蜃気楼に揺らぐ砂の海を、ひとりの旅人が歩いている。 白い肌に白い髪。色鮮やかな紅玉の瞳を宿した精霊――イルファーンだ。 その足どりは重く、今にも膝をついて歩みを止めそうに見えた。 たびたび足跡のついた方角を振りかえり、照りかえす日差しと、むせかえるような熱気に眼をそばめる。 夜がきて、朝がきて。 また夜がきても、精霊はただ、果てのない砂地をひとり、歩き続けていた。 いく度目かの夜を越えた日のことだった。 地平線にいくつもの人影が見えた。 近づくにつれ、それがひとりの人間と、魔獣の群れであることに気づく。 野犬を思わせる魔獣だ。 骨と皮だけの醜い外見を持ち、四本の脚で砂地を俊敏に駆ける。 集団で行動し、一度狙った獲物は地の果てまでも追いかける執念深さが厄介な相手だった。 人影は剣を手に数匹を相手取っていたが、群れの包囲は狭められつつある。 弱ったころを見計らい、一気に仕留める算段なのだろう。 人影は小柄な大人のようにも見えたが、砂避けのフードの下からは、幼いこどもの表情がのぞく。 ――なぜ、こんな場所にこどもがひとりで居るのか。 答えを探るよりはやく、イルファーンは風を喚んでいた。 鋭い風の刃が魔獣たちを襲い、数匹を切り裂く。 風にのって、こどもと獣たちを阻むようにふわりと舞い降りる。 砂を巻きあげながら現れた第三者に気づき、人影が構えを解いた。 「風の御業……。精霊か――」 イルファーンはその言葉に違和感を感じた。が、今は魔獣を退けるのが先だ。 威嚇する獣を前に、手を掲げる。 「今すぐここを去るというのなら、命まで奪いはしないよ」 イルファーンが雷を喚び、牽制する。 力の差を目の当たりにし、分が悪いと悟ったのだろう。 死んだ仲間の遺骸をくわえ、魔獣たちは文字通りしっぽを巻いて撤退していった。 群れが砂丘の影に消えるのを見届け、イルファーンは少年に視線を向ける。 黒い髪に、健康的な肌色。腰には先ほど振るっていた剣と、幾ばくかの荷物を携えていた。 こども特有の大きな瞳には愛嬌がある。だが見つめくる瞳には力強い輝きが垣間見え、底知れぬ気配を感じた。 「どこにいくつもりだったんだい? もし道に迷ったのなら、僕がどこかの街まで案内するよ」 だが少年は、それには及ばないと笑う。 「俺はこの砂漠にある、魑魅魍魎の地下迷宮を平らげにきたんだ」 古に滅んだ王族の墓所がこの砂漠のどこかにある、という話は、人々の間でまことしやかに語られていた。 遺跡内には魔獣が棲みつき、埋葬品として埋められた財宝に加え、魔獣らが集めた金品も多く眠っているという。 盗掘を阻むために内部は複雑な階層構造になっており、入ったが最後、戻ることは不可能とも言われている。 「そんな危険な場所へ、君ひとりだけで? 魔獣が持っているという財宝が目当てなのかい?」 たたみかけるように問うと、少年は「それも良いなあ」と年相応にはにかむ。 「なに、ちょっとした腕試しさ」 少年ははるか遠くの国で、剣術と魔術を習っていたらしい。その技がどこまで通用するのか、知りたくなったというのだ。 冒険への憧れがあるのだろう。加えて、幼さゆえの無謀が後押ししているのかもしれない。 イルファーンは迷わず、旅の同行を申しでた。 数日後。 日中に砂嵐をやりすごした二人は、月明かりを頼りに夜の砂漠を歩いていた。 出会った際に挨拶をし損ねていらい、二人は名を交わしていない。 だが、少年の態度によそよそしさは感じられなかった。 戦闘となればお互いに背を預けて戦ったし、なにより、少年はイルファーンが精霊だと知ったうえで、態度を改めなかった。 ひとと暮らしているころ、佇んでいるだけで敬われることがあったのを思えば、気さくに声をかけてくれることが嬉しい。 ――素性は知れないし、見ていて不安も多いけれど……。悪い心地は、しない。 ふと見ると、先を行く少年が手招いている。 「見えたぞ。あそこが迷宮の入り口だ」 告げるなり砂の上を滑るようにかけはじめ、イルファーンも後を追った。 目指す先には岩が見えた。よく見ると崩れた建物の一部のようだ。 すりばち状の砂地のあちこちに、同じような残骸が埋まっている。 本来墓所であった建物は、これら一部を残し、全てが砂に沈んでいるのだろう。 「本当に行くつもりなのかい?」 念を押すように声をかけるが、 「今さらなにを言う。そのために、ここまで来たんだ」 こともなげに告げ、少年は魔術で光球を生みだした。 砂に埋もれかけた瓦礫の隙間をくぐり、奥へと進んでいく。 呆然と見送るわけにもいかず、イルファーンはすぐさま少年を追い、迷宮へと踏みこんだ。 闇の迷宮は噂以上の難所だった。 多くは狭い迷路のような道で、曲がり角も多い。 光源を生みだしたとはいえ、実際に歩いてみれば光の届かない場所がほとんどだ。 そのうえ地下迷宮は年月を経て多くが崩壊寸前であり、あちらこちらで道がふさがれていた。 天井や壁、足場を確認しながら、時には壁を突き破り、道を造っていく。 夜目の利く魔獣が多いなか、光を従え、騒音をたてて歩きまわる命知らずはよほど襲いやすい獲物だったのだろう。 毒々しい体色をした巨大な蠍。 糸を吐く六本脚の毒虫。 天井を駆ける火蜥蜴。 ありとあらゆる困難が絶え間なく二人に襲いかかった。 だが、闇中にあって少年の技はいっそう冴えわたっていた。 唱える呪文は無駄なく敵を捉え、翻弄する。ひと呼吸で間合いに踏みこみ、剣を振るえば確実に敵の急所を切り裂いた。 剣舞、と呼ぶに相応しい身のこなしに、イルファーンは戦慄を覚えずにいられない。 進む二人の後には魔獣の亡骸が幾重にも積み重なり、辿った道は赤い絨毯が敷かれたようにどす黒く染まった。 「君の力は、圧倒的だ。この迷宮のどの魔獣も、きっと歯が立たない」 もう十分だ。引きかえそうと暗に告げても、 「いいや、まだだ。墓所の奥まで行く」 少年は頑として首を縦に振らず、前だけを見据えていた。 ――この子の気が済むまで、ついていくしかないか。 会話らしい会話もないまま歩いていくと、やがて天井の高い広間にたどり着いた。 これまで進んできた道と違い、明らかに『部屋』として造られた空間だ。 部屋の奥に石棺が置かれている。 棺の左右には、蛇を模した巨大な石像が屹立していた。 天井に届かんばかりの巨像をあおぎ見て、イルファーンが問いかける。 「ここは?」 「墓所の最深部。王の眠る間だ」 先に進もうとする精霊を、少年が片手で制した。 入り口で足を止めたまま、光球を飛翔させ、先行させる。 立っていた位置から十歩ほど先へ進んだ時だ。 眼前に佇んでいた蛇像が震え、動いた。 ――グオァアアァアアアア! 咆哮とともに眼が赤く光り、生き物のように身をうねらせると、ひと口で光球を呑みこむ。 「やっぱり! 王を守る≪守護者≫だ……!」 叫び、蛇の攻撃をかわすべく走りだす。 用心深い王は死後、己の眠りが妨げられるのを恐れ≪守護者≫を据えさせたという。 魔術によって、≪それ≫は永久に稼動する。 ゆえに二体の蛇は古の魔術師の命令に従い、明確な殺意をもって二人を狙った。 「まさか、この≪守護者≫を倒すつもりなのか!」 イルファーンも雷を招き、蛇を牽制しながら叫ぶ。 それまで穏やかに響いていた精霊の声が驚愕に揺れるのを聞き、少年は愉快なものを見たこどもの眼で笑った。 「その、『まさか』だ!」 声とともに爆音がとどろき、少年の火炎魔術が炸裂する。 火はすぐに消えたが、爆発で蛇の胴体をえぐることに成功したようだ。 二匹の蛇が少年に向かって首を伸ばし、周囲に赤い魔術の光がほとばしる。 あやうく光に触れそうになり、イルファーンは寸でのところで身をひねった。 「……これは」 見れば、代わりに光を受けた地面が火を噴いている。 溶けた岩が溶岩のようにただれ、流れてくるのに気づき、イルファーンはあわてて別の足場へ移動した。精霊とはいえ、直撃していればひとたまりもなかっただろう。 少年は右へ左へよけながら、あえて蛇に向かって駆け、ぎりぎりまで距離を詰める。 最後の一歩で身体を深く沈みこませ、跳躍。 空中で腰に据えていた剣を抜きはなち、眼前の蛇の身体に刃をつきたてる。 蛇の身体にぶらさがるようにしながら、少年は間近に蠢くもう一体の蛇に向かい、手を掲げた。 至近距離から放たれた魔術が蛇の首を大きく砕く。 飛散する粉塵をものともせず、叫ぶ。 「どこを見ている! 俺はここに居るぞ!」 ――オオォォォ! 首を砕かれた蛇が咆哮し、少年に向かって身をもたげた。 剣を突き刺した蛇は己の身に敵がはりついていることに気づき、少年を振り落とそうと身を震わせる。 「二体を相手取るなんて、無茶だ……!」 イルファーンは雷を招き、蛇の尾を狙ってせめてもの援護を行う。 必至で蛇にしがみつく少年に、イルファーンは声を張りあげる。 「額を狙うんだ!」 さきほど攻撃を受けたとき、蛇の額に魔術紋章が描かれていたのに気づいた。おそらく、それが≪守護者≫を稼動させる源となっているのだろう。 精霊の声を受け、少年は突き立てていた剣を引きぬき、蛇の身体を蹴った。と同時に、唱えていた風の魔術を展開させ、その身を天井高く跳ねあげる。 次の瞬間、一体の蛇が放った魔術の光が、もう一体の蛇を捉えた。 足場となっていた蛇の身体が、高温の熱によって溶かされ、どろりと崩れ落ちる。 ――グオオオオォォォ!! 魔術によって穿たれた穴から血のように溶岩を噴出しつつ、一体が棺の前に倒れた。 棺の周囲が溶岩にまみれ、赤く陽炎が揺れる。 残る蛇は目標を見失っており、敵が上空にいることに気づいていない。 少年は滞空しながら再度呪文を唱え、その制御を切り換えた。 重力に従って落下し、身体に風をまとわりつかせる。 もう一体の蛇の額めがけ、剣を構えた。 「終わりだ」 少年の剣が蛇の額を貫き、深く、深く、沈んでいく。 額が裂け、古の魔術を打ち破る。 崩れゆく≪守護者≫を背に少年が満足げに微笑むのを、イルファーンは見た。 崩壊した二体の≪守護者≫には眼もくれず、少年は石棺に近づいていく。 蓋を破壊し、止める間もなく片手を突っこんだ。 「……君は、何者だ?」 問いかけににやりと笑んだ少年の手には、印璽――『征服者の証』が握られていた。 精霊を見おろし、よく通る声で高らかに名乗りをあげる。 「我が名はスレイマン。善と悪、聖と邪、全ての霊を統べる王」 その名を聞き、イルファーンは目を見開いた。 『スレイマン』とは、大陸中にその名をとどろかせる天才魔術師の名だ。 ひとの身にして、ひとを超越した伝説の存在。魔術で加齢を抑えており、齢はゆうに五百を超えると言われている。 「まさか」 絶句する精霊を見やり、「おまえの百面相はなかなか面白い」と、少年はからからと笑った。 薄闇の迷宮にあって、スレイマンは光をまとったかのように眩しく映る。 眼前の少年が持つ笑みは、出会った時からなにひとつ変わらない。 この数日間、イルファーンは苦しい記憶に思いを馳せる時間が少なくなっていることに気づいていた。 己の目をくらませたとて、刻まれた罪が消えるわけではない。 だがスレイマンと居ることで、その呪縛から少しずつ解き放たれているようにも感じていたのだ。 ――そうか。この『笑顔』だ。 苦悩も、罪も。清濁あわせ呑み、赦しを与えるかのような笑顔。 その強さ、気高さで、あらゆる正邪をはねのけるかのような内なる輝き。 「気に入った。俺と来い、精霊よ」 伸べられた手の前に、イルファーンは無意識のうちにひざまずいていた。 重ねられたイルファーンの手を掴み、王は『約束』の言葉を紡ぐ。 「おまえに、『世界』を見せてやる」 砂漠の出会いより数日。 契約は成り、ここに一柱の精霊と一人の魔術師の主従が誕生した。 罪に呑まれた流浪の精霊が、ふたたび『光』を見出した瞬間だった。 了
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