オープニング

 インヤンガイの根本を支えているのは膨大な霊力だ。住まう者たちは霊力を利用することで日々の生活を送っている。むろん、これは暴霊と化したものにその日常を脅かされる可能性の強大さをもはらんでいるのだが。
 そのインヤンガイの一郭、封箱地区。
 先ごろまで、五大マフィア組織のひとりとして名を知らしめていたウィーロウ率いる暁闇の統治下にあった街区だ。しかしウィーロウは死に、暁闇も必然的に瓦解した。ウィーロウの魅了の支配を受けていた者たちもまた、その際に余すことなく死滅した。その中にはウィーロウの情婦ランファも混じっていた。
 支配する者をなくした街区はひととき大きくざわめきもした。けれど、封箱地区に住まうほとんどの者は、そもそもにしてどこか生気に欠いていた。すぐに関心を無くし、常とほとんど変わらぬ生活を取り戻し始めたのだった。
 ――否
 人々が唯一気にかけていたのは、たびたび生じるようになっている地面の揺らぎに関することだ。
 
 インヤンガイの霊力を過剰に奪取していった何者かがいたのだという、根拠の薄い証言が出回っていた時期もある。それも続けて二度もだ。それに関連してか否かは確かではないが、いずれにせよ、地震が起こり始めたのは確かにその流言が示す時期と合致するのだという。地の揺れは次第に強く大きくなってきている。封箱地区の、半ば積み木を積み上げただけにも等しい居住区域のあちこちでは、地震に伴う建物の崩壊がすでに数件ほど数えられていた。
 ――まして、
 封箱地区の地面下には地下街区が広がっている。暗房と称され、立ち入りを忌諱される場所だ。 迷路状となっているそこには影魂と称されるもの――暴霊がうごめいていた。また、暗房に長く身を置くと、中には自らが抱え持つ妄想によって生きたままに暴霊に近しいもの――変飛と称されるものに変じてしまうこともある。ゆえに人々は暗房への立ち入りを忌避していた。何らかの理由で暗房に立ち入り、影魂に殺されてしまうのも、変飛と化し暗房に留まることとなっても、それは当人の問題だ。中には暗房に立ち入った知己の救出を願う者もいたが、それもごく一部。大半の者は見て見ぬ心算でいたのだ。
 時おり耳にする、近接する他街区の完全封鎖。あらゆる術をもって街が閉ざされていく。そういう決着を迎えるまでにどのような経緯があったのか、封箱地区に住まう者のほとんどには知る術もない。関心もない。
 ただ、足元を襲う揺らぎが、いつか街を壊してしまうのではないか、と。
 ――地下にあるものたちが地上にあふれ出てきて自分たちを襲うのではないか、と。
 そればかりが危惧の種だった。

 
「願イヲ叶エテアゲルワ」
 痩せ細り、枯れ枝のようになった指を伸べて、全身を黒布で覆った女は言う。窪んだ眼光ばかりが不自然なほどにひらめいていた。
 伸ばされた指を手にとって、老いた男が膝をつく。
 
 小さいながら、かつてはそれなりの賑わいも見せた小劇場。今はもう点滅することもない電飾で飾られた看板には”龍活劇場”という文字が記されていた。
 男は言う。もう一度、この劇場が賑わうところを見たい。観客としてその中に混ざりこみ、繰り広げられる技芸を楽しみたい。
 あの頃の自分はまだ若かった。今よりもずっと壮健な身体を持っていた。女も男もかまわず抱いた。何もかもがきらめいていた。
「この劇場が賑わえば、俺もきっとまた若くなる。分かるんだ。だから、なあ、もう一度」
 もう一度、もう一度、否、何度でも。
 痰混じりに咳き込む男の懇願に、女の眼光が光彩を放つ。
 男の頬を撫で、顔を覗きこみ、女は応えた。
「――リィァォジェ」

 ◇

「インヤンガイの地下に広がる空間のひとつが崩落するとの予言と、暴霊の暴走が生じるとの予言が出ています」
 世界司書ヒルガブが口を開けた。
「先ごろ、インヤンガイにおいて、膨大な量の霊力を吸収したロストナンバーたちがいました。その影響もあるようですが、いずれにせよ、地下が崩落すればその上に建つ街の大半も崩落するでしょう。また、ご存知の通り、インヤンガイにおいてロストレイルの発着ターミナルとして使用している場所も地下にあります」
 つまり、地下の崩落の規模によっては、発着場として使用している場所への影響も懸念されるということだ。
「該当街区――封箱地区の地下は暗房と称されていますが、つまるところ、暴霊域のことです。そこには影魂と呼ばれるモノや、変飛と呼ばれるモノがいるのだそうです。暴霊が人形などにとり憑き可動できるようになったモノと、暴霊が放つ陰気に中てられ心神を病んでしまった方を指す言葉だと思われます」
 言いながら、司書は小さな息を吐く。
「この地区にはまだ住人も多くいます。崩落すれば多くの死者が出るでしょう。街そのものは封鎖されて終わるかもしれませんが、仮に生存者がいたとして、それを残したままの封鎖は、あまり歓迎されるべきものでもありません」
 言いながら書を閉じて、ヒルガブは息を吐く。
「また、崩落し、地下にこもる暴霊たちが万が一に地上に解放されれば、やはり地区は封鎖されるでしょう。もっとも、仮に崩落を止めたとしても、暴霊域が無くなるわけではありません。脅威は以降も続いていくでしょう。いずれにせよ、あまり歓迎される展開にはなりそうにありませんが」
 四枚のチケットを取り出して、ヒルガブは続けた。
「……しょうじきなところ、私にはどの手段を選択するのが正しいのか、わかりません。……地下に続く入り口は数箇所あったようですが、地震による崩落の影響を受け、今はもう、龍活劇場という建物の奥から通じる場所しか残されてはいないようです。この劇場を封じるなどの処置をすれば、あるいは、手も打てるのでしょうか」
 
 言葉を淀ませながら、ヒルガブはチケットを差し伸べる。

「地震を収めるには、先だって大きく削られた霊力が戻るようにするのがいいのかもしれません。――龍活劇場に関する予言もひとつ出ています。それによれば、ほどなく劇場の内外に多くの暴霊が集い、住人たちを取り込み、喰らっていくだろうということです。暴霊の暴走です。ですがこれによって霊力はいくらか蓄積もされるでしょう。地盤の揺れも安定するかもしれません。……しかし、その結果、地区は文字通りのゴーストタウンと化すでしょう。けれど皆さんには、その暴霊への対処をお願いすることにもなります。しかしそれは地区の崩落をも意味することにもなるのです――どうするのが正しいのか、……」
 それきり、ヒルガブは表情を暗くして口をつぐんだ。




◇ ◇ ◇

当シナリオは、時系列的に、ロストメモリー誕生の儀式執行の前に生じたものとお考えください。

品目シナリオ 管理番号2946
クリエイター櫻井文規(wogu2578)
クリエイターコメント久しぶりのシナリオです。ホワンイン クワンリン、ホワンイン クワンリン。ようこそようこそ。当シナリオのOPをお目に止めてくださってありがとうございます。

今シナリオの目的としては、基本的には暴霊の暴走に対する対処がメインとなるかもしれませんが、ヒルガブが唸っております通り、あまりベストなルートはご用意しておりません。
よって、暴霊を滅するなり滅しないなり、OP中に出ている男女に接触するなりしないなり、封箱地区の封鎖をしちゃったりしなかったり等など、行動は皆様方の自由とさせていただきます。いただいたプレイングを総合させていただき、インヤンガイにおける櫻井のオリジナル地区の末尾を決させていただきます。
なので、わりと高い確率で、混沌としたノベルとなるかもしれません。それでもよろしければ、ご参加、心よりお待ちしております。

なお、櫻井がインヤンガイ舞台で出す通常シナリオは、今作でラストとなる予定です。

参加者
ジャック・ハート(cbzs7269)ツーリスト 男 24歳 ハートのジャック
アコル・エツケート・サルマ(crwh1376)ツーリスト その他 83歳 蛇竜の妖術師
ヴィヴァーシュ・ソレイユ(cndy5127)ツーリスト 男 27歳 精霊術師

ノベル

 初めの内は強い耳鳴りのようにも思えただろう。異質なものが強制的に送り込まれることに因る違和感。例えば注射針や器具類が身体の中に潜りこんでくる際に体感するそれは、その感覚に不慣れな者であれば一層強い違和を伴い、心身を伝達して廻るのだろう。
 眼下に広がるのは下卑たネオンや電飾に覆われた函の街区だ。インヤンガイという世界には数多の街区が存在している。互いに干渉を持たず、互いに関心を寄せず。そういう意味では数多の箱庭から成る世界だと考えてもいいのかもしれない。
 これまでも幾度となくインヤンガイを訪ねて来た。そのたびにあらゆる者たちと出会い、見聞を重ね、時にはその手で引導を渡す事も重ねてきた。――ジャック・ハートはほんのひと時の間、封箱地区という小さな街区の風景を検めた後、能力範囲幅離して飛行を行使していた。超高々速な移動を続けるのは心身への負担は少なからず寄せ来るものだ。しかしジャックは厭う事なく、まさに上空から幅の広い大きな刷毛で塗り広げるようにしながら、さらに強制的な精神感応を押し広げ、街区の住民の隅々に至るまで伝播させるために”声”を放ち続ける。
 ――『龍活劇場から暴霊が湧くこれから街区が全面崩落する逃げろ逃げろ逃げろ……』
 幾度も幾度も同じ声を伝播させながら、ジャックはひたすらに上空を駆ける。
 ――人が助かりゃ、街区なんぞ潰れちまってもいいだろォが
 インヤンガイに向かうロストレイルの中、己が放ったその言葉の通り、まずは住民たちの避難を誘導するための行動をとる事にしたのだ。
 地下が崩れ、街区が崩れる事で、もしも仮にロストレイルが発着するための場にも影響が及んだとしても、構う必要も感じない。
 ――俺たちが世界図書館に必要なら助けも来るってもんだろォし、来なけりゃそれまでの話だろォが。簡単な話じゃねェか。
 どかりと座り足を組んでヒヤヒヤと笑いながら、そう告げた。あの言葉には一片の嘘もない。ゆえにジャックは駆けた。足場の無い宙を蹴り、マフィアたちとの因縁を思い出しては、わずかな歪みを浮かべながら。

 アコル・エツケート・サルマはロストレイル号を後にして、先だって生じた騒乱――甦ったインヤンガイのマフィアや悪党たちによるそれが起きていた街区へと向かっていた。
 アコル自身は、その騒乱へ足を向ける事はなかった。が、報告書や伝手などから情報の見聞は済んでいる。その折、舞台となった街区のいくつかは封鎖されてしまったという。――しかし、その騒乱が生じた際、何の関わりも持たず、ただ運悪く巻き込まれ死んでいった者たちも少なからずいただろう。いずれにせよ、霊と成り他に影響をもたらすほどの霊力を保有するに至るには、相当するだけの思念というものが必要となる。不慮の死に瀕した時に抱く強い感情。――悔恨、憎悪、執着。望まぬ、理解に値しない死を迎えてしまったならば、人は霊と化して霊力を有する事もある。
 封鎖された街区への立ち入りは不可能となっていた。インヤンガイに存在する能力者たちが、個々の術をもって内外からの封鎖を結し、新規に立ち入る事も脱する事も叶わぬ、完全に閉ざされた空間へと変えるのだ。
 ――しかしそれも物質的なものであるはず。如何な有能な術者であっても、万全たる封じを施す事は容易ではないはずだ。ましてそれが形を持たぬ霊的なものであるならば尚のこと。……ならば綻びである小さな穴を見つけ、そこから、閉塞された空間の中を永続的に徘徊する事になってしまった憐れな霊たちを集め、誘導してやる事は可能なはず。
 まして、霊を操る術を持つ妖術師であるアコルであれば、なおさらに、それは高い可能性へと変じていくだろう。
 閉ざされた空間――かつては人々の住まう街区であったそれを前に、アコルは金色の双眸をするすると眇めた。
 まぁ、霊力を削ってしもうたのはワシの責任じゃしのぉ。
 ロストレイルの中、アコルはそう言ってため息をついた。
 ついつい、カーッとなってしもうたんじゃよ。あの時は、フランの嬢ちゃんが、こう、ワシの頭にカチンときてのぅ。まぁ、ムカついたというやつじゃ。
 そう続けたアコルに、ジャックが緑色の眼光をチロリと向けた。
 今は瓦解し消滅してしまったマフィア組織、暁闇。その長であったウィーロウ。彼の魅了に憑かれしばらくの間ターミナルへの帰還を果たさずにいた恋人の安否に思い悩み、対イグシスト用の試験兵器を使って単身インヤンガイへ乗り込んだ少女、フラン・ショコラ。その騒ぎの際にインヤンガイを訪れたアコルと同席していたのが、他ならぬジャックだった。
 アコルは申し訳なさげに目を瞬かせ、すまんすまん、反省はしておるのじゃよ? そう続けた。が、アコルとジャックの間に漂う空気には明らかな亀裂が走っている。
 その様をしばらく黙したままに見据えていたのは、仕立ての良いスーツを身にまとい、顔面の右半分を白皮で作られた眼帯で覆い隠すという出で立ちの青年、ヴィヴァーシュ・ソレイユだった。

 ヴィヴァーシュは冷えていく空気を気にかけるでもなく、涼やかな緑色の眼光をひらめかせていた。
 コンパートメントに浅めに座り、わずかに身を乗り出して、膝の上で重ねた右手の指先にタバコがないのを検め、何か言いたげに肩を小さく落とす。それからゆるゆると隻眼を持ち上げて、ジャックとアコルを見定めて口を開けた。
 ――私は貴方の意見に賛同します、ジャックさん。
 静かにそう告げた。ジャックとアコルの視線が同時にヴィヴァーシュへと向けられた。
 地区内に住民を残したままで封鎖を施術するのでは、これから生きていくのにも困るだろう。いずれ崩落の一途を辿り封鎖される運命にあるのだとしても、わざわざその時期を早めてやる必要もないはずだ。まして、その流れの一環に関わってきたのは自分たちロストナンバーだ。外界から来た者たちの手によって、インヤンガイは大きな変革を迎えもしただろう。派手な関与さえ避けていたら、あるいは、閉鎖され閉鎖される街区の数も、もっと少なく済んでいたのかもしれない。
 ならばせめて、封箱地区という小さな街区に住む人々に、その場に住む事が出来るのはいつまでなのか、なるべくならば早期に他街区への移住を進めていく等の手段を選択させる事も出来るのではないか。災厄は降りかかろうとしているのは他者ではなく自身の上なのだと理解させ関心を持たせる事が出来れば、あるいは、これ以上に無駄な死人を生み出させる流れから外す事も出来るのではないか。
 ――考えが甘いのかもしれない事は理解の上です。
 きっぱりと言い切ったヴィヴァーシュに、ジャックが頬を大きく歪めた。アコルはふと視線を外し、窓の外を見やって口を開く。――もう着くようじゃな。

 ◇

 かくしてインヤンガイへとたどり着いた後、それぞれ思うままに動き姿を消してしまったジャックとアコルを送った後、ヴィヴァーシュはひとり、封箱地区へと向かった。
 煌びやかな電飾が隻眼を照らす。品があるとは決して言えない光彩に、ヴィヴァーシュはわずかに表情を曇らせて眉間を撫でた。
 大概の世界には精霊という存在がいる。世界を端から端まで満たす万象の精霊に語りかけ、働きかける事を可能とする精霊術師であるヴィヴァーシュにとり、インヤンガイという世界の空気は快いものではなかった。それでもむろん、精霊と称するべきであろう存在は視界の端々に見えはする。だがそれも、その数を遥かにしのぐ霊力を前にしては、その影響力も存在自体もとても薄いものとなっている。
 加えて、今はもうひとつの要因もある。
 ヴィヴァーシュは上空を仰ぎ見て隻眼を眇めた。
 常人の目では追う事も届かぬほどの高速で、街区の上空を駆け回っているジャック。彼が放つ”声”は頭の中に響くような、というほどに弱々しいものではない。誰彼かまわず力ずくでねじ込むようなものだ。
 ――逃げろ逃げろ逃げろ
 ジャックの声が頭の中で繰り返し繰り返し響く。
 けれどこれでは、まるで強烈な洗脳だ。それでは人々が皆動くとは思えない。ましてここはインヤンガイだ。むろん、怪しげな宗教や団体という存在も多くいるだろう。あるいは霊力による影響だと判じてしまわないとも限らない。
 考えつつ、ヴィヴァーシュは辺りに潜む住人たちを見渡した。どれも皆、生気の感じられぬ面持ちで頭を抱え、うずくまり、何事かわめき散らしている者もいる。
「ジャックさん、その声掛けでは、もしかしたら逆効果になってしまうかもしれない」
 上空を仰ぎ呟いてみた。その声がジャックに届いたかどうかは分からない。

 一方のジャックは、小一時間ほども上空を駆けていただろうか。不意に動きを止めた。

 ◇

「ほう」
 龍活劇場の入り口を前にして、アコルは小さく頷いた。
 視線の先にいるのはヴィヴァーシュだ。ヴィヴァーシュはアコルの声を耳にすると肩越しに振り向き、小さく頭を下げて礼をする。アコルは、本来ならば体長十メートルを超す蛇竜という。その巨躯は目の当たりにすれば、きっと想像以上に圧巻なのだろう。
 ヴィヴァーシュに礼を返すように、アコルもまた小さく頭を下げた。それからヒョヒョと笑いながらヴィヴァーシュに――否、劇場の入り口の前まで近付いた。
「この劇場に未練を残す男女がいるのでしょうか」
 ヴィヴァーシュがアコルに問う。アコルは小さなうめき声をあげて、金に閃く眼光をヴィヴァーシュへと向ける。
「さぁて、の。そこまでの情報は司書にも分からんのかったのじゃろう。なんにせよ、この中に霊たちが集っているという事なのじゃろう? 霊が集うという事は、集めるに足るものがあるという事じゃ。引き寄せられているのか、……それとも、無理やりに寄せられているのかもしれんのう」 アコルの声が意味深げに低く落ちる。ヴィヴァーシュはアコルの視線を見据え、次いで再び上空を仰ぎ見た。
 劇場のすぐ上に、サイコシールドで全身を覆い包んだジャックがいた。
 半径二メートルほどのシールドは球形をしている。常であれば緑の双眸も、能力を揮っている現状では紫色に変じていた。
 青銀色の髪がなびいている。撫で付けるように持ち上げた片手でかおの反面を包み隠していた。
 アコルが小さく笑う。
 ジャックが全身にまとうのは明らかなる警戒色。自分が定めた選択と異なるものを選択するであろう同行者に向けたものだった。
 アコルとジャックの視線が重なる。アコルは変わらず軽い笑い笑い声を洩らしていた。ジャックはつかの間そうして同行者たちを検めた後、再び宙を蹴って何処かへと姿を消した。
 瞬時に消えたジャックの気配を送り、アコルがかすかな息を吐く。
「さすがに劇場ごと壊しにかかるような真似はせんじゃろう。ワシらは先へ進もうぞい」
 言いながらアコルはヴィヴァーシュを促す。ヴィヴァーシュは頷き、サビたドアノブの手をかけた。

 広がっていたのは粘り気さえ感じられるほどの闇だ。空気が饐えた臭いが満ちている。踏み入れたのは決して広くもないエントランスフロア。小さく、見るからに手狭な感のあるカウンターが申し訳程度に備えてあった。ここが劇場と名を冠する場所であったならば、客人はこの場でチケットを買い、開幕の刻限までを思い思いに過ごしていたのだろう。けれど光源を持たないその空間の中にはソファやテーブルの類は無いようだ。
 床板は踏むたびに軋みをあげ、湿気を含んだそれは所々がやわらかな感触さえ得ていて、強く踏めばそのまま抜けて落ちそうなものとなっている。
 ヴィヴァーシュは慎重に足を進めた。踏み抜けて落ちそうな床がある位置はアコルが教えてくれる。「お主がおなごであったならのう」残念そうにため息さえ落とすアコルに首をかしげつつ、ヴィヴァーシュはやがてエントランスの片隅にあった観音開きのドアを前にした。とは言え、朽ちて落ち、その用途などまるで成しそうにないドアだ。その奥にあるものなど容易に窺い見る事が出来る。
 小さな舞台を模した空間。エントランスに満ちる空気よりもさらに粘度を増しているようにも思える、深く沈んだ暗澹が広がっている。
 壊れたドアから顔だけを向こうにやって舞台の部屋を検めるアコルに、ヴィヴァーシュがそろりと口を開けた。
「先ほどはどちらへ行っていたんです?」
 訊ねたヴィヴァーシュを振り向き、アコルはのんきな面持ちで目を瞬いた。ヴィヴァーシュは神妙な表情を浮かべ、闇の中にあっても宝石のようにひらめく緑色の隻眼でアコルの姿を見つめる。
「アコルさんの周りを包むもの……それは霊力と呼ぶものですよね。それが、ロストレイル号の中にいた時のものとは質も量も違うものになっています」
 静かな声音で断言を下す。
 アコルはわずかに驚いたような色を見せ、しかしすぐにまた常と同じ安穏とした面持ちを取り戻した。
「霊を集めてきたんじゃよ」
「?」
「この場所に霊が集まるんじゃろ。集まる目的があるからじゃ。そうでなければ無理やりに呼ばれておるのじゃろ。何にせよ、この場に霊を多く集める理由があるからという事じゃ」
 それに、と続け、アコルはゆるりと頬を歪めた。
 遠く近く、地鳴りにも似た音を交えつつ、足元が大きく揺らぐ。
 アコルはそれきり口をつぐみ言葉の先を編もうとはしなかった。が、視線だけは確かに、劇場の天井へと――否、あるいはそれを越えた上空へと向いていたのかもしれない。ヴィヴァーシュもつられ視線を上げる。埃と重々しい空気、粘つくような闇、そうして時おりちらちらと視界の端をかすめる霊の気配。そのずっと上空に、ジャックの気配が見て知れる。

 ジャックは劇場を見下ろす位置で足を止め、変わらず全身を覆い包む円球に形作ったシールドの中、小さな舌打ちをひとつつく。
 封箱地区の住民たちに対し、ジャックが取った手段――強制的に伝達する形での精神感応は、さほどの効果を得る事はなかった。聴こえてはいたのだろう。だがそもそもにしてこの世界はインヤンガイという、霊力を中心とする暗鬱とした場所なのだ。頭の中にねじ込まれる形で聴こえてきた声が何者のものであれ、暴霊による誘導かもしれないという可能性の方が強く影響するのだろう。
 人々は避難しようともしない。ただ頭を重たげに抱えてうつむき、何事かをぶつぶつと呟き続けているばかりだ。 
 ――これでは、自分たちが如何なる手段を講じようとも、大きな影響を与える事など出来ないのかもしれない。
 考え、表情を歪め唇を噛みながら、ジャックは片手を振り上げた。
 そうして振り下ろされた手の先で、街区の一郭――劇場をぐるりと囲う形でシールドが張られる。
 ――これで、仮に劇場の中に霊が集い暴霊と化し、万が一に街区へと飛び出て人々を襲おうとしたとしても、ジャックが張ったシールドによって遮蔽されてしまうだろう。
「部分的な封鎖だ。……なんてナ」
 言って歪んだ笑みを浮かべ、ジャックもまた劇場の前へと降り立った。
「さァて、そろそろジイサンどもが観劇でも始めてる頃かァ?」

 ◇

 観音開きのドアを過ぎ、広がった小部屋のさらに奥、壁に開いた大きな穴が出来ていた。その穴からは地下へと続く階段があった。手狭に感じられるそれを過ぎて地下へと足を向ける。
 広がったのはコンクリートのようなもので作られた柱の数々だった。そうしてその柱に囲まれ、ぽっかりと広がった空間がある。
 アコルとヴィヴァーシュは、今、その空間の中にいた。
 朱塗りの、煌びやかな装飾のなされた布袋劇舞台に似たものがある。その台の中、不恰好な踊りを披露しているのは徳利や盃、刃に仮面。あらゆる”物”にとり憑いた付喪神――影魂と呼ばれるものたちだ。その動きに合わせ、やはり不恰好な音色を奏しているのは銅鑼や鼓、胡などの楽器から手足や目玉が生えているもの――変飛たち。
 賑々しい中で広げられているそれは、布袋人形が演じる人形劇や、あるいは京劇でも見ているかのような感覚をすら与えている。観客はアコルとヴィヴァーシュのみ。
 奇妙な観劇はひととき続き、ほどなく、アコルとヴィヴァーシュの視線が同じ場所へ――ふたりが立つ位置のすぐ後ろへ向けられる瞬間まで広げられていた。
 暗転。楽がひたりと止まり、視界は再び暗闇の中へと移される。
 刹那の後、ふたりの耳に、温く湿った空気がよせられた。
「月過十五光明少、人到年中年万事休」
 唄うように紡ぐ女の声。アコルはつと目を眇める。
「茶迎三島客、湯送五湖賓」
 女の声は低くくぐもった笑みを含み、耳元を撫でる。
「定場詩というやつじゃったかのぉ?」
 アコルが問う。女の声が笑みを落とした。
「ここじゃあ観客も少なくて寂しかろうのぅ」
 続けたアコルに、女がようようと口を開けた。
「……ナノデ、コレヨリ外ニ参ロウト思イマス」
「なるほどのぅ」
 言って、アコルは思いついたように続ける。
「そうじゃ、ワシはお主に土産を持ってきてやったのじゃぞい。おなごに会うのに手ぶらというのも色気がなかろうてのう」
 そう言うと、アコルは外の街区から寄せてきた多数の霊を解放してみせた。途端に、霊たちが放つあらゆる感情がない交ぜとなった騒音で地下の空間が満たされていく。
「お主がの、ここでこうやって劇場を賑わせたいだけならのう。ワシも加勢せん事もない。どうせ人間どもの事じゃ、放っておいても勝手に観劇に足を運ぶじゃろ? ワシも暇があればこうして寄らぬ事もない」
「……ホウ」
 女が笑う。
 闇の中、女の姿が浮き出るように現われていた。顔に穿った一つきりの眼がゆらゆらと歪む。
「私は、貴方方が、この劇場に何かしらの未練を遺しているのではないかと思います」
 ヴィヴァーシュが口を挟みいれた。女の眼が糸のように細められる。
「――報告書をいくつか読みました。この地下はかつて、地下街区として存在していた住居地であったようですね。貧困層に類する方々が多く住んでいらしたそうですが」
 そう続けながら、ヴィヴァーシュは確認してきた数件の報告書を頭の中で反芻する。
「マフィア組織暁闇によって行われた生体実験のようなものがあったと言いますが……」
「そうなのかの?」
 アコルが目を瞬いた。
 
 刹那。

 女の胸を、一本の腕が貫いていた。
 女の口許が大きく歪む。
 その後ろに立っていたジャックの顔には感情と呼べるようなものは欠片も無い。何をも思わぬ目で女を見据え、そうして貫手を引き抜いた。
「やっぱり生身の人間じゃァねえよなァ」
 言って、引き抜いた手を大きく振る。血溜まりを払い落とすはずのその腕は、何をも落とす事は無い。
 女がゆらりと蠢く。合わせるように、止んでいた楽の音が再び闇を揺らした。
「……未練ナド持チ合ワセテハオリマセンノ」
 女の声が紡ぐ。
 霊を宿した付喪神どもが踊り舞う。かつては人間であった変飛どもが楽を演じる。
「主モ死ンデシマイマシタモノ。ワタクシドモハ自由デスワ」
 言って、女は蛇のように床を這いまわり、闇の奥に倒れていた男の身体に跨った。そうして大きく縦に揺れながら舌なめずりをする。
 男は身じろぐ事もない。身体のあちこちを齧り散らかされた痕が見える。血だるまとなっているその上で、女は享楽の声をあげるのだ。
「モット派手ナ劇ニシタイノデスワ。ユエニ楽師モ人形師モ口白モ、モチロン客モ集メナケレバ! ソレガコノ男ガワタクシニクダシタ命デスモノ!」
 女の享楽に合わせ、不恰好な――けれど不思議と様になっているようにも聴こえる楽の音が響いた。
 
 ジャックの眉間に皺が寄る。だが、ため息を落とし、半歩を歩みかけたその動きを、アコルの声が押し留めた。
「なるほど、のぅ」
 穏やかな声。だが次の瞬間、アコルの尾が霊力をまとい、女の身体を大きく叩きつけた後、きつく締め付けるようにしながら捕らえていた。
 アコルは穏やかに笑う。尾で巻いた女を顔のすぐ近くにまで寄せて、混沌を映したような一つ目を覗きこんだ。
「ワシの霊力を使えば、お主ごとこの域を押さえつける事など容易なんじゃよ。しかし今は使わぬわ。さっきも言うたじゃろう? ワシが寄せてきた霊たちもおる。バカな人間どもは向こうから勝手に喰われに寄って来てもくれるわい。――ようは、飢えておったのじゃろ? 魂なんかから霊力を吸っておるのじゃろ? 生きるためなのじゃろ?」
 言いながら、横目にちらりとジャックを見る。ジャックもまた、変わらず警戒心をまとったまま、アコルをねめつけていた。
「外の世界の力でどうにかするばかりではよくないでのぉ。……まったく、『街区を崩壊から守る』『あまり影響を残さない』「両方」やらなくっちゃあならないってのがワシのつらいところじゃな」
 ため息をもらし、アコルは笑う。
「根源があるなら、それを説き伏せるというのも手段のひとつじゃよ」
 誰に向けたものでもない言葉を紡ぎ、アコルは女を覗き込む。
 尾の先にまとっていた霊力の端は女に注ぎ足してやった。これで女はしばらく飢えずにすむだろう。
「暗房の中で大人しくしておれ。マフィアはほとんど壊滅したのじゃ。ここはお主らだけの居住区であろうて」

 ◇

 ロストレイル号がインヤンガイのターミナルを静かに滑り出る。
 三人はやはり、互いに言葉を交わすわけでもなく、ただ静かに窓の外を見ていた。
 が、不意にアコルが顔をあげ、離れた位置に座るジャックに向けて声をかけた。
「そういえばお主、何やら面白い事も呼びかけておったの」
 アコルの声に、ジャックがわずかに目を持ち上げる。ヴィヴァーシュもアコルを見据えた。アコルは続ける。
「”ここを潰したのは俺と”――はて、なんじゃったかのう」 
 
 ジャックはアコルをねめつけた後、頬に歪んだ笑みを浮かべる。
「……食えねえジジイが」
「ホホ」
 対するアコルもまた頬を歪め、笑みを落とした。
 ヴィヴァーシュだけが首をかしげる。
 ――否、本当はヴィヴァーシュにもまた伝わっていた。

 ◇

 ――――ここを潰したのは俺とヴェルシーナだ。好きな方を殺しに来い
 

クリエイターコメントまずは過分なお時間をいただきましたこと、深く深くお詫びいたします。
お待たせしましたぶんも、少しでもお楽しみいただけましたらさいわいです。

さて、これにて櫻井によるインヤンガイシナリオは幕をおろさせていただくはこびとなる予定です。櫻井らしい色を描写できていればと思うのですが、いかがでしょうか。

>ジャック様
ジャックさーん(手を振り)
今回は残念ながらプレイングの取捨率の幅が高かったように思いますが、個人的にどうしてもいれたかった一文を投下させていただきました。この一文がじつにジャックさんらしいと思います。

>アコルさん
アコルさーん(薄い本を振りながら)
今回も前回に続き、全体のメイン軸として使わせていただきました。プラスしてだいぶ捏造もやらかしているのですが、問題ないでしょうか?
ネタもいれてみました。

>ヴィヴァーシュ様
ヴィヴァーシュさーん!(手を振り)
今回の参加メンバーの中、一番の冷静どころとさせていただきました。
プレイングの取捨が大きくて申し訳ありません。が、じつはなにげにヴィヴァーシュさんが一番食えないお人なのでは? とにおわせるような描写もいれてみました。

それでは、重ね重ね、ご参加ありがとうございました。
またのご縁、心よりお待ちしております。
公開日時2013-10-18(金) 22:20

 

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