彼女の名は小紫薫子(こむらさき かおるこ)という。職業はスナックのママだ。正確には、頭に「元」を付けるべきだろうか。「辛いわよねえ。分かるわあ、アタシも家族とは色々あったものぉ」「何かよ、しわしわで猿みたいなツラしてんだけどよ。可愛いの何のって」「一度きちんと話し合った方がいいわよぉ。お父様も引っ込みつかなくなってるかも知れないしぃ……歳取るとねえ、頑固になるのよぉ。コドモになるの。ここはアナタが一歩引いてあげてみせたらあ?」「女の子って聞いた時は青ざめたよ、俺に似たらどうしようって。でもカミさんにそっくりでよ、ほんっと安心したわ」「そうそう、笑って笑って。楽しいから笑うんじゃないのよぉ? 笑うから楽しいのよぉ」 現在、薫子はヴォロスの酒場で腕を振るっていた。ディアスポラ現象でヴォロスに転移したところを親切な現地人に拾われたのである。もちろん言葉は通じていない。よって会話も噛み合っていない。「ンン、ボトル入れましょうかぁ? 定価は一万ピチクだけどぉ、今日は九千ピチクでいいわよぉ」 彼女の頭で、紫色の冠羽が膨らんだ。「何で保護せなあきまへんの。ほっといたらえええですやん、楽しくやってるんでっしゃろ? へ? そらそうでっけど……。ああハイハイ、分かりましたがな。ぐぬぬ、なんでわしが」 バックヤードでコザクラインコがギイギイと騒いでいる。集まったロストナンバー達が首を傾げていると、ようやくコザクラインコこと世界司書ホーチが姿を現した。「ロストナンバーの保護お願いしますわ。場所はヴォロスの酒場。これ地図。あとチケット」 不機嫌なホーチは地図とチケットを押しつけてよこした。「ヴォロスの酒場のオヤジに拾われてママみたいなことやってますねん。人気者らしいでっせ、奴ら見た目だけは可愛いでっさかいな、見た目だけはな。いっそ虫取り網か何かで捕まえて連れて来てもええでっせ。……ン? ターゲットはオカメインコですわ。六歳の。冠羽が紫なんは……染めとるんでっしゃろ。紫はおばちゃんの定番でんがな」 グラスが陽気に鳴る。ろれつの回らぬ笑い声が上がる。汗と酒、そして活気。カウンターの上に陣取った薫子は上機嫌で店内を睥睨した。「やっぱりアタシはこういう場所にいないとねえ」「ありがとうよ、ピーちゃん」 酒場の店主が薫子の頭を撫でる。「今日も大人気だな。ピーちゃんのおかげで千客万来だ、がっはっは」「ンン、やっぱりみんなのことも心配だしぃ。受け止めてあげたいじゃなぁい? アタシくらいのおばちゃんのほうがねえ、安心感を与えるっていうかあ」「……うぜえ」 戸口から様子を窺っていたロストナンバーが呟く。耳聡い薫子が聞き逃す筈がなかった。「あらぁ、新しいお客様。いらっしゃいませぇ~」
【傍目八目(おかめはちもく)】 局外者の方が、当事者よりも物事の真相を見分けられること。はたで囲碁を見ていると、打っている人より八目も先を見越す意から。 ◇ ◇ ◇ オカメインコが鳴いた。と思ったら、正体は玖郎の声真似だった。薫子は付け睫毛をばさばさとさせながら「あらあ」と目を細めた。 「この声、久々に聞いたわあ。お兄さん、お上手ねえ」 さっそく気を許したのか、オカメインコはよたよたと玖郎の元に近寄ってくる。カナリアよりなお澄んだ黄色の体と、両頬の赤いまんまる模様。典型的な、よく見かけるタイプのオカメインコだ。――紫色の冠羽と肥満した体躯を除けば。 「おまえはまなこが赤いのだな」 「ルチノーなのぉ。綺麗でしょお?」 「その体でとべるのか。自重で羽軸がおれるのではないか」 「やあだもお、ただの肥満じゃないのよお。熟女の年輪よお」 「ねんり……ん?」 黒葛小夜がためらいがちに首を傾げる。小夜に目を留めた薫子は再び「あらあ」と睫毛を上下させた。 「可愛らしいお客様だこと。いけないわあ、嬉しいけどいけないわあ。ここは爛れた大人の社交場よお?」 「あ、えと、あの……パパとおじいちゃんに誘われて」 「ほ。おじいちゃんとな」 小夜の渾身の機転にジョヴァンニ・コルレオーネが静かに相好を崩した。 「どれ、お近づきのしるしボトルを一本入れようか。そこの棚の左端の物を。お美しいマダム、お隣よろしいかね?」 「あらあ、お上手ねえ」 薫子は早速カウンターから飛び降り、ジョヴァンニの隣に陣取った。テーブル席の酔客たちがちらちらと視線を送ってよこす。ロマンスグレーの髪を品良く撫で付け、上等な三つ揃いに身を包んだジョヴァンニはこの大衆酒場には似つかわしくない。おまけに小夜は少女だし、玖郎も玖郎で気分良く酔っ払うようには見えず、まあ、ありていに言えば三人は浮いているのだった。 酒場の親父が滑らかな手つきでボトルのラベルをカットする。小夜にはワイルドベリーのソーダ割りが供された。 「お客さんたち、言葉が通じるのねえ? 嬉しいわあ、ここに来てからずうっと言葉が不自由だったものだから。あ、ほら、お嬢ちゃんも遠慮しないでえ。ジュースだから大丈夫よぉ」 「……ぴりぴり……」 グラスを抱えるようにして口をつけた小夜はうっすらと涙ぐんでしまった。異世界の炭酸は壱番世界の物より刺激が強いようだ。薫子は慌てて羽をばさばさとさせた。 「あららっ、ごめんなさい。作り直すわねえ、ちょっと、マスタ~あ」 「そういえば、ぱぱとは何だ。おれのことか」 玖郎だけが首を傾げていた。 ソーダ抜きのジュースを舐め、小夜がコンと咳をした。ロストナンバーとはいえ少女は少女、煙草や酒のにおいには不慣れらしい。 「大丈夫かね」 と気遣うジョヴァンニに小夜は「うん」と肯いた。 (インコさんを頑張って説得すればいいんだよね) 知らず、両腕に力がこもる。抱き締められたセクタンがキュウと鳴いた(?)。 「お兄さん、飲まないのぉ? 上物よお」 「おれは水か白湯をしょもうしたい」 玖郎は相変わらずだった。しかし――鳥どうしであるせいか――、鉢金の下の眼差しはどこか穏やかだ。 「あらそお? 欲がないこと。代わりに何か召し上がりますう?」 「肉がよい。味つけはいらん」 「お兄さんってば肉食男子なのお? どうしましょ、アタシ用のドライフルーツならあるんだけど……」 ぴこぴこと上下する冠羽を鉢金の目がじっと見つめている。 「鷺たちとはまた違う、立派な冠羽だな。羽繕いはすきか」 「待ちなさい、お若いの」 薫子へと伸ばされた玖郎の手をジョヴァンニが紳士的に押さえた。 「女性はからくり箱と同じじゃよ。しかるべき手順でしかるべき場所に触れねば蓋を開かせることはかなわん」 「この者は箱ではなかろう」 「えっと、喩えだと思うよ……パパ」 「まあ見ておれ。伊達に歳ばかり食っておるわけではないからの」 ジョヴァンニはモノクルの下の目を軽く瞑ってみせ、薫子に向き直った。 「ずいぶん繁盛しておるようで何より。マダムはやり手なんじゃね」 アルコールは良くも悪くも感情を増幅させる。事実、奥の円卓から漂ってくるのはどら声ばかりだ。だが、お世辞にも上品とはいえぬ喧騒にジョヴァンニは穏やかに目を細めた。 「アタシのせいじゃないってばあ。マスターと、みんながいい人だからよお」 「それはそうじゃろうが、マダムの力も多分にあると思うがね……それとも、この老いぼれの見る目を信用できんかな?」 「おじ様ったらあ」 朗らかに笑う薫子を横目に、小夜はそっとグラスを置いた。伏し目がちの視線の先にはボトルを磨く店主の姿がある。 「あのー……マスターさん」 「おかわりか?」 「あ、はい」 小夜はついグラスを差し出してしまった。 ルビーのように鮮やかで、アメジストのように深いジュースがグラスに注がれる。 「あのー……マスターさん」 こくりと一口含んでからおずおずと目を上げた。 「薫子さ……じゃなくて、ピーちゃんはそんなに人気なの?」 「まあな。ここらじゃちょっと見ねえ鳥だろ? ピーちゃん見たさに隣町からもお客が来てくれるんだぜ」 店主は得意そうに鼻の穴を膨らませる。しかし小夜はわずかに目を曇らせた。 (多分、薫子さんは元の世界と同じ気持ちで店にいるんだろうけど……) ママというよりマスコットやペット、更に言えば客寄せパンダだ。 「ピーちゃんさまさまだな。これからもずーっといてくれよ」 小夜が考え込んでいる間にも店主がわしわしと薫子の頭を撫でる。薫子も気持ち良さそうに目を細めている。 「仲良しさんなんだ……じゃあ無理矢理連れてっちゃ駄目だよね……」 小夜の呟きはグラスの水面に落ち、溶けた。 意見を求めて隣席に目をやれば、玖郎が寡黙に白湯をやっつけている。体に沿って畳まれた翼、その赤褐色の羽が不自然に膨らんでいた。人が多くて居心地が悪いだけなのだが、小夜がそれを知る由もない。鉢金に隠された表情は読み取れず、猛禽めいた――事実、猛禽なのだが――精悍さと相まって、小夜の目にはひどく取っつきにくく映った。 「ねえパパ」 それでも勇気を振り絞って声をかけた。 「薫子さんのことね、みんなを悲しませないように、ちゃんと分かってもらった方がいいんじゃないかなって思うの。どういうふうに話せばいいかな」 「ぱぱとは何だ」 焦点はそこではない。 「お父さんってことだよ。父親」 そう告げた途端、玖郎の唇が珍妙な表情を作った。 「……何かの間違いではないのか。天狗の子はみな雄だ」 「あのね、えっとね」 「やだもう、おじ様ったらあ。ボトルは八千ピチクにまけちゃうわあ~」 説明に手間取る小夜の後ろで呑気な笑い声が響いている。薫子を独占するジョヴァンニは微笑を崩さずにグラスを置いた。 「こんなに楽しい酒は久しぶりじゃ」 アイスブルーの瞳がうっすらと濡れている。酒に呑まれるジョヴァンニではない。彼が酔うとしたら、もっと美しく、遠いものに対してだ。 「大丈夫? ペース速いんじゃなあい?」 薫子が嘴で器用にハンカチを操りながらグラスの汗を拭いてくれる。そのさりげない気遣いが、ジョヴァンニの脳裏で別の女と重なった。 「ありがとう、マダム」 グラスにそっと手を伸ばす。薫子の冠羽がぽっと膨らんだ。薫子の羽先にジョヴァンニの指が触れたのだ。 しかし紳士は拙速な真似はしない。微笑みで偶然を装い、何事もなかったようにしてグラスを傾ける。琥珀色の蒸留酒が喉を滑り落ち、胃の腑に心地良い熱が灯った。 「マダムを見ていると妻を思い出すの」 「思い出す……って?」 薫子は半ば察した様子で首を傾げた。 「そうじゃよ。妻は亡くなった、ずいぶん前に」 「ほんとのパパじゃないことは知ってるよ。わたし、おうちにはほんとのパパとママとお兄ちゃんがいるもん」 「しかしおれもぱぱなのだろう? ならばおまえは託卵で生まれたのか?」 「それはそれは美しく優しく心清き女性じゃった。ただ、美人薄命とはよく言ったものじゃな。妻は病気がちでの」 小夜と玖郎のやり取りを背に聞き、ゆっくりと思い出を紡いでいく。 『綺麗に咲いたわ』 瞼の裏で、薔薇が綻ぶように妻が微笑む。 「子宝を授かることはできたが、産後すぐに病床に就いてしまった」 『綺麗……』 黒と白の薔薇を眺めながら妻が微笑んでいる。 「それでも、死ぬまで一途にワシを支えてくれた……」 湖のような瞳が、ほんの少し波立つ。風に撫でられた水面のように。 さざなみがゆっくりと広がっていく……。 湖水地方に佇む古城。中庭の薔薇園を歩く若い夫婦。ジョヴァンニが妻に声をかければ、妻は優しい微笑を返す。脳裏をよぎる思い出はサイレント映画のように遠く、美しい。 「おじ様」 黄色い羽が手の甲の上に重ねられ、ジョヴァンニは静かに我に返った。 「ああ……済まんね、辛気臭い身の上話を聞かせて」 薫子の気を引いて説得の糸口にするつもりが、いつの間にか深い回想に身を委ねてしまっていた。 「ねえおじ様。この世でいちばん美しいものが何か、ご存じ?」 「ほう?」 「亡くなった人との思い出よお」 薫子は冠羽を揺らしながらギケケケケと笑った。 「んもう、ずるいんだからあ。今生きてる誰かは亡くなった相手には絶対に届かないのよお、土俵が違うんだものお。だって、亡くなった人は時間と共に心の中でどんどん美しくなっていくでしょお? 聖域になっていくのよお。そんな人と重ねられたら、アタシは嫉妬するしかないじゃなあい?」 「……ほ。これは一本取られたの」 ジョヴァンニは好意的な苦笑いをこぼした。 「つまり託卵ではないのだな」 「うん……そうだよ」 こちらもようやく決着がつきそうだ。説得に取りかかるには良い頃合いだろうか。 「よう色男。ピーちゃんを独り占めか?」 「新参のくせに生意気だな」 そこへ酔客たちがどやどやと割って入った。 男たちに囲まれ、玖郎はわずかに身じろぎをした。人込みは苦手なのだ。 (どうしよう) 小夜はまごまごと目を揺らす。乱暴な言葉とは裏腹に、飛び交うのは陽気な笑い声ばかりだ。しかし輪の中心で笑う薫子の姿に胸がきゅっと痛くなる。 ひどく楽しそうなのだ。言葉は通じず、会話も全く噛み合っていないというのに。 「見ねえ顔だが、どっから来たんだ?」 「名もなき異国から……とでも言うておこうかの。マダムの噂を聞きつけて馳せ参じた次第じゃ」 男たちの中で、ジョヴァンニはそつなく振る舞っている。 「綺麗だろ、ピーちゃん。この黄色、見てるだけで和むのよ」 「本当に美しいものじゃ。つい連れて帰りたくなってしまうよ」 「お? そんなこたぁさせねえぞ?」 男がおどけて腕まくりしてみせる。 「あのー……薫子さん」 小夜は思い切ってオカメインコの尾羽を引っ張った。 「どうしたのお、お嬢ちゃん。おかわり?」 「あ……はい」 「ちょっと、マスタ~あ」 三杯目のジュースが注がれる。小夜は律義に口をつけ、「けぽ」とげっぷをした。お腹が水分でたぷたぷだ。しかし頑張り屋さんの小夜はめげない。 「あのー……薫子さん。言葉のこと、気付いてる?」 「あらっ」 紫色の冠羽がぽっと膨らんだ。 「ンン……そうねえ。アナタ達はアタシやみんなと話せるのに、アタシはアナタ達としか話せないわあ。不思議よねえ」 「あのね、薫子さん」 小夜はさらさらの黒髪を揺らしながらちょこんと姿勢を正した。 「わたしたち、薫子さんとおんなじなの。だから迎えに来たの」 「ええ?」 「あとね、このお店で暮らすならママさんとしての生き方はできないかもしれないな……って。ピーちゃんって呼ばれて可愛がられて、何だかペットみたいだな……って」 「ピーちゃん? やあだ、アタシそんな名前じゃないわよお」 薫子の冠羽がぶわっと広がった。 「でも、薫子さんもみんなもとっても楽しそう。言葉や種族が違っても通じるものってあると思うの。ここにいるかどうかは薫子さんが決めればいいって思うの。その前に……色々、伝えなきゃいけないこととかあって……」 お人形さんのような小夜のおもてにぎゅっと皺が寄った。世界図書館。覚醒。ロストナンバー。消失の運命……。どこからどう順序立てて話せばいいのだろう。 その時、沈黙を保っていた玖郎がずいと薫子に手を伸ばした。 「あら、あらあらあらあ? ちょっと、お兄さんてば」 武骨な指で首周りを掻かれ、薫子は頭を傾けながら羽毛を膨らませる。 「いいわあ、お兄さん。もうちょっと左……」 「おまえは己が異質であることを知っているか」 「あ、も少し上……そうねえ、言葉のこともあるし……一体どうしちゃったんだろうとは思ってるけどお……」 気持ち良さそうに目を閉じながら、じっと考え込むそぶりを見せている。 「そうだわあ。アタシ、どうやってここに来たかよく覚えてないのよお」 「今のこれは正常な状態とはいえぬ。何をもって正常とするかはともかく、おまえにとってもこの土地の者にとっても好ましい状態ではないのだ」 「何だって?」 「いくらお客さんでも聞き捨てならねえな」 酔客と店主が声を尖らせた。 「俺らにとっても好ましくないってなあどういうこった。ピーちゃんに会うのを楽しみにここに通ってるってのに」 「その通りだ、お客さんも喜んでくれてるんだよ。いきなりよそから来てピーちゃんを連れて行くなんて乱暴すぎやしねえか?」 「えっと……あの」 小夜は助けを求めるようにカウンターを見やり、目をぱちくりさせた。 ジョヴァンニの姿がない。 玖郎は薫子の羽繕いを続けながら思案していたが、やがて厳かに口を開いた。 「……この者はとおくはなれた地より迷い込んだガイライシュだ」 「えっ」 と声を上げたのは小夜だった。 「ああん? 何だ、ガイライシュって」 「人づてにえた知識だが、たとえばブラックバスとやらだ」 「ええ……」 と眉尻を下げたのも小夜だった。壱番世界人から教わったのだろうが、恐らく玖郎自身はあまり理解していない。 「おれたちはそのようなガイライシュをいったん保護し、あるべき場所へもどす活動をしている」 「何だ。野生保護団体か?」 「ガイライシュによってその地のセイタイケイが乱され、環境が破壊されることもある。おまえたちは猟や漁をするか。未知の動物がショクモツレンサに影響をあたえ、えものが姿を消すといえば伝わるか。それに、ガイライシュ自身が環境に適応できずに死にいたることもある」 「ええっ!?」 玖郎の手の中で、薫子の冠羽が扇のように広がった。 「それだけではない。このところ、我々とは似て非なるものが跋扈している」 世界樹旅団のことだろうと小夜は見当をつけた。 「かれらは強引にガイライシュを捕獲または駆除し、その妨げとなる者も排除する。すなわち、ガイライシュを擁する者にも容赦しない」 薫子も皆も同等に危ないのだと暗に迫られ、男たちは瞬きを繰り返した。 「待て……待て待て。何だそりゃ。わけが分からねえ」 「済まぬが、つまびらかにはできぬ」 「それじゃ信用できねえ」 「ならば論をかえる。特定のいのちのため他のいのちを瑣末とするはいきものの常だ」 ギイー! 唐突に、金属的な鳴き声が響き渡った。沈黙を保っていた薫子だった。 「薫子さん……」 小夜が薫子をそっと抱き上げる。薫子は付け睫毛をばさばさとさせながら呆けたように小夜を見上げた。 「ごめんなさい。ごめんなさい。お兄さんたちがアタシのために来てくれたことは分かったわあ。でも……。ごめんなさい、ちょっとだけ、ちょっとだけ考えさせて。お願いよお……」 「……おれは、これが詭弁ではない証をもたぬ。ゆえに判断はまかせる」 玖郎は静かに告げた。 「なにもしらずにゆくのでなければ、それもよい」 己のいのちをどう使い、どう終わらせるかは自由だろう。脅しめいてはいるが、玖郎なりの優しさだった。 カウンターの奥に引っ込んだ薫子は羽毛をしっとりと濡らして帰ってきた。 「ンン、ごめんなさいねえ。ちょっと水浴びをしてすっきりしてきたのよお」 「おや。水の滴るいい女……と口にするべきではなかろうかの、今は」 紙袋を手に戻ってきたジョヴァンニはすべてを察したように薫子の隣に腰かけた。 玖郎は奥の円卓へと移った。何やら男たちと話し込んでいるらしい。翼の羽毛は相変わらず膨らんでいる。 「マダム。伝えなければいけないことがある」 ジョヴァンニは静かに薫子を見つめた。 「もう聞いたかね、マダムはワシらと同じじゃと」 「……はい」 薫子はしおらしく肯いた。玖郎の言葉で打ちのめされたことが却って効果的だったようだ。 「ロストナンバーっていうの」 小夜が躊躇いがちに説明を加えた。消失の運命についても。 「……そういうことだったのねえ。アタシ、気付かなかったけど……ううん、何かおかしいとは思ってたわあ。でも、楽しいからあんまり考えないようにしてたのお。こういう時って、外の人の言うことの方が的を射ているものよねえ」 「ターミナルっていう場所に、わたしたちみたいな人がいっぱいいるの。薫子さんは沢山の人とふれあってきたんだよね。ターミナルにもね、そういう鳥さんのカフェがあるよ。自分でお店を持っちゃう人もいるし。薫子さん、きっとママさんとして活躍できるよ」 小夜が真剣に、懸命に考えた言葉だった。若干たどたどしいのはご愛嬌だ。 「それにね、寂しかったり不安がってたり、色んな人がいるの。けいけんゆたかなママさんが来てくれたらみんな喜ぶんじゃないかなって思うの」 「その通りじゃ。ロストナンバーとは元の世界から放逐され居場所を失った者たち。友・家族・恋人……それぞれが喪失を経て心に空洞を抱えておる」 ジョヴァンニは滑らかな琥珀色をゆっくりと口に含んだ。 「この土地の人々がマダムを必要としているのと同等に……否、もしかしたらそれ以上に、旅人は貴女を必要としておる。ワシが亡き妻の面影を重ねてしまったように。貴女の真心と接客でなら長旅に倦み疲れた彼等の心も癒せるはずじゃ。道に迷った孤独な旅人達のオアシスとなってはくれんかね」 奥の円卓で荒々とした声が上がった。酔客たちの前で、羽を膨らませた玖郎がとつとつと説得を続けている。彼は鳥が絡むと親身だ。 「……どうしたいか、薫子さんが決めて。ここにい続ければ再帰属できるかも知れないし」 カウンターの中で、グラスを磨く店主がさりげなく聞き耳を立てている。 薫子は分厚い睫毛を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。 「……迷うわねえ。アタシ、お嬢ちゃんもおじ様もお兄さんも好きよお? でもここのみんなのことも――」 「話は分かったぜ。いや、よく分からねえが分からなきゃなんねえってことは分かった」 そこへ円卓の男たちが割り込んできた。 「だがよ、はいそうですかって見送るわけにゃいかねえな」 「ほう」 ジョヴァンニはゆっくりと立ち上がり、凛と背筋を伸ばした。指を鳴らす彼らの姿から事情を読み取ったのだ。 「マダム薫子はワシが連れて行く。どうしても渡さんというのなら……」 手にした黒檀の杖を半ばまで引き抜く。男たちは息を呑んだ。杖から現れたのは氷のような光――研ぎ澄まされた仕込み刃だ。 「もう終わりかね。マダムへの気持ちはその程度かの?」 「やめてえ!」 薫子がよたよたとジョヴァンニの腕に抱きついた。 「行くわ、アタシ、行くわ。そこまで求められるなんて、女冥利に尽きるものお」 「雌はより強い雄をえらぶものだ」 玖郎がぼそりと呟いた。 「物騒な真似をして済まなかった」 仕込み杖を収め、ジョヴァンニは一転して柔和に微笑んだ。 「マダム。ターミナルでは多くの人々が貴女の癒しを必要としておる。もちろんこのワシも」 恭しく薫子の手(羽)を握り、紙袋から取り出すのは黄色い花束だ。 「本当は薔薇が良かったんじゃがの……決まりごとがあって、向こうの世界の物を持ち込むことはできなんだ。黄色はマダムの色で、幸せのハンカチの色。プロポーズのようで気恥ずかしいが、どうか受け取って欲しい」 「ンまあ!」 溢れんばかりの花々に冠羽がぶわっと立ち上がった。見開かれた大きな目がジョヴァンニの脳裏で別の瞳と重なる。知らず、手(羽)を握る手に力がこもった。 「この温もり、久しく忘れていたよ」 刹那、目を伏せる。涼しげな瞳を濡れた膜が覆う。 「ワシと共に来てくれるね、マダム。マダムがターミナルに店を構えてくれるなら一番高いボトルを予約しよう」 「……おじ様……花束、大きすぎるわあ……」 付け睫毛の縁で涙が光った。 「ピーちゃんは本当は薫子っていうんです。うちの子なんです。うちから逃げたから探してたんです。その証拠に、この紫の羽は染めてるんです」 「は? だったら最初からそう言えばいいだろ」 「えっと……みんな楽しそうだから、言いづらくて。ごめんなさい」 「……そうなのか。こっちこそ悪かった」 小夜の渾身の機転に店主は渋々納得した。 「この者らにつたえたいことはあるか。おれが仲介してもよいが」 玖郎が声をかけるが、薫子は静かにかぶりを振って男たちに告げた。 「――みんな、ありがとうねえ」 「元気でな、薫子ちゃん」 「楽しい時間をありがとうよ」 次々と、言葉が通じているかのような答えが返った。 薫子がターミナルの片隅に『止まり木』というスナックを構えるのはもう少し後のことである。 「開店祝いじゃ。今度こそ薔薇を受け取っておくれ」 真っ赤な薔薇の花束を手に来店したのはジョヴァンニだ。 「ンまあ、おじ様ったらあ。キュンとしちゃったわよお」 「しかし……マダム。もう少し洒落た店でも良かったのではないかの」 良く言えばカジュアル、悪く言えば場末のスナックのような店内に苦笑いがこぼれる。 「ンン、おしゃれな場所だと身構えちゃうでしょお? 寛いでほしいものお。ああそこそこ、もっと右……」 「すなっくとは何だ。塩からい茶菓か」 「えっと、お酒を出すお店のことだよ」 薫子の首回りを掻いてやる玖郎と、ジュースを楽しむ小夜の姿があった。 (了)
このライターへメールを送る