「水族館! 水族館に行きたいわ!」 目をきらっきらさせて、ぐっと拳を作り、軽く頬を紅潮させて。全身で楽しそうを表現したティリクティアにせがまれて、キアラン・A・ウィシャートは何度かの瞬きで突然彼女が現れたことに対する驚きを遣り過ごし、水族館と繰り返す。 「この前の遊園地みたく、壱番世界か?」 「そう!」 すーっごく楽しそうでしょう面白そうでしょうと意気込んで主張され、思わずふっと口許が緩む。水族館と聞いても正直なところあまりぴんとこないが、可愛い娘がここまで期待を膨らませているのならわざわざ潰すこともないだろう。 「じゃあ久し振りに一緒に出かけるか」 「やった!! あのね、イルカショーをやっているところがいいわ! それとね、ラッコと、マンボウと、ジンベエザメ! これは絶対に外せないわ!」 「何だ、見に行く前から詳しいな。というか、魚が見たいならブルーインブルーに行けばいいんじゃないか?」 あそこなら海に潜れば色んな魚が見られるだろうと水を向けるのに、ティリクティアは分かってないなぁと腕を組んで可愛らしく眉を寄せた。 「ブルーインブルーなら何度も行ったことがあるし、魚に触れたこともあるけど。水族館はまた趣が違うのよ!」 胸を張って断言するティリクティアに、ふぅんと感心していると。ふいと視線を外し、僅かに赤くなりながらそうなんだって話を聞いたわと小さく急いで付け加えられるのが可愛らしい。 ふはっと思わず息を吐くように笑うと、だって行ったことがないんだものしょうがないじゃないと照れ隠しに詰め寄ってくるティリクティアの頭を、わしゃわしゃと撫でる。 「そうだなぁ。じゃあお父さんと水族館デビューといくか」 「うん!」 ぱあっと嬉しそうな笑みを広げて大きく頷くティリクティアを眺め、世のお父さんが娘に敵わないわけだよなぁとそっと笑った。 壱番世界の友人を捕まえてパンフレットと評判を集めまくり、念入りに選んだ壱番世界の水族館前でティリクティアは目を輝かせていた。 「どうしよう、今日はイルカと触れ合うチャンス……!」 「へえ。イルカとの握手会、今日で最終日か。運がよかったな」 わしゃわしゃと頭を撫でてくるキアランに、髪型が崩れるってばと抵抗しつつもイルカショーの時間が書かれた看板から目が離せない。 「これは今から並んでおくべきかしら……」 「まだ何時間もあるのにかぁ? 大丈夫だろ、チケット売り場に行列ができてるわけでなし。大体、イルカショーの後にやるんだろ。今から並んでたって後から来たのと同条件だぜ」 なら先に見て回るほうが効率的だと肩を竦めるキアランに、成る程、と納得する。何だか単なるガキみてぇだなぁと笑うキアランをちらりと睨むように見上げたが、ほらと出される大きな手と悪気のない笑顔に絆されて手を繋ぐ。 「子供で悪かったですねー、だ」 「は。何言ってんだ、ガキはガキらしくあるのが自然だし当然だろ。特に今日はお父さんと一緒なんだ、好きなだけはしゃげばいい」 というかお父さんもはしゃぐぞーと張り切った宣言に、何それと呆れて吹き出す。何って楽しんだもん勝ちだろとさらりと言ってのけるキアランに、くすくすと笑いながらチケットを買ってゲートを潜る。 中は予想していたほどの混雑はなく、ゆったりしたペースで見て回れるほど人の数は疎らだ。最初に入ったのは南国の雰囲気を持つ明るい空間で、川の体裁を取った水槽に色鮮やかな小型の魚が泳いでいる。どうやら大型のオウムも同じ空間で飼われているらしく、木陰から時折鳴き声が届いている。 「すごい、植物までちゃんと植えてるのね」 「水族館てより、いっそ動物園だな」 オウムに限らず色々いるぞと面白そうに辺りを見回すキアランが指し示す先を追いかけながら、見つける鳥や昆虫に声を上げる。しばらくそうして南国を楽しんだ後、あまり一ヶ所に留まっているとイルカショーが始まるまでに見て回れないと気づいて先に進む。 どうやら先に入ったこちらは別館らしく、本館に続く通路はただの廊下で少しばかり味気なかったけれど本館の扉を潜ればそこは別世界が広がっていた。 「うわあ、大きい水槽……! すごいわ、これ周り全部水槽なのね!?」 「すごい……すごいのはいいけど何か暗くないか。暗いよな、ここ」 先ほどまでは天井がガラス張りで明るい太陽光が降り注いでいたが、こちらはひたすら水槽がメインで照明も落としがちだ。勿論足元が覚束無いほどではない、水槽自体には明るい自然光が降り注いでいるので見て回るには支障はない。 「鱗が煌いてる……、うわぁ、すごく綺麗……!」 思わずキアランから手を離して水槽に駆け寄ると、危ないぞ転ぶなよと急いで追いかけてくる。子供じゃないのよと反論しつつも、目の前を優雅に泳ぐ魚群から視線を逸らせない。 「あの大群の魚、あれ、何かしら」 「鰯じゃねぇか? 腹がきらきらしてんなぁ」 感嘆するように説明した後、キアランも黙って眺めている。ふと気になって、ティリクティアはちらりと隣に立つ彼を覗う。 「まさか、美味しそうなんて思ってないわよね?」 「っ、まさか。思ってないデスヨ」 ないないと緩く頭を振って、単独でひらひらと泳ぐ魚を追うようにふらりと足を踏み出しているキアランに、怪しいと口にしながらもついていく。苦笑したように伸ばされてくる手を飛びつくように捕まえて、誤魔化されてあげるわと続く水槽を眺める。 部屋一面を優雅に泳ぎ続ける魚の種類を全部分かって挙げられるわけではないけれど、この光景の前ではそれをするほうが野暮だろう。 「綺麗ね……」 「ああ。よく喧嘩もしないで泳いでるよなぁ」 ゆったりしたペースで泳いでいく小型の鮫と、どこかせかせかと泳ぐ魚の群れと。追いかけるように歩を進めれば、次のスペースに向かう通路に続いている。少し名残を惜しみながらそちらに足を踏み入れれば、水中トンネルになっているらしく足元からも魚の泳ぐ様が覗える。 「この通路、水槽の真ん中を通ってるのね!」 思わずしゃがみ込んでしげしげと眺めていると、上をひゅっと黒い影が素早く通り過ぎていった。何と慌てて見上げると、立ったままそちらを見ていたキアランがオットセイだと答える。 「いや、アシカ……オットセイ……? アシカ……ま、まぁ、そんな感じのだ」 「頼りなーい」 見てたんでしょうと笑いながら抗議すると、一瞬で通り過ぎるんだぞと苦笑される。また来ないかなと四方に気を取られながら歩いても、キアランが手を繋いでいてくれるから心配はない。 「お、こっちの部屋はラッコがいるぞ」 可愛いなあとキアランの明るい声に慌ててそちらに顔を向けると、ちょうど餌を貰ったばかりらしくお腹の上で貝を割っている姿が見えて慌てて駆け寄る。 「へぇ、本当に器用なのね! 可愛い~っ」 「あ、石落とした」 鈍臭いのもいるんだなと笑うキアランに、そんなことを言うと可哀想よと諌めながらも急いで石を取りに行く姿を微笑ましく眺める。 「しかしこうやってゆっくり眺められるのはいいが、あんまりのんびりしてたらイルカショーまでに全部回るのは無理っぽいなぁ」 「えっ! もうそんな時間!?」 「いや、まだ大丈夫だ。ただマンボウもジンベエザメも見てないだろ。まぁ、イルカショーの後に戻ってきてもいいんだけどな」 一応お父さんは目覚ましよろしく時刻をお知らせするのが使命なんだと胸を張るキアランに、変なのーと笑う。 「キアランは、見たい動物はいないの?」 「あー、マンボウは見たいかもな。知ってるか、あいつらすぐ死ぬんだぞ。びっくりして死ぬ、迷子になって死ぬ、ぶつかって死ぬ。生きてるだけで奇跡に近い」 「そうなの? 迷子になって死ぬって、本当?」 嘘くさいと疑わしく聞き返すと、本当だってと繋いだ手を揺らして主張される。大袈裟じゃないかしらと笑うように考えるが、キアランがそんな知識を披露してくれるのが嬉しい。ティリクティアが楽しみに毎日パンフレットを眺めていたように、キアランも楽しみにしてくれていた現われならいいのだけれど。 ラッコの後にジンベエザメは見に行けたが、マンボウはお預けのままイルカショーの会場に向かったのは三十分も前になるとティリクティアがそわそわと落ち着かなくなってきたからだ。絶対に握手したい、前で見たいと意気込む娘の為に、ちょっとばかり早く向かうくらいはどうってことはない。 何より、イルカショーの会場は屋外で明るかった。水槽から取り込まれる明りがあるとはいえ、館内はどこも薄暗く落ち着かなかったなんて言わない。 (まぁ、ティアが楽しいならそれが一番だけどな) 実際に子供を持つ身ではないけれど、ティリクティアは娘のように可愛いと思う。彼女が子供らしくはしゃげるのなら、ホラーハウス以外はいくらでも付き合おう。 「あ、キアラン、始まるわ!」 あっちのプールと繋がったみたいとティリクティアが指し示し、派手な音楽が流れ始める。それに合わせて黒い影が勢いよく目の前のプールに飛び出してきて、合図と共に高らかな跳躍を見せた。 そのあまりに優雅な姿に、すごいわかっこいいと大はしゃぎするだろうと思ったティリクティアの声がないことにちらりと隣を覗えば、そんな余裕もなくひたすら感動したように見つめているのに気づく。 確かに、イルカが披露する様々な技に言葉は不要だ。ただ大きな感嘆と拍手、それだけでいい。 飛び上がって一回転してみせると再び水に戻り、交互に並んだ五頭が左右に飛び交わしていく。そうかと思えば上から吊るされたボールを飛び上がって鼻先でつついたり、尻尾で弾いたりと、思う様そのしなやかさを披露している。 途中でプールの縁ぎりぎりを泳いでいた一頭がちょうどキアランたちの前で高く跳ね、思い切り水を浴びる羽目になったけれど。 「ごめん、先に言えばよかったー!」 きゃらきゃらと楽しそうに笑うティリクティアはちゃっかりと水を避ける位置に移動していて濡れなかったので、よしとするところだろう。見かねた職員が貸してくれたタオルで頭を拭きつつ、イルカに夢中になっているティリクティアこそを眺めてキアランも口許を緩める。 (これだけ喜んでくれりゃ、連れてきた甲斐もあるしな) フィナーレとしてプール正面の舞台に乗っかったイルカたちが器用に前ひれをひろひろと動かすのを見て、ティリクティアは悲鳴みたいな歓声を上げている。そこで司会の女性が、イルカと握手してみたい人ー! と呼びかけ、真っ先に手を上げたティリクティアは嬉しそうに駆け寄っていく。 「ティア、足元が濡れてるから気をつけろよ」 「はーい、分かってるー!」 あまり分かってなさそうな様子で返事をしたティリクティアを転ばないかと冷や冷や眺めていたが、無事に辿り着いてイルカと握手したり、頬にキスされたり──どう見てもあれは頭突きにしか見えない、なんて言うのは野暮なんだろう──、楽しそうに過ごしているのを見てほっとする。 やがて時間が来て戻ってきたティリクティアは、これ以上ないくらい輝かしい笑顔でイルカの感触がどうの、目が円らだったのと報告してくる。あーもー可愛い奴めとわしゃわしゃと頭を撫で、イルカじゃないのよと楽しそうに抗議してくるのを受け流して立ち上がった。 「よし、じゃあ最後にマンボウを見たらそろそろ出るか。腹も減ってきたし、お父さんは寿司でも食おうかな」 「信じられない、水族館に来てお寿司なんて!」 やっぱり美味しそうだと思ってたでしょうー! と腕をぽかぽかと殴ってくるティリクティアに、ついうっかり本音がとそろりと視線を外す。 「いや、あー、今のはお父さんの失言でしたすみません。ああほら、それよりマンボウ。マンボウは見に行くんだろ?」 早く行かないと悲しくて死んじゃうかもしれないだろうとティリクティアの背を押して会場を出るように促すと、もーおーっと拗ねた顔はされたがすぐに笑顔に戻って腕に抱きついてくる。 「このお詫びに、お土産はいーっぱい買ってもらうわ。イルカのぬいぐるみと、ペンギンは必須よ」 「いやいや、ラッコのほうが可愛かったろー」 「そうね。じゃあラッコも追加で」 「えーとあのあんまり追加とかされるとお父さんの懐事情が、」 「あ、シロクマの容器に入ったポップコーンもあるみたいよ」 「ティアさん、だからお父さんの懐がね、」 溜め息交じりの抵抗など物ともせずつらつらと欲しい物を並べていたティリクティアは、ふふと可愛らしく笑って冗談よと手を揺らした。 「本当はキアランと一緒に来られただけで嬉しいの。──ほら、マンボウが待ってるわ」 見に行かなくちゃと赤くなったのを隠すように急かすティリクティアに引っ張られながら、これはもう嫁入りの時に思い出して必ず号泣するパターンだなとくすぐったい感情を誤魔化すように呟いた。
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