「囚われのお姫様でも助けてみますか?」 いきなり姿を表した世界司書の男性は、やる気がなさそうにそう尋ねてきた。 相変わらずどこまでも返事を聞く気がない世界司書は、導きの書に視線を落として勝手に話を続ける。「ヴォロスの街で、ロストナンバーの女性が発見されました。外見的特長としては、背に白い羽が生えているので間違う事はないでしょう。壱番世界で言えば成人女性に見えますが種族にしてはまだ幼い部類に入るらしく、その羽をしまう術を知らないようですから」 嵩張ってしょうがないですねぇと思わずといった様子で呟いた男性は、こほんと咳払いをしてページを捲った。「彼女を最初に発見したのは、その街の神官だそうです。怪我をしている彼女を連れ帰り、そのまま監禁しています」 監禁、と自分で繰り返した世界司書は、語弊がありますかねぇと独り言めいて続けた。「彼としては、監禁している意識はないのでしょう。他の街の人に見つかれば殺されるから、匿い保護している──つもりのようです」 問題は山ほどありまして、と面倒そうに頭をかいた世界司書は視線を上げて空を仰いだ。眩しそうに目を細めて顔を戻し、気乗りしないまま言う。「見つかれば殺される、というのは強ち間違いではありません。ですがそれは、その神官が彼女を匿っている事に起因します」 最初から別の場所で発見されればよかったんですけどねぇと、世界司書は心なし眉を寄せた。「その街の人たちにとって、神官こそが敬い隔離されるべき存在です。神官が誰かと接触する事を、極端に嫌います。それこそ、殺人も辞さない勢いで」 おかげで彼はいつも一人ぼっちですからねぇ、と溜め息混じりに世界司書は目を伏せた。「側にいてくれる誰か、を、心から欲する彼を責めるわけにはいかないでしょう。言葉が通じずとも、会いに行けば必ずいるのですからね。それに彼自身、街の人たちから大事にされつつもほとんど塔から出られない。生まれてからずっとそうなのですから、彼女がその状態では弱ってしまうという発想もありません」 あくまでも善意なんですよねぇ、と、面倒そうに溜め息を重ねた世界司書はページを捲って渋い顔をした。「その神官は、半径二メートルほどに作用する言霊を持ちます。言葉にされた事は、必ず現実になるようです。言霊が及ぶ範囲は厳密に定まっていて、有効範囲内であれば声を聞く聞かないに係わらず発現します」 街の人はそれを恐れているんでしょうねぇと、眉を顰めたまま世界司書が呟く。「今の神官は、自分の能力を知りません。彼が言葉にするのはだから、素直な感情だけです。他人の怪我を見て痛そうだと言えばその傷は痛みますし、治ればいいと呟けば治ります。ただ治る途中で離れると、有効範囲を出た時点でその効果は途絶えます」 考えようによっては便利な能力ですが、と世界司書は表情を動かさないまま溜め息をついた。「彼が自分の能力と有効範囲を知れば、より絶対的な命令も下せるようになる、という事です」 簡単に独裁政治ができますねぇとさして興味がなさそうに続けた世界司書は、それでもどこか真面目な顔つきでその場にいる面々を眺めた。「今のところ神官は彼女を匿えていますが、街の人に怪しまれるのも時間の問題でしょう。何しろ塔から出ない彼の身の回りの世話は、街の人が交代で行っているのですから。そしてそれが発覚すれば、彼女の命も危うい」 言って導きの書を閉じた世界司書は、重そうにそれを抱え直した。「目の前で彼女を失えば、神官も正気ではいられない。自分の言霊の威力も知らず、呪いを吐くでしょう。それが、どんな惨劇を巻き起こすか……」 語りたくなさそうに頭を振った世界司書は、けれどそれですべての不安を振り落としたみたいにしれっとした顔に戻って、それではと軽く手を上げた。「要はつまり、街の人に彼女が見つかる前に救い出してくだされば任務成功です。少なくとも神官は駄々を捏ねるでしょうが、上手く丸め込んできてください」 無事にお姫様を救出できますようにと義理か何かのように祈って、世界司書は相変わらず返事も待たずに歩き去った。 大分痛みの引いた腕の怪我を見下ろし、彼女はそっと溜め息をついた。ここがどこかは知らないが、彼女が暮らしていた場所でない事は確かだ。できればすぐにでもここを出て、故郷を探しに行きたいというのが本音だったが。「ウォーノ」 この数日で聞き慣れた呼びかけに顔を巡らせると、ドアが開いて彼が入ってくるところだった。 彼女の腰ほどまでの身長と、ほっそりしすぎた体格。年の離れた彼女の弟よりもまだ幼いだろう少年は、目が合うとひどく嬉しそうに笑う。そして大事に運んできた食事の乗ったトレイをテーブルに置き、身振り手振りで食べるように勧められる。 何を話しているかは分からないが、嬉しそうににこにこと笑う姿を見ていると逆らい難い。(これは、あなたの食事なのではないの?) 取り分を奪っているのではないかと何度も尋ねたが、言葉が通じないからか、熱心に勧められるだけだった。今日もまた逆らい切れずに食事を始めると、嬉しそうにした少年は何かを言い置いて部屋を出て行った。 彼には聞かせられない溜め息をつき、ぐるりと部屋を見回す。部屋の丸い形と高すぎて先の尖った天井を見上げれば、塔の先端に当たる部屋なのだと思う。窓は、羽でもなければ届かないほど高い位置に一つ。彼女には幸いその羽があり、すぼめれば通り抜けられなくはなさそうな大きさだ。 怪我も順調に治ってきた今、あの窓から外に出ることは可能だろう。 けれど。(私がいなくなったら、あの子はどうするのかしら) 今日まで他の人間には一切会っていない、どうやらこの塔には彼が一人で住んでいるようだ。ひっそりとした寒々しい夜の間、彼はこの塔に一人きりで膝を抱えていると知ってしまった。 彼女たち一族は家族と一緒に羽に包まって寝るのが普通だったから、どうして少年が一人きりでそこにいるのか分からなかった。自分が寂しかったのもあって一緒に寝ようと伝えると、ものすごく狼狽えられたのを覚えている。 けれどしばらくしておずおずと近寄って来た少年は彼女の羽に触れてその感触に口許を綻ばせ、嬉しそうに暖かそうにそっと抱きついてきた。(あの子を置いていくなんて……) ここを出たいと言えば、どれだけ悲しい顔をするだろう。ひょっとして怒ってしまうかもしれない。一緒に行こうと誘うのは簡単だが、故郷からどれだけ遠いかも分からない言葉の通じない土地を、少年を連れて旅をするのは無謀だろう。(どうしよう……) このままではいけないと、分かってはいる。分かっているけれど行動を起こせず、少年が戻れば堪える溜め息をまた一つ、ついた。
今回依頼されたロストナンバーがいる塔に辿り着く前に、西光太郎はちょっといいかなと今回の救出に係わるであろう他のメンバーに声をかけた。 「それぞれで行動する前に、ちょっと状況の整理とお互いの認識を確認しておきたいんだけど、いいかな?」 「認識の……、確認?」 おずおずと聞き返してきたのは黒葛小夜と名乗った、小学生くらいの少女。どんぐりフォームのセクタンをぎゅっと抱き締め、光太郎や他二人からも少し距離を置いているのは不審者警戒というよりは人見知りだと信じたい。 とりあえずそうそうと頷くと、銀髪銀目の青年──アルジャーノが不思議そうに首を傾げた。液体金属生命体でス、とにこやかに自己紹介した彼は、分からなさそうに聞き返してくる。 「ロストナンバーの女性を助けル、ですよネ?」 他に何ありますカとの問いかけに、 「目的としてはそれだが、その女性の置かれた状況と解決すべきが何か、の突き合わせか」 素っ気無い口調で纏めてくれたのが、光太郎の少し前を歩いていたハクア・クロスフォード。静かな深緑の瞳で光太郎たちを眺め、協力するなら必要だろうなと頷いた。 黒葛とアルジャーノは不思議そうに目を瞬かせているので、光太郎は大きな食い違いが二つあると思うんだ、と指を二本立てた。 「彼女はロストナンバーだ、まず言葉は通じていない。ここで一つ。そして神官は自分の能力と隔離されている理由を知らない、ここで二つ。前者は俺たちが持ってきたトラベラーズノートで解決するとして、後者が厄介だろうな。現地の風習に下手に口を挟むと、碌な事にならないから」 円満解決は難しそうだねと眉音を寄せながら続けると、黒葛がセクタンを抱き締めたまま躊躇いがちに口を開いた。 「神官さんには内緒で、彼女だけ連れ出したら駄目なの? 本当は神官さんも0世界に連れて行ってあげたいけど、それは無理だよね。それなら、彼女に会って話して、そっと連れて帰れたらいいと思う」 助けてくれた神官さんに嘘はつきたくないしと目を伏せがちにして黒葛が言うと、アルジャーノが今度は反対側に首を傾げた。 「神官さんニ、本当のことを教えてあげればいいのでハ? 彼の能力と閉じ込められている理由ヲ、話せばいいでス」 「いや、いきなり話すのはまずい。神官が自分の能力を悪用しないと判じられない限り、俺たちが勝手に話せないだろう」 クロスフォードが止めたそれは、光太郎も危惧していたところだった。 「そうなんだ、話すのは簡単だが神官の人柄を知るほうが先決だと思う。黒葛が言うように彼女だけ連れ出すのも手だとは思うが、それだと神官は街の人間を疑いかねないし。連れて帰ることは教えたほうがいいと思う」 「でも、さよならを言っても通じないと、」 言いかけた黒葛は、途中で思い出したように口を押さえた。 「あ。さっきの食い違い……?」 「うん、トラベラーズノートでそこは解決すると思うよ」 それならさよならも通じるよねと笑いかけると、黒葛は心持ち唇の端を嬉しそうに緩めて頷いた。 「後は神官の説得が必要として、言霊の有効範囲内で話すしかないだろうな」 「それなラ、私の分裂体で口を塞ぎましょうカ」 舌の根まで拘束したらいいですヨと話すアルジャーノの手の先が、どろりと銀色の液体状になった。どうやらそれは彼の意志で自在に動くらしく、クロスフォードはちらりと一瞥して些か乱暴だがと顎先に手を当てた。 「攻撃を仕掛けられたなら俺の魔法で防げるが、能力を使わせないようにしようと思うとそれが一番有効だろうな。いつでも防げるように仕掛けておいてくれるか」 「了解でス。最初から塞がないでいいですカ?」 「それだとお話できないよ?」 黒葛が目を瞬かせると、クロスフォードも一つ頷いた。 「能力を教えるかどうか見極めるためにも、話はしたい。彼がまずい事を口走りそうな時だけ、頼めるか」 「分かりましタ」 神官の口を塞きますヨと軽く頷いたアルジャーノに他意はないのだろうが、人聞き悪く聞こえるよなと光太郎はちらりと苦笑した。 クロスフォードの魔法で塔のてっぺんにある窓まで運んでもらった小夜は、こんこんと窓ガラスを叩いてできるだけ外を見ないようにと部屋の中を覗いた。 世界司書がすぐに分かると言ったまま大きな羽を持った女性は何度かのノックで顔を上げ、小夜を見つけると驚いたように目を瞠ってその羽を広げ、窓まで飛んできた。 「こんなところからお客様?」 羽もないようなのにどうやってと驚いたように問いかけながら手を差し伸べてくれる女性に抱き抱えられた小夜は、ゆっくりと部屋の中に下ろしてもらった。 魔法で運んでもらった時も優しい風のおかげで怖くはなかったけれど、小夜を包んでくれた彼女の羽は温かくてほっとした。思わず撫でたくなる手を何とか堪え、小夜は女性を見上げた。 「ありがとう」 「どう致し、」 致しましてと答えかけた女性ははっとした様子で小夜を見下ろし、言葉が分かるの? と心なし弾んだ声で尋ねてくる。 小夜は顎を引くようにして頷き、はじめましてと頭を下げた。 「わたしは、黒葛小夜。あなたと同じ、ロストナンバーなの」 分からないだろうと思いながらも自己紹介して説明すると、女性は何度か大きく瞬きをした。 「後で他の人がもっと詳しい事情を説明するけど、」 言って窺うように女性を見ると、彼女も思い当たったように胸に手を当てた。 「アリア、と言います」 「アリアさん。ここはアリアさんが暮らしていたのとは別の世界なの。このままここにいると、いつか消えてしまう。それがいつかは分からないけど、ロストナンバーはそういう運命だって。それを避けるために、わたしたちはアリアさんを迎えに来たの」 万全の説明ができたとは思わないが、それでも助けたい一心で紡いだ言葉は確かに届いたらしい。二度ほど瞬きをして小夜の言葉を刻んだような間の後、アリアは一つ頷いた。 「ここを出て……、一人で彷徨ったところで私は故郷に辿り着けないのですね?」 「……うん」 目を見たまま頷くと、そうですかと小さく呟いた彼女は儚げに微笑んだ。 「言葉も分からないままここを出るのは、正直怖かったんです。迎えに来てくださって、ありがとうございます」 丁寧に頭を下げたアリアは、けれどあまり晴れやかな顔はしていない。 「私は、今の状況をもっと詳しく知りたいです。ここを出なくてはいけないのも、分かっています。ただ……、」 戸惑ったように言い淀んだ彼女が、何を憂うのかは分かる気がする。助けてもらったのなら尚更、一人でいる神官を置いて行くのは辛いだろう。 小夜が黙ったまま言葉を待っていると、アリアは一度ドアのあるほうに視線を向けてから振り返ってきた。 「彼は、共には来られない、ですか」 切なげな問いかけに応えられず心はちくちくと痛んだが、小夜は多分と頷いた。 「無理だと思う。神官さんは、ロストナンバーじゃないから」 「それでは……、彼はまた、一人になってしまうのですね……」 苦しげに目を伏せた彼女の羽は、自分の身体を抱くようにきゅっと狭められている。ふわふわのそれがどこか寒そうに震えるのは、きっと置いていく神官を思ってだろう。 小夜は抱いたままだったセクタンの小枝を見下ろしてアリアに視線を変え、あのねっと勢い込んで声をかけた。 黒葛を塔のてっぺんにある窓に送り届けたハクアは、オウルフォームのセクタンで街の様子を窺っていた西が親指を立てたのを見つけてアルジャーノと共に塔に入った。後から西も駆け込んできて、まだしばらく大丈夫そうだと頷く。 「ロストナンバーの女性を引き止めてくれている内に、神官と接触してしまおう」 順番に上がって行けば見つかるだろうと後ろの二人を促しかけたハクアは、アルジャーノの背に銀色の液体金属が動くのを見て僅かに目を瞠った。もぞもぞと動いていたそれは、やがて背に生える羽として収まった。 「凄いな、こんな事もできるんだな」 「これくらいは容易でス。仲間を助けに来たト、分かりやすいでしょウ?」 「確かに、仲間には違いないよな」 どっちも助けたいよと誰にともなく呟いた西の言葉が終わらない内に、誰かいるの? と階段を下りてくる足音とともに少し高めの声が問いかけてきた。神官かとお互いに視線を交わし、咄嗟の時に即座に動けるよう身構えながら姿を見せるのを待つ。 「食事なら、さっきもう貰ったよ? 何か忘れ物でも、……誰?」 見た事ないねと目を瞬かせて尋ねられたが、全員思わず言葉に惑ったのは現われた神官があまりに幼かったからだ。先ほど一緒にいた黒葛と変わらないような年頃の、少年。警戒よりは好奇心に満ちた眼差しはわくわくと表現しそうに彼らを眺め、アルジャーノの背にある羽を見て僅かに表情が硬くなった。 「その羽……、ウォーノと一緒?」 喜んだような声の間に、初めて警戒したような色を滲ませて少年が尋ねると、アルジャーノはにこりと笑った。 「貴方にはまずお礼ヲ、私達の仲間を助けて頂き有難うございましタ」 「っ、……君は僕の言葉が分かるの」 ウォーノは分からないよとじりじりと後退りながら不審げなそれに、ハクアがそうだと頷いた。 「彼女は言葉が分からないままここに落ちた、だから俺たちが迎えに来たんだ」 「……迎え」 ぽつりと、感情の乗らない様子で呟いた神官は視線を揺らした。 「彼女を保護してくれてありがとう、迷惑をかけたんじゃないかな」 「迷惑なんて、ないよ。ウォーノは、僕の側にいてくれた。それが、嬉しいから」 迷惑じゃないよと西の言葉に答えながら、神官は後退り続けている。 「彼女を迎えに来たんだが……、案内してもらえないだろうか」 「っ、でも、でもウォーノは君たちの話をした事がないよっ」 「? 彼女とハ、言葉が通じないのですよネ?」 それは話さないでしょウと不思議そうにアルジャーノが突っ込むと、神官は泣き出しそうに顔を歪めた。 「でも、……でもね、ウォーノは帰りたいとも出て行きたいとも言わないよ」 言わないんだよと神官が繰り返すと、何か言いかけたアルジャーノは口を開閉させて不思議そうにハクアを見てきた。どうやら神官を哀れんで言葉を止めたのではなく、彼が紡いだ言わないという言霊が作用したのだろう。 (まずいな、どれがどこに作用するか分からないのか) ひょっとして自分たちも喋れなくなったのだろうかと警戒しながら、 「お前は、名は何と言う?」 呼びかけが確かに声になったことにほっとしながら問うと、神官は視線を落としたまま言い淀んだ。けれど焦れるほどの間の後に、ウォーノ、と呟いた。 「それハ、貴方の名前ですカ」 「どうせ誰も呼ばないよ……、だからウォーノにあげたんだ」 僕は神官だから、と床を睨みつけたまま神官──ウォーノが呟く。 「神官、」 何か言いかけた西が顔を顰めて言葉を止めたのは、神官と呼びかけたかったわけではないからだろう。これも言霊が作用して、あげた名前で彼を呼べなかったらしい。 「ウォーノは、ここにいたら駄目なの? 僕が助けたんだ、ちゃんと僕が守るよ、だから、」 「お前が善意なのは、理解できる」 言葉を遮るように告げると、ウォーノの視線がようやくハクアに向けられる。眉根を寄せて、不快というよりは拗ねたような顔つきにそっと息を吐いて続ける。 「お前は、何のために彼女を助けた? このままここに閉じ込めておけば、彼女は死ぬだろう。何故か分かるか」 「っ、」 厳しいとも思える尋ねにウォーノは言葉に詰まり、ぐっと唇を噛んだ。泣くかなと西が困ったように呟いたが、ウォーノは歯を噛み締めるようにして何かを堪えた後、項垂れるようにして俯いた。 「僕が助けたから死んじゃうの? ここにいたら死んじゃうの? ……皆に、殺されるの?」 僕が守っても? と震える声で語尾を上げたウォーノは、けれど誰かが答える前にゆるりと頭を振った。 「ご飯なら僕のを全部あげるよ。僕はお腹が空いてないから。散歩に行ってもいいよ、僕が出て行くのをやめるから。皆、僕がここにいたら安心するんでしょう、そしたら僕はずっと、」 「アルジャーノ!」 止めろと西が叫ぶのと同時くらいに、既にウォーノの後ろでうねっていた銀色の液体金属が彼の口に入り込んでいた。何が起きたのかと戸惑って暴れそうになるウォーノを無理やり座らせたアルジャーノは、ごめんなさイと淡々と謝罪している。 「でモ、その先は言わないほうがいいでス。貴方の言葉ハ、貴方には永遠の鎖になりまス」 それはよくないでス、と座らせたウォーノに視線を合わせてしゃがんだアルジャーノが話している間に、ハクアは西と目を見交わした。 「話してもよさそうか」 「うん、話したほうがいいと思うよ。彼が自分で自分を縛ってしまう前に」 あれが現実になってはひどすぎると辛そうに頭を振った西に、ハクアもそうだなと小さく同意してウォーノに視線を変えた。 「こんな形でお話する事を謝りまス、ごめんなさイ。貴方、なぜ閉じ込められてるか知りたいですカ?」 アルジャーノが視線を合わせたまま問いかけると、ウォーノは戸惑ったように視線を揺らした後、一度しっかりと頷いた。それを確かめた西は、ウォーノ、とゆっくりと発音して彼に目を合わせた。 「今アルジャーノが口を塞いでるのは、ウォーノの言葉が現実になる力を持っているからだ。さっきウォーノが言わないと言った時、アルジャーノは話せなくなった。名前をあげたと言った時、俺はウォーノと呼べなかった。一時的な効果だったようだけど、確実に俺たちに作用したんだ」 そうする力がウォーノの言葉にはあるんだと西が語ると、彼の瞬きが少しだけ多くなった。 「お前は助けた娘のために、ここに閉じ込められたままでもいいと言いかけただろう? それはお前が口にした途端、現実になる。だから否定的な言葉は使わないほうがいい」 いいかとクロスフォードが確かめると、ウォーノは僅かに青褪めたが視線を揺らすでもなく頷いた。 「もしかしたら貴方は過去にその力で人を傷つけているかもしれないけれド、それを抑制できたならここに閉じ込められる事もないでしょウ。そう簡単にはいかないかもしれませんガ、自由への選択肢が生まれまス」 ここに一人は嫌ですよネ、と部屋を見回しながら重ねたアルジャーノに、ウォーノは今までよりずっと強く、大きく頷いた。 「ここを出たいのならば、そのために学ぶ事、考える事、己を律する事をお前はしなければいけない」 できるかとクロスフォードが問うと、ウォーノは眉根を寄せて考えるように俯いた。 即答できないのは、ウォーノがその場凌ぎで頷いてるだけではない証拠だろう。それを見て西はふっと笑顔になり、俺はできると思うなと彼の頭を撫でた。 「ウォーノは見ず知らずの彼女を助けてくれた、今度は俺たちが手を貸す番だと思う。その能力を放棄したいなら、試せる方法は幾つか教えられるよ」 「能力などいらなイ、と言うのはどうでしょウ。それでも駄目なラ、声帯を潰すといいでス」 声が出なくなりますヨ、と笑顔で提案すると、西が何故か引き攣った顔でぽんと肩を叩いてきた。 「いや、うん、能力放棄の宣言までは俺も考えたけど。声帯を潰すのは乱暴じゃないか?」 しかもこの状況で言ったらすごく怖いよと頭を振る西に、強行できそうな状態だからなとクロスフォードも苦く笑う。アルジャーノは不思議に思って首を傾げたが、軽く服を引かれた気がしてウォーノに視線を変えた。 身振りで口を塞いだ分裂体を外してほしいと頼まれ、二人を窺うと止めるような素振りもないので分裂体を動かして解放した。ウォーノは何度か咳き込んで息を整えると、真っ直ぐに見据えてきた。 「教えてくれて、ありがとう。……僕が言葉にしたら、全部が本当になるの?」 今までそんな事があったかなと独り言のように呟いたウォーノは、そっと溜め息をついた。 「声帯を潰すのは、怖いから今はやめておきたい。でも、どうしても、なら、お願いしてもいいかな」 「……お前にその気があるのなら、能力を制限できる護符なら渡してやれるが」 「本当?!」 嬉しそうにぱっと顔を輝かせたウォーノはクロスフォードを見上げ、すぐに顔を曇らせて視線を落とした。 「でも、皆はそれで納得してくれるかな」 使える間は怖いんじゃないかなとぽつりと呟いたウォーノに、こういう問題は根が深いからなぁと西が困ったように頭をかいた。 「でハ、私が貴方に化けて逃げましょうカ」 「アルジャーノって、何にでもなれるのか?」 「なれますヨ」 お任せあレと請け負いながらぐにゃりと形を崩し、ウォーノそっくりの形を取って笑いかけた。 「この姿で街の人の前を逃げテ、崖っぷちでダイブしたら死んだように見えまス」 「って、そんなことしたらアルジャーノが、」 「俺が魔法を使って助けてもいいが、死なない自信はあるんじゃないか?」 そうでなければ提案しないだろうとクロスフォードに問われ、勿論でス、と拳を作る。 「すごい力技だし、そうしたらウォーノは確かに解放されるだろうけど。ウォーノの年でそれをしたら、後の生活が困らないか?」 「資金なら宝石は吐けますヨ?」 何なら今すぐと鉱物を探しに行きかけたが、何か怖い予感がするからやめてーっとウォーノに止められる。 「いやいやいや、お金も大事だけど、そうじゃなくてさ」 「確かに、この年で能力も封じて一人で生活しろと言うのも酷だろうな」 かといって0世界には連れていけないだろうし、と二人が悩んでいると、ウォーノが大丈夫だよと頼りなく笑った。 「僕は別に街の皆が嫌いなわけじゃない……、ここに一人でいる理由も分かったから、逃げたいわけじゃないよ」 逃げたいわけじゃないと繰り返し言い聞かせるように呟いたそれは、意図してそうしたのか無意識かは分からないがウォーノの中で本当になる。 複雑な顔をした二人から視線を揺らしたアルジャーノは、ウォーノの視点からでは何だかやけに高い気がする天井を見上げた。 誰もが言葉を探して沈黙が横たわったところに、塔の中には不釣合いな鳥の鳴き声が届いて顔を巡らせた。 「ウォーノ」 階段を下りきったところで彼女が柔らかく呼びかけた名前に、神官がはっとしたように顔を向けてきた。同じ姿をしていたアルジャーノはぐにゃりと形を変え、ここを訪ねて来た時のように銀髪銀目の青年に戻っている。 「ウォーノ!」 「それは、あなたの名前なんでしょう?」 呼びかけて抱きついてきた少年を抱き止めたアリアの言葉を小夜が通訳すると、彼女は少年の髪を撫でて目線を合わせた。 「改めて言わせてね。怪我を治してくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう」 微笑んで丁寧に礼を述べるアリアに、神官は頬を上気させて力強く頭を振った。 「ウォーノが元気になったら、それでいいよ! もう痛くない? 大丈夫?」 「ええ、もう大丈夫。──だから、ごめんね」 神官の頬に手を当てて辛そうに謝罪したアリアに、神官もはっとしたように身体を離した。 他の三人が彼に能力の話をしている頃から、口は挟めないままも階段の上で話は聞いていた。彼が一人でいる理由を知ってアリアは苦痛そうに胸を押さえたが、小夜が恐れたようにここに残るとは言い出さなかったから。神官が顔を曇らせるのは、アリアにも予想できていた事だろう。 「……出て行くの?」 「ごめんなさい、あなたを……、置いて行く事になるけれど」 私はここにいてはいけないみたいなのと悲しげに笑ったアリアに、神官は彼女の服をぎゅっと捕まえて泣くのを堪えたように眉根を寄せたまま見据えた。 「……言えばいいのかな。言った事が本当になるのが、僕の力なら」 言えばきっと、とアリアを見据えたまま声を震わせた神官に、小夜たちは慌てて目を見交わした。 (ここにいろって言われたら、皆ここにいることになっちゃうの!?) 有効範囲を出れば別かもしれないが、でも神官が彼女を離そうとしなければ? 無理やり引き剥がさなければならないのだろうかと不安を募らせていると、神官が口を開いた。 「きっと、故郷に帰れるよ。絶対、ウォーノは一人にならないよ。一杯、幸せになれるよっ」 だって僕の助けたウォーノだから、と涙を溜めたままも笑顔になって言祝いだ神官に、アリアは静かに涙を落とした。 「ありがとう……、ウォーノ。私の小さな恩人さん」 「ウォーノ……、僕の事、忘れないで。忘れないで……っ」 ぎゅうとアリアの首筋に抱きついて縋る神官の横をそうっと通り、小夜は一緒に来た三人の側に寄った。 「一人で任せてごめんな、黒葛。助かったよ」 「ううん。……いい子だね」 「いい子でス。光の下デ、愛されてほしいですネ」 「ここに残ると決めたのも、あいつの選択だろう。ちゃんと彼女を言祝げたんだ……、この先もうまくやれるはずだ」 そう祈ると目を細めて二人を見ていたクロスフォードは、それはそうと、とちらりと横目で小夜を見下ろした。 「そのセクタン、いつから鳥を生やした?」 「あ。神官さんにと思って」 神官を一人残してしまうと辛く思っていた彼女に小夜が提案したのは、彼女の羽とよく似た白い羽を持つ鳥を探しに行く事だった。人が側にいるのは許されなくても、鳥なら許されるのではないかと思ったのだ。 その提案をとても喜んでくれたアリアと一緒に窓から外に抜け出して、この小さな白い鳥を探し出した。アリアは鳥と心を通わせる事ができるらしく、自分の代わりに神官の側にいてほしいと頼んで連れてきたのだ。 クロスフォードの問いかけで思い出したのだろうアリアは、小枝の頭にちょんと乗っている鳥を見て、そっと手を出した。ちちち、と高い声で鳴いた鳥はアリアの指先に飛び移り、神官を窺うように小首を傾げた。 「この子も、森で一人でいたの。ウォーノの側に、いさせてくれる?」 「……鳥」 「アリア、よ」 「アリア」 呼ぶと答えるように鳴いた鳥に、神官は大粒の涙を落としながら無理に笑った。 「うん。アリアも僕が守るよ」 絶対と儚い約束をしゃくり上げながら交わす神官を抱き寄せて、アリアはありがとうと繰り返した。 「っと、まずい。街の人がこっちに来そうだ」 セクタンの空の視界に人影を見つけて光太郎が声をかけると、誰より早く反応したのはウォーノだった。ごしごしと顔を擦って涙を拭い、 「行って。僕は平気だから。あ、でも護符だけ欲しいな。貰ってもいい?」 「ああ、構わない」 元より渡す気で用意していたのだろう、何枚かの札を取り出したクロスフォードは手渡しながら説明を加えている。 「これはあくまで、能力を制限するだけだ。お前の力の程を分かっていないから、どこまで効果があるとは言えないが」 「ここからは僕がすべき事だよ、ありがとう」 涙の跡が残る顔でそれでも健気に笑ったウォーノは、早く行ってと羽を持つ女性に声をかけた。名残惜しく振り返っていた彼女はその言葉に押されたように、塔を出て行く。 空と視界を共有しているからとしんがりを請け負った光太郎は、最後に塔を出て振り返った。一緒にと伸ばしたくなる手をぐっと堪えていると、ひどく大人びた様子で声をかけられた。 「ウォーノを、無事に連れて帰って」 「ああ、約束する」 「……うん。皆には見つからないよ、大丈夫」 だから行ってと促され、足が自然と塔を離れる。振り返らないでの言葉は有効範囲を出ていたから逆らう事もできたが、そう告げるウォーノを思うと振り向けずに足を進めるしかなかった。 少し先で足を止めていたアルジャーノは、隣に並ぶのを待って覗き込むように窺ってきた。 「気になりますカ?」 「それは、まぁな」 「だいじょうぶ、だよ」 きっと、と黒葛が呟くように言うと、大丈夫ですよと隣を歩く女性も頷いた。肩越しに見える二人ともの顔は晴れやかではなかったけれど、不安に蝕まれている風でもない。 断言に何の根拠もなくても大丈夫と笑ったウォーノの言葉が耳に残るから、振り返るのをやめて大きく頷いた。 塔に残る神官の傍らには鳥が一羽、慰めるように時折ちちちと鳴く声だけが届く。
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