ちいさなノックの音だ。「どうぞ」「今、お邪魔じゃなかった?」 扉を開けた隙間から、そっと顔を見せたのはティリクティアであった。「平気、どうしたの?」 アリッサは笑顔で彼女を招き入れる。「忙しいところ、ごめんね……わ、これ」 部屋に入ったティリクティアは、服を着たトルソーに目を留めた。金糸の飾緒のついた礼装のようだ。「これ、リリイさんに仕立ててもらったばかりの服よ。13号の出発式典で着る予定なの」「素敵ね!」「だけど式典の準備がけっこう大変なの。まだ乗員も決まってないのにね」 アリッサは笑った。 それで?……と要件を促す。ティリクティアの話は、つまるところ、次の休みに一緒にどこかへ出かけないか――、というお誘いであった。 どこか、と言っても、ターミナルの街をぶらつく程度のことだ。「息抜きも必要でしょ?」「もちろん! 素敵なお誘いありがとう。どこに行く? 美味しいお茶でも飲みましょう。ウィリアムの紅茶は素晴らしいけど、それとこれとは違うものね。いいところがあったら教えて」「じゃあ考えておくわ」 少女たちは待ち合わせの日時を約束し、楽しい予感に微笑みあった。 そして、当日―― 約束の時刻より少し早く、アリッサは駅前広場の銅像の前に立つ。 見上げれば、エドマンド・エルトダウンは変わらずそこにいる。旅人にパスホルダーをさしだす初代館長像。(叔父さまはいつも言ってた) アリッサは叔父の顔を見上げた。(答えはつねに、旅の向こうにあると) ――私は答えに近づいているのかな? みんなはどうなの? 気配に気づくと、広場の向こうにティリクティアの姿。 アリッサは、元気よく手を振った。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ティリクティア(curp9866)=========
とぷ、とぷ、とぷ――、と。 紅茶が注がれると、ゆたかな香りがふぅわりと広がった。 ちょうどよい頃合に抽出された茶は、深紅であったが澄んでいて、カップの底がはっきり見える。そっとカップを持ち上げると、ゆらりとたゆたう表面が、灯りを反射して、カップの縁に沿う金色の輪をつくった。 「美味しい」 「いい香り~」 ひと口、味わって、少女たちは深く息をつきながら、紅茶を褒めた。 「……『ウバ』ね」 「えっ、乳母?」 「違うわ。紅茶の種類よ。ね?」 アリッサはくすりと笑って、店主へ顔を向けた。 「左様です。お気に召しましたか」 「とっても」 「ありがとうございます。ではごゆっくり」 店主は頭を下げて、テーブルを離れた。 “本日のおすすめ”として出された紅茶はアリッサがあてたとおり、『ウバ』。壱番世界のスリランカを産地とする、いわゆる「セイロンティー」のひとつで、ダージリン、キームンとともに「世界の三大紅茶」に数えられる銘柄だ。 「素敵なお店ね」 「でしょ。最近できたお店であまり知られてないから穴場なの」 さほど広くもない店内は、すこし照明が落され、趣味の良い家具でしつらえられていたが、ふたりのほかに客がいない。 そもそも画廊街のはずれの、細い路地を入った先にあって、つるばらが這うアーチをくぐった先の木戸の前に立つまで、そこに店があることさえわからないのだ。隠れ家的と言えばそうだが、商売としてはどうなのかと思ってしまう。もっとも……それでも成り立つのがターミナルだ。 駅前広場で待ち合わせをしたふたりは、百貨店ハローズへ向かったのだった。 クリスマスから新年にかけての華やぎは過ぎ、ハローズは平時のすました顔に戻っていたが、ふたりはお構いなしに、売り場から売り場へ駆け回るようにして巡った。 「この帽子! アリッサかぶってみて!」 「かわいい~。でもちょっと派手じゃない?」 「ううん似合ってるよ。あっ、アクセサリーも見よう!」 「わあ、キレイ! こんな感じのいいな」 「キラキラしてる!」 「先に合う服探したほうがいいかな?」 目に付いたものにいちいち立ち止まり、きゃあきゃあとさえずり、笑い合いながら、少女たちは花から花へ飛び回るハチドリのように歩いた。 バッグに靴にアクセサリー。洋服に帽子に小物まで。もちろん見て歩くだけではない。 「じゃーん」 「わっ、似合うー」 試着室のカーテンは、さながら舞台の緞帳だ。幕が開けばそこには誇らしげなプリマが立つ。 くるりとターンしてみせるティリクティア。細身のパンツにシンプルなシャツとベストを合わせ、棒タイにハンチングを加えれば、ボーイッシュなスタイルに。どこか探偵の少年助手といった風情だ。 次はアリッサ。すこし短めのフレスカートをサスペンダーで吊り、タイツに包まれた足を見せる。襟にリボンのついたブラウスが、女子学生のような雰囲気だ。 さんざん試着してファッションショーを楽しんだすえに、気に入ったものはどんどん買った。 最初は紙バッグを両手にいくつも提げていざ次の店へ!とやっていたが、そのうち持ち切れなくなったのでアリッサが店員を呼んであとで送ってもらうようにした。 それからはまさしくタガが外れたように怒涛のショッピングロードをふたりは突き進んだ。 ハローズはターミナルの住人に日用品を用立てる百貨店だが、その経営には『ファミリー』の資本が関係しているし、ヴァネッサをはじめ『ファミリー』の面々は上客だ。アリッサもその一人である。 最後、すぐに使いたいいくつかの品が入ったバッグだけを両手に、やり遂げた顔でエントランスへ出てゆくふたりを、ハローズの支配人が深々と頭を下げて見送るのであった。 それから―― ティリクティアが良い店があると言って、画廊街方面へ向かうトラムへと、ふたりは乗ったのである。 * 「……どうかした?」 「あ、ううん。なんでもないの」 ティリクティアの問いに、アリッサは笑ってかぶりを振る。 「これ……美味しいね、マドレーヌ」 「うん」 「知ってるかな? 壱番世界の小説で、『失われた時を求めて』っていう本があるの」 「知らないわ。どんなお話?」 「うーん、説明するのは難しいけど、貴族の人たちの、だらだらとした人生をだらだらと書いた本よ」 「それって面白い?」 「どうかな。面白いと言えば面白いけど。それでね、その小説は、老人になった主人公が、マドレーヌを紅茶に浸して食べる場面から始まるのね。マドレーヌを口にした瞬間、自分の子どもの頃を思い出すの。子どもの頃に食べたのと同じ味だったから。……記憶や、そのなかの感情は、流れた時間に関係なく、ふとしたキッカケですぐ目の前に甦ってくる――そういうことを書いてあるの」 「たしかにそういうことってあると思うわ。香りや、音楽でも」 「なにがきっかけってこともないんだけど、今、急に思い出しちゃったの。エドマンドおじさまが追放されるに至った、あの事件のこと」 「あ――」 そのとき、彼女たちは確かに感じ、耳にしたとさえ、思った。 ごう、と唸りをあげる時の流れだ。 プルーストが著したとおり、人の意識は時は一瞬にして時を飛び越える。 あの出来事を、ふたりはまざまざと思い返すことができた。 その一方で、今と、あの日のあいだによこたわる時の隔たりをたしかに感じる。 「なんだか、ものすごく遠い昔のように思える」 「……あのときはとっても迷惑をかけたわ」 「あっ、そういうことが言いたかったんじゃないの。それを言うなら、私も愚かだった。あとでエヴァおばさまにも叱られたけど、失策だったわ。あのとき私はいい気になってたのね。それで忘れていたの。ポーンが勢いよく走れるのは最初だけ。結局は一歩ずつしか進めないコマだったのよ。レディ・カリスというクイーンは盤面をすべて見通して、どこへでも走ることができた。だからあの結果は当然。……でもね、私、後悔はしてないの。おじさまには気の毒なことをしたけど――」 「私も。ね、アリッサ。私、13号の搭乗者に志願するわ」 「ティアちゃん」 アリッサはちいさく息を呑み、そして、ふっと微笑を漏らした。 「そう。そうね。……きっとそう言うと思ってた」 「もし選ばれたら、そしたら、私が前館長を連れて帰るわ。安心して」 「うん。ありがとう」 アリッサは、テーブルのうえで、ティリクティアの手をそっと握った。 一輪挿しに飾られているちいさな花が、そのうえに影を落とす。 「ね、ティアちゃん。あなたはこの先、どうするつもり? 13号の冒険が終わった、そのあとのこと」 「私の旅の終着点は故郷へ帰る事よ」 きっぱりと、彼女は言った。 「そっか。そうよね」 「絶対に故郷へと帰ると、覚醒した時からずっと決めていたの。私の居場所はあの場所だから。……会いたい人もいるしね」 アリッサはうん、うん、と相槌を打つ。 「13号の旅に志願するのもそれがいちばんの理由。ただ待っているって私らしくないし。……でもね、アリッサ」 今度はティリクティアがアリッサの手を握り返した。 「私は0世界に拾われて良かった。ここで過ごせて良かった。色んな事があったけど、アリッサと知り合えて、皆と知り合えて――幸せだった、から」 言葉の最後は、声がふるえた。 やだ、と笑って、ティリクティアは目尻をぬぐう。 すん、と鼻をすすって、上を向く。ティーカップを持ち上げて、紅茶をゆっくりと飲んだ。 「失敗して迷惑を掛けてしまった事もあって、それはすごく申し訳ないけど。でも故郷に居たら、こんな風に自由に生きるなんてことできなかった。友達と遊ぶなんてことも出来なかったのよ」 ティリクティアの中には、さらなる過去の光景がまたたいては消えていったのだろう。 巫女姫になるべき子として生まれ、幽閉されるように育った幼少の頃。 王太子との日々。出会った人々。そして、別れ。 その時は信じがたいほど遠い。 しかしかの世界に帰り着いたとき、今度はこのターミナルでの日々が、遠い思い出になるのだろう。今日のこの日も、また――。手に触れたカップの熱さ。しっとりとしたマドレーヌの味わい。清潔なテーブルクロスの手触り。そんなささやかなものすべてが、すべて胸に抱きしめたいほど愛おしいように、ティリクティアには思えた。 「私、この0世界が好き」 そして言った。 思いはさまざまにあり、一言ではとても言いあらわせない。 それでもなお言葉にするなら、そうなったのだ。 「ターミナルの町が好き。世界図書館の静かな本棚が好き。トラムの揺れる音が空き。青い青い空が好き。まえのチェス盤の地面も好きだったし、樹海の風景も好き。ここであったこと、一生忘れない。ぜんぶぜんぶ、持って帰るわ。胸のなかにちいさくちいさく、ぎゅうっと圧縮して、たくさんのこと、ひとつも残さず全部持っていくの」 「私も……ティアちゃんや、出会ったみんなのこと、忘れないと思うわ」 「アリッサ。ありがとう」 こくり、とアリッサは頷く。 その言葉が、自分に向けられたものであると同時に、すべての運命へとかけられたものだと理解した。 「ティアちゃんは、立派だね」 「えっ」 「それなら、13号に乗っても何の心配もいらないわ」 「え~、どういう意味~?」 ふふふ、とアリッサは、笑った。 * お茶のお代わりはいかがですか、と、店主が近づいてきた。 ふたりだけの静かなお茶会は、まだもう少し続くようだ。 楽しい時間もいつかは終わるとしても――別れのときがいずれくるのだとしても、せめて今は笑い合いたい。この記憶はいつか、どんなに時を隔てても、巻き戻せる日がやってくる。たとえば、そう、紅茶に浸したマドレーヌの味をきっかけにしてでも。 (了)
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