寒さの厳しい冬だった。 その年、雪は例年にも増して多く降りつもった。 朝、夕と雪をかいても、夜の間に吹雪き、翌朝に降りつもる。 雪は積もるほど重さを増し、そのままにすれば家をも潰しかねない。 ひとびとは寒さに耐え、黙々と雪を払い、空を見あげた。 やがて訪れる春を、待ち望んだ。 ◇ その日も、代わり映えなく雪が降っていた。 在利は自室に敷いた布団に横たわり、雨戸の隙間から庭の景色を眺めていた。 昼時だというのにあいにくの曇り空で、室内は薄暗い。 はらはらと粉雪が舞うさまを見やりながら、手持ちぶさたに思考をめぐらせる。 (あの雪の結晶を、見にいきたいな) そうは思うものの、在利は病の身だ。 特に寒さが身体に障り、すぐに発熱するありさまだった。時おり、肺の空気を絞りつくすほどの激しい咳を繰りかえし、とても外に出られる状態ではない。 家の中とて、身を起こして歩き回ろうものなら家族総出で引き留められたほどだ。 おかげでここ数日、在利は自室でひとり退屈な時間を過ごしている。 隣の部屋には家族がいることもあったが、皆それぞれに用事を抱えており、忙しい。 今も襖をへだて、声が聞こえてくる。 ひとつは、聞きなれた両親の声。 もうひとつは、ここ何日か家に通い続けている、医者の声。 薬を服用しても一向に回復しない在利の身を心配し、両親が呼び寄せたのだ。 この世界では医者は縁遠い存在だ。 病気や怪我を負った際、まずは薬師の薬を頼る。調合する薬は幅広く、効果も確かだ。よって、たいていの治療はそこで完結する。 薬師の薬で効果がないとわかって、はじめて医師による見立てを検討するのだ。 それだけに、医者を呼ばれた時は、軽く衝撃を受けた。 「……家の薬で治せないんだし、そうだよね……」 福増家は古くから続く薬師の家系だ。 幼いころから薬師の生業をそばで見守り、ひとびとに感謝される様を見てきた。薬の効能を信じ、その仕事を誇りに思ってもいた。 家の者たちも同じだ。在利の病はただの『風邪』だと思った。これなら、すぐに薬で完治するとだれもが信じて疑わなかった。 だが、実際はどうだ。 一家の持つ薬のどれを処方しても、在利の病状は一向に良くならない。 『風邪』でないのなら、『肺炎』だろうか。 いや、『気管支炎』かもしれぬ。 あれやこれやと手をこまねいているうちに病状は悪化し、ついに在利は布団から出ることを禁じられた。 それが、数日前のことだ。 襖向こうの会話は続いている。 声はくぐもり、うまく聞き取れない。だがその調子や声音から、明るい話ではないことはうかがえた。 部屋が寒い。 空気が凍りつくようだ。 きっと火鉢の火が落ちている。 炭を置き直してもらわなければ。 声をあげればすぐだ。 すぐに、誰かが来てくれる――。 何度か口を開こうと思った。 だが、襖向こうから会話が聞こえるたび、声は喉の奥に詰まって、ついに発せられることはなかった。 在利は雨戸に背を向け、布団を引き寄せる。 (……薬が効かない病は、どうやって治したら良いんだろう……) それが己の首をしめる愚問であることに気づき、在利はかぶりを振る。 布団の中で丸まるように身を縮め、すべての感覚を闇の奥に沈めるべく、息をつめた。 どおっ、という音が聞こえた。 屋根か、木に乗っていた雪が落ちたのだろう。 直前まで視ていた夢が霧散していく。消えゆく夢幻に後ろ髪をひかれながら、在利は目を覚ました。 すっかり眠りこんでいたらしい。 雨戸は閉ざされ、部屋は闇に沈んでいた。外の様子はうかがい知れない。 風が強いらしく、ガタガタと家がきしんでいる。 雪はやんだのだろうか。 雲はどこぞへ去ったのだろうか。 在利は身を起こし、視線をめぐらせた。 昼間は寒いと感じた部屋が、今は十分すぎるほど温まっていた。 火鉢の炭があかあかと燃えているところをみると、眠っている間に誰かが火を足してくれたらしい。 家族の気配を感じ、在利はほっと息を吐く。 そうして、しばし耳を澄ませる。 医者は帰ったのだろう。隣の部屋からは、もう何の声も聞こえてこない。 「……在利、起きてるかい?」 ふいに、襖向こうから母の声が響いた。 在利が耳を澄ましていたのと同じように、母もまた、耳を澄ましていたのだろうか。 しかし、当の母の声はいつもと違うように感じられた。まるで枯れた声だ。穏やかさに欠け、それでいて、ざらりと喉につかえるような――。 在利は手早く夜着の着崩れを直し、背筋を伸ばした。 違和感を抱きつつ、応える。 「はい。起きています」 やがて遠慮がちに襖が開かれ、母親が顔を覗かせた。続いて、父親が部屋に入ってくる。 その表情を見て、在利は愕然とした。 母の目は赤くはれ、今なお、その瞳はうるんでいるようにも見える。 それを気取らせまいとしてか、父は口を引き結び、手にしていた羽織をまとうようにと差しだす。 在利は頷いて受け取り、袖を通した。 二親が側に座したのを待って向かいあい、膝の上に手指を重ねる。 「在利……良くお聞き」 あらたまって告げる父を見つめる。 「今日、お医者さまが来ていたのは、知っているね」 昼間に聞いた、声の主――数日前から家に出入りしている医者のことだ。 今日は特に顔をあわせなかったが、それまでに服用した薬について質問を受けたり、症状について聞かれたりしていた。 実際に診察も行われ、在利自身、何度か顔も見ている。 「さっき、診察結果を説明してくださった」 ――いったい、なんという病気なんですか。 問いかけたい気持ちを抑え、ぐっと拳を握りしめる。 在利の焦りとは裏腹に、父親はひとつずつ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。 「おまえの病は、加齢とともに徐々に細胞が死滅していく、『不治の病』であるらしい」 ――フジノヤマイ。 それが何を意味する言葉なのか。とっさにはわからなかった。 ――フジノヤマイ。 ――フジノヤマイ。 脳裏で何度か音を反芻して、ようやくその意味を認識――もとい、把握する。 ――不治の病。 ――決して、治らない病。 まるで異国の言葉のように響くそれが、己の病名だというのか。 引き継ぐように、母が続ける。 「今はまだ初期症状だから、呼吸器官にすこし障害が出ていているだけで済んでいるらしいの。体が冷えると咳が酷くなるのは、それが原因だそうよ……」 ――年ヲ経ルゴトニ、徐々ニ細胞ガ死滅。 ――マダ、初期症状。 なにを言っているのだろう。 二人の言葉が理解できない。 だってみんな、こんなの『風邪』だからすぐに治ると言っていたじゃないか。 視界が急に暗くなったように感じる。 目の前にいる両親の輪郭を認識できない。 雨戸の向こうで、ひゅうひゅうと風の音が響いている。 これは咳に喘ぐ喉の音ではないのか。 己はちゃんと呼吸できているか。 うつむいた在利の様子に、父の声が震える。 「今はまだ、大丈夫だ」 みなまで言われずとも、在利にも薄々察しつつあった。 このさき告げられる言葉は、どう転んでも優しい現実ではない。 聞きたくない。 「でも、このまま、病が進行していったら――」 父の言葉が終わる前に、感極まった母が在利を抱きしめる。 母の涙が頬に触れた。 耳をふさいでしまいたい。 けれど意識とは裏腹に、身体はぴくりとも動かなかった。 「――あと数年で、命が尽きる、と」 父が言葉にできたのは、そこまでだった。 言葉にしたことで、再び悲しみが押し寄せてきたのだろう。 母と在利とを抱き寄せ、肩を震わせて、うめく。 首筋が冷たい。 父親も、泣いているのだ。 「きっと治す方法を見つけるわ。私たちが、あなたの病気を治す薬を作ってみせる……!」 「春がくれば、温かくなって具合も良くなる。そうしてすこしでも長く、一日でもながく。私たちの側にいておくれ――」 二人に抱きしめられながら、在利はまるで夢見心地のようだと思った。 熱があるのだ。 きっと、悪い夢を見ているのだ、と。 深夜、在利はひとり天井を見あげていた。 あの後、二親はひとしきり泣き続け、在利は夕食をとる気にもならず、結局また横になった。 泣きつかれた二人はすでに隣の部屋で眠っている。 風はまだ強く、時おり家鳴りの音が響く。 ――いのちは、なんて残酷なのだろう。 病に冒されたこの身体は、家族を苦しめ続けるだろう。 いっそ死んでしまえば、もうだれも苦しい思いをしなくてすむのでは。と、幾度となく考えた。 けれど周囲にいる者たちは、望みを捨てるなと言う。生きてくれと言う。 抱きしめた両親の温もりを思いだす。 薬のことを教え、慈しんでくれた母。 どんなときも、常にそばで見守ってくれた父。 二人の愛情深さを思えばこそ、悔しさが胸に募る。 ――なぜ、己が病を抱えねばならないのか。 ――なぜ、あと数年で生を終えねばならないのか。 「死にたくない」 考えても、考えても、納得のいく答えは出てこない。 だがこれが、現実なのだ。 「……死にたくない」 己の意思と関係なく決定付けられてしまった運命。 その理不尽さを思うと、涙が止まらない。 在利は絶望を胸に、いつしか、再び眠りについていた。 次の日の朝。 在利はいっこうに部屋から出てこなかった。 両親は、よほど辛い思いをしたのだろうと頷きあっていた。 無理もない。まだ十五という若さで、余命数年と告げられたのだ。 己たちでさえ受け止めるのに苦しんだ現実を、幼いこどもがどうして耐えられようか。 きっと眠れなかったのだろう。 もう少し眠らせてあげよう。 せめて起きた時にあたたかい食事を食べられるよう、腕によりをかけて料理を作ろう。 だが昼前になっても、在利の部屋からは物音どころか、咳ひとつ聞こえてこない。 やがていぶかった父親が、意を決して襖に手をかける。 「在利、入るよ」 声をかけるも、返事はない。 胸中に広がる不安に、勢いよく襖を開けはなつ。 火鉢の火は消え、部屋は冷気に満たされていた。 ひとの気配はどこにもない。 布団は、もぬけの殻だった。 ◇ 雪はしずかに舞う。 すべての音は雪にすいこまれ、あたりは静寂に包まれる。 あの子は雪にさらわれたのだと、だれかが言った。 きっと、花びら雪の静寂に呑まれたのだ、と。 寒さの厳しい冬だった。 雪は例年にも増して多く降りつもった。 ひとびとは寒さに耐え、黙々と雪を払い、空を見あげた。 春は、もう、すぐそこまで来ていた。 了
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