その男は2日前に撃たれたのだという。 静かな病院のベッドで、身体中に多くの管を繋げられた状態で男は眠り続けている。彼の病室には家族と思わしき女子供と男たちが出入りしていた。皆、悲しそうな顔をして、その男が目を覚ますのを待ち続けている。 寝ている当人は初老の白人の男性だが、出入りする男たちの人種は実に様々だ。黒人やヒスパニック、アジア系などもいる。 それでも、彼らには共通することが二つあった。一つは、脛に傷を持つことだ。言葉どおりの意味の者もいれば、一見してそうとは分からない者もいる。しかしほとんどが堅気の人間ではなかった。 そしてもう一つ。彼らに共通することがある。 それは、皆がこの管につながれた男──マシュー・バーンウェルという名前を持つ、マイアミの大物マフィアの一人を心から愛しているということだった。 マシューの病室から一人の男が、そっと姿を消した。他の誰にも気づかれず。彼の手には一枚の薄っぺらなフライヤーがあった。 病室の中でも彼は、きわめて特異な存在であった。年齢は30代後半で体格こそ中肉中背だが、伝統的な中国の長袍(チャンパオ)をまとい、アジア系それも漢民族そのものの顔立ちをしていた。 彼は病院の廊下の青く暗い蛍光灯の下で、じっとそのフライヤーを見つめた。 フライヤーには、赤と青の旗を背に、一人の白人の男が拳を振り上げている写真があり、その下にはこう書いてあった。 『明晰な思考で、クリーンなマイアミを目指す! ドナルド・リチャードソン下院議員演説会、○月×日開催 スティーブン公会堂』 * * *「壱番世界から、一人のロストナンバーを保護し、0世界へ連れてきていただきたいのです」 世界図書リベル・セヴァンは淡々とした口調で説明を始めた。「彼の名前は“柴連”と書きツァイレンと発音します。37才の男性です。壱番世界で言うところの中国の近代に似た世界から、2週間ほど前に壱番世界に転移したようです。場所はアメリカ合衆国、フロリダ州のマイアミのダウンタウンです」 よくある話である。君たちはうなづきながらリベルの話を聞いている。「ツァイレンは当然、現地の言葉を話せませんが、街の人間と仲良くなりその人物の元で世話になっていたようです。そこで……困ったことになりました」 リベルは微かに眉を潜めて、君たちの顔を見回した。「これは難しいミッションです」と、彼女にしては珍しく、そう前置いてから続ける。「彼が隠身に長けていることも災いし、我々の対処が遅れました。ツァイレンを助けた人物であり彼の友人のマフィアのボス、マシュー・バーンウェルが撃たれて重傷を負ったのです。ツァイレンはそれが下院議員のドナルド・リチャードソンの差し金であったことを知ってしまいました」 一度言葉を切り、皆の反応を見るリベル。「ツァイレンは仇討ちのためにリチャードソン議員を殺そうとしています。一刻も早く彼を説得するなどしてこちらに連れ戻さねばなりません」 リベルはもう一度皆の顔を見回した。まるでこれから死刑の宣告をするような陰気な目で。「ツァイレンは、翠円派という暗殺拳の達人で、“三指虎殺”とも異名を取る武道家なのです。その異名は、荒ぶる虎の喉を三本の指で締め殺したことから付けられました。彼はリチャードソン議員の演説会にいとも簡単に潜入することができます。そして握手をするふりをして、二秒で議員の息の根を止めることが出来るでしょう。……虎を絞め殺した時のように」 ごくりと皆はツバを飲み込んだ。「絶望的なのは、我々が彼に接触できる機会が、すでに演説会の場しか残されていないということです。厳重な警備の施された会場に入るには武器は持ち込めません。またツァイレンを連れてロストレイルの発着駅まで逃げてこなくてはなりません。もちろん壱番世界の住人をなるべく傷つけずに、です」 ──あなた方にそれができますか? リベルは一人ずつ視線を向けながら面倒で問いかける。「しかしあなた方にとって良いこともあります。それはツァイレンが多くの弟子に慕われるカンフーマスターであり人格者であるということです。彼は無駄な殺生は好みませんし、彼を説得できればこれほど心強い味方はいないでしょう」 パタン、リベルは本を閉じた。「ロストレイルの発着駅は会場となるスティーブン公会堂の地下室に用意しました。それでは、よろしくお願いいたします」
飛天鴉刃(ひてん・えば)は、正直言って困惑していた。 飛び乗るように乗った行きのロストレイル。そこから降り立ったところが、いきなり建物の中だったのだ。壱番世界のアメリカ、スティーブ公会堂である。メインホールにはすでに多数の人間が集まっている。 これからすぐに下院議員ドナルド・リチャードソンの演説会が始まるのだろう。 残された時間は1時間もない。鴉刃たち3人は会場の中から一人の男──議員の暗殺を企てているロストナンバー、武道家ツァイレンを探し連れ帰らねばならない。 この人込みの中でどうやって探し出す? 鴉刃の困惑をよそに、仲間2人は短いミーティングの後、情報収集に散っていった。彼女たちは壱番世界の住人だから勝手知ったるものなのだ。鴉刃ひとりがツァイレンの捜索を受け持った。 龍人である鴉刃は、まず姿を隠さねばならなかった。コートの襟を立て、帽子を被るという古典的な変装だが“旅人の外套”の効果もあって、彼女はなんとか会場に溶け込むことができた。鴉刃はじっと会場の様子を伺う。 100人ほど収容できる大きなホールであり、席は大方埋まっていた。後方には中二階もあり会場全体に警備員が配置されていた。みな銃を装備しており、厳重というほどでもないが目は行き届いている。 ステージには演台とマイクが用意され、背後に青いカーテンが引かれていた。あそこに立ってリチャードソン議員が演説を行うのだろう。 ──おや? 思案しようとして、鴉刃はふと既視感を覚えた。何かこういった経験をしたことがあるような。 思い出した。よく似たミッションを経験したことがあるのだ。彼女は元の世界では、龍人の国の機密部隊、暗殺・斥候部隊に所属していた。相手国の官僚を暗殺するミッションだった。ああいった連中が姿を現すときは、大衆に何か演説をする時と決まっている。 考えれば考えるほど状況が似ている。 人知れず、ニヤリと笑う鴉刃。接近戦と隠密行動を得意とする彼女は、相手に近寄らなくてはならない。対象が大衆に近づいたその時、踏み込むのだ。 自分がもしツァイレンならどうする? 彼女は自問自答した。 目立たず、しかし確実に動けるように……。まずは席を確保するはずだ。つと動かした鴉刃の視線の先に黒い服の男の背中が映る。 やはりな。彼女は微笑みそっと足を踏み出した。 ヘルウェンディ・ブルックリンが、最初に行ったのはニューヨークに住む警官の養父に電話をすることだった。 壁に寄り掛かり、携帯電話に向かって喋るパンクファッションの少女の姿はティーンエイジャーそのもの。彼女はすっかり会場に溶け込んでいた。 「マシュー・バーンウェルに、ドナルド・リチャードソンか。それは2人とも大物だね」 電話の向こうの養父の声はとても温かかった。まだ15才の娘を心配するような気遣いが口調に現れている。 「パパ、そのリチャードソン議員が殺されてしまうかもしれないの」 ヘルが説明すると、細かい事情も聞かずに養父はうんうんと話を聞いてくれた。 「マシュー・バーンウェルは、ひとかどの人物だよ。マフィアだがね。彼は見た目や人種にこだわらず、どんな者とでも分け隔てなく接する男だと聞いている。彼が救い育てた者たちがマイアミの裏社会の一大勢力を築いている。彼のために命を捨てる者はいくらでもいるだろう」 「へえ、そんなマフィアもいるのね。……誰かさんとは大違い」 感心しつつも、ある人物のことを思い出しヘルは天井をあおぎ見た。 「アイツが死んだ時、仲間はみんな笑ってたわ。泣いたのはママだけよ」 ある人物──それは、彼女の実の父親のことだ。彼もマシューと同じ稼業を営んでいた。だから恨みを買い仲間の裏切りにあった。ヘルは連中は皆同じと思っていたが、マシューという男は違うらしい。 「ヘル。マフィアがどうしてマフィアになるのか分かるかい?」 「え……?」 ふと養父が尋ねてきたその質問の意味が分からず、彼女は首をかしげる。 「自分たちの身を守るためなんだ。アメリカは開拓者の国だ。弱者や少数派は虐げられ自衛の手段が必要になる。マシューは、そういった犯罪でしか身を立てられない弱い者たちを庇護した。彼らが自滅的な犯罪で命を落とさないように組織をつくった。公的な団体とも渡りをつけた。だから彼のファミリーは大きくなった」 昔ながらのマフィア、ということだよ。と彼は言う。 「公的団体……。ふうん、必要悪ってことね」 「ヘル」 「私だって子供じゃないわ、それぐらい分かるわ」 ツンと顎を突き出しながら言うと、それが見えたのか電話の向こうで養父が笑った。 「まあ、そうだ。だから彼は我々のような警察組織や政治などとある種の交流を持った。その中でもひと際目立つのが、ドナルド・リチャードソンとの付き合いだ」 付き合い? ヘルは眉をひそめる。 「メディアでは絶対に報道されないが、少し裏を知る人間なら誰でも知っている話だよ。実は2人はフロリダ大学の同級生なのさ。彼らは交流を持っていた。マシューが彼を下院議員に当選させたようなものだ」 「それじゃあ──議員が裏切ったっていうこと?」 「彼には新しい友達が出来たのさ。だから古い友達が要らなくなった」 それを聞いて、ヘルは頭にカッと血が登るのを感じた。 「なにそれ信じらんない! そんなクソ野郎が下院議員になってるの!?」 「ヘル」 「ごめんなさい」 汚い言葉を使ったことを窘められ、少女は俯いた。もう少し話していたいが会場の方で声が上がった。もう演説が始まってしまう。 「パパ、ありがとう。本当に助かった。愛してる」 ヘルが礼を言うと、養父は気を付けてと案じる言葉を残し電話を切った。 携帯電話をしまい彼女は会場を見る。養父のおかげで、知りたいことは大方掴むことができた。あとは、ツァイレンを探し出すだけだ。 コレット・ネロは、公会堂の廊下を歩いていた。ヘルとは対照的な金髪の少女は軽い足取りでリチャードソン議員の控え室を探していたのだ。 彼女はとにかく議員に会って話をしようと思っていた。素直に尋ねてみればなんらかの情報が得られるのではないかと思い至ったのだ。 すると前方の一室の扉が開き、男が数人姿を現した。どうぞこちらへとスタッフが促しているのは、金髪の50代ぐらいの白人男性だった。 他にも男が数人いたが、コレットには分かった。あの金髪の男がリチャードソンだと。 「あの、すみません」 すぐに彼女は議員に歩み寄った。「リチャードソンさんにお話があるのですが」 連れの男が反応しコレットを退けようと手を伸ばしたが、リチャードソン自身がそれをたしなめた。 「まあいいじゃないか。……お嬢さん、私にお話というのは何かな?」 議員本人は彼女を自分のファンと思ったのだろう。顔をくしゃくしゃにして微笑みかけてくる。その笑みに逆に怯みつつも、コレットはおずおずと切り出した。 「マシュー・バーンウェルのことをお聞きしたいのです」 しかしその名前が出た途端、リチャードソンは顔からサッと微笑みを消した。バーンウェル? とまるで汚い言葉を聞いたかのように繰り返す。 「マフィアのことかい? 先日も抗争をしたらしいね」 「その……」 コレットは意を決して、次の言葉を放った。自分の聞きたかったことだ。 「マシューは、あなたの差し金で撃たれたのだと聞きました。どうしてそんなことをしたんですか?」 「な……に?」 リチャードソンの表情が凍りついたように固くなった。まさかこの愛らしい少女の口からそんな質問が出るとは思わなかったのだろう。 やがて、彼は刺すような視線をコレットに向けてきた。まるで鷹のような恐ろしい目つきで、それはコレットがいつも身内から浴びていた視線に酷似していた。 「お嬢さん、誰がそんなことを?」 急に恐怖が湧き上がってきて、コレットはただ、ふるふると首を横に振った。両手を胸の前に引き寄せ一歩後ずさる。 「ねえ、それは誤解だよ。マフィアは法廷で裁かれるべき存在であって、いくら私が“クリーンなマイアミ”と呼びかけているからといって、私刑のようなことはしない」 リチャードソンは、先ほどの恐ろしい目つきをやめて、また微笑みを浮かべてみせた。 「さあ私に教えてくれないか。一体、誰がそんな悪意ある言葉をばらまいているのかな?」 「──ごめんなさい!」 彼の表情が恐ろしかった。一瞬にして変わるその表情が。まるで服を着替えるかのように天使の顔と悪魔の顔を使い分けることが。 コレットは議員に背を向けて逃げ出した。恐怖で、足がガクガクしたが彼女は走った。幸いにして議員もその連れも、誰も彼女を追っては来なかった。 * * * 「──皆さんありがとうございます。ドナルド・リチャードソンでございます」 演台に進み出た議員が挨拶をすると、会場がワッと沸いた。いよいよ演説が始まるのだ。会場を埋め尽くす者たちが口笛を吹くなど場を盛り上げている。 その歓声の中、鴉刃はそっと一人の男の隣に座った。ヘルも目配せし、男の後ろに陣取る。 中国の長袍(チャンパオ)をまとったその男の頭上には真理数が見えていた。鴉刃やヘルと同じロストナンバーだ。もはや間違いようがなかった。彼がツァイレン(柴連)だ。 それにしても──。と、鴉刃は横目でツァイレンを見た。 話には聞いていたが、正直言って全く強そうには見えなかった。筋肉もそれほどついてはいない。こんな体格で本当に自分と同じような暗殺者として活動できるのか。 「──ご用件をお聞きいたしましょうか?」 出し抜けにツァイレンが抑えた声で言った。視線は議員に向けたままである。鴉刃はニヤと笑う。 「おまえを迎えに来てやった」 つと、ツァイレンはこちらを見た。 「あなたは?」 「飛天鴉刃。龍人だ」 「これは失礼。私はツァイレンと申します。……後ろのお嬢さんもお仲間ですか?」 「そうよ」 自分のことを言われて、ヘルは椅子の背に手を掛けながら自己紹介する。 「私はヘルウェンディ・ブルックリンよ。あんたと同じロストナンバー」 チラリとツァイレンはヘルに視線を送り、静かに尋ねた。ロストナンバーとは何ですか? 鴉刃が鼻を鳴らし後を引き継ぐ。 「手短に説明してやる。おまえは今、異世界にいる。元の世界から放り出されたわけだが、そういった連中はおまえ以外にも多く居る。我々もそうだ。それがロストナンバーなのだ」 「だから私たちがあんたを迎えにきたのよ」 隣の人間に迷惑そうな顔で見られ、ヘルも声を潜めた。「つまり、私たちと一緒に行かないと、あんたは消えちゃうワケ。分かる?」 ツァイレンは首を横に振った。 「あなたがたが私を迎えに来た、ということは何となく理解できます。言葉の通じる方と会話ができたのは2週間ぶりですから。しかし申し訳ありませんが、私は一緒に行くことは出来ません」 「──あの男を殺すためであろう?」 ズバリと言う鴉刃。意外そうな顔をするものの、ツァイレンは素直にうなづいた。 「そうです。あの男が私の友人を裏切り傷つけたからです。友人は私の命を助けてくれました。私が動くのは友人のためでもあり、民衆のためでもあります。ああいった男を野放しにすることは私には断じて出来ない」 「聞いたわ。あのクソ野郎が、マシューを呼び出して撃たせたんですってね」 ヘルは頷き、自分が得た情報を披露する。 会場ではそのクソ野郎当人が、クリーンなマイアミをつくろうと観衆に呼びかけている。この街からマフィアを追い出そう。クリーン、クリーン、クリーン・マイアミ。 「しかしおまえの友人はまだ死んではおらぬ。それでも奴を殺すつもりか?」 鴉刃の言葉にツァイレンは真っ直ぐな視線を向けてきた。 「奴に傷を負わせれば、おまえがマシューの知己と知れた時にその家族や仲間たちに被害が及ぶのは確実。そこまで承知の上で、奴を殺すつもりならば何も言わぬ。それは所詮、仇討ちですらない独り善がりの行為であるがな」 ふ、と微笑むツァイレン。 「あなたはとても率直で素晴らしい方だ。私の居た世界では、龍はどんな生き物よりも気高い存在です。森羅万象と意志を同じくする大いなる心──。あなたも同じく高潔な方だとお見受けしました」 しかし、とツァイレン。「我々、人間は矮小な存在です。自らの損得──つまり打算で動くのです。あの男にとっての得は私の友人を亡き者にすることです。損は友人が生き残ることです。今、私が彼を殺さねば、友人は殺されてしまうでしょう」 「何にしてもアイツはマシューを殺す気だってことね」 ヘルも口を挟む。彼女にはその考えが理解できた。 「アイツはマシューと友達だったっていう事実を消すつもりなんだから」 「そういう男が為政者であることほど、民衆にとって不幸なことはないのです」 「──でも──」 ふいにヘルの隣りに金髪の少女が顔を出した。コレットだった。彼女は息を切らせており、譲ってもらった席に腰掛ける。 大丈夫、どうしたの? と声を掛けるヘルに笑みを返し、コレットはツァイレンを見た。 「それでも、ツァイレンさん。あなたはあの人を殺してはいけないわ」 武道家は静かな瞳で、新たに加わった少女を見つめた。 「あの人を殺せばあなたも殺される。マシューさんが目覚めた時、きっと悲しむ。マシューさんを一人にしないで欲しいの」 「お嬢さん」 その口調は柔らかく、慎み深い。 「あなたはとても優しい。そして素直で純真だ。私が死ねばマシューは悲しむかもしれない。しかし私はそれ以上に彼に生きていて欲しいと願っている」 コレットはギュっと細い手を握りしめた。彼は友情のために命を投げ打つという。自分にもロストナンバーになってからできた多くの友人がいる。友達を大切に思う気持ちは一緒だ。 一方、鴉刃は、これは難しいな、と思った。ツァイレンは覚悟を決めている。この世の中に“覚悟を決めた者”ほど厄介なものはないのだ。 「ありがとう。それでは私は行きます」 彼は目礼し、話を切り上げた。 「ちょ、ちょっと? 行くって?」 「──お嬢さん」 慌てるヘルを尻目に、武道家は再度コレットに目をやった。 「あなたは監視されている。用心しなさい」 えっ? コレットは後ろを振り返り、鴉刃とヘルもちらりと視線を送った。警備員がこちらを見ている。 その一瞬だった。 視線を戻せば、ツァイレンの姿は忽然と消えていた。 「ウソ!?」 女の子らしく口元を押さえ、目を交わす少女達。鴉刃は舌打ちする。 「これは厄介だな」 言いつつも、同じ暗殺者である鴉刃には分かっていた。ここはベストポジションだ。そう遠くにはいない筈だ。 ごめんなさい、と謝るコレット。一方、ヘルはある決意を固めていた。 * * * 「どうか、この私に力を!」 リチャードソン議員の演説はすでに最高潮を迎えていた。 「マフィアから街を取り戻すのです。クリアーな手法で合法的に出て行ってもらうのです。私は屈しません。なぜなら皆様のお力添えがあるからです」 アンタこそ出ていきなさいよ。ヘルは心の中で毒づきながら前列に陣取っていた。鴉刃は先ほどの席から動かず、コレットは後方へ下がっている。 ツァイレンの姿を見失った今、3人はリチャードソンの演説が終わるのを待っていた。何かが起きるならその時だ。 「私は諦めません。アメリカ合衆国の正義とともに、皆様とともに」 議員は満面の笑みを浮かべて演説を終えた。最後に、ありがとうと付け足す。途端に支持者たちから割れんばかりの拍手が起こる。 リチャードソンは演台から出て、大股で観客の方へと歩み寄った。自分の身にこれから起こることなど及びもつかないのだ。彼は手を差し出し、支持者たちから伸ばされた手を一つずつ握っていく。 「私も、私も!」 ヘルは握手の波に紛れ込み、自分も嬌声を上げながら手を差し出した。議員が彼女の手を握る。そこで彼女は、相手の手を力いっぱい引っ張った。 「きゃあ! どこ触ってるの!」 次に上げたのは大きな悲鳴だ。まるで自分の胸を触られたかのように、ヘルは議員の手を離し、触られたとティーンエイジゃーらしい黄色い声で喚きたてた。 支持者がざわめき彼女を見た。議員は数歩後ずさっている。 ──今だ! ヘルは既に手にしていたパスホルダーからトラベルギアを取り出した。リボルバー拳銃“ヘルター・スケルター”だ。構える間もとらず彼女はそれをいきなり撃った。 誰かが絹を裂くような悲鳴を上げる。 その後起きたことは全て一瞬だった。議員は後方へと吹っ飛び、どうとステージに大の字に倒れた。彼の腹には、赤い染みが広がっていく。 彼が撃たれた! と、誰かが叫びヘルの周りから人々が四散した。警備員たちが銃を手に動く。 ヘルは振り返ろうとして誰かが自分の手を掴んでいることに気づいた。その相手だけが自分から離れない。 「なぜ、君が──」 長袍の男、ツァイレンだった。 彼は信じられないというような面持ちでヘルを見ている。彼女はスッと背筋を伸ばして彼を見返した。 「キレイ事は嫌いだから言わない。女子供を食い物にする奴、弱者を虐げる奴、世の中にはいっそ死んだ方がマシなクズが大勢いるわ。コイツだってそうよ。だけど、貴方がそれをするのは間違ってる」 「危ない!」 鴉刃が叫んだ。それを銃声が引き継ぐ。同時にヘルは身体がふわっと浮かぶような感覚を味わった。混乱のうちに彼女は最前列の椅子の下に身を伏せていた。 目にも留まらぬ速さで、武道家が銃撃から救ってくれたのだ。 中二階の警備員が上から銃撃し、1階にいた警備員たちは四方からヘルたちを包囲しようとしている。 ──させるか! 鴉刃が動いた。身を低くした彼女は黒い稲妻のように走り、警備員の後ろに迫った。尾をぐるんと一振り。あっと言う間に警備員を転ばせて銃器を奪う。 「次ッ!」 そのまま彼女は床を蹴って、誰もいない座席をいきなり“闇霧”を付けた手で薙いだ。鴉刃のトラベルギアである魔力グローブと彼女自身の力で、2つの座席はあっという間に床から離れ、前方へと素っ飛んだ。 ドガッ。椅子の残骸は一つずつ警備員の背中に命中し、彼らを昏倒させた。 「もう1人いるぞ!」 鴉刃のあまりの速さに、ようやくそこで声が上がったのだった。聴衆が立ち上がり逃げ出した。鴉刃の周りを避けるように人々は会場の中を右往左往する。 よし。彼女は自分の帽子を投げ捨て、ニヤリと笑った。この人々の波で警備員はヘルたちに近寄れないはずだ。 「いけないわ!」 戦闘のプロではないコレットが反応できたのも、この時だった。警備員がヘルたちや鴉刃を狙って銃撃を始めている。この国の警備員は一般人に当たる可能性があっても、犯人の無力化を優先する。 放っておけば何の罪もない人たちが怪我をするのは必至だった。 コレットはパスホルダーから紙を取り出した。彼女のトラベルギアである羽ペンであらかじめ描いておいた熊の絵だった。 「お願い……ッ」 紙から大きな黒い熊が飛び出した。近くにいた老婦人が驚いて叫び、そのまま気を失って椅子に倒れこむ。 熊はガアアアッと雄叫びを上げた。また人々が四散し、会場は大混乱である。 しかしコレットの意志で、熊は人々を踏みつけないように椅子を壊しながら前へ進んだ。会場の中央で銃の的になるためだ。 「何で熊が!?」 警備員たちは、突然現れた熊に驚き、慌てふためいて銃を熊に向かって乱射した。コレットの思惑通りだ。 しかし──。コレットはギュッと目をつぶった。ごめんね、ごめんね。くまさん。痛い思いさせちゃってごめんね。 一方、身を伏せたヘルはステージの議員の元へと駆け寄る者たちの姿に気づいた。ツァイレンもそれを見た。 議員の妻や娘たちだ。女たちは泣き、倒れた男を抱き起こして揺すっている。 ヘルはまだ困惑しているツァイレンの顔を見た。 「マシューが沢山の人から愛されてるように、どんな悪党でも愛して生きて欲しいと望む家族がいるのよ」 その言葉は真っ直ぐで。武道家はようやく静かな目に戻り少女を見つめた。 「お願い、マシューが誇れる貴方で在り続けて」 「君はこれを私に見せるために……。麻酔弾か何かを使ったのか?」 「そうよ。バレた?」 アハハと笑いながらヘル。 彼女は議員を殺したのではなかった。ギアで精製したペイント麻酔弾を使ったのだった。 「君には負けたよ」 ツァイレンも笑った。初めて見るうち解けた微笑みだった。ヘルはようやく彼と友達になれた気がした。 「アイツは法廷で裁きを受けるのよ。この国の警察だって捨てたもんじゃないんだから」 顎で議員を指しながらヘル。「ね、だから行きましょう。私たちと一緒に。この世界にもまた遊びに来れるわ」 「分かった」 その笑みは、虎を三本の指で殺せる男が仲間に加わった証でもあった。 * * * その後は、またたく間の出来事だった。 鴉刃に目配せすると、ツァイレンは恥ずかしがるヘルを抱き上げ、数歩で会場のドアまで到達した。椅子の上を駆けたのだ。 さらにツァイレンはどこかに隠し持っていた縄を伸ばして、いとも簡単にコレットの身体を絡めとリ引き寄せ、2人の少女を両手に抱いて会場を飛び出して行った。 コレットが慌てて熊をトラベルギアに戻したので、黒い影のようなものがニュウッと伸びて外へと消えていく。 置いていかれた鴉刃は、複雑な気分でその姿を見ていた。ツァイレンは彼女の戦闘力を見て助けは必要ないと判断したのだろうが……。 「私だって女であろう?」 独りつぶやき、黒い龍人は銃撃を避け、やはり数歩で会場を飛び出していったのであった。 (了)
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