クリエイター錦木(wznf9181)
管理番号1144-14839 オファー日2012-01-06(金) 18:27

オファーPC 七夏(cdst7984)ツーリスト 女 23歳 手芸屋店長

<ノベル>

「病院には、連れて行くな」
 それだけ言って、少年は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。愕然と見開かれた七夏の視界を、煤混じりの雨が遮る。伸び放題の髪と肉に見放された体つきに、少年がインヤンガイの貧民層に属する人間だと一目で理解させられた。水たまりに赤いものが混じり出す様にはっとして、傘を投げ出ししゃがみ込んだ。
「あの、あの、大丈夫……」
 ですか、とまでは言えなかった。引き上げた身体は冷たい水に突っ伏していたというのに驚くほど熱を持っている。全身くまなく、打撲と裂傷が覆っていた。紫色に変わった肘はもしかして折れているのだろうか。握りこんだ拳は固い。
 どうしよう。どうにかしなれけば。犯罪者では。放っておけない。混乱を巻き込んで頭の中を駆け回る論理と感情は、やがて一方に傾いた。汚泥に沈んだ子供を抱き寄せ、周囲を見回す。張り付いた前髪が遮る視界に、宿の看板を見つける。玄関の脇に座り込んでいた老婆が七夏の腕の中、血にまみれた少年を見て不快げに皺を寄せる。少年を抱く腕に力がこもった。どんな事情があったにせよ、目の前で死にそうな子供を放っておくなんてこと、七夏にはできない。何より、この少年は。
「床を汚すんじゃないよ」
 不機嫌な老婆に案内された部屋は、外観に見合った薄暗いなものだった。床には埃がたまり、天井の四隅にはどこも大きなクモが居座り、耳を澄ますと這いずりまわる虫の息遣いさえ聞こえてくる。寝台脇の小机にはどろどろの蝋燭。欠けた水差し。百歩譲ってもけが人にふさわしいではないが、文句を言う暇さえ惜しく、洗いざらした寝台に少年を横たえる。老婆のかさついた視線が扉の向こうへ消える気配がした。
 ハンカチに水を染み込ませ、少年の身体を拭っていく。泥が払われるにつれ、赤く青く、でこぼこと腫れ上がった痛々しい手足が露わになり、七夏は泣きそうになる。ふと足元を見ると、こぼれた血肉に虫がむらがっていた。視線を外し、脂汗と血に張り付いた前髪をそっと払う。そんな場合ではないと分かっていても、ため息が零れた。
 やはり、兄に似ていた。彼から羽と触角をとって幼くしたらそっくりだ。だが一番強く兄を思い起こさせたのは、出会いがしらの一刹那に垣間見えた意志の強そうな瞳だった。その瞳は、今は震える瞼の下に隠されている。泥と血となにかぐずぐずしたものにまみれた顔を丁寧に拭いていく。
 と、その左目が、額から頬にかけてまっすぐ縦に切り裂かれていることに気づいた。
「……ひっ……!」
 ぶるぶる震える指先で、瞼を左右に引っ張る。ぱっくり割れた空洞に、喉がひきつる。どうしよう。どうすればいい。ばくばくと耳の後ろで血潮がざわめく。最後に見た兄の顔がフラッシュバックする。
 七夏に医学の心得はない。薬も湿布も何もない。七夏にできるのは、唯一。
「……、……」
 医学の心得はない。薬もない。だが、せめてこの傷口を、この腐った空気に触れさせないようにすることだけはできるのではないか。戦慄く手先を押さえつけ、トラベルギアである青の縫い針へ糸を駆ける。普段なら瞬く間に通せるのに、今日はひどく時間がかかった。傷口は、きれいだ。紙で切り裂く指先のように、本当にまっすぐ立ち割られている。ぴったり縫い合わせればくっつくのも早いはずだ。
 蝋燭の火で針先をあぶりながら、どうか目を覚まさないでくれと七夏は必死で祈った。

 ぱちんと音を立てて糸が切られる。いつの間にか詰めていた息を吐いた。傷口からこぼれた血で七夏の掌はべったりと赤い。大丈夫。いつも通りに縫えた。皮膚と布で同じでいいのかわからないけれど、それ以外の方法を七夏は知らない。溶けた蝋が一筋、支流を生む。芯燃える匂いが、血臭を駆逐する。
「……手、洗わなきゃ……そうだ、お医者様も……」
 これ以上、七夏にできることはない。少年は医者を呼ぶなと言ったが、自然に任せて何とかなるレベルでないことくらいわかる。おぼつかない足取りで立ち上がった七夏の腕を、強い力が掴む。そのまま引っ張られ、気づいた時には天井を背景に少年の右目が鬼火の輝きで七夏を睨んでいた。いっぱいに開かれた右手と拳のままの左手に肩を抑え込まれ、寝台のスプリングが軋む。下敷きになった翅がピリリと引きつった。
「あなた、起きて……」
「医者は呼ぶな、といっただろうが……!」
「無茶よ、そんな傷でどうするっていうの? お金のことなら心配いらないわ、私が勝手にお医者さんを連れてくるだけ」
「……そういう問題じゃない」
 荒い息の下、振り絞るように少年は応える。
「どういうこと?」
「……」
「……私はあなたに害は与えないし、そもそも女の身一つだもの。与えられる力だって……」
「……うるさい、うるさい! 押し付けがましいんだよ! 大体、関係ないだろ、アンタなんかに俺たちのことなんてっ……」
 少年の罵声が叩きつけられる。しかし乱雑な口調に相応しくなく、視線は七夏から逸らされたまま落ち着きなく空中をさまよっていた。
 ふと脳裏によみがえったのは、今は遠い故郷の懐かしい親友の顔だった。
『七夏には関係ない』
 のど周りの鱗をざらりと逆立たせ、親友は言った。普段は痛いほどまっすぐに七夏を見てしゃべる人だったのに、あの日だけは絶対に七夏の方を見ようとしなかった。七夏の手を振り払って背を向けて、それっきり何も言わなかった。七夏は何か言おうとして、何も言えなくて。今はもう、側にいることすら叶わなくなってしまった。
 ――あの時と、一緒だわ。
 七夏の中の真綿の部分に、確信が水のように染み込んでくる。少年は何かを隠している。そしてそれは自分のためではなく。誰かのための秘密だ。
「事情があるのね」
 肩を押さえつける力が、ゆるんだ。静かに、その手に手を重ねる。
「俺たち、ってあなたは言った。あなたは、誰かのためにこうしているのね。……私に、あなたを助けさせて。あなたにはきっと助けが要るわ」
「……訳わかんねぇ……」
「ただの自己満足なの。あなたを助けられたら、何かが変わるような気がするから。あなたは何にも悪くない。私が勝手にしたいだけ」
「……ああ、くそ、畜生。そんなに巻き込まれたいなら教えてやるよ!? 俺はコソ泥だ! どっかの組織に依頼されて、何とかって指輪を盗みに入ったら知りたくもねぇこと知っちまってこの有様だよ!」
 握りしめられていた少年の手が翻る。土の入り込んだ灰色の爪が、豪奢な黄金細工の指輪を七夏の目の前に突き付けていた。花の形に象嵌された宝石の隙間から、さらりと白い粉が数粒、零れた。
「……これが、知りたくないこと?」
 少年は無言。それで十分だった。一体これが何なのか、七夏には見当もつかない。それより本当に聞きたいことは、と口を開きかけた時だった。廊下が俄かに騒がしくなり、まさかと思う暇もなく部屋の扉が乱暴に開け放たれる。
 入ってきたのは揃いの黒い服に身を包んだ屈強な男たちだ。鋼のような身体の向こうに、揉み手する老婆の姿が垣間見える。一人の男がひくひくと片頬を引きつらせながら進み出る。厭らしい、獣の笑みだった。少年が身を起こし、片方だけの瞳が見開かれる。
「どうしてここが!?」
「自分のシマにいる子ネズミ一匹、把握できない馬鹿がいるのか? さ、指輪を寄越しな」
 少年は無言でわずかに身体をずらした。七夏をかばうように。ああ、こんなところまで兄に親友に似ていると、こんな時なのに七夏の眼頭は熱くなる。
「渡せば殺すし、渡さなければいたぶってから殺す。どっちにしたって死ぬんだ、楽な方を選ぼうぜ。……ああ、言うな言うな。ゴミクズの声を聴くと気分が悪くなる。そんな勇気あるゴミに質問だ。ここは俺たちのシマな訳だが、ならなんでこんな時間がかかったのかお前にわかるか?」
 獣の笑みが指を鳴らす。別の男が進み出た。手には縄。先端は輪っかとなり、痩せた少女の細首に繋がっていた。少年の目が見開かれる。「マ、オ?」声はガサガサに掠れていた。
「答え、ゴミ拾いをしてきたからです」
「兄さま……兄さま、助けて、助けてぇっー……!」
「うるさい」
 獣の笑みが足を振りぬく。枯れ木のような身体が悲鳴ひとつあげる間もなく壁に叩きつけらた。七夏の喉から迸る悲鳴は、少年の「マオっ!」という激昂にかき消される。
「お前が素直になれるようにと思ってな。効果はまあ、聞かなくてもわかるか」
「畜生……っ!」
「褒め言葉さ。これ以上は言わせるなよ?」
 少年が歯を軋ませる音は地獄よりも低かった。
 脳裏に張り付く記憶が、目の前の光景にだぶる。ああそうだ、あの日もこうやって奪われた。理不尽に残酷な暴力が七夏と兄を、親友を遠く隔たらせた。
 萎える足を叱咤して、七夏は立ち上がる。これ以上はいけない。彼の心を、大事なものを守らなければならない。指輪ひとついくらでもくれてやろう。だがそれだけですむなんてことがないと、少年も七夏もわかっている。少年の体に痛みを刻み込んだのは、まさしく彼らなのだから。
 腕をいっぱいに広げて、七夏は少年と獣の笑みの間に割って入る。獣の笑みは今初めて七夏に気づいたという顔になった。
「あんた誰」
「旅人です」
「知らん。退け」
「だめです」
「もう一度言う。退け」
「絶対にだめです!」
「じゃあ退かすわ」
 言うが早いか、長い足が腹部にめり込んでいた。
 内臓が爆発したような痛い痛みが全身を貫く。息が、できない。激烈な嘔吐感が込み上げ、抑える暇なくぶちまける。「次は頭だ」七夏は動けない。「やめろっ!」少年が寝台から跳ねる。再度の苦痛は肩を捉え、小机に激突。衝撃で床を跳ねる。三度目の痛みと共に吐瀉物の海に沈む。ぶれる視界の中、飢えた小虫がかさかさと這い寄ってくる音が聞こえた。
「この人は……ない! なんで……だ!」
「言いがかりはよせよ。そもそもお前が……? ……、ああ、早速……。……も……」
 意識が、遠のく。だめだ。七夏は助けるんだ。あの日伸ばしても届かなかったものを、今度こそ手放したくはない!
「だ、れか……たすけ、て」

「いいよー」

「……ぎゃあああっ!」
 大の大人がこんな声を出すとは信じたくない、悲壮感に満ちた絶叫が七夏の意識を引っ張り上げる。ゆらゆらと揺れる視界の中、黒服たちは踊っていた。両手をばたつかせ、足を踏み鳴らし、襟をたたく。下手くそな舞踏。獣の笑みが消え、振り向いたその首筋には蜘蛛が張り付いていた。絶叫はどこまでも重なる。妹を胸に掻き抱いた少年の目には、恐怖が染み込んでいた。
 床が、うねる。
 虫、だ。
 夥しい数の小さく細かい虫たちが、七夏の手足を乗り越え、少年と妹を通り過ぎ、一斉に黒服たちに群がっていた。ポリポリ、コリコリ。聞くに堪えない咀嚼音。肉を食まれる苦痛に黒服たちは悲鳴を上げつつ出入り口へ殺到し、老婆が突き倒され、圧し合い、身動きが取れなくなって、またポリポリ、コリコリ。
 一体何が起きたのか。ふらつきながら身を起こした七夏の掌の上には、いつの間にか一匹の大蜘蛛が座っていた。挨拶するように、前脚の一本を持ち上げる。

「おれいー」

 それだけ言ってひょい、と蜘蛛は身軽に飛び降りて虫々の群れに合流していく。やがて最後の一人と最後の一匹が廊下へと姿を消す。部屋には雨音が戻っていた。
「……あんたが、やったのか?」
 少年の目は怯えきっていた。七夏にはこたえられなかった。ターミナルにいるときは意識にも上らない差異。七夏の力はこの世界にとって異物でしかないと、今更のように思い出す。
「……礼は、言う」
 震える声で言って、少年は後ずさりしながら部屋を出て行った。あわただしく階段を駆け下りる音が遠い。身体から力が抜けて、再び床に倒れ込む。
 一抹の寂しさといっぱいの安堵が、七夏の胸を満たす。
 兄に似て、親友と同じことを言う少年と、その妹の構図に、流れ去った過去がひっきりなしに呼び起こされる。血にまみれたままの掌に視線を落とす。乾ききった血は少し擦るだけでパリパリと剥がれていく。
 次に出会った時、彼の今日の傷は癒えているだろう。そうであって欲しい。
 だが、あの強く孤独な兄が、もしも今日と同じことをくりかえしていたら。その時はまた、七夏が。怖がられたって構うものか。
 今度こそ、本当の意味で。
 この針で縫えるものは布だけではないと、証明しよう。

クリエイターコメントお待たせいたしました。
大変、悩みながらの執筆でしたが、お気に召す仕上がりになっていれば幸いです。
この度もご依頼ありがとうございました。
公開日時2012-01-31(火) 21:20

 

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