――ヒロ、ヒロ 茫洋を纏った優しい声に金町 洋の意識は薄らと目覚めの兆しから浮遊する。 ――ヒーちゃん、起きて おかあさん? ゆるゆると首を動かして寝ぼけ眼を彷徨わせると横に妹がいた。小さな身体を出来るだけ丸めた姿は子猫のよう。自分の腕に甘えるようにむしゃぶりついてすーすーと上下する身体。 あれ? どうしてここにいるの? いつもはお母さんにべったりなくせに。 苦笑いしながら考える。きっと妹のことだからまたお布団を間違えたんだ。 仕方ないなぁ。あれ、どうしてお母さんのお味噌汁の匂い、しないのかなぁ? へんなの。 眩しい朝日と一緒に母の作っているお味噌汁のダシの匂い。あれがいつも自分を優しく包んで起こしてくれるのに。へんなの。もう少し寝てもいいのかな? 今日、何曜日だっけ。妹がもぞりと動いた。 あ、違う。 自分が可笑しいことにようやく気が付いた。 もう母はいないのだ。 朝の陽ざしは変わらないのに、そこにお味噌汁の匂いはない。けど起きないといけない。あたしが作らないといけないんだ。頭のなかで朝からするべきことがぽんぽんと浮かぶ。それが母の不在を突きつけて、胸に言い知れぬ気持ちが迫ってくる。妹が寝返りを打つのに、起こしてはいけないとその頭を撫でて、枕に顔を埋めた。まだ時間があるからと言い訳をして。 かなしいなぁ。 まぶしいなぁ。 ぼんやりと眠りに沈む意識をぷるるるっとうるさい目覚ましい時計が鳴って乱暴に現実に引きずり戻す。 起きなくっちゃ。 洋は顔をゆっくりとあげる。眩しさに慣れた目を細めて、手を伸ばしてアラームを切る。 よしっと気合いをこめた声を漏らしてまだ眠っている妹を起こさないようにそっと布団から這い出した。 ごはんを作ろう。お味噌汁。焼き魚。お弁当、お父さんを起こして、あとは、あとは……やらなくっちゃ。 まるで荷馬車を引く馬が急き立てられるように、洋は動き出す。服を着替えて、短い髪の毛を櫛で梳かして整えて。 夏休みや冬休みといった長期連休は古武術を祖父に習い、六時に起床することを習慣化されていたので、早起きは苦ではない。 一緒に嫁修行と称して祖母が洋をかまって家事全般は習っているのでこれも問題ない。 なにかで頭をいっぱいにして、動いていれば、悲しみは押し出されてしまう、それをまだ小学生の洋は本能的に知っていた。 「おかあさん」 ふと足を止めて、振り返ると布団のなかで妹が小さく、小さくなっていた。 まだ春。 冷たくひんやりとした透ける空気に手足がかじかむ。妹のあたたかさが恋しいと思ってぼんやりと自分の部屋を見ていてはっとする。 ――ヒーちゃんも、そろそろ中学生かぁ 母と買いに行った中学生の制服。まだ一度しか袖を通してない。押し入れの前に飾られているのが目に飛び込んできた。 今年で私も中学生だ。 しっかりしなくっちゃ。 まだ、制服には手を伸ばさない。けど、いいよね。まだ。 ――そんな懐かしい夢を見た。 異世界で保護されて、いろんな説明を受けてなんとか家に戻ったのは覚醒後、三日後のこと。 行方不明になった洋を心配した家族や友人をなんとか誤魔化して宥めるのには苦労した。 そのあと改めて世界図書館からの依頼を受けようと決めて、内容から長期戦になりそうなのを予想して、学会に行ってくると家族に嘘をついて一週間ほど。ようやく我が家に帰宅出来たのは昨日の夜だった。 まるで怒涛のようにありえない現実が押し寄せてくるが、自分の眼で見たものは否定できないしね。 幸いだったのは、卒論はちゃんと出来ていたこと――覚醒する直前に保存していたパソコンがあったときは抱きしめて泣いた。ちゃんと出して、以前から決めていた院に進む手続きも終えると今の自分の状態をしっかり把握したい、するべきことをしようと決めて旅人としての活動を開始した。 しかし、初めて訪れたブルーインブルーは海の世界で洋を歓喜させたが、思わぬハプニングの連続で本当に大変だった。 だから、かなあ。 洋はごはんを作りながら考える。 二日の休みを利用して、一日は家のたまりにたまった仕事に精を出す。妹の瑤子があれこれとやってくれたおかげで悲惨ではなかった。 前はあたしがいないと、すぐに大変だったのになあ。 お味噌汁、煮魚、おつけもの……うん、上出来。 「ただいまー、おねー、帰ったよ。って、夕飯、私の当番じゃん!」 「おかえり。だって、あたし、今日と明日はいるからせめてこれくらいはね」 「いいんだよ、おねーは朝作ってるからさ。うわ、メニューが婆くさ! だから私が作ってるのに」 瑤子が鍋を覗き込んで顔をしかめた。つい末っ子だからと溺愛したのが悪かったのか、それとも今時の子はこういうのなのか口が悪い。 オシャレが好きで、食べ物もハンバーグやシチューが大好き。 洋があまりにも和食ばかりなのに「私が作るわよ」と言い出したのをきっかけに夕飯を担当してくれている。 もともと筋はよく、土日はクッキーを作っていたので瑤子は洋風のレシピをどこからか手に入れては新しい料理を振舞ってくれる。 「うっさいなあ、そんなに文句いうならいいわよー。食べなくて」 「やだやだ。おねーの煮魚好きだもん。おなかすいたー」 「はいはい。素直でよろしい。悪いけど、煮物をおじいちゃんとおばあちゃんに届けてくれる?」 大きな皿に作った煮物を移しながら洋は瑤子に声をかけた。 祖父母は近所に二人で暮らしている。驚くほど健在で、二人でしょっちゅう旅行に行っては土産を買ってくれる。 「はーい!」 「はやく帰っておいでよ。もう夕方なんだから、春先はまだ太陽沈むのはやいんだから」 「わかってるよー」 瑤子はつんとそっぽう向いてお皿を両手にとたとたと走っていく。その背を見て洋はもうとため息をついた。 「さて、お父さんの晩酌も作るか」 父には奮発したお刺身、洋と瑤子は煮物と煮魚、それに味噌汁と白ごはんのシンプルだが栄養バランスを考えた夕飯。 瑤子は最近流行りのスマホに機種変更したいと強請るのに 「家族で変えると安いなら、明日、墓参りついでに変えるか」 「やったー」 父・大吉の呑気な同意に瑤子が両手をあげて喜ぶのを洋は姉として睨みを利かせる。 「お父さんは瑤子に優しいなあ。瑤子も、無駄遣いするんじゃないわよ」 「わかってるよー。おねーは口うるさいなあ」 「お姉さまに向かって、その口のきき方はなによ」 「うわ、こわ」 「はいはい。お前ら、飯食ってるときは静かにしろよ、いいじゃねぇかよ。家族が集まるなんてあんまりねぇんだ。めんどくせぇことはまとめてやったほうがいいだろう」 じゃれはじめた姉妹を大吉がやんわりと制して肩を竦める。 「こうして飯を三人で囲むのも久しぶりだな」 「だねー」 大吉の言葉に瑤子が同意するのに洋はどきりとした。 「あたしがいなくて、困った?」 「ぜんぜん」 「ちっとも」 二人の言葉にがくっと洋は肩を落とす。 「といいたいが、ほら、瑤子のやつ、寝相はいいけど、おきねぇからなぁ」 ぼりぼりと大吉が頭をかいた。 「蹴っても起きねぇでやんの。ほんと、あれは困ったぜ」 「ひどいんだよ。お父さん、私のこと、蹴るんだから。まあ、それでも起きなかったらしいけど」 父と妹が睨みあうのにぷっと洋は噴出した。 「昔からだよねぇ。瑤子ってば、絶対に朝は起きないの。あしたが寝相悪くて、よくお布団から叩き出しちゃっても、まったく起きないの!」 「笑い事じゃないよー。それで風邪ひいたことあるんだから」 「でも、起きないんだよな」 父がしみじみとしめくくるのに、ついに洋は声をあげて笑い、瑤子は頬を膨らませた。 夕飯のあと、妹は見たい歌番組があるから、それまでに用事を済ませたいとすぐにお風呂に向かった。 洋はそんな妹を尻目に食器を片づけて居間に足を向けると、庭を前にして父が晩酌をしているのに遭遇した。 洋はくすっと笑って台所からコップを一つ持って近づくと、横に座る。 「飲むか?」 「相手してあげましょう」 洋はわざと寛大に言い返して日本酒の瓶から透明な酒をコップに注いだ。 大吉と洋の間にはつまみのスルメと焼いた海苔。それに酒瓶。洋は空を見上げる。 「お月様、きれいだね」 まん丸いお月様。それに小さな、小さな星。 ブルーインブルーで見た星はとっても近かった気がする。 そんな些細な違いはあっても朝は来て、夜は訪れるのは同じだ。 こうやって世界は通じあってるのかなあ 「わざわざ帰ってこなくてもよかったんだぞ」 「え」 「お前ももう大人だろう。いろいろと無理して俺や瑤子のこと、気にしなくていいんだぞ」 大吉は庭を見つめたまま告げるのに洋は笑う。 二十歳になるまでは子どもだから、大人に頼れ。そのあとはお前の人生好きにしろと放任的な考えだが、大学に行くことも、そのあとの洋のことも父はいつも気にして、少しでも娘たちが好きなことができるようにがむしゃらに働いているのを洋は知っている。 煙草はいくら口を酸っぱくしてもやめないけれど、いつも家族のことを第一に考えている、そんな父が洋は嫌いではない。 「ううん。お母さんの十回目の命日、ちゃんと家にいたいと思ったのはあたしの考えだよ。あたしがしたいから、してるんだし」 大吉がかすかに笑った。 「いっちょ前に言うじゃねぇか」 「まぁね」 ほろ苦い日本酒に舌鼓をうちながら、洋は空を見つめる。 とおいなぁ。 そう思うと不安が押し寄せてきた。 いつもは心の奥底にしまっているのに、頼ってもいい父のそばにいるといろんなもやもやした気持ちが解放されてしまう。 お父さん、あたしさ、覚醒とかしちゃったんだよ ターミナルとかいうところに行って、いろんな世界、旅して、戦ってるんだよ あのね この世界、壱番世界は、いつかなくなっちゃうかもしれないんだよ…… 口に出して訴えればどれだけいいだろう。 あのとき。 母が死んだとき、洋が必死に封じ込めた悲しみに気が付いたのは父だった。 ――無理しなくていいぞ 朝ごはんの用意、夕飯の用意、お弁当……そうやって必死に働いている洋に、ある日、父は告げた。 ――お前はまだ子どもなんだから そのとき、洋は大人になろうとして出来なくて、爆発した。 おとうさんのばかばかばか! あたしがいないでどうするのよ! そうだ。今朝見た夢の続き。父の言葉にとうとう泣き出して、暴れて、抱きしめられた。 言葉はないけれど、抱きしめてくれた父にすがりついていると気が付いたら瑤子も起きて、二人して父を囲んでわんわん泣き続けた。 母を失って、悲しみが家族を満たして、なにか大切なものが壊れるかもしれないという瀬戸際だった。 洋はとくに悲しみを持て余していた。 大人にならないといけない……そう背負い込みすぎてふらふらだったのを父も妹も、祖父母も気が付いていて、受け止めてくれた。 あのときみたいに、出来たらなあ。 ぼんやりと思う。 けど、洋はもう二十歳を過ぎた。父に守られるだけの子どもではなくて、本物の大人になった。 一人で歩いていける、嘘もちゃんとつける、感情をちゃんと心のなかに封じられる だから、大丈夫だよ。お父さん、瑤子 あたし、なにができるかわからないし、どうしたらいいのかわからなくて不安だけどさ 「あたし、ここに帰ってくるよ。なにがあっても」 「当たり前だろう」 父が頭を撫でるのにふふと洋は笑う。 「おねー、どうしたの」 「なんでもないよ。あ、もう、髪の毛、ちゃんと乾かして。よーし、明日の朝ごはんの仕込みしないとね。あ、昼は食べて帰る?」 「そうだな、墓参りするし」 「やったー」 父と瑤子の声を聞きながら洋は明日のことを考える。 明日も朝はお味噌汁、白飯、それに……
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