豪華客船『クイーン・アリス』号は、世界三大運河のひとつ、スエズ運河を航行していた。海上を進んでいるのに周囲の景色が砂漠であるのも、旅情ゆたかである。 寄港地のアカバではペトラ遺跡を、アレキサンドリアではギザのピラミッドなどを観光しながらも、船内のシアターでのミュージカル鑑賞や、クイーンズルームでオーケストラの演奏を背に舞踏会を楽しんだり、カジノに興じたりなど、ナイトライフも華やかで優雅だった。 施設は充実しており、三層吹き抜けのダイニングルームと四層吹き抜けのショッピングモールに加え、カジノ、ビューティサロン、クリニック、カフェ、ワインバー、ジャズクラブ、スパ、プール、フィットネス、劇場、図書館、ヘリポートなど、多種多様であった。 この船舶の所有者は、ザ・パンゲア・ペトロリアム・カンパニー・リミテッドグループ最高業務執行役員、アーサー・アレン・アクロイド。ごく非公式な試運転クルーズということで、いっさいのマスコミをシャットアウトし、各界のセレブリティが多数、招待されていた。 集う人々は誰もが、スクリーンの中で、あるいは新聞・雑誌などで見覚えのある綺羅星たちだ。さらには、現代では君主の座から降りて久しい、欧州やロシアの名家の末裔たちも、お忍びで加わっているという。 ひとりひとりの動向が単体でスクープ記事になりそうなビッグネームばかりであるのに、その輝きがあまりにも強すぎてかえって目立たない、不思議な世界―― 砂漠の蜃気楼のような非日常の空間が、そこには形成されていたのだった。 † † †「チッ! ガラじゃねぇんだよ。やってられるかよ」 小気味のいい舌打ちを響かせて、ファルファレロ・ロッソは、シャープに整った唇を思うさま歪ませる。 その表情だけを見るならば、相変わらずの野放図な彼だ。だが、彼をよく知るもの、たとえば実の娘などがここにいたならば、今日のいでたちのあまりのギャップぶりに、いったい何が起こったのかときっかり3分は固まってしまうに違いない。 おそらくはオーダーメードであるのだろう、素晴らしく上質な銀鼠色のビジネススーツを身に着け、いつもは無造作に散らしている黒髪をオールバックにし、綺麗に撫でつけている。喋ったり動いたりしなければ、十分に大企業の有能な役員秘書で通用する外見だ。「……やっぱり、こういう場って、緊張しますね」 その隣では、やはり同様に、しなやかな濃茶色のスーツを着こなした相沢優が、若干不安そうにネクタイの位置を直している。こちらは、初々しい第二秘書といった風情だった。「おふたりとも、大変よく似合ってらっしゃいますよ。本日は私の秘書という役回りですので、そのように振る舞っていただければさいわいです」 アーサー・アレン・アクロイド、すなわちロバート・エルトダウンは、いささか形式ばった言い回しで、ファルファレロの悪態と優の困惑を受け流す。「オレの設定は、酔狂で特殊メイクのまま参加した、おまえの友人の映画俳優ってことでいいんだよな?」 ウエイターがうやうやしく差し出したシャンパングラスをおもむろに受け取り、マフ・タークスは周囲を見回す。「もし、誰かに聞かれたらそうお答えください。特にその必要もなさそうですけどね」 ロバート卿のいうとおり、異形の猫型獣人である彼の容姿を、セレブたちは誰も気にしてはいなかった。むしろ、マフと目が合ったレディたちは、「素敵な毛並みでいらっしゃること」と、親しげな挨拶と微笑みを返してくる。「で、私たちは、招待客ってことでいいんだね?」「アーサーさん。本日はお招きいただき、ありがとう。とても楽しんでいるわ」 ベルダは、あでやかなルビーレッドのロングドレスに身を包んでおり、幸せの魔女は、雪の結晶を編み上げたような白のドレスをふわりと纏っている。どちらも、見事な貴婦人ぶりであった。「ありがとうございます。美女ふたりにお越しいただきまして、光栄です」「私が来たからには、すべてに幸運をもたらすことになるわ。貴方を殺させはしないし、姫君を殺人犯にしたりはしない」 幸せの魔女の言葉は、そのまま、今日の趣旨であり、彼らがここにいる理由でもあった。…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―… 親愛なる、アーサー・アレン・アクロイドさま ご忠告申し上げます。 女王アリスに海上で抱かれるときは、どうぞ身辺にお気をつけください。 貴方さまに傷つけられた姫君が七人、 美しい胸元に殺意を秘めておられますゆえに。…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―…―… ロンドン本社宛てに送られてきたというその封書に、差出人の名は記されていなかった。 殺人予告とも取れるその内容を、しかし当初、ロバート卿は気にしてはおらず、「殺したいほど憎いのなら、好きにすればいい。むざむざ姫君に命をささげるつもりもないけれど。……まあ、一度、殺し損ねれば気が済むだろうからね」 などと言っていたのだった。 それでも、もし、リゾートがてらのボディガードを楽しんでみたいというロストナンバーがいれば船旅に招待しましょう、という流れになり、この場につながったのである。「七人の姫君に、心当たりはありますか?」「そうだねぇ。彼女らはすでに一般女性だし、そもそも、傍系のごく薄い血縁をたどっただけで『姫君』と称していいかは疑問だが」 優の問いに、ロバート卿はあっさりと答える。「クラリーチェ・ボルジア。アンジェリカ・メディチ。イゾルデ・ホーエンツォレルン。ブリュンヒルデ・ハプスブルク。マリー=テレーズ・ブルボン。アレクサンドラ・ロマノフ。リュシエンヌ・ボナパルト。みな、招待客に含まれている」「はん。そりゃあ、いい趣味だ。いや、悪いのかな?」 ファルファレロがそう吐き捨てながら、自分の前髪を乱暴に乱す。いささかワイルドな役員秘書になってしまった。「揃いも揃って、そんな豪華絢爛な顔ぶれに恨まれているとは、穏やかじゃないね。あんたいったい、何したんだい?」 ふっと笑みを浮かべるベルダに、「特に、何も」 と、ロバート卿は言うだけだ。「何もってことはないだろう?」「強いていうなら、彼女たちの誇りを損傷してしまった、ということでしょうかね。みな、それぞれに美しく聡明だが、それぞれに無用なプライドを捨てきれず、だから、それぞれに愚かしい女性たちなので」「そんなことをはっきり言ったんじゃないだろうね?」「まさか。ですが、感じ取りはしたでしょう。そう思われていることを」「だったら、刺されても文句は言えないね。人間、図星をさされると、何より腹が立つものさ」「至言ですね。しかし僕は、彼女らの誰かと、人生をともにするわけにはいかない身なので。嫌われるようにしむけるしか、なかったのですよ」 =========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ファルファレロ・ロッソ(cntx1799)ベルダ(cuap3248)幸せの魔女(cyxm2318)マフ・タークス(ccmh5939)相沢 優(ctcn6216)=========
──── Dining room/レディ・ベルダ&プリンセス・ボルジア ──── 「……ったく。本当にあんたを殺したいなら、こんなもん送りつけてくると思うかい?」 ワインレッドのマニキュアで彩った指先に封書を挟み、ベルダはロバートの頬を撫でる。 「と、仰いますと?」 「わかってるはずだよ? 自分の想いをまだ捨てきれていないお姫様が、あんたに未練があるってだけの話じゃないか」 「そう、思いますか」 「女と別れる時は、スマート過ぎてもまずいってことだよ。嫌われるように仕向けたのは、あんたの彼女たちへの優しさのつもりなんだろうけどね」 「この事態を招いたのは、僕の不徳によりますので。配慮不足だったのは、認めます」 多少なりとも反省はしているらしいロバートに、ベルダは笑みを浮かべる。 「まぁ、面白そうだから、つきあってあげるよ。手始めに、そうだねぇ……」 ダイニングルームまで、エスコートしていただけるかしら、ミスター・アクロイド? いとも優雅な仕草で、ベルダはロバートと腕を組む。 ダイニングルームにいた人々は、ふたりの姿を見て、小さく歓声を上げた。 (あのご婦人はどなた?) (アーサーさまの、新しい恋人かしら) (大人の女性がお好みでいらっしゃるのね。とてもお似合いだわ) 広い丸テーブルに、たったひとりで座っている金髪の少女がいた。クラリーチェ・メディチだ。 なぜかアフタヌーンティーセットをふたつ、前にしている。 ベルダとロバートを見るなり、クラリーチェは、はっと顔色を変えた。 それを確認して、ベルダは、ロバートの首に両手を回す。 「女の嫉妬ってのはさ、裏切った男よりも、他の女に向けられることが多いんだよ」 「……意図は了解しましたが、それでは貴女が危険ですよ」 「私が恋人役じゃ、不満かい?」 「いいえ。光栄の極みです、レディ・ベルダ」 ふたりの唇が近づき、重なりかけた、その瞬間―― ティーポットを持ち上げて、クラリーチェが立ち上がった。 ベルダに向けて、その中身がぶちまけられる。 ルビーレッドのロングドレスが、紅茶を浴びて台無しになるかと思われたが。 ベルダはひらりと身をかわした。 ロバートの白いスーツには、飛沫ひとつかかっていない。 「ごめんなさいね、クラリーチェ姫。アーサーも、私も、毒入りの紅茶を飲む趣味はないの」 たおやかに言うベルダと、そしてロバートを、クラリーチェは睨みつける。 「せっかく忠告したのに、ひどいこと、するのね」 そしてプリンセス・ボルジアは、ダイニングルームから退場した。 ──── Library Room/セクレタリー・ロッソ&プリンセス・ロマノフ ──── 図書室の机には何冊もの、古典的な経済学の本が山と積まれている。 『雇用・利子および貨幣の一般理論』『金本位復帰と産業政策』『講和の経済的帰結』など、古めかしいタイトルとはうらはらに、それらを読んでいるのは、長い銀髪の巻き毛とすみれ色の瞳の、愛らしい少女だった。 (それにしても) 15歳と聞いていたが、アレクサンドラ・ロマノフは、もっとあどけなく見える。 (ヘルと同い年じゃねえか。ロバートの奴ロリコンかよ) つかつかと歩み寄ったファルファレロに、アレクサンドラは顔を上げる。 「誰?」 秘書の肩書きが記された名刺を、ファルファレロは無造作に渡した。 「アーサーさまの秘書……? あなたが?」 手に取るアレクサンドラの白い顎を、くいと、片手で掴み上げる。 「何を……!」 「おめあてはアクロイド殺しか? それにしちゃ、お堅い本を読んでるじゃねぇか」 「……世間知らずだって、いわれたから。今は勉強しなさい、きみはまだ、子どもだからって」 「あぁ?」 「あたし、子どもなんかじゃない。男のひとと恋だって、できるもの!」 「はぁん。そういうことか。据え膳を喰わなかったから、アーサーは逆恨みされたのか」 「逆恨みじゃないわ。アーサーさまはあたしを裏切ったのよ。だって、いろんな姫君とおつきあいしてるって……」 「てめぇは本当に、一人前の女として男を相手にできるのか? だったら本命陥とす前に実践してみろよ、俺で」 顎を掴まれた手に力を込められ、すみれ色の瞳に涙が浮かんだ。後ろ手に探ったバッグから、拳銃を取り出す。 「あなたみたいな、紳士じゃないひとは、大嫌い!」 「言ってることが矛盾だらけだぜ、お姫様」 ファルファレロも自身のギアを――白銀の拳銃を構える。 「我を過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ――神曲の一節だ。賭けをしないか?」 「ロシアン・ルーレットということ?」 すみれ色の瞳に、ロマノフ家の紋章、双頭の鷲を思わせる、誇り高さが蘇る。 「神曲において、最も重い罪は『裏切り』よ。地獄の最下層コキュートスには、裏切者が永遠に氷漬けになってるの」 「ガキのくせに言うじゃねえか。気に入った」 ファルファレロの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。 「不実な男は、いつか地獄に落ちる。それでも不満なら、俺が代わりに殺してやる。だが」 白銀の拳銃に実弾をこめて、アーサーの秘書は言い放つ。 「敗けたらいい子でおうちに帰りな」 ──── Casino/レディ・ハピネス&プリンセス・メディチ ──── 「いいわねぇ、こういう幸と不幸が織り成す混沌とした空間」 幸せの魔女は、それはそれは楽しげに、クイーン・アリス号のあらゆる施設を満喫していた。 しかしながらというか、やはりというか、まったくもって自明の理というか、前世からの定められたディステニィ〜というか、い ち ば ん 心惹かれたのはカジノである。 「……うふふ、この私にギャンブルだなんて、道端に埋蔵金が転がってるようなものだわ」 その言葉どおり、本人にとってめくるめく光景が華麗に大展開されていた。 本来、ルーレットの期待値というのはカジノ側が有利に設定されているものだ。 しかーし、出目を幸せの魔法で感知できる魔女さまには、そんなんモウマンタイ。死んだはずの探偵が何度も復活する以上の奇跡のオンパレードである。さらに、ポーカーにおいて、より良い手札を引き寄せることなど、イタズラ直後にダッシュするエミリエとアリッサに足払いをかけるリベルさんのごとくお茶の子さいさいであった。 そんなこんなでやりたい放題、もとい、堪能していたところ。 「貴女、ずいぶん、運がよろしいのね?」 アンジェリカ・メディチのほうから、声を掛けてきた。 ストレートの長い黒髪。切れ長の緑の瞳。黒いレースのミニドレスが、幸せの魔女と好対照である。 「ま」 アンジェリカに向かい、幸せの魔女は一礼する。 「貴女がアンジェリカ・メディチさんね、噂には聞き及んでいるわ。私の名前は……、え~と、ハピネス・ハピネリア……とでも名乗っておこうかしら」 「レディ・ハピネス。覚えておくわ。とても幸運に恵まれていそうなお名前ね」 「そうなのよ」 幸せの魔女は、おっとりと笑う。 「貴女も、とても幸運に愛されているようだけれども、このカジノじゃあ2番目よ」 「大胆なことを仰るのね。そんなことを言ったひとは、初めてだわ」 矜持を傷つけられたと感じたようで、アンジェリカは挑発に乗ってきた。 「そんなに自信がおありなら、そうね、ルーレットで勝負しませんこと?」 「ウォーよっしゃアア待ってましたぁアアア〜〜! ……あら失礼、アンジェリカさんのお誘い、喜んでお受けするわ」 だけど、と、幸せの魔女は、悪戯っぽくウインクをする。 「高名なアンジェリカさんとの決闘だもの、普通のルールじゃ刺激が無くて面白くないわ」 「それもそうね。特別なルールを設定するべきかしら」 「……そうねぇ、お金の代わりに、自分自身の価値を賭けてみるのは如何?」 「自分自身の、価値」 「ええ。負けた方は勝った方の命令を何でも聞かなければならないの。……どう? スリリングで楽しいと思わない?」 アンジェリカは了承し、幸せの魔女はほくそ笑む。 え〜? アンジェリカたん、それヤバいっすよマズいっすよ美味しくいただかれちゃいますよ、と、カジノに居合わせたセレブな方々やこの報告書読んでる皆さんの心の叫びも空しくっちゅうか、なんちゅうか。 ──── Wine Bar/ムービースター・タークス&プリンセス・ホーエンツォレルン ──── (姫君は7人……、スノーホワイトに出てくる小人の数も7だったか。しかしまぁ、血の気盛んな姫君どもだな) 余裕たっぷりにニヤリとしながら、マフ・タークスは、豪華客船の旅を楽しんでいた。 (ま、ロバートもタダの女に殺られるほどヤワなヤツじゃねェだろ) ロバート卿は、おそらく、自分で自分の身を守る算段くらいはあるのだろう。だからこれは、形こそ違え、ドバイのときと同様の【ロバート卿の招待】であるのだと、マフは解釈していた。 ならば、ゆっくりと各施設を見回って船旅を堪能するのが、その意に添うのではないか。そう思ったからでもある。 † † † 娯楽もいいが、休符を置くのも必要だろう。 そう思って図書室に足を向けてみたところ。 (……おおっと) ちょうど、ファルファレロとアレクサンドラの、ロシアン・ルーレットガチ勝負が開始されたところだった。 (頑張るなぁ。ま、フツーの銃ぐれーじゃオレは死ねねェが、痛ェモンは痛ェしな) アレクサンドラが拳銃を所持しているらしいことは聞いている。 もし銃口を向けられたら、本棚の上に身を置き、そこから飛び降りて奇襲するか、尻尾で足払いをかますか、もしくは大鎌の柄を銃口に突っ込むか――などと考えてはいたのだが。 (ここはまかせるとするか) 野暮はしない、マフさんなのだった。 † † † (っと……。そういやカジノがあったな) カジノに顔を出してみたが、そこはもう、幸せの魔女とアンジェリカ・メディチの、食うか食われるかの鬼気迫る世界となっていた。 (一段落してからにするか。どうせ勝つのはオレ様だしな) ドバイでぶっちぎった経験をお持ちのマフ様は、女性たちの我が身を賭けた大勝負を生暖かくスルーする鷹揚さもお持ちなのであった。 † † † さいわい、ワインバーに先客はいなかった。……姫君以外は。 「こりゃあ……。1本で札束が飛び交う逸品ばかりだな」 ずらりと並ぶ年代もののワインを物色しながら、マフは驚嘆する。 「ええと。ドメーヌ・フーリエのグリオット・シャンベルタンの特級と、シャトー・ムートン・ロートシルトとジョルジュ・ルーミエのシャンボル・ミュジニィとアルマン・ド・ブリニャックのゴールドをもらおうか」 あっさりさっくり、何本かワインを空けたところで。 「おひとり?」 イゾルデ・ホーエンツォレルンが近づいて来た。栗色の髪をショートカットにした、可憐な娘である。 「まあな」 「レディたちが噂していたわ。アーサーさんが、素敵な映画俳優を同伴なさったって」 「そりゃどうも」 「ボディガード、ということなのかしらね?」 目にも留まらぬ速さで、懐剣が抜かれた。 マフに向かって投げられた刃は、鈍い音とともに、何かに突き刺さる。 新しいワインを開けたマフが、そのコルクで受け止めたのだ。 「栓抜きは間に合ってンだよ」 「そのようね」 何ごともなかったかのように懐剣を返されて、イゾルデは小首を傾げる。 焦茶色の瞳が、ふっと細まった。 「貴方に興味があるわ。おすすめのワインを、おごってくださる?」 ──── Theatre/セクレタリー・相沢&プリンセス・ブルボン ──── ロバート卿のそばにずっと控えていた優は、始終無言で、ダイニングルームでの一部始終を見ていた。 退出するクラリーチェを追いかけようとして、ロバートに目線で制され、思いとどまる。 「きみはなかなか、優秀な秘書になりそうだ」 「そう、ですか?」 雲の上の存在でしかなかった著名人をそこここで見かけて、内心非常に焦ったりもしていたのに、と、優は正直に告げる。 「それでも、気持ちの切り替えはできているようだし、動くべきときとそうではないときの判断も的確なのでね」 「だったらいいんですけど」 クラリーチェの後ろ姿にどこか淋しさを感じて、優は少し、考え込んだ。 「クラリーチェさんは、『せっかく忠告したのに』って、言ってました。ということは」 「彼女が、手紙の主である可能性は高いだろうね」 「じゃあ、ロバートさんは、忠告を無視したことになりませんか?」 「きみは、どう思う?」 「そうですね……。まだ何とも言えませんが、俺は、姫君たちの中の1人か、あるいは、七人の姫君全員の結託なのかなと思ってはいました。……あるいは」 「あるいは?」 「第三者かもしれません。第三者の場合は、ロバートさんと姫君をよく知っている人物じゃないかと」 † † † この場はいいから、きみも少しは、クイーン・アリス号を楽しんできたまえ。 そう言われて、優も、豪華客船の探索に向かうことにした。何といっても、せっかくの機会なのである。 (ここは――劇場かな?) 今は特に何も演じられてはいないらしく、人影はない。見学させてもらおうと、重い扉を開けたとき―― 舞台の上にただひとり、スポットライトを浴びている少女がいた。 おそらくはあれが、マリー=テレーズ・ブルボン。 マリー=テレーズは、ブルボン家の女性によく見受けられる名前だ。ブルボン姫(Mademoiselle de Bourbon)の儀礼称号で呼ばれたコンティ公妃もそうであったし、復讐のためにフランスに戻ったといわれる、シャルル10世の娘も、かのマリー・アントワネットの娘も同名だった。 「あなたのほんとの恋人か どうかをどうして見分けるの? 貝殻帽に杖と靴 それではっきりわかるはず」 ハムレットの四幕五場、気の触れたオフィーリアが歌う歌の一節だ。 薄茶いろの髪が彩る儚げな横顔に、ひとすじの涙が流れる。 声をかけるのをためらう優に、マリーのほうが気づいた。 「こんにちは」 そっと涙を拭って、マリーは深々と礼をする。 「こんにちは。俺は……」 「アーサーさまの秘書のかたね。皆さんが噂していたわ。素敵なご友人と、秘書さんと、美しい女性とご一緒だって」 「マリー=テレーズさん、ですよね? あの、アーサーさんとは……」 「ふふ、ご心配なく。たしかに、あの手紙を出したのはわたしなのだけれど」 「……え?」 「わたし、これでも女優の卵なの。けれど、少しも目が出なくて。実力不足なのね」 「そんなこと」 「だから、とても焦っていて……。あるパーティで、とても力のあるかたがパトロンになってくださると言ってくださったって、浅ましいことに、わたし、心が動いてしまったの。そのときアーサーさまが居合わせて、ほら、あのとおり、洗練されたかたでいらっしゃるでしょう? ひとことだけ、仰ったのよ」 ――きみの誇りは、そんなに安いのか? 「その瞬間、わたしは恋に落ちたわ。もちろん、かなわないことはわかっていて、でも……」 せめてあのひとを、遠くからでも守りたいと思ったの。 この想いが憎しみに転じてしまう女性は、きっとたくさんいるはずだから。 † † † ロバート卿のもとに戻った優は、自分の額に片手を当て、ため息をつく。 「どうしたね、優。浮かない顔をして」 「ロバートさんにとって、『誇り』とは何ですか?」 「難しいことを聞くね」 「そうでしょうか。俺の誇りは、今まで出会った人たちと、自分の行動した結果のうえで存在する、今の自分なので……。そんなに難しい質問だとは」 「守らなければならないものだが、それにこだわり過ぎてはいけないもの、と、答えておこう。誇り以上に大切なものを失わないために」 「あのう……。もうひとつお聞きしたいんですけど。あの手紙って、何通、来ました?」 「おや。よくそれに気づいたね」 ロバートはくすりと笑った。 「筆跡違いの似たような文面で、七通もらったよ。きみたちに見せたのは、そのうちの一通だ」 「やっぱり……」 ──── Library Room/セクレタリー・ロッソ&プリンセス・ロマノフ ──── 結局、銃の引き金を引けずに、アレクサンドラはうなだれる。 ファルファレロは、その細腰をかき抱く。 「いい子だ。……来い」 † † † ふと、ファルファレロは思い出す。 航海の直前、ベルダと行った賭けのことを。 ――あんたと私、どちらが先に手紙の主を捜し出すか賭けないかい? そうさねぇ……、私が勝ったら最高のワインを奢って貰おうじゃないか。 あんたが勝ったら一晩つき合っても良いよ? 残念ながらこの賭けは――ドローだ。 ──── Theatre/プリンセス・セブン ──── 突如、船内放送が響いた。 ファルファレロの声だ。 『愚かなるアクロイドが、七人の姫に告ぐ。卿の贖罪と求愛を聞かれたし』 ――劇場へ、集まれ。 「申し訳ありませんね、皆さん。私の第一秘書は、やることが常に派手でして」 ダイニングルームに集う人々にことわりを入れ、ベルダと優をともなって、ロバートは劇場に向かう。 この航海が始まってすぐの――、あらかじめ打ち合わせ済みの狂言ではあるにせよ、ファルファレロの言葉には、どこか真摯さがあった。 (連中はてめえに気があるんだよ。振り向いて欲しいから、ご丁寧に予告状なんざ送り付けてきやがった。殺っちまったら手に入らねえだろ永遠に。それをわからせるんだ) (過激ですね) (悪い男だからな俺は。悪役演じんのは慣れてる) 「あらぁ。いいところで」 ルーレットでは信じられないくらいの圧勝に次ぐ圧勝でアンジェリカを完膚なきまでに屈服させ、さあこれから、あ〜〜んなことやこ〜〜〜んなことをしようとスタンバっていた幸せの魔女には、大きなお世話だったりしたわけだが。 「マフさまぁ。もっと飲みたぁい」 「あたしにもおごってくださいな」 「ずるいわ、私にも」 「わたしだって」 はたと気づいたときには、ワインバーにはものすごい数の人だかりができていて、それは皆、マフとお近づきになりたいレディたちだったりしたわけだが。 「おい、行くぞ」 もてもてマフさんはあっさりと、イゾルデの首根っこを引っ掴んで、立ち上がったのだった。 † † † 舞台の上で、ファルファレロは銃を構えている。 白銀の銃はひたりと、アーサー・アレン・アクロイドの心臓を狙っていた。 「秘書の下克上だ」 ほくそえむファルファレロだったが……、予期せぬことが起こった。 「だめです、ファルファレロさん!」 走り出た優が、拳銃の前に立ちふさがったのだ。 「……おいおい」 第一秘書は毒気を抜かれて、アーサーを見る。 「第二秘書とは打ち合わせしてねぇのかよ?」 「その必要はないでしょう? 優はこういう、可愛いところのある人柄ですしね」 ……それに。 打ち合わせなしでも第二秘書は、その直感で的確な行動を取っているはずです。 ロバートは、彼にしてはずいぶんと、素朴な笑みを浮かべ―― 続けて、それまでためらっていた、七人の姫が、 クラリーチェ・ボルジアが、 アンジェリカ・メディチが、 イゾルデ・ホーエンツォレルンが、 ブリュンヒルデ・ハプスブルクが、 マリー=テレーズ・ブルボンが、 アレクサンドラ・ロマノフが、 リュシエンヌ・ボナパルトが、 アーサーをかばうように、立ちふさがった。 優の真摯さに、触発されたように。 「損な役回りで、申し訳ないですね」 「悪役は慣れてるって、言ったろう?」 空砲をひとつ、ファルファレロは劇場のシャンデリアに向けて放つ。 それがその舞台の、閉幕のベルとなった。 ──── Wine Bar/セクレタリー・ロッソ&ロード・ペンタクル ──── 打ち上げと称して、ファルファレロはロバートをワインバーに誘った。 「なんかおごれよ」 「そうですね。では、ヴィッラ・デイ・ミステリ(Villa dei Misteri)を」 ポンペイの遺跡で発見された葡萄畑に残されていた葡萄の根の跡に同じように葡萄を植え、2000年前に行われていたであろう方法と同様の手法で醸造された赤ワインが、ファルファレロのグラスに注がれる。 「で、てめぇは、誰かを殺したことはあるのか?」 「また唐突な。その質問には、レディ・カリスならずとも『野暮なことを聞かないでください』と返すしかありませんね。ノーコメントです」 「なら、質問を変えるまでだ。誰かを殺したいほど憎んだことは?」 「ありますよ。ベンジャミンの母親を」 「ふぅん?」 「大事な弟を殺そうとした女ですのでね」 「元館長はてめぇのこと、ファミリーで一番危険な男だって言ってたぜ?」 「それは、エディの視点から、ということでしょう? 僕に言わせれば、一番危険だったのはベンジャミンで、二番目がエディ、三番目がヘンリーでした。とはいえ」 ロバートは、視線を落とす。グラスに揺らめくワインの先に、何かを見いだすように。 「ファミリーにおいて、真に恐ろしいのは女性のほうです。男どもが束になっても太刀打ちできない。エディがレディ・カリスに敗れ去ったようにね。……それに」 「てめぇの本命はレディ・カリスなんだろう? とっとと押し倒しちまえ」 「ベイフルックの姫君は、そういった男性原理の発想を嫌悪しますのでね」 何かを言いかけたロバートだったが、それは苦笑で押し流された。 † † † そして――、 他の一同は、カジノにいた。 純粋なプレイヤーとしてもう一度、このゲームを楽しむために。
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