人通りの少ない路地の奥に、ひっそりと静かな佇まいの店がある。しんとした空気を湛え、もう何年も時間の流れから取り残されたような。古びた印象は拭えないが、どこか懐かしい感じもする。「やあ、いらっしゃい」 人の気配を察してか、ドアを押し開けて店から顔を出したのは一人の女性。しゃらしゃらと、ドアについた鈴が小さな音を立てる。「思い出の修理に来たのかな」 それならここで間違いないと、落ち着いた静かな声で言いながら女性は店から出てきて軽く一礼した。「わすれもの屋に、ようこそ」 さて、何から説明したものかなと女性は顎先に軽く手を当てた。「家が受けるのは、思い出の品の修理と創造だ。修理の場合は、奥にいる兄が受ける。手前味噌で恐縮だが、あの人にかかれば直せない物はない。何でも気軽に依頼してくれ」 但し、と女性は指を立てた。「兄にできるのは、形を元に戻すことだけだ。何も言わなければ新品同様にしてしまう。残したい傷や思い出は君にしか分からない、それは前もって話しておいてくれ」 直さずともいい傷はあるものだと頷いた女性は、優しく目を細めた。「勿論、リメイクも受けている。想いが刻々と変わるように、道具も姿を変えていいものだ。無から有は生み出せないが、カメラから湯飲みを作れと言ってもあの人ならやるかもしれないな」 どんな物になるかは保証の限りじゃないがと楽しそうに笑った女性は、次は私の紹介だなと軽く居住まいを正した。「私は、君の思い出から物を作る。どこかで失くしてしまった物、それと知らず置いてきてしまった物。せめて似た物でいいから手に入れたいと望むなら、何なりと。君の思い出を頼りに、作り上げよう」 材料を持ち込んでもらっても構わないぞと頷いた女性は、柔らかく優しく微笑んだ。「修理も創造も、すべては君の思い出次第。たまには過去を振り返り、思い出に浸ってみないか?」 どうしたいか迷っているなら相談にも乗るぞと気軽に告げた女性は、ご依頼お待ちしておりますと少しだけ丁寧に頭を下げた。
「記憶から物を作ってくれるって聞いたんだけど……、一度見ただけの物、でも作れるの?」 作れると言ってほしいと祈りを込めたようにリンシン・ウーが尋ねると、乗り出した彼女と向き合っている店主は二度ほど瞬きをしてにこりと笑った。 「勿論、全ては客人の望まれるまま」 色々と聞かせてもらうことにはなるだろうけれどと断りを入れつつ椅子を勧められ、リンシンはほっと息を吐いて腰かけはしたもののどこか固い。脳裏に浮かぶたった一人を思い返す時はいつも、彼の前に進み出た時と同じほどに緊張するからだろうか。 敗戦国の姫として差し出された身だというのに、リンシンはあの輿入れを少しも厭っていなかった。顔を見ては嘆くように何度も詫びた父王を宥めるのが心苦しいほど、確かに彼女の心は浮き立っていたのだ。一目見た瞬間から彼女を捕らえてやまない存在に、嫁げることを。あの方のお側に行けると、ただそれだけを喜んでいた──どんな仕打ちが待っているかも知らず、純粋に。 甘く胸を高鳴らせていた想いは、今は苦い。羽さえ生えて浮かび上がりそうだった心は、鉛に等しく重い。 実際に胸が苦しくなったような気がして服の胸の辺りを捕まえ、ぎゅっと握る。無理やり言葉を紡ごうとして唇を開いたが、零れ落ちたのは涙だけだった。 (どうして) どうしてあの方は、いらっしゃらなかったのだろう? 今リンシンの隣になんて望まない、無理なのは分かっている。けれど輿入れした、あの日。それからの長い月日の内、一度たりとも訪ねてはくれなかった。 (他の方のところには、通っておられたのに……) 思い出すだに涙は止まらないが、今は人前だったとはっとして慌てて目を擦る。 「ご、めんなさい、ね。泣いたり、して」 無理に笑って取り繕おうとした手をそっと止めた店主は、だいじょうぶだと微笑んだ。 「おもいの儘ならなさは知っている、どうして君のそれだけを咎めよう。泣いた跡対策なら任せて、心行くまで泣いてくれ。胸に詰まったおもいが少しでも軽く、流れ落ちてくれるように」 幸いにしてここには誰もいないと、宥めるように肩を撫でてくれる手が暖かくて。止めるはずの涙がまた一筋頬を滑った。 「あの方に焦がれて……、焦がれて輿入れをしたから、あの方の近くにいられるだけで満足だったの」 苦しい思いを吐くように告げ、溢した自分の言葉にある嘘を見つけて苦く笑った。 「違うわね、……満足だと思い込ませていたの。そんなはず、ないのに」 馬鹿ねと自嘲気味に呟き、自分の膝の上で組んだ手を見下ろす。あの頃も、こうして自分の爪だけを眺めることが多かった。 初夜には夫が訪れてくるものだと聞いていたのに、彼女の元に届いたのは簪。何の言葉も添えられておらず、政務が立て込んでいらっしゃるようでと他人越しの言い訳を聞いただけ。 それでも、最初は嬉しかった。あの方が自分のために選んでくれたのだと信じ、鏡を覗いては似合うかどうかとはしゃいでいた。けれど実際には、その簪は一度も挿したことがない。できればあの方に挿してもらいたいと、訪いを待って持っているだけだったからだ。 「簪のお礼でも、挿した姿を見てもらうだけでも、……今思えば口実はいくらでもあったのに。臆せず行動すればよかった。もっと素直になって、話せばよかった」 リンシンの何が気に入らなかったのか。どうして一度も訪れてくれなかったのか。 聞かせてほしいと望むのは、今になって抱いた願いではない。あの頃からずっと尋ねたくて、でも喉の奥で留めていただけだ。恋い慕う気持ちを盾に、嫌われたくないからと見ない振りをしていた。 どうしてだろう。初めて宮入した時も顔布を取ることさえ許されず、碌な言葉もかけてくれなかった。あの方の心がリンシンにはないなんて、分かっていたはずだ。それを受け止めてから踏み出せる一歩も、きっとあったはずなのに。 きゅっと唇を噛んで俯いていると、簪をご希望だろうかと控えめに声をかけられてはっとした。 「いいえ、……違うの。あれは、もういいの」 ずっと眺めていた簪だ、説明をするなら微に入り細を穿ち伝えられるだろう。けれどあれは、訪ねてくれないあの方をひたすら待ち侘びていた日々を嫌でも思い出し、痛みと寂しさを伴う。もしこの手にできる唯一を選べるのなら、きらびやかなだけで物悲しい簪ではなく。 「結い紐、を」 初めて目にした時、あの方の黒髪を束ねていた、あの。 宰相を斬り捨てた時、するりと解けた。柔らかに落ちる群青の結い紐と、広がった闇色の髪と。凍てつくような眼差しに射抜かれた、瞬間。リンシンは恋に落ちていた。 そこにいた誰よりも幸せだったと断言できる、あの日を象徴するような夜色を望む。 「当時は回収する余裕もなくて……、遠目に見ただけの物、だけど」 確認するように言葉を切ると、店主はスケッチブックを取り出してどうぞと力強く頷いた。 「家はわすれもの屋だ。君が望む形を、そのままに」 覚えている限りの色と形を伝え、知らないはずの感触や素材まで丁寧に尋ねて作られていく結い紐を眺めながらリンシンはそっと息を吐いた。 「不思議ね……、もう随分と昔の話なのに、昨日のことのように覚えてる……」 まだ恋を知らず、大事に包んでくれていた真綿を裂くように突如として降った感情。打たれたように立ち竦んで見惚れるだけだった、たった一人の存在。甘いだけでないともう知っているのに、それでも幸福だったと胸を張れる初恋の瞬間は色褪せることなくリンシンの中にある。 (いつか……) 夜の闇に包まれるように思い返していたリンシンは、客人と小さな呼びかけに応えて知らず伏せていた目を開けた。少しだけ眩しく感じて目を細め、恭しく両手に捧げ持たれた結い紐にゆっくりと瞬きをして少し身体を乗り出させた。 華美な装飾を嫌い、実用的な本当に髪を留めるためだけの結い紐。けれどリンシンを射抜いた闇に沿って負けないだけの群青は、星を内包するように角度によって僅かな銀を覗かせる。遠く見た覚えしかないのにそうと受け取ったそれは、確かにあの方のしていた結い紐のように思えた。 毅然として冷ややかな、あの方自身のような……。 「ジンヤン様……」 大事に抱き締め、呟く名前が耳に懐かしく甘く痛い。未練なのか悔恨なのか惜別なのか情愛なのか、自分でもよく分からないまま項垂れるように顔を伏せる。 「この想いを越えるほどの恋を……、私はいつかできるのかしら」 ぽつりとした呟きに、店主が柔らかく笑った気配がして顔を上げた。望んだ答えを紡いではくれないが、そっと胸に手を当てた店主は静かに笑みを深める。 「ご依頼の品、それで間違いありませんか?」 「ええ……、ありがとう。あの日のままよ」 本当の結い紐には触れたこともないけれど、この形をどう捉えるかはきっとリンシン次第。 店主はどこか嬉しそうにして、深く丁寧に頭を下げた。 「またのご来店、お待ちしております。いつなりと、あなたのおもいでなおします」
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