赤茶色の鬣を持つ獅子の獣人であるキース・サバインは小さなため息をついた。 目の前でことことことと火にかけた鍋が音をたてている。優しい、ミルクの匂い。そのなかにはたっぷりの野菜と鶏肉が食べやすいと一口サイズに切られて煮込まれていた。 キース特性のシチューチキン。 ターミナルにある喫茶店兼修理屋「空猫」でも評判の一品だ。この匂いがすると一緒に店を経営している黒猫の獣人であるフォッカーは長くしやかな尻尾をひらりとふってくんくんとピンク色の鼻を動かし、作業中でも構わずつまみ食いにくるのだが、今日はそれはない。 やっぱり、怒ってるのかなぁ。 キースはくりくりとした瞳を鍋に落としたまま、肩からしゅんと力を抜く。 キースは今日、ヴォロスに再帰属する。 出会いって、ここにいたいと願う場所を作って真理数が出た。それは喜ばしいことだ。 純粋な喜びを抱えて、フォッカーに告げた。 そのときからフォッカーは口を噤み、目を背けて、あまりしゃべらなくなった。 きっと、勝手をしたことを怒ってるんだぁ。 覚醒してターミナルにやってきたとき、何もわからずにちんぷんかんぷんだった。 ――お前もかにゃ? え? ――おいらもだにゃあ! ちっちゃい。 元気だ。 なにこれ。 フォッカーにはじめて抱いた印象はそれだ。――本人が聞いたら怒るだろうが、旅人登録に困っていたキースを同じく登録するフォッカーが助けてくれたのだ。 人懐っこく笑いながら、印象的な大きくて美しい湖色の瞳。ちびだが、とっても元気で物怖じしない。 思わず、キースの尻尾がひらひらと好奇心に動いた。 フォッカーはしっかり者で、ちゃっかり、ターミナルにお店を開くことも決めた。 ――おいらと一緒にしないかにゃ? 俺がぁ? ――そうにゃ! いいのぉ? ――おいらのカンはあたるんだにゃあ! キースと組んだらきっと楽しいにゃあ! ひらひらと動かして尻尾ときらきらの星みたいな瞳にキースは自然と自分の心が浮き立つのを感じた。 フォッカーとなら、このターミナルで生活するのも悪くないと思える魅力があった。 フォッカーは修理を担当で、キースは喫茶店は担当をした。 まだ旅に慣れてない同じ境遇の者たちが集い、いろんな話をした。おしゃべりで元気なフォッカーとのんびりと者だが気遣いのできるキースはいいコンビだった。 二人で喫茶店をよくしようとあれこれと料理の研究をして、飲み物類を取りそろえようと考えた。 そうしてひとつ。またひとつとお店は軌道に乗り出した。 イラストいりのメニュー表。 フォッカーの好きな飛行機の模型を飾った窓。 いろんなお客さんがこれるようにとカウンターとテーブル。 奥にあるフォッカーの作業場がわかるように看板を作って。 フォッカーは作ることが好きだからみんなお手製だった。力仕事のときはキースが手伝い、木材を買ったり、高いところの飾りをつけたり。 いっぱい笑った。 ときどき意見が合わなくてぶつかって、そのときいつもキースはシチューチキンを作る。その匂いにフォッカーが負けて、二人はいつも最後に笑ってごはんを一緒にした。 もう、それの当たり前もなくなる。 キースはここを出ていく。 自分で決めた。帰るべき場所、いてあげたい人の元にいく。 フォッカーには相談しなかった。する暇もなかったというほうが正しいけれども。ヴォロスに何度か足を運びながら薄々はいずれこうなると考えていたのに、なかなか切り出せなかった。 もしも、フォッカーに否定されることが怖かった。 フォッカーはそんなやつじゃないってわかっていたし、心の片隅で言わなくちゃとずっと思っていて、ここまできてしまった。 真理数が出て、すぐに帰属することを司書に相談したのはあの城にいたいと思ったからだ。 そうした後処理などで慌ただしくて、お店も休みがちになってしまった。 持っていけるものなんて少ない。だが、キースが覚醒してから短くない時間を過ごした。その間にもらったものや大切なものはいっぱいある。 もっていくもの、残していくもの、売るものと選り分けていく作業を丹念にひとつひとつこなしていった。ここにいた思い出を慈しみ、大切にするために。 今までの冒険のことをいっぱい話すんだぁ。 フォッカーのことも フォッカーとは帰属することについて話したあとからちゃんと向き合えていない。 ずっと作業場に閉じこもっている。 ナラゴニアとの戦争から修理を頼む人は多く、フォッカーとて暇ではないのかもしれないが このままかなのかなぁ。 今日、出ていくことは告げてある。 せめて一目くらい会って、お別れを告げたい。 本当は再帰属する場所でのお別れをしたいとキースは申し出た、数名の知り合いが見送りをしてくれるので、そのなかに当然この友人もはいってほしかった。けれどフォッカーは静かに首を横に振っただけだった。 胸がずきりと痛む。 「いっぱい、思い出作ったなぁ」 キースは建物を優しく撫でる。 二人で作った品を見つめて、目を細める。 ことことこと。鍋がまた音をたてているのに、そっと火を消した。 深呼吸を一つ。 あたたかい料理と少しだけ奥からする、オイルの香り。このにおいも最後になる。 「フォッカー!」 出来るだけ元気な声で。 「料理、作ったよ。晩御飯にねぇ、シチューキッチンがあるから!」 返事は、やっぱりない。 静かな室内に寂しさを覚えて尻尾をたれながらキースは仕方ないと自分を奮い立たせると、一度部屋に戻って持っていくものを詰め込んだリュックを背負った。 あんなにいっぱいにいたのに、これだけか。 最小限というと本当に少ないが、それ以上のものがキースの心のなかにはある。 ここで過ごしたかけがえのない思い出がいっぱい。 最後に大切なマントを肩にまいてキースはフォッカーのいる作業場のドアをノックしたあと開けた。フォッカーは低い作業台の前で難しい顔をしていたが、耳をぴんとたててさっと、手の中のものを隠した。 「フォッカー、いいかな?」 「……」 いつもは果てのない旅にでるような空色の瞳がそっと俯く。ぎこちない。今までずっと過ごしていたなかで一番苦しい時間だ。 キースはのそのそと歩いてフォッカーの前にある丸椅子に腰かけてしっかりと視線を向ける。フォッカーもゆっくりと視線をあげた。 にこりとキースは微笑んだ。 「これ、預かってほしいんだぁ」 差し出したのは優しく穏やかなキースをそのまま形にしたような、オレンジ色の封筒だった。 「これは……?」 「故郷の家族にあてたものなんだぁ……勝手なお願いだっていうのはわかってる。もし、もしも、俺がいた世界が見つかったら、渡してほしいんだ」 「……」 フォッカーの瞳が細められた。 「頼むよ。こんなことを頼めるのは、フォッカーしかいなくてさぁ」 「……」 黒い毛におおわれた手がゆっくりと手紙を受け取ったのにキースはほっとした。 「フォッカーはいろんなものを作ってくれたね。椅子やメニュー表とか、小さな飛行機の模型とか」 「……そうだにゃあ」 「いろんなものを作れる魔法の手だなぁって、俺、見ていて思ったくらいだよぉ。けど飛行機を操縦しているフォッカーは一番すごかった」 ターミナルの空はどこまでも晴れていて、それを見るたびにここを飛行機でとびまわりたいにゃあとフォッカーは尻尾をわくわくと振って告げていた。 何度か他の世界でお友達を乗せていることもあったのをキースは眺めていた。 「空ってきれいなんだろうなぁて、フォッカーを見ていたら思ったよー。何気なくいつも見ていたけど、雲の形や青い色も一種類じゃなくてさ」 濃い藍、夜に向かう紺碧、水を混ぜたような青、どこまでも続くような蒼天。 白い雲、流れる雲、走るような雲。 フォッカーが、いつも見ている、何気ない空の美しさを教えてくれた。 「ありがとう」 「……」 「フォッカーといれて、俺はいろんなことを知れた。いろんな美しいものや強いものを見れた。とっても楽しかった。いろんな人と知り合えたのも、みんなフォッカーのおかげだよ。本当にありがとう」 今まで一緒にいてくれて。 笑ってくれて 怒ってくれて 泣いてくれて 楽しい思い出をいっぱい作ってくれて キースの穏やかな眼差しにフォッカーは黙ったまま手紙を指で軽く撫でているだけだ。その姿に少しだけ心寂しい気持ちになりながらキースは立ち上がる。 そろそろ、ロストレイルの出発時刻だ。きっと友人たちも待っている。ヴォロスでも自分のことを待っていてくれる人がいる。 「じゃあ、元気で」 キースはゆっくりとドアを開けて外へと出ようとしたとき、こてんと脳天になにか軽い衝撃、目の前にきらきらと光るものが落ちてきたのに、両手を差しだした。 「あ」 キースの両手に転がり落ちてきたのは、ロストレイルの形をしたピンだ。 美しい茜色の形、星色の煙突、器用にもそこからは雲がもくもくと出ている。 キースは驚いて振り返るとフォッカーが立ち上がっていた。けれど俯いて、肩が小さく震えている。 「あ」 キースが口を開く前に、キッとフォッカーが顔をあげた。 いつもきらきらと輝いている瞳に涙の膜を張り付けて、けれど強い意志を孕んでいる瞳がキースを射抜いた。 「せいぜい達者でにゃ」 意地をはった、けれど精一杯の優しさとあたたかい声が、キースの胸を歓びと感謝でいっぱいにした。 フォッカーの自分を送り出してくれる気持ちは痛いほどに感じる。だから、 「……うん。ありがとう。フォッカーも」 さっそくもらったピンを自分の肩にかけているマントにそっとつけるとキースは歩き出す。 店を出て、一度も振り返らずに。 フォッカーはキースが出ていったあと、たまらずにドアに駆け寄って、その大きな背を見つめた。 いっぱい、いろんな思い出を作った。 小さな爪を出して、ドアを軽くひっかきながら片手をあげる。 帰属して、幸せになるにゃ! キースの背に向けてフォッカーは力の限り手をふる。 大きくて、たくましい、優しい背が見えなくなるまで。
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