花蝶宮はその美しく華やかな名とうらはらに、宮殿の北東……本来ならば忌み嫌われるはずの艮の方角にひっそりと、忘れられたように存在していた。宮の主はリンシン、この慧国の若き帝・ジンヤンが辺境の崔国を攻め落とした際、終戦の証として贈られるように嫁がされたうら若き貴妃。 北東とはいえ、慧国の温暖な気候と風水に従い日当たりと風向きを計算された宮殿の造りのせいで花蝶宮はたえず花が咲き、よく手入れをされた緑と精緻な装飾を施された大理石の宮は静かながらも季節の移ろいを楽しむことの出来る美しい場所であった。此処に住む貴妃はさぞかし帝の寵愛を受けているのだろう、この宮殿に足を踏み入れたことのある者ならば誰でもそう思ったはずだ。 その実、若き帝はこの宮の主リンシンにひどく怯えていた。自ら攻め入って慧国のものとし、形だけとはいえ娶るまでした姫を、何故か。 __黄金色の髪に、忌み火のごとし赤い瞳の女にはお気をつけを。陛下の在位を脅かす暗示が出ております 今日、慧国がここまでの繁栄を維持出来たのは、帝たるジンヤンの政治手腕や国を敬う敬虔な兵や民の力の他、慧国発祥の推命占術によるところが大きかった。天候を読み農耕や治水の予測をする、戦の仕掛け時をはかる、宴の際に帝が身につける衣装の色を決めるなど、今日政においてに推命占術が影響しないものはない。そしてその占術を奨励し、自身も稀代の占い師として政に強大な発言権を有していたのが、ジンヤンの二人目の妻イーシャンであった。 このイーシャンは元々が推命占術の大家を父に持つ尚宮女官であり、その教養を買われ、齢二十八とジンヤンより年嵩ながら賢妃の名を賜ったという経緯がある。若くして帝位についたジンヤンは事ある毎にイーシャンを重用し、結果慧国はますますの繁栄を得た。 だから、誰も気づかなかったのだ。嫉妬に狂ったイーシャンが、たった一つ、ジンヤンに偽の予見を与えたことに。 閉じ込められた金糸雀は、何も知らずに夢のなかで唄う。 ◆ 「貴妃様、おはようございます。よい陽気でございますよ」 「……ええ」 厭わしい時間、朝がやってくる。女官が寝台を覆う絹の蚊帳をするり引き開け、東向きの大きな窓から差し込むまっすぐな陽光がまだ開かぬ瞼を歪めさせた。 「ねえ、今日は……」 「……申し訳ございません」 薔薇の花弁と薄荷の葉を浮かべた清水で顔をすすげば、甘やかな香りと清涼感に包まれた目元はいやでも見開かれる。そのままいつものように鏡台の前へ座り、髪を結ってくれる女官につい癖で聞いてしまうが……女官は申し訳無さに眉を下げるばかり。もう分かっている、自分に予定など入っているはずは無いと。 「……分かっているわ、ごめんなさい」 「……お許しを」 この宮に入って、三年。ここ半年ほどは、身のまわりの世話をしてくれる女官たちとしか話をしていない。ジンヤンの使いも、今までは月に一度、いや最近は二月か三月に一度か、ともかくそれくらいの間で文と贈り物を届けてくれていたが、今ではそれすらもぱったりと途絶えている。どうにも寂しさが募る日にはそれらを手に取り眺め心を慰めていたが、いつだったか文を日付の順に並べていた時、どれも筆跡が違っているのに気づいて以来、文は全て書箱の奥底に仕舞いこんでしまった。 「そうだ、貴妃様。わたくしこの間、市井で流行っている珠結いのやり方を教わったんですの」 「珠結い?」 「はい、慧国の伝統工芸です。絹の紐を様々な形に結び、お守りや飾りにしたり、贈り物に添えたりするのですよ」 「……そう」 この自分より二つか三つ年上の女官はいつも何くれとなく気を使い便宜を図ってくれる。毎日この時間に、何も無いよりはいいだろうと何かしら話題を考えて楽しげに話してくれる気遣いは嬉しかったが、それ以上に心は動かなかった。きっと興味を示せば、彼女のことだ。その絹紐をもう用意していて結び方を教えてくれる心づもりなのだろう。 「…………そ、そうそう! 帝より賜った贈り物にも必ず同心結びの珠結いが添えてございますでしょう?」 「! ……ああ、あの桃色の紐飾りがそうなのね?」 形だけの印と分かっていても、その肩書きを聞けばはっと目線が上を向く。 「然様でございます、願い事の数だけ結び目の作り方があるといいますよ。そういえば……帝は近頃お体をお悪くされていらっしゃるとかで」 「……まあ」 久しぶりに聞いたジンヤンの近況。自分はほんとうに、この宮殿の誰よりもジンヤンから遠い。貴妃とはこんな身分だっただろうか、そんな疑問はとうに捨てた。嗚呼、だがその寂しさよりも、ジンヤンが病に臥せっているという事実に胸が早鐘を打つ。 政は滞りなく進んでいるのか。いつから臥せっているのだろう。……生命に危険はないのだろうか。 聞いたところで教えてくれる者があるわけでもない、見舞いに参じようと思っても追い払われるのは目に見えている。それに憤りや寂しさを感じることももう無い。自分はここで祈るしか出来ないのが当たり前なのだ。 「……貴妃様。帝に快癒祈願の珠結いをお贈りになられては?」 「えっ」 せめて、魂だけでもこの身体から抜け出て見舞うことが出来ればよいのに。そんな考えを見抜かれたのだろうか、鏡ごしに目を細める女官へ一瞬呆けたような表情でしか返事が出来ず、問いかけの意味をぼんやりと反芻する。 「(……そうよね、お祈りしていますって伝えるだけなら)」 受け取ってもらえるとは思えないけれど、ジンヤンを案じていることだけでも伝わればいい。そう思えばいくらか重い心も浮かぶ。うまい言葉が見つからずに小さく頷いてみせると、女官は櫛の手を止めずにこりと微笑んだ。 「帝がお喜びになられますよう」 「……そうだといいわね」 ◆ さて、時の皇帝ジンヤンはリンシン付きの女官が言う通りここ暫くの間病に臥せっていた。流行り病の季節でもないのに意識が混濁するほどの高熱が幾日も続き、医師たちがあれこれと薬を煎じるものの一向に回復する気配がないらしい。 未開の土地へ戦へ出れば風土病のひとつも貰って来ようが、リンシンの故郷である崔国を攻め落として以来ジンヤン自ら出向いた戦もなく、何よりジンヤンの他に誰もこの症状に伏せる者がいなかったため、これは呪いによるものではないかという噂がまことしやかに流れ始めていた。 「賢妃様、帝のご容態は」 「……芳しくありません。やはりあの貴妃の呪いがそうさせるのでしょうか」 その噂を撒いた本人であるこの慧国の賢妃イーシャンは、ジンヤン付きの宦官に何事かを書き付けた書面を渡しわざとらしい溜息をついてみせた。 当然ながらイーシャン自身、ジンヤンの病がリンシンの呪いの所為だなどとは思っていない。ジンヤンの病が心配でないわけは無かったが、それすらもリンシンを追い落とすために利用する……ただ呪いのせいだと思わせることでリンシンの立場を悪くし、ジンヤンからリンシンを遠ざけることがひとまずのイーシャンの思惑であった。 __殺せないのなら、追いやればよい 辺境の小国ながら金、銀、鉄と良質の鉱山をいくつも持つ崔国からやってきた貴妃を殺しでもしようものなら、崔国は報復の為その資源と技術を他国に流してしまうことは目に見えている。そうなれば慧国の経済と軍事は瞬く間に傾くであろうことが分からないイーシャンではない。だからこそ飼い殺すため自分より高い位である貴妃の名を譲り、帝が訪れてはならない鬼門の方角に追いやり、偽の予見でジンヤンがリンシンを嫌うよう策を巡らせていたのだ。 国を背負う若き帝の不安を煽り手懐けることなど、推命占術師のイーシャンには赤子の手をひねるようなものであったが、人の心というものは占いだけではどうにも御したがい。崔国を攻め落とさんとする以前、身分と姿を偽って崔国を訪れた際……たまたま顔を見ることのあったリンシンを、年嵩の自分に向けられるものとは違う輝かしい眼差しで見ていたことを、彼女の為に花蝶宮の設計を自ら執り行おうとしていたのを、イーシャンは忘れられずにいた。 __ジンヤン様…… 何時の世も、愛情の深い者が勝つとは限らない。 ◆ 「この紐はどこに通せばいいのかしら?」 「今緑色の紐をこちらの輪にくぐらせましたので、次は反対側のこちらでございます」 「あ……そうね、左右に一回ずつだったわね」 久々に、声を上げて笑ったような気がする。昼の日差しがここちよく和らげられる木陰に卓を出し、緑色と赤色の絹紐を手にとって、まるで童女に返ったように。 「……いけない、はしたなかったわね」 「ようございます、貴妃様はいつでも笑っておいででなければ」 「そうかしら……?」 病に臥せる夫への祈りをこめなければならないのに、つい笑みがこぼれる。自分にも出来ること、伝えられることがあると分かった所為だろうか。 「貴妃様の瞳は太陽のよう。全てに恵みを下さる太陽が雲に隠れていてはいけません」 「……ありがとう」 緑色は、健やかな大地の色。赤色は、それを育てる太陽の色。二つが合わさり同心の結び目をつくれば、息災を願う珠結いとなる。 「さぁ、仕上がりました。お上手ですわ、貴妃様」 祈りを込めて作った珠結いは、崔国から取り寄せた魔除けの銀細工を中央にあしらって神々しく輝いた。その出来栄えに頷き、見舞いの文を書きにいそいそと私室へ急ぐ。 ◆ その夜は珍しく寝付けなかった。いつもなら甘美な夢に慰めを見出すことを身体が覚えていて、すぐさま眠りに落ちているのに。夕暮れ、何度も書き直した文と珠結いを宦官に持たせた時の胸の高鳴りがまだ心に残っている。まるでジンヤンの熱がうつってしまったようだ、本当にそうならジンヤンも少しは楽になるだろうかと思いつつ、何度も寝台で寝返りを打った。 __これは……夢? ふと、身体が軽くなるのを感じる。薄く目を開ければ、自分の身体が寝台に横たわっているのが自分の目に映った。嗚呼、今朝方願った通り魂が抜け出てしまったのだろうか。 __そうだわ、ジンヤン様 思うことは、一つ。花蝶宮を抜け出し、いまだ足を踏み入れたことの無いジンヤンの寝所へ、迷わず向かっていた。きっとこれも夢なのだろうから。 __嗚呼! 様々な魔除けが施されたジンヤンの寝所は物々しい雰囲気に包まれていた。その中央には、まるで何かを怖がっているように眉をしかめて眠るジンヤンの姿がある。聞いていた通り、高熱に苦しむ姿が痛々しい。見れば、荒い呼吸に合わせてジンヤンの身体が二つに……いや、自分のように魂が抜け出そうになっているのが分かった。 __ジンヤン様! __……貴様 思わず声が出る。呼応するように抜け出たジンヤンの魂、その瞳がこちらを向いた。それだけで、胸が詰まるほどに嬉しい。身体に戻り、どうか大事にするよう、珠結いを贈ったことを伝えようとするが。 __離れろ!! びくりと身体が竦む。ジンヤンの大音声はとても病人のそれとは思えない。嗚呼、やはり求められてなどいなかった。 「……!」 怯えたように目を見開く。光景はいつもの寝台。夢だったのだ。ジンヤンに不愉快な思いをさせてなどいなかった、それだけが救いだった。起き上がり、気を整える為枕元の水差しを手に取ろうとすると、視界の端によろめきながら寝台へ近づく黒い影を見つける。 自分はこの影を知っている。さっきまで寝所にいたはずの、愛しい人。間違えるわけがない。 「ジンヤン様……?」 「やはり……貴様、か」 荒々しく引き裂かれる蚊帳の向こうから、高熱の苦しみと怒りに顔を歪ませた愛する人がこちらを見ていた。 「ど、どうかご寝所にお戻りを……お体に障ります」 「呪いをかけておいて、何を言う! やはりお前が……お前が」 鋭い平手打ちの音と、頬骨の鈍い痛み。身体が倒れたことで漸く、自分がジンヤンに打たれたのだと理解した。そのすぐ脇に、無残に斬り解かれた珠結いの成れの果てが投げつけられる。 何も言えなかった。ただこんな時でさえ、触れられたことに、ジンヤンの瞳がこちらを向いていたことに、喜びを感じる自分が居た。あの病が自分のせいだと思われてもよかった、それで自分を思い出してくれるのなら。 ◆ 若き帝は怯え、閉じ込められた金糸雀は口を噤む。愛情は行き交うことなくもつれ合い、断ち切られる日をただじっと待つのみ。
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