールの中へ逆戻りだ。 「皆、お疲れ。……これを持って帰るのが、第二の戦い」 きりりと眉を吊り上げて、コケが真剣そのものの顔になる。装着したままのネコミミのせいでずり落ち気味の帽子から、鮮やかに色づいた満開の花が垣間見えていた。 「ここ、名物の美味しいアイスがあるそうなんです。お饅頭も。後で食べに行きませんか?」 「いいわね! アタシお腹ぺっこぺこだわ」 開場の時とはうらはらに、閉会のアナウンスは静かにホールを浸していく。まばらな拍手には疲労が透けていたが、手を打つ人々は誰もとても充実した顔をしていて、きっと三人も同じような顔をしているんだろう。 「また来たいですね!」 レヴィの言葉は、きっとこの場の誰もが抱いていた思いだった。
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