雨は矢のようにまっすぐサラめがけて振り込めていた。見上げる空は曇天の鈍色。右手に握っていたはずの剣の感覚は既にない。 砕けたか。あるいは持っていかれたか。 半ばからたたき折られた槍が己の腹部から生えているのを見下ろして、寒さと失血に震える右手を首元へ伸ばす。それだけの動作が常の何倍も億劫だった。小手に包まれ太った指先はしかし、常に身に着けていた硬質の質感に触れることはなかった。胸を突く幸福感にサラは笑う。笑いながら、血を吐いてそれっきりだった。 これなら出立は無事済みそうだとサラは言い、ティリクティアは視線を上げた。窓の向こうには夜空には幾万もの星が勝手気ままな一大図画を描いていて、それが泣きたくなるほど悲しい。大雨と大風はいつも来て欲しくない時に来るくせに、どうしてこんな時だけ素知らぬ顔をするんだろう。うつむいた拍子にずり下がった肩掛けを、サラが優しい手つきでかけ直してくれる。乾いて暖かいサラの手が、ティリクティアは好きだ。 「……ありがとう」 「どういたしまして」 「……」 「……」 沈黙が雪のように二人の間に積もっていく。浮かんでいた冷や汗はもうとっくに乾いていた。 ……普段ならこんなことないのに。 ティリィクティアがサラの部屋に遊びに来るときはいつだって両手いっぱいに話したいことを抱えていた。だが今はその何もかもが空しい。 部屋に面した回廊を、いくつもの足音が早足に通り過ぎていく。そのどれもが金属の触れ合う重たい音を引き連れていた。見なくてもわかる。槍に鎧に馬具に盾。戦が始まろうとしている。巫女姫に就任して以来、初めて迎える大規模なものだった。 ティリクティアはそっと部屋を見回した。元々きっちり整頓する人だったが、今は普段以上に簡素だった。壁にかけられた盾と剣が、ろうそく明かりの中で陰影を濃くしている。 サラはティリクティアの教育係であるが、同時に王国を守る守護者でもある。故に彼女は明日の早朝、ここを発つ。だから、ティリィクティアには今しかチャンスがない。震えそうになる掌は拳を握ってごまかした。 伝えなければならない。自分が視た未来を。 「サラ……あのね」 「見えたのね?」 「……っ!」 間髪入れずに放たれた言葉に、はっとして顔を上げた。しまったと思うがもう遅い。きっと今自分の顔には怯えが張り付いているはずだ。サラは悲愴な顔をして、いなかった。それどころか小さく笑みを浮かべて、ティリィクティアの髪を優しい手つきで梳くものだから、訳が分からない。 「部屋に入ってきた瞬間わかったわ。あ、私、死ぬのねって」 「サラ……」 「いつ? いえ、それより戦は? 私たちは勝てるの?」 「サラ、」 「ああでも、その辺は心配いらないか。それならもっと雰囲気が慌ただしくなってるだろうし。良かった。本当に良かった」 「サラ! 私の話を聞いて!」 たまらなくなって叫ぶ。良かったなんて言わないでよ。サラの手が止まった。限界を超えた涙腺から涙があふれて、長いスカートを濡らす。 「……お願い。行かないで……」 ティリクティアは姫巫女である。生まれ持った予言の力を見出され、幼い頃に神殿へと引き取られた。その力は今にいながらにして未来の勝利をティリクティアにもたらす。 果実を割ったような累々の人山。泥と血の川。敵の指揮官の首を掲げる自国の兵。そして、一騎打ちの末に指揮官を討ち、 「嫌なの。サラが死んじゃうなんていや……。……私悩んだわ、いっぱいいっぱい考えて、悩んだけど、でも私、やっぱりサラに死んでほしくない……!」 「それは無理よ、ティア」 普段通りの口調でさらりと告げられ、頬を張られたような衝撃がティリクティアを襲う。視界が、にじんだ。 「私は守護者だもの。この国を守る義務と責任があるわ」 「でも、だって、兵士なんてサラ以外にもいっぱいいるじゃない!」 「そうね。でも、私は行きたいの」 「……どうして……」 どうしてこんなきれいな顔で、死ににいこうとするの。 川になった涙がまたはたり、顎からふるい落とされてスカートに染みを作る。涙はとめどなく溢れた。このまま体中の水分が干からびて倒れたら、サラはここに残ってくれるだろうか。 サラの手が、彼女の左胸に伸びる。金属のはじける小さな音。彼女の手の上に乗っかっていたのは、いつも身に着けているブローチだった。金象嵌の、盾の形に磨かれた黒めのう。それをティリクティアの胸元にかざし「ちょっとバランスが悪いわね」と、引出しから取り出した皮ひもを留め金に通していく。 何をしようと言うのか、言葉を詰まらせるティリクティアへ、やがてぽつりとサラは呟く。 「……このブローチはね、代々の守護者が受け継いできたものなの。私も、大切な人からこれを受け取った」 サラの横顔にふと、何か感情の揺らぎのようなものが掠める。だがティリクティアがそれの正体を探り当てるよりも早く、そよ風が攫う花弁のように、その表情は消えていた。 「だからティアが貰ってくれたら、私はとても嬉しい」 「……嫌」 ティリクティアの首にひもを通そうとするサラの手を跳ねのける。 「渡すなら、私じゃなくて次の守護者に渡して。サラが自分で」 自分でも嘘だと分かりきった言葉だった。サラが苦笑する気配があった。 「それができないからあなたに頼むのよ、ティア」 サラの手がティリクティアの頬を撫で、涙をぬぐっていく。たこのできた、固い武人の手。ティリクティアは目を閉じる。 「私はね、ティア。今とっても幸せなの」 「嘘、嘘よ。死ぬのが怖くない訳ない……」 「嘘じゃないわ。だって私は大好きな人たちを自分の手で守ることができるんだもの。」 歌うように、サラは言う。閉じた瞳を空かして、慈愛に満ちた視線を一身に浴びた。 「あなたが生きて、呼吸をして、走って、お勉強に退屈して、ベリーのパイを食べて、美しい花を見て。晴れた日は暖かい日の光を浴びて、雨の日は雨音のリズムを楽しんで、夜は安らかに眠って、笑う。私はそれが嬉しい。あなたが生きているだけで、私は幸せなの。その時私が隣にいられないのは少しだけ寂しいけど、でも私はあなたに会えて本当に良かったと思ってる」 いつの間にか反対の手が背中に回っていた。ポン、ポンとあやすようなリズムで叩かれる。 「大好きなティア。最後に一つだけ、お願いを聞いてくれない?」 「最後なんて言わないで……」 「……この国を守って。私たちの国を、民を、あなた自身を守って」 私にはもうできないから。付け加えられた言葉はしかし、ほんの少しだが語尾が震えていた。 泣きすぎたせいか頭はぼんやりと重たかったが、上がっていた熱は少しだけ引いていた。サラの胸に額をこすりつける。猫の子になったみたいだと思った。 「……から」 「うん?」 本当はこんなこと、言いたくなかった。泣いてわめいて、姫巫女の権力を振りかざしてでもサラを止めようと思っていた。けれどサラの決意が痛いほど、胸に刺さるから。暖かくて優しいサラの思いが、わかってしまったから。 「……お仕事、ちゃんとやる。お勉強もいやだけど頑張る。国も民もちゃん、ちゃんとまも、守って見せるから、だからっ……! だからサラも、サラのことちゃんと守ってっ……!」 どうか未来を変えてと叫んで、ティリクティアはぎゅっとサラに抱きついた。サラは何も言わずティリィクティアを抱きしめ返す。ティリィクティアはずっとそうしていたかったけど、「終身の時間ですよ、姫巫女様」とサラがいつもの教育係の声で言うので、「サラはやっぱりサラだわ」と、身体を離して少しだけ笑った。 サラがかけてくれた黒めのうの盾のブローチは、思っていたよりずっと重かった。 翌朝はサラの見立てた通りの快晴だった。 数週間が経ち、戦場から一通の短い文が届いた日も、やはりよく晴れていた。
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