壱番世界、イギリスの首都・ロンドン。 その日は朝からあいにくの空模様だった。 灰雲に覆われた街はほの暗く、気温もあがらず底冷えするばかり。 降ったりやんだりの小雨が続き、ひとびとは室内にこもって退屈な一日をやりすごす手段を探し求めていた。 そんな陰鬱な昼下がりの街を、濃緑のポンチョコートと共布のクロッシェ帽に身を包んだ少女が歩いていく。 濡れた石畳に靴音を響かせ、進む足取りは軽やかだ。 足元では淡い若草色のスカートがひるがえり、裾にあしらった白のレースが愛らしく揺れる。 白い手袋をはめた手には小ぶりのトランクを提げており、飴色に艶めくそれは紳士淑女の目に留まれば使いこまれたオーク色の本革であるとわかっただろう。 道を行く少女はコンダクターのサシャ・エルガシャだった。 チューブ(地下鉄)を乗り継いで郊外へ出たまでは良かったが、つい数年前にあったバス停の位置が移動していることに気づき嘆息する。 「昔はこのあたりから馬車が出てたんだけど……」 数百年のうちに故郷は大きく様変わりし、この数十年の間にも街は刻々と変化を続けている。 都市をめぐる赤のダブルデッカー(二階建バス)を見送り、チケットを買い求めるついでに、バス停そばの小さなニューススタンドで店主に声をかけた。 「あの、博物館行きのバスはこの停留所であってますか?」 髭をたくわえた男店主はぶしつけにサシャを見つめた後、おごそかに口を開いた。 「伯爵家のカントリーハウスならその停留所だが、平日の直行便はないぞ。最寄で降りて、タクシーでも捕まえるんだな」 「乗り継いででもたどり着けるなら、良いんです。ありがとうございます」 なにはともあれ、目的地へ向かうバスに違いないとわかり、安堵する。 ほっと胸をなでおろしたサシャにチケットを渡しながら、店主が言った。 「女の服に口を出すのもなんだが、あんたずいぶんクラシックな格好をしてるんだな」 「えっ。へ、変ですか!?」 まさか服装のことを言われるとは思わず、声がうわずってしまう。 せっかく故郷を訪れるのだから、せめて屋敷に見合った衣装をと思って選んだのだ。 素肌を見せることの多い現在の衣装からすれば、襟元の詰まったワンピースは確かにクラシカルなコーディネートかもしれない。 しかし古き良き英国淑女を思わせる様相は清楚さにあふれており、見る者に好印象を与えるだろう。 「いいや。あの博物館に行くなら、おあつらえ向きだ」 ぶっきらぼうな店主なりの褒め言葉らしい。 「ほら、あれだ」と続ける店主の指先を見やると、道の先からバスがやってくるところだった。 サシャは頭をさげてバスに駆け乗り、郊外の目的地――伯爵家のカントリーハウスであり、かつての勤め先へと向かった。 新聞売りの男は三十分と言ったが、実際は一時間近くかかった(おそらく店主の感覚で三十分と称したのであり、悪気があったわけではないのだろう)。 ロンドンとはいえ、都市を離れれば雄大な自然が広がる。 平日のうえに、この天候だ。 博物館最寄のバス停で降りたのはサシャの他に数名しかいなかった。 運良く通りかかったタクシーを捕まえ、サシャは正面ゲートから小道をたどり、屋敷の正面で車を降りた。 地上三階、地下一階。そして離れが複数。 横に伸びた邸宅は生活する人間以上の部屋数を持ち、風光明媚な庭園と屋敷のたたずまいが伯爵家のかつての繁栄を物語る。 数百年の時を経て、屋敷はすでに見知らぬ資産家の手に渡っており、現在は貴族の歴史を伝える博物館として一般に広く公開されている。 サシャは正面玄関の扉を開き、中の様子をうかがった。 かつて何度も行き交った玄関ホールが目に映る。 吹き抜けの天井に、両翼のように広がる階段が連なっている。 きらめくシャンデリア。 ワインレッドの絨毯が敷き詰められた階段。 壁紙はさすがに痛んでしまった部分もあったのだろう。新しいものに変わってはいたが、色あいはそのまま継承されている。 (すこしも変わってない) ホールの正面には小さな机がすえられ、キューレーター(学芸員)が応対を行っていた。 サシャは鑑賞チケットを買い求め、その足でゆっくりと屋敷を回りはじめた。 サシャの他には仲のよさそうな老夫婦や、勉強熱心な学生が教科書を片手に歩いているくらいだ。 昼下がりの屋敷はしんと静まりかえり、その静寂が心地良い。 階段の手すりに指先をすべらせ、ふと足を止める。 手近にポリッシュ(磨き剤)があればブラシをかけたいと思う程度には、当時の輝きを失っていた。 「やっぱり、全部が昔のままってわけにはいかないのね」 屋敷内の掃除はサシャたちメイドの仕事だった。 かつてはブラシを携え、毎日のように屋敷を磨きあげたものだ。 「いけない、いけない」 細部に目がいってしまうのは職業病だと己をたしなめ、先を急ぐ。 やがてサシャは目的の部屋――かつて屋敷の主が使っていた書斎へとたどり着いた。 十九世紀、ヴィクトリア朝の英国貴族には、己の人生を象徴する愛用品を『形見』として生前から箱にしまう伝統があった。 そうして遺されたものを『形見函』と呼ぶ。 サシャはかつての旦那様の形見函が今も遺され、博物館内に展示されていると聞いてここまでやってきたのだ。 メイドとして屋敷に迎えられた当時、メイド長とともに訪れたのがこの書斎だった。 生まれて初めてティータイムに招かれ、サシャはかけがえのない経験をしたのだ。 家族のように受け入れ、教育を施し、実の祖父のように愛し、接してくれた旦那様を忘れたことは一度もない。 やがてコンダクターとして覚醒したために屋敷を去ることになり、死の際に会えず永遠の別れを迎えてしまったことが、今もサシャの心に暗い影を落としていた。 それほど重要なものではないと判断されたのか、形見函は閉じたままの状態で展示されていた。 外から見ただけでは、箱全体にアイリスの紋章があしらわれていることくらいしかわからない。 ――どうしても見たい。旦那様の『形見』をこの目で見たいの。 展示ケースに張りつくように箱を見つめる。 形見函を手にすることができれば、サシャが去った後や、晩年の旦那様のことを知ることができるかもしれない。 「失礼、レディ。ガラスケースに身をもたせかけるのは危険ですよ」 いつからそこに居たのか、紺のスーツに身を包んだ青年がサシャの顔を覗きこんでいた。 所定の腕章をしている様子から、館内を巡回していたキューレーターのようだ。 「す、すいません!」 箱に見入るあまり、気づけば体重を乗せていたらしい。 軋む展示ケースから身を離し、サシャは恥ずかしさに火照る頬を隠すようにうつむいた。 「こちらこそ。急にお声をかけてしまい申しわけありません。素敵な衣装だったので、つい」 衣装について話題にされるのは本日二度目だ。 「古い衣装が好きなんです」 サシャは急に恥ずかしくなり、かぶっていたクロッシェ帽を胸に押しつけた。 帽子に飾られていた花のコサージュが、手袋の下でわずかに歪む。 「良くお似合いですよ。……ところで、伯爵の形見函に興味がおありで?」 声をかけてもケースの前を動こうとしないサシャに気づき、青年がいたずらっぽく問いかける。 「え、ええ。こんなお屋敷に住む故人が遺したものが、一体どんなものか知りたくて」 しどろもどろに答えるサシャに、青年はからからと笑った。 「そうでしょうとも。やっぱり、展示構成を変えなくちゃだめかな」 箱が閉じたままなので、幾度もそういった質問を受けるのだという。 「宝石が詰まっているわけじゃないんですよ。なかにはそういう貴族もいたようですが、ここの伯爵はそういうお人柄じゃなかった。そこにも書いてあるように、ほとんどが日用品。生活に関わるものでした」 箱のそばに掲示された説明書きによれば、愛用していた懐中時計、代々受け継がれてきた万年筆、女神をかたどったシェルカメオのブローチなど、身の回りのものが多く収められていたという。 「ただひとつだけ、興味深いものが入っていましてね」 「……それは、なんですか?」 青年の話に聞き入っていたサシャは、彼の言葉を待ちきれずに問いかける。 「日記です。日記には、伯爵が生涯にわたって隠し通した秘密が記されていたんですよ」 その秘密の内容はこうだ。 一人息子が放蕩の末、出奔先のインドで現地女性との間に娘をもうけた。 伯爵は子どもが救貧院送りになるまでその事実を知らず、死んだ息子からの手紙で初めて孫の存在を知ったという。 母を亡くし、孤児となった子どもを探しあて、メイドとして引きとったが、罪悪感と後悔の念から実の祖父であると伝えることはできなかった。 真実を伏せたまま養子縁組の話をもちかけたが、孫娘はその申し出を受けることなく、姿を消してしまったのだそうだ。 「日記には死の直前まで、孫娘への愛情と、贖罪の言葉がくり返し綴られていました」 思いがけない青年の言葉に、サシャは目を見開いていた。 日記にあった『孫娘』とは、おそらく己のことだろう。 「当時なにがあったのか。一切記録が残っていないため、孫娘が出奔した理由は今もわからずじまいです」 サシャは目線を床に落とし、トランクの持ち手を強く握った。 去らなければならない理由があったとはいえ、今でも当時を思いだすと胸が痛い。 「伯爵はよほどショックだったんでしょうね。日記には孫娘が残した書置きも、大事に挟んで残しているんですよ」 あの時置いていった手紙は、思うままに綴った走り書きのようなものだったはずだ。 (あんなものまで、旦那様はずっと大切にしてくださっていた) 今更ながらにその深い愛情に気づき、サシャの目に涙があふれる。 「……あ、すいません。語りだすと止まらなくて」 うつむいてしまったサシャに気づき、おしゃべりが過ぎたと青年が詫びる。 「いいえ。とんでもないです。貴重なお話、ありがとうございました」 それはサシャの本心の言葉だった。 青年がいなければガラスケース越しに函を見守るばかりで、未練を募らせて帰るはめになっていたかもしれない。 「良かったら、帰りに売店を覗いていってください」 展示パンフレットに、形見函の日記についての記述がいくつか載っているという。 「ハイ。あとで行ってみます」 サシャは見回りに戻るという青年の背を見送り、再び形見函と向かいあった。 直接触れることは叶わない。 箱に触れるように、ガラスケース越しに手指を重ねる。 真実を知った今、それでも後悔の念を抱いていることに変わりはない。 だがサシャが消えた後、死の間際まで己を思ってくれた肉親がいたことが何よりも嬉しかった。 ――きみは、私の自慢の。 神託の都で夢に視た言葉を思いだす。 旦那様はサシャの夢を訪れてまで愛情を伝えようとしていたのかもしれない。 サシャはこぼれる涙をそのままに、形見函に向かって深くお辞儀をする。 「旦那様。旦那様、ありがとうございます」 その後長い時間を書斎で過ごすと、サシャは再び頭をさげ、部屋を後にした。 帰り際、サシャは青年にすすめられたパンフレットを手にしてみたものの、買い求めはしなかった。 誰とも知らない研究者の解説が添えられ、当時を知る者としてはとても手元に置いておけるような内容ではなかったのだ。 ただ晩年、日記に書かれていたという一節を記憶にとどめ、屋敷を後にした。 日暮れ前になってやっと天候が落ちついたらしい。 うす曇りの空から天使の梯子が伸び、雨に濡れた庭園は宝石を乗せて輝くようだ。 足を止めて空を見やると、地平から地平まで、七色の帯が半円を描いていた。 「すごい、キレイな虹……!」 サシャは先ほど覚えた、日記の一節をそらんじた。 その声が、想いが、空のかなたの祖父のもとへ届くよう願う。 「親愛なる孫娘。祝福のもとに生まれた子へ――」 『親愛なる孫娘。 祝福のもとに生まれた子へ。 真実の愛と、贖罪の念をもって、ここに祈りを捧げる。 わたしは雲の中に、にじを置く。 それが、空のかなたで幾度も輝き、どんな苦しみからもあの子を救い、励ますように。 愛し子に、雨弓の福音があるように願って。』 了
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