慧国は、ジンヤンが皇帝の座に即いてから、大陸にある国々を攻め落とし、その勢いは衰えることはなかった。 いつしか崔国も、と城下では噂されてはいたが、そのような話は上層部へ上がってくる事はない。 民に不安が広がっている事実を隠蔽して、上へ報告が行かないようにしていたからだ。 たとえ、王が民を思って政をしていたとしても、途中で阻害する者がいれば、思いは途切れ、伝わらない。 少しずつ、民の心が王から離れ、臣たちが私腹を肥やし、崔国はまとまりのない国になっていた。 崔国王の一人娘、リンシン・ウーは、いずれ崔国を共に治めていく婿を迎えなければならない立場であったから、諦めにも似た思いを心に抱えながら過ごしていた。 リンシンは豊かな金髪の後ろ髪を一部結い上げ、金細工の簪を差し、他はおろしていた。衣装は色鮮やかな着物で年齢に見合った彩を使った物だ。 紅玉のような瞳は、金髪に映え美しい。 いくらかはリンシンが選ぶことは出来るだろうが、最終的な決定をするのは、父王だろう。 崔国にとって一番利益のある婚姻を成立させるのが、父王の役目であるのも理解している。 何より、娘を多く抱える他国よりも娘がリンシンしか居ないのだから、最大の利益を得る相手を見つけなければならないのだ。 時折、姿絵をいくつかリンシンの前に並べられる事があったが、心惹かれる絵姿にはまだ出会ってはいなかった。 絵姿が気に入らなくとも、父王としては顔見せ的なものとして、リンシンに見せているのだ。 慧国皇帝ジンヤンは、国が大きすぎる為に候補に挙がることはなかったが、目の前に並ぶ絵姿よりも凛々しい姿をしていると侍女たちが話しているのを耳にした事がある。 「私の夫となる方はどのような方になるのかしらね……」 リンシンは15歳。 真剣に夫となる人が決まりそうな気配に、他人ごとのように呟いた。 慧国が、崔国に軍隊を率いて攻め入って来たのは、夜も更け、城で夜宴が催されていた時だった。 街を取り囲み、城門を破城鎚で打ち壊し、出入口を制圧する。 静まりかえった街を、戦装備で軍馬に跨がり、駆け抜けていく。 巻き上がる土埃。 突然の出来事に民達は鎧戸を開け、外を見る。 鈍く光る槍の切先に、石畳を歩くたびに音をたてる鎧の音。 駆け抜ける軍馬の足音に、慌てて家屋へと引っ込んだ。 夜闇に輝く場所へと向かっていく姿は、灯りに誘われる蝶のよう。 慧国の色鮮やかな旗は、攻めて来た国の名を知らしめる。 反抗してきた民は刃を振るったが、見ているだけの民らには手を出すことはなかった。 城壁の向こう側は静かに軍隊が埋め尽くしている。 蠢く姿は、この国がもう終わるのだと予想させた。 王城の門が破られ、第一の門、第二の門と最奥へと慧国の軍隊が攻め入る。 戦続きの慧国軍と違い、隣国との戦もここ数十年起こっていなかった崔国軍は、赤子の手をひねるように斬り伏せられていく。 夜宴の最中であったから、王城には貴族や大臣、崔国を動かす主要な者達は揃っていた。 街を、王城を取り囲んでいる現状、逃げるのは難しい。 それでも、貴族達は控えの部屋にいた供の者に抜け道を探させる。 命が危険に晒される緊張感に耐えきれず喚き出す者や、悲観的になって泣き叫ぶ者、諦めて力なく座り込んでしまう者と反応は様々だった。 謁見の間に移動した崔国王とリンシン。 下段には大臣達。 父王は硬い表情で、軍を指揮する将軍の話を聞いている。 崔国軍では指揮する者が命を落として、命令系統が乱れているということで、将軍が現場へと向かう。 王族の護衛は近衛軍が就いている。 父王の近くに留まり、リンシンは目まぐるしく変わる情勢を少しでも理解すべく努めた。 逃げ出すという選択肢をとらなかった崔国王は、滅び行く国の行く末を少しでも良い方へと傾けるために玉座にあった。 謁見の間の扉は既に開かれ、やってくる者達を待ち構えていた。 逃げも隠れもせぬという態度を示している。 大国に睨まれ狙われたら、逃げられはしないのだから。 玉座までの道のりを整えた慧国軍兵の間を歩んでいくるのは、豪奢な戦装束に身を包んだ慧国皇帝ジンヤン。 手には血に染まった抜き身の刃。 刃を目にして、宰相がリンシンの前に立ちはだかる。 リンシンがジンヤンに連れ去られると思ったのだろう。 密かにリンシンを嫁に貰おうと画策していた好色の宰相は、慧国皇帝に叛意ありと一刀の下に斬り伏せられた。 リンシンは父王に庇われ、倒れる宰相の向こうに立つジンヤンの姿に目を奪われた。 項でまとめていた結い紐が解け、艶やかな黒髪が動きに合わせて舞う。 父王を見据える鋭い瞳は、胸に抱かれるリンシンの心を射貫いてしまった。 『金髪紅眼の女は陛下の在位を脅かしますぞ』 ジンヤンの脳裏に、占い師の言った言葉が蘇る。 (「なんて凛々しい貌の方なのかしら」) リンシンの心に灯る恋の炎。 「降伏せよ」 ジンヤンの降伏勧告に従い、崔国王が受け入れた時、リンシンは自分が恋に落ちたのだと自覚したのだった。 リンシン15歳、ジンヤン23歳の初春だった。 崔国は、慧国の属国となった。 リンシンは崔国の人質として差し出されることになり、王城に勤める者達は嘆き悲しむ。 だが、リンシンは人質とは言え、嫁にと差し出されることに不謹慎だと思いつつも、喜んでしまった。 謁見の間でみたジンヤンの凛々しい眼差しと、堂々とした立ち居振る舞いは、リンシンの心を捉えて離さない。 好みではない絵姿ばかり見てきたリンシンにとって、間近に現れた理想の男性像はジンヤンだった。 大国となっている慧国には、きっとリンシンと同じように迎えられた嫁がいるのだろう。 それでも、望む相手の元へ嫁ぐことができる自分は幸せだと、ジンヤンへの思いを募らせて行く。 輿入れの支度は順調に進む。 近づく別れに父王は悲しみながらも、幸せな生活を営めるように嫁入り道具を揃えた。 慧国側の用意が調ったと連絡が入って数日後、リンシンは崔国の王城を出発した。 輿に揺られての長い旅路は、リンシンの身体を疲弊させたが、ジンヤンが迎えてくれると思うと疲れも飛んでいた。 慧国へと到着すると、街の入口に居たのは、先導する近衛兵。 街は静まりかえって、誰も外を出歩いていなかった。 街の人々に外出禁止令を出しているのかもしれない。 歓迎の声を期待していたリンシンは、薄ら寒ささえ感じる街の雰囲気に飲まれながら、心が少しずつ沈んでいくのを感じていた。 静かな輿入れの列は、城前に並んだ数少ない臣下たち。 大国である慧国を動かす臣下の数がこれだけの筈はなく、リンシンは歓迎されては居ないのだと実感した。 それとも属国となった崔国には旨みなど無いと判断されたのだろうか。 ヴェールを被ったまま、静々と振る舞う。 ジンヤンの待つ謁見の間へと足を進めながら、会える喜びを噛みしめていた。 広く赤い柱と金の装飾。窓を飾る凝った房飾り。 灯される光は上品な香りを練り込んだもの。 毛足の長い絨毯の上を、リンシンは進む。 嫁となる者が他の男に顔を見られぬように顔を覆っていたヴェールをジンヤンはリンシンから取り去らないまま、出迎えた。 「よく参った。長旅疲れたであろう。ゆっくりと休むが良い」 「労いの言葉ありがとうございます。わたくしは、陛下の心の安寧の一端を担えるよう努力して参ります」 「うむ。努力せよ。貴妃を後宮へと案内せい」 ジンヤンは、形だけの挨拶と労いの言葉を口にすると、リンシンを後宮へと送り込んだ。 言葉通り疲れを癒すのを優先してくれたのだと思っていたが、いろいろと不思議に思うことがあった。 出迎えの無かった街の民。 城前に並んでいた臣下の数。 ジンヤンがリンシンのヴェールを取らなかった事。 想像していた輿入れとはずいぶんと違う。 属国の姫だからだろうか。 すでに数多くの姫がいて、そういった形式的なものは排除しているのだろうか。 考え始めればきりがない。 花蝶宮と名付けられた大きな宮は、後宮の離れにあった。 豪奢で美しく整えられた宮は、名の通り蝶のように羽を広げる部屋の構成となっており、中庭は季節ごとに花々が植えられて、退屈しないように作られている。 丁寧な仕事だとわかる内装は、居心地がよさそうだ。 椅子に座し、リンシンは庭を眺める。 窓からの眺めも計算された美しさで、心遣いに感謝しながらも、どこか寂しさを感じていた。 貴妃として迎えいれられたリンシンの地位に見合う宮。 正妃に次ぐ地位は、崔国を軽く扱っていないのだとわかる。 だけど、どこか空虚さを感じるのは何故だろう。 広くて豪華な宮だというのに。 「この宮を訪れてくださるかしら」 この宮で待っていれば、ジンヤンは訪れてくれるのだろうか。 ジンヤンが整えさせた花蝶宮で、蝶を引き寄せる花のように待っていれば。 凛々しい眼差しで見つめてくれたら。 私の気持ちをいつか問うてくれるだろうか。 執務室へと引っ込んだジンヤンは、物言いたげな表情を浮かべている臣下を見やる。 「なんだ」 「貴妃様の元へは」 「……行かぬ」 臣下の言葉に、ジンヤンは冷たく返す。 『金髪紅眼の女は陛下の在位を脅かしますぞ』 ジンヤンの脳裏に、占い師の言った言葉がこびりついて離れない。 後宮の離れにある花蝶宮へリンシンを押し込めたジンヤンは、一度として通うつもりはなかった。 すれ違う心の先に何があるのか、リンシンはまだ知らないで居た。
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