ヴォロス北部。 一年の大半を曇天の下で過ごす事になる肌寒いこの土地にある小国ラタトスク。 それなりに長い歴史を刻むこの小国を統治する王は歴代様々と存在してきたが、現在の統治者は人格者として知られ、国民からの支持も相応に篤い。 むろん、歴代の王の中には悪行を重ねた挙句に弑された者も少なくはない。彼らが住んでいた古城はラタトスクを囲む針葉樹の奥に眠り、後は森がゆっくりと飲み込み消失していくの待つばかりとなっていた。 その、今は住まう者もなくなって久しい血塗られた古城が有する尖塔は、灰色の空を射抜くように森の中にある。隣国へ渡る街道の途中、その尖塔に気付く者も決して少なくはないともされていた。 何より、その古城近くに広がる平原にはルーネと呼ばれる薄青の花の群生が見られる事でも知られていた。ルーネは古城の初代当主の愛娘が姿を変えたものであるとされる。すなわち、この土地にしか咲かない特殊な花であるのだ。 ルーネの花が開くのは一年の内で一週間のみ。 その間にこの花園で眠った者は、喪失していた過去の優しい記憶を夢に見る事が出来るのだという。 夢の中、死に別れた者との再会を叶えたという者もいる。 けれど、ルーネの花はこの土地にしか根をはる事をしない。他所への移植を試みても、それは決して成功する事がないのだ。 この美しい花園を目的として足を寄せる観光客は、ラタトスクにとっては商売の源でもある。例え花が咲かない時期であったとしても、その美しい平原を見物に訪う客も少なくないのだから。 そうして、今、ルーネはつぼみをつけ、ようやく見頃を迎えようとしていた。 その矢先。 ◇「この地にディアスポラで飛ばされたロストナンバーがいるようなのですが」 世界司書ヒルガブは片眼鏡を指で押し上げながら、眼前に立つロストナンバーたちの顔を見る。「数日前からひどい濃霧がこの一帯を包んでいるようなのです」 濃霧は花園を訪れようとする者たちの行先を迷わせる。誘い込まれるようにしてたどり着くのは棄てられた古城だ。 もう住まう者もいないはずのこの古城は、道に迷った者たちを誘うようにして門を開くらしい。中には見目美しい女がひとり。自分はこの城のあるじなのだと名乗り、懐こい笑みでひとときの宿に立ち寄るようにと手招きするのだ。「しかし、その城に立ち寄った者はほとんどが、首をくくられ尖塔から吊るされた死体となって見つかるのだそうです。その死体の回収もままならない状態ではあるようですが」 小さく息をのみ、リンシン・ウーが両手で口を覆う。「……そのあるじが」 ウーが呟いた言葉にヒルガブがうなずいた。「そのようです。ひとりだけ命からがら逃げてきた方がいるようなのですが、ラタトスクの酒場で休んだ後、なぜか再び古城へ向かい、そして」「死んだ……」 続けたのはニノ・ヴェルベーナァ。ヒルガブはやはり小さくうなずく。「酒場に逃げてきた男の証言では、ルーネの花園を濃霧で囲い隠しているのは、どうやらその女主のようです。彼女は訪れる者たちの枕元に、ルーネによく似た花を飾るのだそうです」「……違う花、なのか?」 ニノの双眸が揺れる。「ルーネは薄青。飾られる花は純白だそうです」 応え、ヒルガブは続ける。「純白の花を枕元に飾り眠ると、過去の辛い記憶を夢に見るのだそうです。思い出したくもないような、奥底に封じていたような記憶の夢を」 その記憶に苛まれ、古城を訪ねた者たちは皆が自ら首をくくる。女はそれを尖塔から吊るしているらしい。「いずれにせよ、その濃霧がとかれない事には、花園に赴く事もままなりません。目的はロストナンバーの保護ですが、おふたりにはその準備のためにも古城へ向かっていただきたいのです」 言って、ヒルガブは言葉を結んだ。 ◇ グラム王はには数人の女がいた。 好色で執務もろくにこなさず、財を湯水のように使い、民草を虐げながら一帯を統治していた悪王だった。 容色の美しさももちろん、齢も若く、歌う姿は精霊のようだと称されたアールヴがグラムのもとに嫁ぐ事になったのは、何よりグラムの強い要望のゆえだった。 初めのうちこそアールヴを愛でたグラム王だが、すぐにまた他の女に心を寄せ、それきり滅多に足を寄せる事もなくなってしまった。 必然、グラム王には幾人もの子どもがいた。アールヴもまた男児を生んだ。 そうなれば、世継ぎ争いが生じるのも必定。けれどアールヴは訴えた。当然に、正妻である自分の生んだ男児こそが正統なる継承者であると。 けれども。 アールヴは古城が有する尖塔に幽閉され、そのままそこで命を散らす事となった。 後にグラム王はアールヴが生んだ男児が率いる民草によって弑され、男児は古城を棄てて新たな城を作り、そこで賢王と呼ばれながら余生を送る事となる。 だが、アールヴの亡霊は恨みを抱いたまま、今もなお、古城の中に残されている。 尖塔から吊るされ、無残な骸と化した者たちは、古城の中で悪夢に捕らわれたままに彷徨している。 そうして、城門を前にしたニノとリンシンを迎え入れるかのようにして、古城の門は軋んだ音を響かせながら、今再び開かれた。 =========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ニノ・ヴェルベーナァ(cmmc2894)リンシン・ウー(cvfh5218)=========
リンシンは、その赤い双眸に不安と興味とをない交ぜにした色を浮かべつつ、そろそろと窺うように門扉の裏を検めた。 「不思議ね、ニノ。誰もいないわ」 門扉の裏には誰の姿もなく、リンシンはわずかな安堵に胸をなで下ろしながらニノを見る。 「……行こう、ウー」 言って、そっと手を伸べた。ニノとしては何ということもない仕草のつもりだったのだが、それはリンシンにとってはある意味で不意をつくものでもあったらしい。 王宮の中で育ち、その後後宮へと移り住んだリンシンの肌は滑らかな陶器のようで、穢れのまるでない白さだ。 その白い頬に、薄く紅がさしていく。わずかに視線を揺らし逡巡を見せるリンシンに、けれど、ニノは小さく首をかしげるばかり。 リンシンは少しの間視線を泳がせた後、そろそろと迷うようにニノの手をとった。そうして、その手をゆるく握った後、リンシンはニノの手の中にあるものに気がついたのだ。 「これは?」 リンシンはニノを仰ぎ問いかける。ニノが差し伸べた手の中にあったのは金の指輪だった。 「ウーにあげる、から……持ってて」 促されるままに受け取ったリンシンは、指輪を顔の上にかかげ持ってしげしげと検めた。 「あ、少しだけ飾りが」 指輪の内側に見つけた赤い細工を覗き見て、リンシンはそれからわずかに目を見張る。 彼女が見つけたそれは指輪の内側の一部分についた血糊だった。 「俺、ウーのことは何があっても、守る……から」 言って、ニノはリンシンの指に指輪を通した。リンシンの細い指にはなかなかしっくりとはまらない。もしも何かの拍子に抜け落ちてしまっては意味がない。 「俺の血、植物を枯らす、んだ。だから、これ、ウーを護る指輪」 指輪をリンシンの指に通しながらそう言って、かろうじてリンシンの右の親指にはまったのを確認する。安堵の色を目に浮かべ、ニノはリンシンの表情に気がついた。 リンシンはニノの顔をまっすぐに見据えたまま、細い首をかしげ、何かを思案しているかのような表情を浮かべている。 「あ……血、とか、気持ち悪い?」 訊ねたニノに、リンシンはふるふるとかぶりを振った。 「ニノ……護ってね。信じているわ」 そう言って微笑んだリンシンに、ニノはやはり安堵の色を浮かべる。 「俺、ウーのことは、護る。何が、あっても」 迷いなく返したニノに、リンシンの頬が再び薄い紅を帯びた。 人々の足を迷わせ古城へ運ばせる濃霧は毎年決まって現れるものなのか。あるいは今回に限って初めて現れたものなのか。 世界司書がいわく、濃霧の内には保護対象となるべきロストナンバーがいるのだという。もしもそのロストナンバーの出現が何らかの影響を与えているのだとすれば―― けれど、ラタトスクで得た情報は、いずれも”霧が出るのはこの時期に特有なこと”だというものだった。特殊な条件による影響ではないらしい。ただし今回ほどの濃霧は近年では稀なものではあるらしいが。 考えながらリンシンを見る。リンシンはニノの視線に気がつくと細い首をかしげ、笑みを浮かべた。その笑みを見つめ、ニノもまたわずかに――とてもぎこちない、笑みとすら言えないほどのそれを滲ませてみる。 跳ねるような足取りでついてくる彼女のことは、例え相手が誰であったとしても、傷つけることは許さない。 改めてかたく確認した後、ニノは尖塔をいだく古城を仰いだ。 「ねえ、ニノ」 ニノの後ろを歩いていたリンシンが、庭を見渡しながら口を開く。 「話に聞いた感じとぜんぜん違うのね。ちゃんと手入れもされてるみたいだし、植物に飲まれて消えてくだけだって言ってたけど、ぜんぜんそんな感じじゃないわ」 言われ、ニノはうっそりと周りを検める。 決して美しく手入れの届いた、というわけではない。が、確かに、長い間放置され、朽ちていくのを待つばかりであったはずの古城であるにしては、人の手の関わりを彷彿とさせるだけの要因を持っている。 誰かが定期的に、あるいは不定期に足を運び手入れをしているということか? ――あるいは、霧によって足を運んだ者たちが? それとも リンシンがニノの横をすり抜け、門の内側に足を踏み入れようとした。ニノがその腕を捉える。 ニノのうっそりとした眼差しを向けた先、幾人かの使用人を従えた女がひとり立っていた。 「ようこそおいでくださいました、旅のお方」 女が丁寧に腰を折ると、それに倣って使用人たちも腰を折る。 「ずいぶんと霧も深くなってまいりましたね。お風邪でも召してはいけません。すぐにお部屋のご用意をいたしましょう」 言いながら使用人に短かな指示を告げる女に、リンシンが思い出したように口を開けた。 「……アールヴさん……?」 呼ばれた女がわずかに動きを止める。満面に笑みをたたえたままの顔を、再びゆっくりとこちらに向けた。 「なぜ、わたくしの名前を?」 アールヴの声が、ほんのわずかに色を変える。その変調に気がついたのか、リンシンが小さく身を震わせた。 「もてなし、は、いらない。……貴方、こそ。どうして、俺たちの出迎え、を?」 リンシンをかばいつつニノが問う。アールヴはわずかに物悲しげな笑みを浮かべた。 「あなた方もわたくしの話を街で耳にされたのですね。そうして、わたくしの元へ足を運ばれた」 その応えに、ニノとリンシンは互いの顔を見合わせた。 「あの、」 「わたくしが霧に乗じて客人たちを迷わせ、招き、そうして殺めた……。街の方々はそう仰っているのでしょう?」 リンシンが訊ねようとしたことは、アールヴが先んじて口にした。リンシンは逡巡し、それからそろりとうなずく。 「素直なお方」 アールヴは小さく笑う。悲しげに、短かな息をひとつ吐いて。 「確かに、わたくしはとうの昔に現し世の理を外れた者」 言って、アールヴは黒い双眸を持ち上げた。リンシンを見つめ、ゆっくりと片手を持ち上げる。ニノがわずかに身を動かしたが、アールヴは己の長い髪を撫でつけただけだった。 しかし、双眸は変わらず、まっすぐに、リンシンの顔を見据えたまま。 「アールヴさんは、何を恨んでいるの?」 リンシンが問う。アールヴは静かにかぶりを振る。 「何も」 言いながらアールヴは数歩ばかり歩き進めた。リンシンとの距離が縮まる。ニノが訝しげにアールヴを見た。リンシンはアールヴの意思を知りたいらしい。リンシン意思を優先するならば、今ここで問答無用にアールヴを仕留める真似は無粋だろう。 アールヴが身につけているドレスからは花の香が漂っていた。アールヴが歩むたび芳香が宙にとけて広がる。 「幽閉されたって聞いたわ」 「ええ、ご覧になったでしょう。あの尖塔の一番上に」 「王や、お子さんとも引き離されて」 「……ええ」 アールヴがゆっくりと歩む。 リンシンに近づくのはニノが許さない。そもそも、アールヴはリンシンからいくぶん距離を取った位置で足を止めた。使用人たちも最初の位置に立ったまま、身じろぐこともしない。 「……忘れ去られることがどれだけ辛いことか、私もわかるわ」 「まあ」 「だって、……私も」 花の香が広がる。 「ウー?」 あれほどに気遣っていたはずなのに、ニノが気がついたときにはもう、リンシンは全身から力を失くし、その場に崩れ落ちるようにして倒れこんでいた。 「ウー!」 リンシンの身体を支えようと腕を伸ばす。が、ニノの身体もまた、いつの間にか自由を奪われていた。足もとが揺らぐ。まるでやわらかく不安定な板の上に立っているようだ。 「そう。あなたもわたくしと同じなの」 アールヴの声が遠く近く響いていた。 気がつくと、リンシンはひとり、庭の中にいた。 深い緑と、その中に咲く色とりどりの花々。 色とりどりの花に似た、色とりどりのドレスに身を包んだ女たちがそれぞれの使用人たちを従えて庭のそこかしこに立っている。 どこからか音楽が流れだす。女たちがさわさわと動き出した。リンシンもまた音のする方に顔を向ける。城主が招いた楽師が到着したのだろう。 城主である夫は好色として知られてはいるが、それでも、自分を妻として迎え入れてからは毎夜のように足を運んでくれている。この楽師を呼んだのも、自分を喜ばせてくれるための趣向なのだ。そう、伽の折に話してくれた。 女たちに混ざり、リンシンもまた歩みを進めた。――そうして、ふと足を止める。 軽く頭をおさえ、改めて周りを見渡した。 好色として知られる夫? 否、リンシンが輿入れした相手は勇猛な武人としては知られていた。幾人もの妻を娶ってはいたが、それは後宮を抱え持つ王であれば当然のこと。 伽の折に語られた、甘やかな約束? 否、そんな場があったかどうか、それすらも危うい。現と夢とが織り交ざった記憶では判然とはし難いが、それでも、心のどこかは明瞭たる声で言う。 彼の御方は、一度でも愛を囁いたことなどなかった。 これは、 ――これはアールヴの夢 思い至ったリンシンの金糸のような長い髪を、庭を吹き揺らす風が梳き、流れていく。 崩れ倒れたリンシンを抱きかかえ、ニノはアールヴを睨めつけた。 ニノもまたアールヴの夢の中に陥りかけていた。が、ニノは眠りに落ちかけた刹那、自らの脇腹に隠し持っていたナイフを突き立てていたのだ。陰腹をすることで、眠りに落ちそうになった自意識を留めていた。 「……貴方、恨んではいない、って、言ってた」 「ええ、誰のことも」 アールヴは変わらず、どこか物悲しげな笑みを浮かべている。 「じゃあ、なんで、たくさん殺した」 「救済のため」 「救済?」 アールヴの応えに、ニノは首をかしげる。 「誰だって過去の幸福な記憶に戻りたいと思うものだわ。違って?」 そう続けたアールヴは、わずかに視線をすがめ、口をつぐんだ。 アールヴの記憶の中にいるのだと理解した後も、リンシンの意識は現実に戻ることはないままでいた。 音楽が鳴っている。女たちの姿はもうなくなっていた。 ――ニノ ニノからもらった指輪がついた親指に指先を這わせた。 くちびるをかみしめ、眼前にある城を仰ぎ見る。もう、この城のどこにも自分の居場所はないのだ、と。どこかがそう理解する。 愛されるため、求められるため。思いつくかぎりのことは可能なかぎりに努めたつもりだ。そのために恐ろしい呪術めいたことにさえも手を出した。 恐ろしい本を抱えた修道士が城を訪い、アールヴが吐露した告白に耳を傾け、そうして哀れんでくれたのだ。 老いはいかなる美しい女神からも美というものを奪っていくものだ。ならば愛する夫の寵愛を取り戻すため、あなたはかつての美しさを再び取り戻せばよろしい。 そう言って、修道士は教示していったのだ。 「きゃああああ!」 ニノの腕の中、リンシンが叫ぶ。ニノは弾かれたようにリンシンを検め、抱き寄せた。 リンシンはアールヴの夢から覚めていた。顔を蒼白とさせ、大きく震えながら、ニノの腕にすがりつく。 「ウー? 大丈夫?」 リンシンの顔を覗き込みながら訊ねるニノに、リンシンはしばし目を泳がせた後に顔を持ち上げた。その目はアールヴを見据えている。 「……だから尖塔に幽閉されたのね」 「ええ、そうよ」 言って、アールヴはゆっくりと笑みのかたちをつくる。 「ウー?」 「魔女の烙印」 ニノの腕をつかみ、リンシンは続けた。 「人の血を抜いて、それを溜めた中に身をひたす……でもそれは、美を保つためのものではないわ」 リンシンの言に、ニノがわずかに表情を歪める。 「人、の、血?」 「いいえ、いいえ。あの方の言う通り、わたくしは再び美しくなりましてよ! 皆、幸福な記憶にひたりながら死んでいったのですもの、幸福であったに違いありませんわ。グラム王もわたくしの元へいらしてくださるようになりましたもの! 息子だって生まれましてよ! かわいい、とてもかわいいわたくしの坊や!」 アールヴの笑みは凄惨なものへと変じていく。やがて狂ったような笑い声をあげて、アールヴは自らの髪をかきむしった。 「わたくしの坊や! わたくしの! あ、あああああ! どこへ行ったの!」 叫びと共に、それまでアールヴの後ろに控えたままでいた使用人たちが一度に顔を持ち上げる。 「あなた方が坊やを隠したのでしょう? ねえ? 坊やはどこにいるの!?」 アールヴが叫ぶ。使用人たちが一斉に迫り来たが、ニノはリンシンを抱え、守ったままの体勢を取っている。リンシンの華奢な身体をかばうようにして抱き包むニノの背に、幾本もの刃が突き立てられた。 「ニノ!!」 リンシンが叫ぶ。が、ニノはさほど表情を変えることもない。大丈夫と短い応えをひとつしただけだ。 「つまり、貴方は子どもに、会いたいだけなんだ」 ニノが低く問う。が、狂笑するアールヴには届かない。 「子どもに、会いたい?」 ニノの背に手を回し、涙目になりながら、リンシンが続く。 そうしてたった今まで見ていたアールヴの夢を思い出した。 愛されたかった。愛したかった。そのための相手が欲しかった。だから我が子を得られたとき、無二の幸福があるのを知ることができたのだ。 アールブの夫、グラム王はアールヴの生んだ我が子によって弑されたという。アールヴに甘言を与え魔導に引き入れた怪しげな存在がいたのだとして、それが自由に出入りすることの出来るだけの環境が、もうすでにこの古城の中に整っていたと考えるべきなのかもしれない。 ならばアールヴは恐ろしい呪術に身を沈めた加害者でありながら、同時にある種の被害者たる位置にあったのかもしれない。 「ニノ、私」 回した背が生温く濡れていく。リンシンが顔を青褪めさせたのを見て、ニノは初めてふわりと小さな笑みをのせた。 「大丈夫、ウー。大丈夫だから」 「でも」 微笑むニノの後ろ、使用人たちは再び得物を振りかざす。 「ニノ!」 リンシンが叫ぶ。 同時、ニノの周囲から現れ、伸びだした植物が、使用人たちの身体を次々に突き立てていった。使用人たちは一様に植物の餌食となり、床や天井、壁、あらゆる場所に突き立てられていく。 「ね」 ニノの顔がわずかにふわりと笑った。 「ニノ……」 泣き出しそうな表情で呟いた後、リンシンは再び小さくくちびるをかむ。それからアールヴに目をやって、届くかどうかもしれない言葉を編んだ。 「グラム王はあなたのもとへ訪れていたのね。……うらやましい。私の部屋に夫は来なかった。私の事は見えないように振る舞う人だったのよ。……私、忘れられてしまったのかもしれないわね……」 言いながら、リンシンは静かにニノの腕を離れる。気を練り、練ったそれで小さな子どもの形をつくった。 「この子も、母親に忘れられたかわいそうな子なの。……抱いてみる?」 言って放ったそれは、ようやく歩き出したぐらいの小さな男児へと姿を変える。よたよたと危なげな足取りで歩き、男児はアールヴの足もとまでたどり着いた。 アールヴの狂笑が途切れる。そうしてそのまま崩れ落ち、現れた子どもを検めた。 「……ここにいたの」 震えながらそう言って、アールヴは子どもを抱きあげる。子どもはアールヴの頬に頬をすり寄せて、嬉しそうに笑った。 アールヴに遣わした子どもはリンシンの特殊能力で創りだしたもの。けれどそれはリンシンの気力を削ぎながら存在するものだ。ゆえに長く存在させればさせるほど、リンシンは強く疲弊していく。 アールヴの身体が淡い光に包まれていく。その顔にあるのは満ち足りた幸福の表情だ。けれど直後、その身は床下から現れた大きな赤黒い霧のようなものに包まれ、引きずり込まれるようにしながら地中に没していった。 呆気にとらわれつつ一部始終を見ていたふたりの耳が、古城の崩壊する気配を捉え聞いたのは、それからややの間を置いた後。 ニノがリンシンを抱え古城を抜け出したのとほぼ違わないタイミングで、尖塔が崩壊した。門も城壁も、見る間に伸びる植物によって飲み込まれていく。 まるで長く止まったままでいた時間が、一度に流れ出したようだった。 リンシンに気付かれないよう、陰腹に刺したナイフをようやく抜き取って、ニノは傷口に治癒のための苔を張る。 リンシンはまだ呆然としたまま、崩壊していく古城を見守っていた。 「……ウー」 呼んでみる。その声に気付いたリンシンが肩ごしに小さく振り向いた。 「お腹、すいてない?」 言って、ニノはしまってあったあんぱんと牛乳を取り出す。 「食べる?」 「……ニノ」 ぼうやりと言った後、リンシンはようやくゆるゆると笑った。その笑みを見て、ニノもまた安堵の表情を浮かべる。 「見て」 ニノが指差す方に目を向けたリンシンが見たのは、古城を飲んでいく植物から芽吹いた純白の花だ。数多に花開いたそれが、眠りについた古城を抱き包むようにして風に揺れている。 小さく感嘆の息を吐いたリンシンに、ニノは言う。 「さみしくない。だから笑って。俺はウーが笑うほうが、パンより好き」 「ニノ……」 リンシンは再び泣き出しそうな表情を浮かべ、ニノの身体に抱きついた。 「……パン、半分こしましょう?」 ニノの胸に頬を寄せながら告げたリンシンに、ニノは静かにうなずいた。 花が風に揺れる。 そこに響く音楽も女たちのさざめく声も、走り回る子どもの姿も、今はもう遠い過去のこと。
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