チリチリリン……御簾についた鈴が鳴った。御簾を上げると店の前に広がっていた香りがいっそう濃くなった。 シュマイト・ハーケズヤはそっと店内に足を踏み入れる。すると店の奥から衣擦れの音がして、見覚えのある人物が優雅にこちらへと歩んできた。あちらもシュマイトの姿を認めて、優しい笑顔を浮かべている。「いらせられませ」「邪魔をする。久しぶりだな、夢幻の宮」「はい。またお会いできてうれしゅうございます、シュマイト様」 すっと十二単に包まれた手で案内され、シュマイトは店内の椅子に腰を下ろした。夢幻の宮は立ったまま、彼女に尋ねる。「本日はどのようなご用件で?」「作って欲しい香りがある。わたしの元の世界に関わる香りなのだが」 それと、とシュマイトは言葉を切って、一拍間を置いた。夢幻の宮の瞳を見つめて。「元の世界――故郷が見つかったツーリストである夢幻の宮と、話がしたいと思ったのだ」「――っ」 シュマイトの言葉に夢幻の宮は一瞬、息を呑んだようだった。だがそれを隠すように、直ぐにいつもの落ち着いた様子に戻り、シュマイトの瞳を見つめかえす。「……帰属についてのお話でしょうか?」「それも含めてだな」「それでは、少々おまちくださいませ」 シュマイトの返答を得ると、夢幻の宮は入り口の御簾へ近づき、それを上げてしまう。そして戸を閉めた。「店じまいか?」「はい。ゆっくりとお話をする環境が必要だと思いまして……こちらへどうぞ」 夢幻の宮はどこかへ移動するようだ。シュマイトは不思議に思いながらも立ち上がり、彼女の後についていく。 店舗部分から段差を超えて奥へとはいる。ここで靴を脱ぐのは少し意外だった。そして板張りの廊下を歩いて行くと通されたのは、広いリビング。彼女の私空間かとおもったがそれにしては生活感がなく、きちっと整えられた場所だった。 きょろ、と首を巡らせてみればリビングの中に一段高くなった和室が存在した。だが夢幻の宮はシュマイトをテーブルセットの元へと促し、おかけください、と声をかける。「ここは……」「たまにお客さまをお通しするのですよ。ゆっくりお話をするときなど」 やはりここも店の延長線上の空間ということか。シュマイトはなんだか納得した。 暫くして、キッチンへと引っ込んだ夢幻の宮が紅茶とお菓子を持って戻ってきた。差し出されたカップを受け取り、礼を述べたシュマイトはそっとカップに口をつける。 少しの間、沈黙が降りた。 その沈黙を破ったのは、シュマイトだった。意を決して、口を開く。「実は今日ここへ来たのは……」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>シュマイト・ハーケズヤ(cute5512)=========
「香りをリクエストしたい。機械油や煤などの混じった、工場の匂いだ」 シュマイト・ハーケズヤはカップを置き、強い意志の篭った瞳でまっすぐに夢幻の宮を見つめて告げた。 「決して良い香りではないが、わたしにとっては元の世界で機械と共に過ごした記憶へ直結するものだ」 「まさに思い出の香り、なのでございますね」 「ああ。できるか? と聞くのは野暮だな」 そのシュマイトの言葉に夢幻の宮は笑みを浮かべる。それが答えだった。 「調香の前に少しばかり、お話をお聞かせ願えますか?」 「そうだな、何から話そうか」 求められて、シュマイトは逡巡する。けれどもそれは一瞬。今、この場に相応しい話題など限られていた。 「わたしは、元の世界では人付き合いはほとんどなく機械と共に過ごすのが幸せだった」 あの頃の自分を思い出す。あの時は友達なんて必要だと思ったことがあっただろうか。否、機械が友達――そう表現するのがふさわしかったかもしれない。 「しかし今は、0世界で出逢えた多くの友人と過ごす方が、機械と共にいるよりも楽しくなってきた」 「覚醒はシュマイト様に大きな心境の変化をもたらしたのですね」 「ああ、そうだな。あのまま元の世界にいては、きっと得られなかった変化だろう」 そっと、目を細めるシュマイト。今となっては覚醒のもたらした変化はありがたく、尊く感じる。だが、そう感じるのと同じくらい嬉しさを伴った『困りごと』が出来てしまったのだ。 「帰属という話がちらほら出始めて、元の世界に戻って元の世界のために発明を続けようと思った」 だが、と言葉を切るシュマイト。視線をカップに下げれば、カップの中に残った薄茶色の液体に映る己の顔が、だんだんと大切な友の顔へと変わっていく。ゆっくりと、だが明滅するように映る顔は次から次へとシュマイトの友の顔を映し出していく。 「友人達との別れを考えると、決意が鈍るのだ」 「それは……当然でございましょう。築いてきた人間関係、友情をすべて手放すことになるといえば、当然でございまする」 「友人らと別れたいわけではない。いや、別れたくなどないのだ」 ――シュマイトちゃん! ――シュマイト! ――シュマイトさん! 次々と浮かんでは消えていく友の顔。彼らが自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、シュマイトは口元をほころばせた。瞳は少し、困ったように微笑んで。 「元の世界にも、大切な人間を残してきてはいる」 そう言った瞬間浮かんだのは、技術者のライバルとして張り合っていた青年。シュマイトより2つ年上で、無口で職人肌だった。なぜ彼が一番に浮かんできたのだろう……それはかすかに恋心を抱いていたからに他ならなかった。 (ラス……) 薄茶色の鏡に浮かんだ顔に、小さく心の中で呼びかけた。鏡の中の彼は微笑みすらしなかったが、じっと、シュマイトを見つめている。 「ただ、今の友人らとどちらが大切か、などと比べることは出来ない」 元々比べることすら出来ないのだから、選び取ることなどできなくて。だからシュマイトは、困っているのだ。 「左様にございますか……なかなか結論付けることの難しい問題でございますからね」 帰属については夢幻の宮もなにか思うところがあるようだった。そう告げて立ち上がった彼女は、隣接している部屋で調香を行うという。こちらでお待ちください、あまり長くはかかりませぬ、そう言われて頷いたシュマイトは夢幻の宮を見送ってからもう一度、カップの中へと視線を移した。 カップの中の薄茶色の鏡はシュマイトの心のように波立っていて、すべてを混ぜこぜにして映しているようだった。 *-*-* 一人リビングに残されたシュマイトは、大きく息をついて顔を上げた。カップの中の揺れる水面を眺めていてもただ迷いが募るだけだ、そう判断して冷めた紅茶を一気に飲み干す。ふと、テーブルの上のシュガーポットに目をやると、白と黒の角砂糖がちらりとこちらを覗いていた。なんとなく誘惑されて、シュガーポットの蓋をとる。 (……このままでいたい) 黒の角砂糖をひとつとって、菓子用の取り皿に乗せる。 (……帰って元の世界に尽くすべきだ) 白の角砂糖をひとつとって、もうひとつの取り皿に乗せた。 (このままでいたい……帰るべきだ……このままでいたい……) まるで花占いでもするかのように、順に角砂糖を取り出してはシュガーポットの中身がまだあることに安心して。 (……わたしらしくないな) 途中でふと、我に返る。こんな方法で背中を押してもらおうとするなど、自分らしくないではないか。だから、最後のひとつの角砂糖が何色かは、確認しないで蓋を閉めた。 元々、比べられるものではないと己が一番わかっているのに。 このままでいたいという感情と、帰って元の世界に尽くすべきという理性が対立している。 これまでは、理性優先で迷わずに進んできたが、今回は初めて感情が拮抗していて。初めてのことだから、尚更どうしたらいいのかわからないのだ。 「……夢幻の宮」 シュマイトは夢幻の宮の入った部屋の扉に寄りかかり、彼女の名を呼んだ。 「どうかなさいましたか?」 「そのままでいい。少し質問をしたいのだが」 「……はい、何でございましょう?」 扉越しに聞こえる声は変わらず穏やかだ。扉を挟んでいる上に背を向けているから、夢幻の宮の顔を見ることが出来ない。それもシュマイトが安心して質問を紡げる要素のひとつだった。 「夢幻の宮は元の世界を探していたのか?」 彼女の世界は最近見つかった。その報を得た時の彼女の様子をシュマイトは知らない。 「……決して積極的にではございませんが、気になることも多かったゆえに、ここ数年は探しておりました。けれども覚醒したばかりの頃は……恐ろしさばかりが募り、二度と戻りたくないという気持ちもございました」 その答えを聞いてシュマイトは思う。確か夢幻の宮の覚醒理由は『大いなる禁忌にふれてしまったため』だったはずだ。とすればその『禁忌』に当たるものが、それまでの彼女にとっては恐ろしいものだったのだろう。そうであれば戻りたくないと思う気持ちもわからなくはない。 「見つかった時は、正直どう思ったか聞かせてもらえるか?」 「……恐ろしさでいっぱいでございました。わたくしのいぬ15年の間に世界はどう変わってしまったのか。わたくしはどう扱われているのか、故郷と隔たってしまった時間の分だけ、恐ろしさが増したのでございます」 「元の世界に大切な誰かを残してこなかったのか? その誰かの為に戻りたいと思ったことは?」 シュマイトの中の拮抗、そして不安定さが質問を呼び起こす。故郷の世界の見つかった先輩である彼女には、聞いてみたいことがたくさんあった。立場や状況の違いがあることは百も承知で。聞くことで、自分の中の拮抗が少しでも落ち着けば、そう思っていた。 「仲の良い同母の兄や、よく気にかけていた子供などがおりましたが……わたくしは香術師として研究に時間を割くことが多かったもので……必然的に出会いもそう多くはありませんでしたゆえ」 帝の娘であるという立場も、特殊なものである。同じ香術師として研究に加わっている者はいただろうが、シュマイトのように世界を隔てても想いを持ち続けるような相手はいなかったようである。 「わたくしの世界では、わたくしの年にはもう祝言を上げていることが多かったのですが、わたくしは研究に重きを置いていたために縁遠くありまして……」 「なるほど。では帰属の意思はあるのか? 帰属して、また研究を続けようという考えは?」 コトリ、扉の向こうで硝子がテーブルに置かれる音がした。シュマイトが耳を澄ましていると、少し困ったような声が聞こえてきた。 「実は……0世界で、縁を結んだ恋人様がおりまして。その方が望むのであれば、どこの世界でも帰属をと考えております」 ただ、色々と問題があってすぐには決められないのですけれど、と照れたように彼女は言った。 「なんだ、リア充か」 「……? なにかおっしゃいましたか?」 小さく呟いたシュマイトの言葉は聞こえなかったらしい。いや、なにも、と告げて続けて礼を言おうとしたその時。 「出来上がりました」 彼女のその声にはじかれるようにして、シュマイトは扉の方を向いた。 *-*-* 夢幻の宮が用意したのはアロマオイルだった。茶色の、小さな遮光硝子の瓶に入っている。彼女はシュマイトをソファへ座らせ、スープボウルに似たボウルにお湯を注いだ。そしてそこに一滴、二滴と出来立てのオイルを垂らしていく。 ふわっ……。 お湯でゆるやかに暖められた香りは、優しく広がって。シュマイトの鼻孔だけでなく、身体中を撫でるように包み込んでいく。 ああ、元の世界にいた時は、この香りに一日中包まれていたのだ――懐かしい日々が蘇ってきて、シュマイトは瞳を閉じた。懐かしさと、彼女にとっての『日常』、彼女にとっての『自然』な香りであったその工場の匂いに、張り詰めていた神経が安らいでいくようだった。気がつくとシュマイトは、ソファに深く身体を預けていた。 「ああ、この香りだ。機械油や煤……工場の香り。手が自然に動いてしまいそうだ」 「お気に召していただけましたか」 「ああ……酷く、懐かしい」 一気に強く発せられるのではなく、柔らかくゆっくりと漂って空間を満たしていく香りが、より日常的風景を彩っていて。 心の中からじわじわと湧いて出るものがあった。これを郷愁というのだろうか。 「安閑とこのままでいる事は容易い。しかし、それだけだ」 ああ懐かしい。ああ、帰りたい。その思いの狭間にチラチラと映り込むのは友の顔。 「ここに残ったところで何をするわけでもない」 自分ができることは、自分は何をしたいのか。それを考えると、やはり自分がいるべきなのはここではないような気がして。 それでも、きっぱりとは友の顔を振りきれない。だから。 「わたしはなぜ覚醒したのか。意義や使命があるとしたら、それは元の世界のためではないかと思う」 言葉にすることで、誰かに聞いてもらうことで、強く、強く自分に言い聞かせて。 感情を、ただ一方的に押しこむのではなく、隣において、そして見つめた上で理性をとれと自分に言い聞かせる。 自分を活かす場所はここではない、それは自分が一番良くわかっているのだから。 友と別れるのは悲しい。ならばその気持を無理に消すことはない。共に持っていけばいいのだ。友への思いを消せと誰が言った? 迷いに迷った。どちらかを捨てなければならない、と。 けれども完全に捨てることなど無いのだ。いや、捨てられるはずなど無いのだ。 前へ進むのに邪魔だ? そんなこと、言わせない。心という鞄ならば、記憶という鞄ならば、友のためにいくらでも空けようではないか。 「わたしは、決めたのだ――」 ソファに深く身をうずめて、閉じたままのシュマイトの瞳から、つー……と涙が一筋こぼれ落ちた。 【了】
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