その兆しはあった。 最愛の夫であるジンヤンは慧という一国を統べる玉座にある身。齢二十八にして玉座に在する若き国王は、自らの身を以って数多の戦地を巡り、その圧倒的な天賦を余すことなく発揮し、その先々をことごとくに平定している。その戦果のほどは、鍛え上げられたその体躯を見れば容易に窺い知ることも可能だ。 数多の敵兵を薙いできた槍の切先よりも鋭い眼光、夜を塗り潰す闇よりも一層色濃く揺れる黒髪。その容貌が放つ美しさは、まるで、手を触れることの赦されぬ妖刀が纏う独特のそれを彷彿とさせる。 執務もむろん手を抜かない。政を執る腕においても、慧王の才は余すことなく行き渡っているのだ。――人々は云う。天は慧の若き王にあらゆる面に於いての万全たる才を与えたのだ、と。 けれど、それは反転させれば、ジンヤンが多忙を極める身であることをも示唆している。 ひとたび戦となれば長く国を留守としてしまう。 玉座に座る身であれば、後継を残すことも務めのひとつ。ゆえにジンヤンもまた他聞にもれることなく後宮を抱えていた。後宮では数多の女たちが夫の到来を待ち望みながら控えている。王の伽を務め、王の子種を――願わくば男児を宿し、十月十日の後に玉のような赤子を産む。それこそが後宮に控える妃たちの務めなのだ。 リンシンもまた、ジンヤンの後宮に身を置く女のひとりだった。 ジンヤンが攻め落とした国の皇女として生まれた高貴なる身であるリンシンは、属国の証としてジンヤンの妃となり、慧国の後宮のひとつ、花蝶宮の主という身となったのだ。 立場的には虐げられても不思議ではない身だ。現に、祖国の者は皆が皆一様に、リンシンの身の不遇を哀れみ涙した。確かに祖国を離れることは悲しかった。されどそれ以上にリンシンは幸いを感じていた。 ひと目で心を奪われた美貌の若き王。彼の妃となり、彼の身に触れることが叶うのだ。それ以上の幸いは他に考えられないほどに。 ジンヤンは確かに多忙を極める身だった。けれどその隙を縫うようにして、夫はたびたびリンシンの宮に足を寄せた。 整えられた庭で美しく咲き誇る花々を共に愛で、泉の傍で睦言を交し合う。 思えば、輿入れのその日、出迎えの者の数が少なかったのも、迎えてくれたジンヤンがリンシンの顔布を取り貌を検めようとしなかったのも、――ああ、そうだ。宴席においても決して顔布を外すことを許してはくれなかった。一度、ジンヤンの言いつけを破り、宴席の最中に顔布を外したことがあった。その折にジンヤンはとても冷ややかな態度で、リンシンに退席を命じてきたのだった。ひどく悲しかった。けれど、こうして足を寄せてくれるジンヤンと向き合えば、そうした感情などたちどころに霧散する。ジンヤンの声音が紡ぐ睦言だけを耳にとめ、ジンヤンの逞しい腕に抱かれ、幾度となく褥を共にして、幾度となくジンヤンの愛と精とを受け入れる。 これ以上の幸福などあろうはずもなかった。 目を覚ます。ジンヤンの姿はどこにもない。 リンシンは小さな息をもらし、ひとり、褥を後にする。控えていた侍女が恭しく頭を垂れた。 「ジンヤン様は本当に早起きだわ」 どれほどに睦言を交わそうと、――どれほどに身体を重ねようとも、朝を迎え目を覚ましたリンシンはいつもひとり。ジンヤンは気配すらも残さずに消えている。 「たまにはゆっくりとなさっていってくださればいいのに。朝餉を共に楽しむぐらいしてくださってもいいと思わない?」 わずかに頬を膨らますリンシンの言葉を耳にして、侍女の身体が大きく震えた。 「……? 見たことのないお顔ね。そういえばこの間来たばかりの子はどうしたのかしら。最近お顔を見なくなってしまったわ」 「ええ、リンシン様。三日前に女官が三名、辞職していきました」 「まあ。……それは寂しいわね」 身だしなみを整えるための椅子に座り、古参の女官の話を耳にしながら、リンシンは深いため息を落とす。 「お別れの挨拶ぐらい、しておきたかったわ」 リンシンの言葉に、古参の女官はわずかに眉をしかめ、唇を噛む。わずかな沈黙の後、意を決めたような色を浮かべて顔を上げ、リンシンに向けて親しげな笑みを見せた。 「わたくしの躾が届いておりませんでした。次からはきちんとご挨拶に伺うよう、女官や侍女たちには厳しく言いつけてまいります」 リンシンはやわらかな笑みを浮かべてうなずきを返す。 ――三日前、女官たちが離職の挨拶を告げに来たとき、リンシンは庭の泉で水に揺れる月の光を見ていた。うわ言のようにジンヤンの名を繰り返し、目に見えぬ誰かが隣にいるかのように振る舞いながら。 ジンヤンがリンシンを訪れたことなど一度もない。初めのうちこそ使いの者に贈り物を持たせ届けてもいたが、やがてそれすらも滞るようになっていた。二年、三年と、ジンヤンからの放棄された状態で無為な時間を過ごすうち、リンシンが心神に異常を発し始めたのは、四年目を数えた辺りからだった。 そう、兆しはあったのだ。 まず、月の触りの異変。毎月訪れていた月経が、ある月を境に、止んだ。続いて食の好みに関する変異。先ごろまでは好んで食していた果実も、匂いを嗅ぐだけで嘔吐を引き起こすものと化してしまった。決定的だったのはリンシンの下腹の膨張。まどろむ時間も増えていた。 ――受胎 リンシンの腹に赤子が宿ったのだ。 けれど、それはありえないこと。ジンヤンがリンシンと閨を共にしたことなど一度もない。誰の目にも明らかに、ジンヤンはリンシンを忌避しているのだ。精を授けるどころか、言葉すら――視線すら送るのを厭うほど。 ならば他の何者かがリンシンと通じていたということか。――否、それもありえない。今や誰しもが恐れるジンヤン王の後宮を狙い忍んで来る男など、考えられるはずもない。宦官が子種を持たぬのは必定。 女官たちは皆が一様に戦慄した。 ――ならば、なぜ、リンシンの腹は膨れていくのか。 リンシンは寝台の上、十月十日を待たず急速に膨れていく己の腹を愛しげに撫で、語りかけ、――自分たちの目には見えぬジンヤンとの睦言を交し合っている。 女官が五名減り、新たな女官が三名やってきた。 並みの女官では耐え切ることなどできないのだ。――仕える主が、心神を病んでしまっているなど。 耐えうるわけもない光景なのだから。 そうして辞職していった女官たちの早々たる判断は、その後比較的早くに、正しいものであったと知られるところとなった。 月が満ちるよりも早く、――ある朝、リンシンに朝の支度をと訪れた侍女が目にしたそれは、すでに目を覚ましたリンシンと、その腕に抱えられた、産着を身につけた赤ん坊の姿。 侍女は数ヶ月前にリンシンの世話をするために宮に遣わされたばかりだった。あの日、目には見えぬジンヤンに頬を膨らませていたリンシンの目にとまった侍女だった。あれ以来、侍女はリンシンの傍近くに控え、主だった世話を勤めるようにと言い渡されている。 侍女は震えながらも歩みを進め、寝台の傍に立ち、リンシンの腕に抱かれまどろむ赤ん坊の顔を覗き見た。母となったリンシンが、陽光のような微笑を浮かべている。 眼前にあるのは、存在しえぬ存在であるはずの赤ん坊。そも、月が満ちるより前に……たったの数ヶ月を経ただけで、健常な赤ん坊が誕生するわけもない。産声も聞いていない。誰ひとりとして、出産の場に立ち会ってなどいなかった。 「おはよう。……見て、可愛い寝顔でしょう」 寝台の上、リンシンは侍女に向けて口を開く。侍女は一度だけ大きく肩を震わせて、それからゆっくりと膝をついた。 「おめでとうございます、リンシン様」 告げる声が震える。頬を濡らすそれが何を意味するものであるのか、侍女自身にもわからない。 リンシンは侍女が泣いているのを目にとめて、笑みを消し、心配そうに首をかしげた。 「どうして泣いているの? どこか痛いの?」 訊ねたリンシンに、侍女は大きくかぶりを振る。 「いいえ、……いいえ、リンシン様。わたしは……」 言いながら顔を持ち上げた。視線の先、リンシンの、まだ稚さすら残す双眸の紅玉がひらめいている。 後宮に住まうどの妃よりも美しく、技芸にも秀で、声音も笑みも、誰よりも優しく、やわらかく。 「わたしはリンシン様にお仕えできて、本当に幸せです」 けれど、その優しさゆえに、心を病んでしまった、哀れなる貴妃。 侍女の言葉にリンシンは微笑む。 「ありがとう。私も、あなたのような人が傍にいてくれて、とても心強いわ」 けれど、そう言い終えた直後、リンシンはそのまま寝台の上にぱたりと倒れ臥してしまう。 侍女が悲鳴をあげる。女官たちが数人、走り寄ってきた。 リンシンは気を失っていただけだった。極度に疲弊し、それゆえに寝入ってしまったのだろう、と、リンシンを診た宦官が告げた。 赤ん坊は消えていた。 膨らんでいたはずのリンシンの腹が元に戻っていることを知った宦官や女官たちが、初めにリンシンを訪ねた侍女に詰め寄った。侍女は赤ん坊の話を告げる。見たままに、目にしたばかりの光景を、違えることなく告げた。けれどその場にいた誰ひとり、侍女の話を信じる者はいなかった。 寝台の上、寝息を立てているのはリンシンただひとりだけなのだから。 けれど、その数時間後には、侍女の話は真実であったのだと、花蝶宮のすべての者が知るところとなった。 目を覚ましたリンシンが庭を散策していた。やわらかな声で唄いながら、――産着で包んだ赤ん坊を大切に、愛しげに抱きながら。 リンシンのすぐ傍にはあの侍女が控えていた。リンシンに呼ばれると親しげに笑いながら歩み寄り、リンシンと言葉を交わして笑いあい、赤ん坊の小さな手に触れ、嬉しそうに頬を緩め。 ――貴妃リンシンが妄念のうちに赤子を産んだ。 その触れは他ならぬジンヤンの耳にもむろん届く。けれどジンヤンは眉ひとつ動かすことなく言い放った。 「命があるのならばそれでよい。決して自害などさせぬよう、見張りを強固なものとせよ」 情など一抹もこもらぬ声だった。それより他に気にとめるべき問題など、何一つとして存在してなどいないのだ。 花蝶宮には賢妃イーシャンや、正妃からの贈り物が届くようになった。 賢妃は貴妃の気狂いをあざ笑い、戯れにと、絢爛たる細工のなされた玩具を贈る。 正妃は貴妃の不遇を哀れに思い、せめてもの心をと、貴妃の狂言に乗じる。 ジンヤンはそれからもリンシンを見舞うこともなかった。けれど、リンシンは以前のようにそれを不満に思ったりしなくなり、疑問に思うこともなくなっていた。 当然に乳母が遣されることもなく、乳房が乳を噴き出すこともない。けれどそれにすら疑問を持たず、リンシンはただただ愛らしいばかりの赤ん坊を胸に抱くばかり。その傍には常に侍女が添っていた。侍女は気付いていたのだ。 リンシンは振り向く。無二の友とも言うべき存在となった侍女の顔を覗き、腕に抱える赤ん坊を見せる。 「ねえ、目元がジンヤン様にそっくりだと思わない?」 訊ねたリンシンに、侍女は応える。満面の笑みを浮かべ、深々とうなずきながら。 「ええ、とっても。……ああ、でも、この口元はリンシン様にそっくりだわ」 「本当? ふふ、本当に可愛い。私の坊や」 リンシンは陽光のような微笑を浮かべる。赤ん坊に頬を寄せ、やわらかな匂いに包まれる。 いつしか侍女も貴妃と同様、気狂いの印を押されていた。けれど、幸福の内にいるふたりにとって、それはどうだっていいことだった。 「風が出てきましたね。……さあ、お部屋に戻りましょう」 侍女が言う。 風が吹き、庭に咲く草花の花びらを巻き込み、空にのぼっていく。 「ええ、そうね。坊やが風邪をひいては大変」 言いながら、リンシンはそのまま倒れ、気を失った。侍女がリンシンの身を支え、慣れた手つきで部屋へと運ぶ。 貴妃は今も夢を見る。深い深い、まどろみの中、覚めぬ夢の恩寵に包まれる。
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