彷徨える森と庭園の都市・ナラゴニアの襲来は、0世界に住まう者たちからあまりに多くのものを奪っていった。ある者は友を失い、またある者は身体を損じ、多くの者の心には消えることのない恐怖の記憶が刻まれた。だが、元の平穏な暮らしを一刻も早く取り戻そうと奮闘する人々の表情は活気に溢れ、ターミナルの騒がしさも頼もしい音楽のように聴こえてくる。 だがそんな中に、街の復旧作業に混じって機械修理に精を出していそうなフォッカーの姿は何故か無い。どこに居るのかと思えば、とりあえずの修繕が施された世界図書館のカウンターでひとり、ナラゴニア襲来に関する報告書を読みあさって何ともいえない渋い顔をしていた。 「ゼシカが言ってたパパ、って……」 ノエル叢雲を操り、世界を憎んだまま捨て駒として死んでいったキャンディポットの為、ドクター・クランチ……ニーズヘッグを道連れにした、非力で臆病なコンダクター三日月灰人。彼こそが、いつかフォッカーと一緒に手紙を飛ばし、涙を堪えながら父と母のことを語っていたゼシカ・ホーエンハイムの父だったのだと、報告書は無機質に語っている。友人としてつきあいのあった人間の生き死にを文字の上で読むことは誰にとっても気持ちのいいものではなかったが、フォッカーは食い入るように報告書を見つめていた。 「ナラゴニア関連の報告書はこれで最後ですが……他にはよろしいですか?」 「あー……そうにゃ、ゼシカ・ホーエンハイムっていうコンダクターの女の子の住所を調べてほしいにゃ。ここに書いてある灰人の娘さんにゃ」 「少々お待ちください」 あまりに真剣な眼差しのフォッカーを心配そうに眺める司書の言葉に顔を上げ、フォッカーは迷わずゼシカの名を口にした。灰人とゼシカが血を分けた親子ならば、自分には果たさなければいけないことが一つ、あるから。 フォッカーは司書が気を利かせてメモに起こしてくれたゼシカの現住所を受け取ると、礼もそこそこに世界図書館を飛び出した。 ◆ 「パパ、パパはここにはいないのよね」 ターミナルのはずれにひっそりと、隠れるように在った墓地。この数日で見違えてしまうほどに墓石の数が増えたこの場所に、ほんとうに眠っている者は果たしてどれほど居るのだろうか。墓守の案内でたどり着いた灰人の墓標に跪き、ゼシカは誰が刻んだのかも分からない灰人の名前を指でなぞって諦観混じりの溜息を吐いた。 ここには、いない。 遺体と呼べるものの無い、灰人の『いなくなり方』。それを理解している者にはばつの悪い皮肉に聞こえる言葉だ。だが、ゼシカは固く信じて『いた』。パパは必ず帰ってくると。 __すこしだけ、待っていてくれますか ゼシはいいこだから、パパの言いつけを守らなくちゃ。 だけど。 「じゃあ、パパはどこにいるの……?」 今ならわかる、アリッサが困りながらも言葉にしてくれたことの意味が。 神様よりもパパのほうがずっとずっと大事な約束をくれたけど、それはもう果たされないのかもしれない。 小さなこころは真実と約束と寂しさと、他にも言葉に出来ない感情が収まり揺れ動くにはあまりに小さすぎる。 「パパ、ゼシさびしいよ……」 パパがもう約束を守ってくれない。その可能性に気づいてしまったゼシカに出来ることといえば、こうして何の標にもなってくれない墓標の前で泣きじゃくることくらいだった。死者がもう戻ってこないことを確かめるための弔いも曖昧なまま、ほんとうにその事実を受け入れなくてはいけない者を置き去りにしたまま、ただの名簿のように、そこにあるだけの墓石は語れる言葉を何ひとつ持ちあわせていない。 ◆ 「あったにゃー! 材料も全部とっといてたにゃ」 図書館で調べてもらった住所を確かめ、当人の不在にしょんぼりしたのも束の間。フォッカーはすぐさま自分の修理屋に戻り、どうにか戦火から逃れた工房の一角からとある図面を取り出して満面の笑みを浮かべた。 猫足のついた白い箱のようなデザイン画、中に仕込んだオルゴールの譜面、それから曲に合わせて表にあらわれる人形のからくり。かつて灰人がフォッカーに依頼した、妻と子供への贈り物の図面だ。 __いつ帰れるか分からない身分ですが 思いを形にして持っておきたい。そんな灰人の気持ちを引き受けて、フォッカーが作り上げたからくり仕掛けのオルゴール。その思いはほんとうに届いて欲しい人の手には、心には、届かなかった。だが、思いを知っているフォッカーがここに居る。忘れられたとき、人は真に死ぬ。心のなかで生きているなどと陳腐なことを言えはしないが、灰人の思いはまだこころを持ってフォッカーの図面に宿っているのだ。 「本物がどこにあるのかわかんにゃいから、もう一個作るにゃ。これにゃら父ちゃんとおそろいにゃ」 図面通りに板を切り出し、人形を作り、眼鏡を描き込んで。 「(灰人がまだ赤ちゃんのこと知らなかったからにゃ)」 灰人に作ったものから少し手を加えて、赤子の瞳には抜けるような空色をのせる。いつか一緒に飛行機から見た空の色、そして両親を思い涙をためていたあの瞳の色を。どうか、この瞳がもう、哀しみで曇らないよう願いを込めて。 「……おいらの気持ちもこもってるけど、いいよにゃ」 答えはきっとイエス。ゼシカは、一人じゃない。 ◆ 「こ、こんにちは……」 「こんにちはにゃ! 待ってたにゃー!」 __からん、ころん…… フォッカーの修理屋兼喫茶店、喫茶店スペースのドアに取り付けられたお手製のベルが、来客を知らせる為にからころと軽快な音を立てた。まるで、あの日と同じように。フォッカーが嬉しげにドアを開けると、そこにはあの日と違う、だけどフォッカーが待ち望んだゼシカの姿があった。 "" ゼシカへ こんにちは。 前、一緒にターミナルの端っこから手紙を飛ばしたフォッカーです。 (くろねこさん、と呼んでくれていたよね) 実はつい最近知ったのだけれど、 おいらはゼシカの父ちゃんと友達なんだ。 だから、ゼシカに渡したいものがあります。 もしよかったら、ゼシカの父ちゃんも来てくれたおいらの店で待ってるよ。 "" レプリカのオルゴールが出来上がり、さてこれをどう届けようかと思案するフォッカーが選んだ場所はここだった。エアメールに書き付けた言葉はゼシカを信頼させるに足るものだったようで、ゼシカはトラベラーズ・ノートを抱えながらおずおずと扉の前に立っている。 「くろねこさん、こんにちは。……えっと、おまねきありがとう」 「うんうん、ひさしぶりにゃー。立ち話もなんだし、どうぞにゃ」 一緒にお手紙を飛ばした仲に、パパのお友達という肩書きが足されて、ゼシカがフォッカーの表情を伺う様子はどこかそわそわと落ち着きがない。フォッカーはゼシカを不安にさせないようつとめて明るく招き入れ、以前灰人が座った四人卓にゼシカを案内した。 あの日と同じように、昼下がりの日差しが優しく喫茶店を包んでいた。 「カプチーノは苦いかにゃ、紅茶、ココア、ミックスジュースもあるにゃ!」 「じゃあ、ココアがいいな」 「了解にゃー」 カウンターの向こうで手際よくココアとカプチーノの用意をするフォッカーは、カップをお湯であたためる間に工房からオルゴールをそおっと持ちだしてくる。喜んでくれるかどうかは分からないけれど、何も無いよりはきっと寂しくない。届かないと分かっている人に届けたい思いの強さを、フォッカーも誰より強く知っているから。 「……」 フォッカーからのエアメールを読んでから何故かずっと心を離れない、ママへ宛てた手紙の内容を反芻し、ゼシカはぼんやりと窓の外を眺めていた。ほんとうはフォッカーに聞きたいことがたくさんある。エアメールにパパの名が記されていたのを見たときは思わず飛び上がって驚くほどだった。 パパとくろねこさんはどんなお話をしたんだろう。 くろねこさんがゼシに渡したいものってなんだろう。 パパはくろねこさんにゼシのことを何か言っていたのかな。 本当は、ぜんぶぜんぶ、パパに聞きたいことなのだ。 ◆ 「お待たせにゃー、熱いから気をつけるにゃ」 「ありがとう、くろねこさん」 ココアと一緒にサーブされたのは、小さな籠に山盛りの型抜きクッキー。いつもと同じ、あの日と同じ、飛行機やプロペラの形。 「灰人も美味しいって言ってたクッキーにゃ、懐かしいってにゃ」 「じゃあ、ゼシもきっとおいしいって思うのかしら」 「そうだといいにゃー」 パパも食べたクッキーをかじり、ふんわりたっぷり泡立てられたミルクをかき混ぜながら、ホットココアをこくりと一口。さくさくのクッキーはゼシカの舌の上でほろりとほどけ、三温糖の優しい甘さがフォームミルクに包まれゼシカの頬をほころばせた。 「うん、とってもおいしいの」 「本当にゃ? 嬉しいにゃ~」 満足そうに笑うフォッカーの様子にゼシカも目を細め、ココアをもう一口。だが、今日はただパパの思い出の場所でお茶をしに来たのではない。本題を切り出すタイミングをお互いに図りかね、少しだけ気まずい沈黙が二人のテーブルを包んだが、ゼシカがえいと口を開く。 「……くろねこさん、パパのおともだちだったのね」 「そうにゃ。一緒に手紙を飛ばしたときは気づかなくて、ごめんにゃ」 「ううん、ゼシもしらなかったの。あやまらないで」 五歳の少女とは思えぬ落ち着いた言葉に、フォッカーは言葉が出なかった。いったいどんな思いをすれば、小さな子どもがこんな風に誰かを気遣えるのだろうかと。 「ゼシにわたしたいものって、なあに?」 「うん」 ゼシカの問いかけに、フォッカーは隣の椅子に置いた箱をテーブルの上に置き直す。白木の箱も灰人に贈ったものと同じように再現されたそれを眺め、ゼシカは箱の中身を想像出来ずフォッカーの言葉を待った。 「灰人が、奥さんと、生まれてくる赤ちゃんに贈り物をしたいって言ってたのにゃ」 「ママと……ゼシに?」 箱を自分で開けるよう手で促し、フォッカーはゼシカを見守る。 この中に、パパが託した思いが入っているのだ。ゼシカはこわごわ箱を開けた。 「これ……なあに?」 「箱から出して、平らなとこでハンドルを回すにゃ。そしたら分かるにゃ」 箱の中身を見たときの、きょとんとした表情も、フォッカーに問いかける語調も、まるでそっくり。懐かしさに目を細め、フォッカーは灰人にしたのと同じように説明を繰り返した。 フォッカーに言われるままゼシカの手できりきりと回されたハンドルが止まり、ゆっくりと逆回転を始める。 「あっ……」 奏でられるメロディ、それはゼシカの古い古い記憶を呼び覚ます。 故郷の孤児院で、大好きな先生がいつも聴かせてくれた賛美歌の主旋律。 「この曲、しってる!」 灰人が勤めていたターミナルの孤児院、そこの子どもたちから成る聖歌隊が、灰人の指揮でこの曲を歌っていたことを調べ、フォッカーがそれをオルゴールにしたのだ。灰人に作ったものとは違う仕様になってしまったが、灰人が知っている歌なら、きっとゼシカの心にも届くだろうというフォッカーなりの心づくしだった。 そしてゼシカが驚くのは勿論ここから、オルゴールの天板がゆっくりと開き……。 「ママ! ……パパ……!!」 姿を現す、眼鏡に牧師服姿の若い男性と、隣に寄り添う金色の髪に優しげな青い瞳の女性の人形。すぐに、すぐにパパとママだとゼシカには分かった。 __伸べられた 手をとって 共に…… メロディは佳境に差し掛かり、一度引っ込んだ人形が再びその姿を見せる。女性の、いや、ママの人形が、ママと同じ金髪に青い瞳の人形を抱いていて、パパの人形はさっきよりももっと優しく、楽しげに笑っている。 「これ、ゼシ……?」 「そうにゃ。灰人と、ゼシカと、ゼシカの母ちゃんの三人家族にゃ」 ゆっくりとフェードアウトし、余韻を残し消えるメロディ。ゼシカはうっすら目尻に浮かんだ涙をぐいと拭い、もう一度確かめようと再びハンドルを回す。 「灰人、言ってたにゃ。故郷の家族が何より大事だって」 何より大事だと言うならば、何故。 何故灰人は、やっと会えたゼシカよりも、キャンディポットの死に決着をつけることを選んでしまったのか。 「……パパ、ここにいたのね」 賛美歌のメロディが優しく響き、パパとママが寄り添う姿を見て、ゼシカはそっと呟いた。その瞳から寂しさの色が消えたわけではなかったが、やわらかく笑う表情はそれも受け入れているように見える。 「灰人に頼まれたとき、おいらはゼシカを知らなかったけどにゃ、とっても愛されてるって思ったのにゃ。だからおいら、絶対にこれを届けなきゃって思ったにゃ」 「うん……ゼシもやっとわかったの。ゼシ、一人でずっと寂しかったけど、パパがゼシとママのこと忘れちゃったんじゃないって」 愛されていたことを。 思われていたことを。 「くろねこさん、ありがとう。パパが、ゼシとママのことがうんと大好きで、忘れたことなんかなかったって、このオルゴールがゆってるわ」 「そう言ってくれるにゃ?」 「うんっ」 導きのともしびがひとつ、ゼシカの胸に確かに灯る。 ◆ 「くろねこさん、パパのおはなし聞かせてほしいの」 「灰人の話にゃ? そうだにゃー……」 ちょっぴりお砂糖を減らした二杯目のココアが湯気を立ててゼシカの目の前に置かれる。涙が湛える光ではなく、大好きなパパの思い出を聞きたがって瞳をきらきらと輝かせるゼシカの表情に安堵し、フォッカーは思い出せる限りの話を語って聞かせた。 たとえば、初めてここに来た日のこと。 すごく心配性で、何をするにもすぐお祈りをしていたことや、奥さんのことを話すときの緩みきった表情や、まだ見ぬ子供が男の子か女の子かの話題で大層盛り上がったこと。 「じゃあ、ゼシが女の子でパパはうれしかったのね」 「そうともにゃ! おいらも妹が可愛いから、灰人の気持ちが分かるにゃー」 それから、贈り物を持ってエスポワール孤児院を訪ねた日のこと。 飛行機で交わした言葉、孤児院の子どもたちに慕われていた様子、オルゴールを見せたときの仕草がゼシカそっくりだったこと。 「パパ、こっちでも孤児院でおしごとしてたの?」 「そうだにゃ、人気者の先生だったにゃー。みんな灰人のことが大好きだったにゃ。……どうしたのにゃ?」 「……ううん、……うれしいの」 エスポワール孤児院での様子を聞き、一度拭った涙がまたゼシカの双眸からこぼれ落ちる。 「パパ、パパも、みんなのことが大好きだったのね」 臆病で弱虫で、心配性で、ぶきっちょで、だけど、だから、誰より優しいパパ。ママとゼシカのことがいっとう大好きで、周りにいるみんなのことも大好きで、だから。 「だから、ひとりぼっちで死んじゃった女の子をほっとけなかったのね」 「ゼシカ……」 気丈に振舞っているようにも見えるゼシカにかける言葉を一瞬見失い、フォッカーはカプチーノのカップをそっとソーサーに置いた。本当なら、強がらないでいいよと言ってあげるべきなのかもしれない。アリッサがそうしたように。 「……おいら思うにゃ」 「?」 「灰人、いつ帰れるか分からないけど、って言ってたのにゃ。贈り物するなら、帰れるって分かってから用意してもいいと思うよにゃ? けど灰人はそうじゃなかったにゃ」 時が止まった孤独の旅路はあまりに寒い。思いだけでは生きていけない、それは誰もが同じ。 「灰人もきっと、寂しかったのにゃ」 寂しかったから、ターミナルで故郷と同じように孤児院に勤め、カササギの仮面の下で涙を流し、キャンディポットの死に憤った。臆病だから誰かを傷つけまいとして、非力だからもっと非力な誰かを守ろうとして、結局はいちばん大事なひとを泣かせてしまったけれど。
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