男の視界は、深く閉ざされた暗闇の底に在った。 湿りを帯びた冷気が鼻先を掠め、男は僅かに身を引いた。動いた足が、ざりりと微かな摩擦音と共に砂利敷きの地を掠る。 辺りはしんと静まり返っている。地平と天上との境が判らない程の、果ての無い漆黒の世界だ。まるで、常闇の大きな獣(けだもの)にごくりと丸呑みにされ、底無しの腹の中へと収められてしまったかのようだ。いつ足首から胃酸で溶かし尽くされるともしれぬ不気味な焦りが、じわじわと意識を支配していく。 光源は何処にあるだろうか。早鐘のような鼓動を鎮めるように、深い呼吸を一つ落とすと、男は周囲をぐるりと見遣った。 その時だ。ふわりと何かが傍らを通り過ぎた……ような気がした。男ははっと身構える。 ――何かが彷徨っている気配がある。神経を研ぎ澄ませるが、その存在は空気中に漂う紫煙のように茫洋としていて、不確かだった。物音の一つも無い。 「……何者でござるか」 放った声は思いの外震えを孕み、暗闇に吸い込まれるようにして消え失せた。 やがて、遥か彼方にぼうやりとした灯火が現れた。彼は恐る恐る歩み寄る。 さりさりと草履が地を踏みしめる。しゅるりと鳴るのは、袴の衣擦れの音。 と、突然、不意を打つようにぽん、と肩を叩かれ、彼は立ち止まった。 半ば反射的に風斬の刀に手を掛ける。汗ばんだ掌に握り込まれた柄は、冷えた外気を纏い、氷のように冷たかった。 刺客か、辻斬りか。どちらにせよ相当の手練れだ。彼は素早く振り向く―――その前に、背後に居た者が、彼の肩にどすりと顎を乗せた。 「――――!?」 そこに居わした御仁は。 青白い鬼火を引き連れた、白塗りのしゃれこうべ殿であった。 『みぃぃたぁぁぁなぁぁぁぁ』 「ぎ、―――ッ!?」 * からんからん。 軽やかな鈴の音が鳴り響くと、店内のウエイターが顔を上げ、扉の向こうから現れた客を愛想良く迎え入れる。談笑と共に入店した客のコートから、ひやりとした少し冷たい外気と、外界の花の香りがふわりと薫った。 店内の穏やかな様子とは裏腹に、窓際の一角に座る侍姿の男は、妙に重苦しい空気を纏っていた。 「……と言う、夢なのでござった」 指先が白くなるほど固く握った拳を、そっとテーブルに乗せ、雪峰時光は神妙に頭を垂れた。 昼間の柔らかな日差しが、窓越しに店内へと注ぎ込まれる。チェンバーの魔法的な技術によって一足早い春に設定された喫茶店の、屋外に降り注ぐ日光が、花壇の小花をふくよかに開かせていた。 春先の、とろける蜂蜜のような暖かい光を毛先に浴びながら、時光の向かいに座る少女がこくりと相槌を打った。 「そうだったの……大変だったのね」 コレット・ネロはアイスココアのグラスを包んでいた両手を膝の上に落とし、眉を下げて小首を傾げる。 「……大丈夫?」 「だだだ大丈夫? いぃや、大事に至るような話ではござらんよ。何、大した事では無いのでござる」 実にぎこちない笑みで取り繕う時光に、何処となく無理を感じながらも、うん、と静かに頷いた。 「何と言ったらいいか、うむ。夢に現れるとは目覚めの悪い。文字通りでござるが」 「疲れてたりすると、嫌な事って夢に出てくる時があるわ。私も、結構そうだったし」 手元の鞄からむくりと顔を出したセクタンを撫で、コレットはぽそりと呟いた。 時光は顎に手をやり、暫し卓上の湯呑みを睨み付ける。少女は心配そうに眺めていたが、やがて元気付けるように小さく笑みを浮かべ、悩める青年の顔を見つめた。 「うん、忘れた方がいいかもね。代わりに、楽しい事を考えよう?」 「……確かに。それもそうでござるな」 気に病むのもあまり良い事ではない。時光はコレットの笑みに頬を緩め、うむと頷き返した。 「あ、そうだ」 ふと、コレットは何かを思い出したように顔を上げると、鞄をごそごそと漁り始めた。セクタンがぴょこりとテーブルに飛び移る。 「ほら。私達今度、壱番世界の依頼、一緒に行く事になったよね」 「ああ、そうでござったな」 少し不思議そうな時光の手元に、一枚の紙が差し出された。鮮やかなインクで印刷されたそれは、遊園地のパンフレットであった。 「遊園地の近くに行くでしょ? 依頼が終わってから、遊んでいいよって言ってた。もし良かったら、一緒にどうかなって。きっと楽しいと思うわ」 リボンの良く似合う少女は、若葉色の双眸を細めて、にこりと無邪気な笑顔を浮かべた。 時光は内心、変に緩んだ頬に渇を入れつつ、平静を装って「勿論暇でござるよ特にこれと言って用事も無く全くの手持ち無沙汰で」と早口気味にまくし立てた。 昼下がりの喫茶店の、穏やかなやり取りであった。 ……が。 これが悲劇の幕開け(?)になろうとは、まさか知る由も無かった事だろう。 物語は後半へ続く。 * 冬の残り香の抜け切れていない、未だ肌寒い枯れ木の広場を、大勢の観光客が通り過ぎていく。晩冬の街はひやりと骨身に染みるようだったが、空は明るく晴れ渡っていた。長い冬の眠りから目覚めた森の生き物のように、人々は陽気に行楽地へと足を運ぶ。 ざわついた雑踏の合間を縫って、侍姿の若者と、少し背の低い金髪の少女が歩いていく。人混みで溢れた遊園地のゲートを潜り抜け、二人は園内へと訪れた。 「今日は晴れて良かったね。でも、暖かくなるのはもう少し先かな?」 「う、うむ。そうでござるな」 毛糸のマフラーに埋もれるようにして、ぬくぬくと温まっているコレットが振り向くと、時光は何故かどぎまぎしながら返事を返した。 (考えてみると、これは即ち『でーと』なるものになるのでは……) 異性が連れ添って茶を飲みに街を歩くという、壱番世界に伝わる由緒正しき『こみゅにけーしょん』であった筈。江戸時代に酷似した、まだ男女の馴れ合いに抵抗のある世界出身の彼からすれば(更に言えば彼が照れ屋な面から見ても)、二人きりで肩を並べて歩く時点で、なかなかの冒険であった。 時光の心中など露知らず、コレットは小首を傾げながら、まじまじと彼の顔を覗き込む。奥手のサムライは、思わず変な汗を掻きながらたじろいだ。 「うーんと……時光さん。寒くないの?」 「む?」 見れば彼は、この肌寒い屋外で、いつもの袴姿のままであった。和服は特に首元が寒そうに見える。 コレットは自分が身に付けていたマフラーを外すと、はい、と時光の肩に掛けた。 「最初は私が使ってたから、次は時光さんが使って。半分こ、かな?」 「コレット殿……」 少女は小さく笑みを零し、時光の手を引いて歩き始めた。 小さな指先は、か細く頼りなかったが、温もりに満ちていた。 彼女はいつも、周囲の人間に酷く優しい。強い者からすれば、それは「甘さ」であると指摘されてしまうかもしれない。それでも穏やかさとは常に、人を惹きつけてやまないものだ。まるでこの世の穢れなど知らないような柔らかな微笑みに、好意を寄せる者も少なくない。 時光とて例外では無かったが、彼は既に、自身の感情の望むものを理解している。 花弁のような笑みが欲しいのではない。例えそれが、誰に向けられたものでも構わない――青年はただ、彼女の身を、彼女の笑顔を護りたいだけなのだ。 (そうであっても、もしも――) 例えばもしも、差し伸べられた手を取る事を望むとすれば――彼女は一体、誰の手を掴むのだろうか。 ……いや、彼女の場合はきっと、たった一つだけを選ぶ事はしない気がする。向けられた愛情に感謝し、全ての掌を掴もうとするのではないだろうか。 健気で優しい、彼女らしい選択だと思う。 時光は思い至らなかったが、ひねた言い方をすれば、恐らくある種の素質があると言う事だ。壱番世界の言葉で、それはこう呼ばれるだろう。魔しょ――げふんげふん。まあ、くだらない余談はさておき。 「ふぅ、ちょっと怖かったけど……楽しかった!」 ジェットコースターを堪能したコレットは、頬を健康そうに紅潮させ、にこりと笑みを零した。一方、時光はと言うと、気分が悪そうに胸元を抑え、よたよたとコレットの後ろを歩いていた。 あまり乗り慣れていないだろう高速遊具に参っていたようだが、それにしてもコレットは、怖がりながらも楽しんでいて、意外とタフに思えた。 「あ、時光さん。ソフトクリーム食べる?」 時光の手を引き、少女は小走りで小さな可愛らしい屋台へと急ぐ。穏やかではあったが、彼女なりに楽しんでいるようだ。 暫し引っ張られるようにして歩いていると、遊園地に似つかわしくない、異様に古びた建造物が見えた。何故か人だかりが出来ていたが、穴だらけのぼろ屋敷で、とても食い処のようには思えない。コレットは至って普通に通り過ぎたが、時光の視線は釘付けになっていた。 「コレット殿……あれは?」 訝しげな問い掛けにきょとんとした顔で振り返り、コレットは「うん、あれはね」と概要を伝える。 「幽れ……お化け屋敷よ」 彼の顔が一瞬青くなったような気がして、コレットは咄嗟に言い直した。 「お化け屋敷……と。つまり、お化けの者が蔓延る家でござろうか?」 「うん。そんな感じかな……お化けでお客さんをびっくりさせて、楽しませるアトラクションなの」 コレットの説明に恐ろしげに眉を寄せ、時光は身震いした。 「何とも酔狂でござるな……。楽しむ者の気持ちが理解できないでござる」 時光は先を急ごうと、お化け屋敷に背を向けた。コレットも彼に従い、後に続く。 が、時光が再び立ち止まり、コレットは彼の背中にぼふんとぶつかった。 「きゃっ。……時光さん?」 侍は一人俯き、無言で佇んでいた。その顔面からは、妙な汗がだらだらと流れている。 「……コレット殿。拙者は、気付いたのでござる――お化け屋敷に馳せ参じようと思う」 えっ、とコレットが目を丸くする。改めて説明するまでもないが、時光はお化け嫌いである。それでも彼が入ると決心したのには、それなりの理由があった。 『苦手・克服』 素敵な四文字が脳裏を駆け巡る。まるで死地に赴く武者のような重々しい足取りで、賑やかな列の最後尾へと並んだ。コレットは若干不安そうに眉を下げ、時光の隣へ並ぶ。 河童の仮装をした係員の案内で、黒い垂れ幕を潜り、二人は屋内へと足を踏み入れた。 内部は薄暗く、ひやりとした冷気に満ちている。古びた長屋の軒並みを青白い灯火が照らし、いかにも得体の知れない禍々しいものが住み着いていそうな造りであった。所々非常用の緑の蛍光灯が設置されており、現実に引き戻されそうであったが、残念ながら戦々恐々とした時光の目には映っていなかったようだ。 ごくりと唾を飲み込むと、コレットを護るように彼女の前方に立ち、抜き足差し足で進む。 「大丈夫? 無理しない方が……」 「だだだ大丈夫でござるよ。大事無い」 「う、うん。分かった」 カタン。 「ぬわぁっ!!」 「きゃあ!」 足元から皺だらけの手(※作り物)がするりと現れ、時光はびくりと跳ね上がった。コレットは時光の悲鳴に驚いて悲鳴を上げる。嫌な連鎖反応である。 「と、時光さ――」 「ぬわぁぁっ!? お、おお。コレット殿であったか……これはすまない」 「あ、ううん。ごめんなさい」 背後に居るコレットの声に何故か激しく驚き、時光は悲鳴を上げた。よほど神経を研ぎ澄ませているようである。 暫く進むと、漆塗りの赤い橋に差し掛かった。朦々と不気味な障気(※ドライアイス)が立ちこめ、いかにも川から何者か飛び出してきそうな気配があった。時光は覚悟を決めて橋を渡る。 ――石橋は、叩いて渡れ。 何故か自らの足で橋をノックしながら歩み始めた。コレットが何か言いたげに手を伸ばす。 こつり、こつり。 二人の足音が不気味に響き渡る。橋の中央まで来た時、さわさわと流れる水の音に混じって、何者かの呻き声(※録音)が聞こえた。時光は脂汗を掻き、身を強張らせた。 ばさ、ばさばさ。 「ぬわぁっ――!!」 足元からどざえもんが――と飛び上がり掛けたが、視線を落とした先には何も無かった。 ぱさり。 時光の肩に何かが当たった。橋の隣に生えたしだれ柳の枝から、髪の生えたしゃれこうべが逆さまにぶら下がり、時光の肩に触れていた。 眼窩にぼう、と青白い炎(※発光ダイオード)が灯る。 『みぃぃたぁぁなぁぁぁ』 「ぎ、ぎ、ぎゃぁぁぁぁぁ――ッ!!」 「あ、待って、時光さ……」 脳内でにわかにデジャヴを引き起こしながら、時光はコレットの手を掴み、電光石火の勢いでその場を後にした。 「こ、こ、コレット殿、無事で、ござるか」 ぜぇぜぇと大きく肩で息をして、時光は石壁の傍らで立ち止まった。全く無様な姿を見せてしまった……と己を振り返る余裕も、恐らく今の彼にはなかったが。 「乱暴に振り回して、申し訳ない」 コレット殿、と名を呼ぼうとして顔を上げると、そこに居たのは金髪の少女ではなかった。 ぼさぼさの黒い髪を肩に流した、血染めの着物の女であった。 「うらめしや……」 客に引っ掴まれようが、さすがのスタッフ魂である。女は首をだらりと横に傾げ、幽霊屋敷で磨き抜かれた最高の微笑みを浮かべた。 それは美しい女の笑顔に、ぷつりと緊張の糸が切れたのか、時光の肩は急に軽くなり……あっという間に、彼の意識は遠い世界へとディアスポラした。 額に冷たいものが乗せられている。ぼんやりとした頭でそんな事を感じながら、時光はうっすらと目を開けた。 「あ、時光さん! 目が覚めたのね。良かった……」 眼前にコレットの顔があった。どうやら自分は、身体を横にしているようだ――という所まで認識してから、ようやく少女の膝枕を受けている事に気付いた。時光は慌てふためき、とにかく急いで上体を起こした。 「ずっと起きなかったらどうしようかと思った……」 長椅子に腰掛けたまま、コレットは心配そうに彼を見つめている。時光はコレットの脇に座り直すと、疲れたように頭を垂れた。 「かたじけない。本当に」 発せられた声は何だか覇気がない。本日の様々な失態を思い浮かべて、己を恥じているのだろう。時光は顔を上げ、コレットに尋ねた。 「拙者は……やはり、最後まで行かなかったのでござるな」 「うん……。真ん中くらいかなあ」 お化け屋敷の話であった。時光はコースの中間地点でノックダウンし、此処に運ばれてきたのである。 どうやらこの場所は、屋内の休憩室だったようだ。窓の向こうの日差しは何時の間にか淡いオレンジ色に変わり、夕暮れに近付いていた。客足は減り、帰りのゲートに向かう家族連れの姿があった。 時光は額に貼り付いていた布を手に取り、眺めた。水で湿らせてあるそれは、可愛らしい花柄のハンカチであった。 押し黙る彼に、コレットは「あのね」と声を掛ける。時光は静かに顔を上げた。 「怖いものが無い人なんて、何処の世界を探したってきっと居ないわ。痛みを知らない人なんて……居ないと思うの」 あなたは、そのままで良い。麗らかな春の若葉を映したような瞳で、少女は優しく笑った。 「そのままで笑ってるあなたが、一番素敵だわ」 「コレット殿……」 時光は目元を押さえて慌てて顔を背けると、何故か夕焼けを見上げる。 怖いものが無い人なんて居ない――ならば、彼女にとっての恐ろしいものとは。彼女にとっての痛みとは。 少女の顔をまじまじと見つめ、彼は今になってようやく、彼女の髪飾りの存在に気付いた。 細やかな桜貝の細工があしらわれたそれは、とてもよく見覚えのある代物であった。 「お客さーーん! 大丈夫ですかー!」 遠くの方から声が聞こえ、二人は何事かと振り返る。駆け寄ってきた彼らは、遊園地のスタッフだった。時光を心配して来てくれたのだ。 慌てていたのか、衣装もそのままであった……お化け屋敷用の、恐ろしいフルメイクのままで。 救急箱を掲げる幽霊女と目が合い、何かフラッシュバックしたのか、再び時光の意識は遠い世界へと吹き飛ばされた。 「きゃっ! 時光さん、落ちる……!」 ベンチからだらりと崩れ落ちた時光の袖を、コレットが慌てて掴んだ。 園内の花壇には、季節の花々が咲いている。星を散りばめたような、可愛らしい薄紅色の小花だ。 幸福を告げる――確か、そんな花言葉だっただろうか。 春にはまだ少し届かない、彼と彼女の、冬の終わりの小話であった。
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