青い空の下、視界いっぱい麦畑がひろがっている。 重く穂を垂れた麦はどれも背高く育ち、風に揺られた畑は波うつ海のようだ。 その海に沈むように、幾人ものひとびとが畑仕事をしていた。 雑草を取り除き、肥料を継ぎ足し、害虫を駆除し、病気がないかを入念に確認する。 よりよく育つように。 より豊かな収穫となるように。 そのために、家族はもちろん、近所の者は毎日総出で畑に出るのだ。 五歳のフォッカーや、その幼馴染も例外ではない。 まさに『猫の手も借りたい』と思っていた母親は、連日遊びまわっていたふたりの首根っこをつかみ、朝から畑に放りこんだ。 「……つかれたにゃ……」 雑草を抜いて回っていた黒毛の子猫――フォッカーのしっぽが、ぺたりと地面に落ちる。 「ガマンするにゃ。もうちょっとしたらお昼だにゃ」 そばで肥料をまいていたアルバトロスが振りかえって励ます。 茶トラの毛並みを持つアルは、生まれたころから一緒に遊びまわってきた幼馴染だ。 この時期は家の別なく手伝いをするのが農村の慣例と理解しており、弱音も吐かずにフォッカーの家の畑を手伝っていた。 律儀な幼馴染をよそに、フォッカーは「おいらもうダメにゃー」とバンザイをし、そのままごろんと背中から地面に転がる。 毛皮に土がついたが、太陽の光をいっぱいに吸い込んだ土はあたたかく、心地良い。 風に揺れる麦畑は子猫の姿を隠し、まるで秘密基地にひそんでいる気分だ。 豊かに実った穂の間から見る空は雲ひとつなく、清々しい。 草擦れの音。 虫の羽音。 遠く呼び合うひとの声。 フォッカーはぴんと耳をそばだてて日常の音を拾いながら、草いきれを胸いっぱいに吸いこんだ。 その時だ。 フォッカーの視界が、一瞬、暗く陰った。 巨大な鳥。 その腹が、視界いっぱいに迫り、横切っていく。 「な、なんにゃ……!?」 慌てて跳ね起き、姿を追う。 青い空を裂くように、白い大きな鳥が、飛んでいく。 シュシュシュシュという呼吸音についで、時おり『ぶふぉっ』と煙を吐きだしている。 「おばけ鳥にゃ……」 アルも手をとめ、呆然と鳥のうしろ姿を見ていた。 フォッカーはぴんとしっぽを立てると、棒立ちになっていたアルの手を引いて走りだした。 肥料を取り落とし、アルが非難する。 「フォッカー、なにするにゃ!」 「アルも見たにゃ。あの鳥を追いかけるにゃ!」 麦畑は子猫たちの姿を隠してくれる。 アルは走りながら畑を振りかえり、幼馴染の母親の姿を見やった。 彼女は畑仕事に集中し、ふたりには気づいていないようだ。 手を引く幼馴染は白い鳥を見あげたまま、ためらうことなく走り続ける。 「……フォッカーだけじゃ心配だからにゃ。しかたないのにゃ」 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、幼馴染と並んで走りはじめた。 ◆ ◆ ◆ やがて鳥は村はずれの屋敷へ降り立つように姿を消した。 この一帯は貴族の領地になっており、前庭を含む全ての領地内への立ち入りが禁止されている。 身分階級が厳しく定められているなか、下層階級に属するこどもたちが踏み入れて許される土地ではない。 「きっと、あの鳥は貴族の飼っている鳥なんだにゃ!」 なおも進もうとするフォッカーのしっぽを掴み、アルが制止する。 「行っちゃダメにゃ!」 「ぎにゃっ」としっぽの付け根を押さえて飛びあがった幼馴染をなだめようと、アルは続ける。 「相手は貴族にゃ。見つかったら、とんでもなく怒られるにゃ」 しかし、フォッカーはあきらめきれなかった。 陽光のしたで悠々と両翼を広げる、その姿。 一面の青に浮かぶ白い鳥に、すっかり魅了されていたのだ。 「なんと言われようと、おいらは行くにゃ!」 幼馴染の制止を振りきり、フォッカーは再び走りだす。 結局、アルもその背中に続いた。 敷地を示す柵をくぐり、庭へはいる。 彩り鮮やかに咲く花々を横目に、花壇の影から影を駆けぬける。 やがて見えてきた屋敷の石壁に背中をぴったりくっつけ、ほっと息を吐く。 屋敷のまわりは庭木が多く植えられており、ひとまず、ここならひと目を避けられそうだ。 「あの鳥はどこかにゃ」 フォッカーがあたりを見渡すも、それらしい姿は見えない。 そのとなりで、石壁をよじのぼって屋敷の窓を覗いていたアルがフォッカーの肩を叩いた。 「フォッカー、見るにゃ……!」 言われて壁をよじのぼり、窓越しに部屋を覗き見る。 そこには、これまでに見たことのないありとあらゆる珍品が、ところ狭しとならべられていた。 「天井にも何かかざってあるにゃ!」 「良く見えないにゃ。フォッカー、肩車をするからもっと窓に近づくにゃ!」 かくしてフォッカーはアルの肩を足場に身長を伸ばすと、窓に顔を押しつけ、謎の部屋にすっかり夢中になっていた。 「アル! さっき見た白い鳥の、小さいのがいるにゃ!」 「フォッカーずるいにゃ! いいかげんおりるにゃ! 交代にゃ!」 「いやにゃ! もっと良く見るにゃ!」 にゃーにゃー喧嘩をはじめた子猫の背後で、「ぷっ」と笑う声がする。 聞き覚えのない声に、ふたりのしっぽがぴんと伸びる。 振り返ろうとしてバランスをくずし、受身を取り損ねた子猫たちはぼたぼたと地面に倒れた。 折り重なって転がるこどもたちを見おろし、銀灰に黒縞の毛並みを持つ猫――貴族の青年が笑う。 「まさに、『好奇心は猫をもころす』だな」 オーダーメイドであろう、上質の布で仕立てたベストスーツが良く似合っている。 この屋敷の住人のようだが、貴族らしからぬ、物腰の柔らかな印象だ。 敷地内に現れた見ず知らずの子猫たちを見咎めるでなく、続ける。 「この部屋は『ヴンダーカンマー』。私の博物陳列室だ」 顔を見合わせるこどもたちの先に立ち、青年が歩きだす。 「おいで。部屋を見たいんだろう?」 再び顔を見合わせる。 フォッカーとアルは顔を寄せ合い、ひそひそとささやきあった。 「どうなってるにゃ」 「これから怒られるかもしれないにゃ……」 しかし見つかってしまったからには、目の前で逃げだすのはもっと良くないだろう。 という結論に達し、青年の後をついていくことにする。 青年のそばに付き従っていた老猫が、うやうやしくタオルをさしだす。 「こちらで、汚れをお落としください」 ふたりはおずおずとタオルを受け取り、その場で体中の泥を払う。 「靴裏は入念にたのむよ。絨毯を汚すと、メイドたちがうるさいんだ」 仕上げに、かしこまって並ぶ子猫たちの頭をぐりぐりとタオルで撫でつけ、 「よし」 泥だらけになったタオルを老猫にほうり投げ、青年は意気揚々と先に進んでいく。 屋敷の床はどこもふかふかの絨毯で、ふたりは歩くたびに弾むような感覚を面白がった。 やがて青年は廊下の端にある部屋――先ほどふたりが覗きこんでいた部屋の前で立ち止まり、そっと扉を開いてみせる。 ふたりの背を押し、促す。 「さあ、どうぞ」 踏み込んだそこには赤く輝く鉱石に、豪奢なアクセサリー。 七色の鳥の羽。大きな巻貝の化石。 瓶詰めの植物や、さび付いた蓄音機、ぼろぼろの本。 空を飛ぶ城を描いた絵画に、不思議な生き物の骨格標本。 目を見開いて部屋中を駆け回るこどもたちを、青年はやはり面白がって見ていた。 「この丸いぐるぐるのは何にゃ?」 「『天球儀』という。天体をうつしとり、模型にしたものだ」 「このぼろぼろの本には、何が書いてあるにゃ?」 「それは高名な錬金術師の本だ。あそこにある『賢者の石』を使えば、不老不死も思うがままだぞ」 「ほんとにゃ!?」 「本当だとも。もっとも、うまく調合できれば、の話だが」 「じゃあじゃあ、この骨は何にゃ?」 「それは昔、叔父上がつかまえた妖精の骨だ。生前は夢のようにうつくしい声で歌ったらしい」 子猫たちは問えば問うほど、この『ヴンダーカンマー』には世界の不思議がつまっているように思えてならなかった。 やがて、天井に飾られている小さな鳥を示す。 「おいらたち、さっきもっと大きい鳥を見たにゃ!」 「白い鳥が、屋敷の方に消えるのを見たにゃ!」 その鳥がどれだけすごかったか。 どれだけ美しかったかを語られ、青年は脚立を足場に、天井に飾られていた鳥を手にとった。 ふたりにも良く見えるようにと、その場にひざをつく。 「これは模型だよ。そう。さっき、ちょうど飛んでいたんだ。いい天気だったんだが……エンジンの調子が悪くてね。ここらを一周して戻ったんだ」 「そうか。きみたち、『飛行機』を見て来たのか」と、青年が納得した様子で笑う。 「あの『鳥』は、鳥じゃないのにゃ?」 「これは、『飛行機』だよ」 手短に答え、青年は模型を適当な棚に置く。 その足で窓際へ向かうと、勢い良く窓を開けた。 先ほど、子猫ふたりが覗きこんでいた窓だ。 おもむろに窓枠に足をかけ、「よっ」という掛け声とともに窓の外に身を躍らせる。 「きたまえ! 『白い鳥』をみせてあげよう」 呼ばれて窓下に駆け寄った子猫たちだったが、窓枠まで背が届かない。 大急ぎで脚立を壁に寄せると、青年の背を追ってわれ先にと部屋を飛びだした。 ◆ ◆ ◆ ふたりが導かれたのは、屋敷から少し離れた場所にある倉庫だった。 屋敷とは違い木造で、壁や天井は、あちこち継ぎ足したり、修理した跡がある。 「……なんだかボロボロだにゃ」 フォッカーが素直な感想を口にすると、「壊れやすいようにしてあるんだ」と、不可解な返事がかえってくる。 ふたりを待たせ、青年は入り口の戸を引っぱり、開いていく。 倉庫のなかに陽がさしこむにつれて、フォッカーとアルの目に、ゆっくりとその姿が見えはじめる。 鼻先をふたりに向け『白い鳥』が佇んでいる。 間近でみるそれは、たしかに、生き物ではなかった。 翼も、尾も、ぴんと伸ばしたまま、微塵も動く様子はない。 戸を全開にし終え、青年はふたりを手招き、倉庫内へ入った。 『白い鳥』は近づくとなお大きく、見あげると存在感を増すようだ。 これだけの巨大な体を持ちながら、空を飛ぶ姿は優美で、美しかった。 「これは、私が独自に開発している蒸気飛行機だ」 ふたりに機体から離れるよう指示すると、自身は飛行機に乗りこみ、「見ていてごらん」と告げる。 すぐに『白い鳥』の鼻先がくるくると回転し始め――それが、『プロペラ』というのだと教わる。 シュシュシュシュと聞こえてくるのは蒸気タービンの稼動音であり、ときおり『ぶふぉっ』と吐き出されるのは水蒸気だ。 「オイルエンジンは良く飛ぶが、騒がしいし、黒煙を吐く」 その点、蒸気エンジンはオイルエンジンに比べて騒音も小さく、吐き出すのは水蒸気だけ。 必要な部品も少なくて済み、整備もしやすい。 「ただ、なかなか安定しなくてね。長距離を飛ばすには、もっと改良しないと……」 青年の話す言葉には難しい単語が多く、子猫たちは始終首をかしげていた。 ただそれらの言葉が、全てこの『飛行機』に関わる言葉だということは、わかった。 「これに乗れば、おいらもあの空を飛べるかにゃ?」 フォッカーの言葉に、アルが目を見開く。 「ぼくも……飛べるかにゃ?」 「もちろんだとも!」 エンジンを止め、青年は高らかに叫ぶ。 「心はいつだって、自由に空を羽ばたくことができる。その心を追って自らもまた飛ぼうというのなら、『飛行機』をおいてほかにない!」 青年は操縦席から駆けおりてくると、急に居住まいをただし、改めてふたりにたずねる。 「好奇心旺盛にして、空を愛する少年たち。きみたちの名は?」 フォッカーはすでに、この風変わりな貴族青年が気に入りはじめていた。 良く通る声で、はっきりと答える。 「おいらはフォッカーにゃ!」 続くアルも、礼儀正しく名を告げる。 「ぼくはアルバトロス……みんなには、アルって呼ばれるにゃ」 「よろしい」 青年は頷き、ぽんぽんとふたりの頭に手を置く。 「私の名はエステリオ・グラマン。フォッカー、アル。ともに、あの高みを目指そうじゃないか」
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