リンシン・ウーは目を覚ます。 柔らかな蒲団は優しく彼女を包み込み、最高の寝心地を提供していた。 体を起こせば、おはようございます、と使用人が頭を下げてくれる。 湯浴みをするのは、さらさらと温かな湯が流れ、煌びやかな花びらが浮かぶ、気持ちの良い風呂。 優しく体を拭かれ、朝食の席に着く。 「また、朝が、来たのね」 目の前に並ぶ料理は見た目も味も素晴らしい。それは分かっていたが、リンシンは溜息をついてしまう。 花嫁として身をおく花蝶宮には、二年経っても夫であるジンヤンが訪れることが無かったからである。 清い体は、逆に恥入りさえする。 「夢でなら、お会いできるのに」 愛しい夫を、リンシンは思う。 夢の中でのジンヤンは、彼女の長い髪を優しく掬う。頬に触れ、唇をなぞる。ずっと傍にいろという。 それらを一通り堪能し、リンシンは微笑んで頷く。 幸せな時間を、共に過ごす。 しかし目が覚めてしまえば、それらはただ虚しいだけに留まる。実際に起こらなかったことは、一目瞭然なのだ。 「それでも、私は」 リンシンは呟き、果物を口にした。 口の中で噛み砕くと、果物は甘い汁を滴らせ、喉の奥に酸味を伝えた。 最初の頃は形式上とはいえ、宴にも呼ばれていた。ヴェールを被って、脱ぐことは許されなかったが、ジンヤンの妻として宴に出席していたのだ。 じんわりと、ああ、妻なのだ、とリンシンは感じていた。 忙しくとも、私を妻として認めているのだ、と。 「私は、呼ばれないのでしょうか?」 宴が催されていることを知っているのに呼ばれず、思わずリンシンは口にしていた。 彼女の目の前には、贈り物が並んでいた。今回の不義理を詫びるものだという。 「私は、こんなものが欲しい訳では」 唇を、きゅっと噛みながらリンシンは言う。 妻として宴に出席するだけでも、リンシンは嬉しかった。ジンヤンは同じ部屋に居て、目を向ければ姿が見える。ヴェールがその姿をほんの少し曖昧にさせたが、ジンヤンと同じ空間にいるという確信が持てた。 妻である、という気持ちも。 リンシンは贈り物を手にし、小さく息を吐いた。 美しい反物に、花、アクセサリー。 詫びる気持ちはあるのだ、と己に言い聞かせ、心を収めた。何よりも、ジンヤンがくれたのだから、と。 リンシンは知らない。それらの贈り物が、宦官が気を利かせて送ってきたもので、ジンヤンからのものではないことを。 リンシンは、ジンヤンを愛していたから。 あてがわれた花蝶宮の一室に、リンシンは足を踏み入れる。 二年間、不義理を詫びる贈り物は、その一室を埋め尽くそうとしていた。最近では、詫びる贈り物さえ届かない。一カ月おき、三カ月おき、半年おきと間隔が空いていったのだ。 それでも、贈り物は増える。 リンシンはジンヤンに「たくさん戴きまして、有難うございます」と伝えようと思っていた。花蝶宮を訪れたら、この部屋を案内するのだ。 全て贈り物は取ってあること、そして大事にしていることをみせるのだ、と。 「中々、機会に恵まれないのね」 リンシンは、ふう、と息を吐く。 並べられた壺や反物、絵、アクセサリーは、きちんと整理されている。埃一つ被っていない。いつジンヤンが訪れても良いように、綺麗にしておいて欲しいと伝えているからだ。 つつ、と指先でなぞっても、埃一つつかない。 「どうして、来て下さらないのかしら」 一年目は、今か今かと彼を待って過ごしてきた。 忙しいのだ、と言い聞かせた。この花蝶宮に訪れる暇など無いのだ、と。心休まりたくなったり、一息つける時間が出来たりすれば、きっと訪れるに違いない、と。 だからこそ、いつでも花蝶宮を美しく保ち、自らも美しくあるように備えた。 被るようにと命じられたヴェールを、ジンヤンの手で脱がして貰うのだ。その時は、己が出来うる全ての力で、美しく微笑もうと決めていた。 しかし、ジンヤンは現れない。 二年目となってしまった今、微笑むことが出来るかどうかはわからない。それどころか、罵ってしまうかもしれない。 寂しくて、会いたくて、堪らなかったと叫んで。 リンシンは溜息をつきながら、近くの台に手を置こうとする。が、そこには壺が置かれており、ぐわん、と軽く揺れる。 「あ」 慌てて壺が倒れぬように支え、ふう、と息を吐く。 「割ってしまうところだったわ」 苦笑交じりに呟く。折角、ジンヤンがくれた壺だというのに。 「……壺」 ふと、リンシンは思い出す。 幼い頃、かくれんぼをしていた時のことだ。リンシンは大きな壺の裏に隠れた。 見つからないように、息を潜めて。 そういうときに限って、くしゃみが出そうになる。何とか押しとどめようとしたけれど、結局「くしゅん」と出してしまった。 目一杯我慢したために、体が大きくふれてしまうほどに。 ――がしゃん!! 隠れていた壺にぶつかり、ゆらりと揺れたかと思うと、壺はあっという間に倒れて割れてしまった。 「何事ですか?」 使用人たちが、慌てたように集まってくる。 そうして、驚くリンシンを見て、皆ほっと息を漏らすのだ。 「お怪我は無いようですね」 「壺を、壊してしまって」 「仕方ありませんよ。それよりも、動いたら駄目ですよ。怪我をしますからね」 優しく言われ、リンシンは頷いて待っていた。 結局、かくれんぼはそのままなし崩し的に終わってしまったけれど、壺が割れたことによってリンシンがそこに隠れていた、というのは誰の目から見ても明らかだっただろう。 「……そう、私が、居る事を」 ぽつり、とリンシンは漏らす。 今、ここにリンシンが居る事を主張できる。 ただし、怒られてしまうかもしれない。 あの頃とは違い、今は節度ある大人なのだから。 (だけど、怒る時、会えるわ) ジンヤンの顔を思い浮かべ、リンシンは微笑む。 壺を壊せば、使用人たちがやってくるだろう。そうして彼らによって、リンシンがジンヤンから貰った壺を割ったと伝えられるだろう。 ジンヤンの耳に届けば、やって来るかもしれない。 ああ、花蝶宮には、リンシンが居るのだ、と。 ――がしゃん! つい、と軽く押しただけで、壺はあっけなく壊れてしまった。 音を聞きつけ、使用人達がやって来る。 「リンシン様、お怪我は」 「……ありません」 ばたばたと走る使用人達。 だが、ジンヤンの顔は無い。 (ああ、まだ、足りないんだわ) リンシンはそう思い、身近に在った美しい彫り物がある笛を手に取る。 ――ばりん! 綺麗な細工のある窓に向かって投げつけると、窓硝子がきらきらと光りながら床へと降り注いだ。 綺麗な細工は、綺麗な雨を降らせるのだ、とリンシンはぼんやりと思う。 「何をなさるのですか、リンシン様!」 青くなる使用人たちを見て、リンシンは溜息をつく。 (まだ、まだ足りないんだわ。まだ怒られるに足りないんだわ) ――がしゃん、ぐしゃっ、ばりん! リンシンは、次から次へと美しいものを破壊してゆく。 それに伴って、止めたり片付けたりする使用人たちの数は増えていった。 「はぁ、はぁ」 息を吐きながら、リンシンは荒れ果てた部屋と動き回る人々を見る。 何処にも、ジンヤンの姿は見えない。 「リンシン、様」 怯えたような表情の使用人たちを見、リンシンは「ごめんなさい」と呟くようにいい、ふらふらと外へと向かう。 こうして大きな音を立ててみても、大事なものを壊してみても、ジンヤンは現れない。使用人たちから、話がいっているだろうに。 ふらふらと歩いていくと、庭に辿り着く。そよ、と吹く風に誘われ、池の方へと向かう。 池には睡蓮が咲いている。白とピンクの睡蓮は、美しく、ゆらゆらと優しい風に揺られている。 「水」 ぽつり、とリンシンは呟く。 ――ぼちゃん! 気付けば、リンシンは池に身を投じていた。 庭に出たのは、心を鎮めるためだった。 池に来たのは、風に誘われたからだった。 水を見つめたのは、睡蓮が揺られていたからだった。 決して。そう、決して。 このように、身を投じるためでは、なかったのだ……! (溺れる!) ぶくぶくと口からはみ出してゆく泡を見つめながら、リンシンは思う。 息が苦しい。水が入り込んでくる。思うように体が動かない。 (ああ、でも) 迫り来る死を感じつつも、どこか冷静にリンシンは思う。 (このまま死ねば、彼は、来てくれるかもしれない) そう思うと、リンシンは口元がほころんだ。 もっと早くからこうしたらよかったのだ。流石のジンヤンも、妻が死ねば現れるだろう。 最初のうちは、形式上とはいえ、宴にも呼んでいてくれたのだから。 ただ残念なのは、眼にジンヤンの姿を焼き付けられないことだ。 リンシンは水面へと向かう泡を見送りつつ、そっと、目を閉じた……。 ――ぐいっ! ぷは、とリンシンは空気を吸う。 リンシンの腕を力強く掴まれたかと思った次の瞬間、リンシンは水から体を引き上げられていた。 「まだ、死んで貰うわけにはいかない」 ぼんやりとした頭に響くその声は、ずっと聞きたかった声だ。 そうして薄れ行く意識の端に見えたのは、ずっと見たかった顔だ。 リンシンは微笑み、静かに静かに闇へと落ちていった。 リンシンは目を覚ます。 いつもの蒲団に、いつもの湯浴み。 ただ、使用人たちの表情が悲しそうな気がする。気のせいだろうか。 「いつもの、朝」 目の前に広がる料理たちを見つめ、リンシンは呟く。 気付けば、ジンヤンから貰ったものが減っていた。それを見て、ああ、と思い出す。 (そう、壊したんだわ。でも、来てくれなくて) 果物を手に取ろうとし、ふと止める。 「来てくれなかった……?」 どこまでが現実で、どこからが夢なのかというのが、リンシンの中で曖昧になっていた。 だが、湯浴みをした際にどこも変わりは無かった。 掴まれた筈の腕でさえ、何の跡も残っていない。 (やっぱり、夢ね) リンシンは思いなおした後、くすくすと笑った。 「どうされましたか?」 飲み物を注いでいた使用人が、リンシンに尋ねる。リンシンは幸せそうに微笑み、答える。 「とても、幸せな夢を見たの」 リンシンの美しい笑みと答えに、使用人は「それは良かったですね」と答えるのが精一杯であった。 口止めを命じられ、使用人たちは戸惑った。 ジンヤンの訪れを心待ちにしていることは、誰の目から見ても明らかであった。 そんなリンシンに、ジンヤンに助けられたのだと伝えれば、とても喜ぶであろうと思っていたのだ。 だが、ジンヤンは冷たく告げる。 「儀式を行うまで、死んで貰っては困るのだ。ただ、それだけだ」 使用人たちは、頷くしかない。 それが、使われるということなのだから。 「あら」 食事をするリンシンの傍を、美しい蝶が舞う。 リンシンは微笑みながら手を伸ばすが、結局蝶は外へと逃げてしまった。 見送れば、蝶は睡蓮の方へと引き寄せられてゆく。 「幸せな夢だったわ」 睡蓮でも眺めてみようかしら、とリンシンは思う。 あの夢の続きを、見られるかもしれない。 <夢と現の狭間で笑み・了>
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