0世界の片隅に森のチェンバーが建っています。鬱蒼として、昼間でも暗く、訪れる人もいないような深い森でした。 けれども、森の奥には洋館が隠れています。館にはたいそう美しいお姫様が住んでいるという噂です。会ってみたいのなら館主の招待をお受けなさい。くれぐれも勝手に森に入らないように。森は迷路のように複雑ですから、招待状に付いてくる地図がなければ迷子になってしまいます。 どうやったら招待されるのか、ですって? 誰も知りません。だあれも、ね。 『愛らしいリトルレディ ぜひ私どもの館へお越し下さい。 我が姫は寂しがり屋で、心からの友を欲しておられます。 甘いお菓子に芳しいお茶、とびきりのティーセットも用意いたしました。 我が姫とともに夢のようなひと時を。 ――姫に侍るPより 追伸 どうぞ軽装で、お一人で、どなたにも内緒でお越し下さい』 黒葛小夜は招待状を手に、ポシェットを下げて森の迷路を辿っていました。周囲は不気味に仄暗く、土も風もねっとりと湿っています。濃い緑がざわざわと騒ぎ、陰気にくねった枝は魔女の腕みたいに迫ってきそうです。 本当のことを言うと、小夜はちょっぴり怖がっていました。けれども、孤独なお姫様のことが心に引っかかっていたのです。 「どうも、こんにちは」 森を抜けると無精髭の男が出迎えてくれました。分厚い胸板、なめし皮のチョッキ、腰には短剣、背中には猟銃。まるで童話の狩人です。 「こっちにどうぞ」 狩人はぼそぼそと言いながら背中を向け、小夜は慌ててついて行きました。蔦の這う洋館はすぐそこです。 玄関扉が軋みながら開いていきます。 「うわあ」 瑞々しい観葉植物。可憐な花々。色鮮やかな小鳥……。エントランスいっぱいに、様々な色彩が集められているのです。小夜は階段の手すりに止まった小鳥に駆け寄りました。鳥は作り物でしたが、今にも首を傾げながらさえずり出しそうなほどでした。 「鳥さん、綺麗。剥製かな」 鳥は答えません。ガラス玉の瞳で小夜を見つめるばかりです。 「剥製だな。死体だ」 不意に別の男の声が聞こえました。エントランスの奥に、カメラを携えた由良久秀先生が立っています。由良先生と小夜は、小夜の兄のアルバイト先で知り合ったのでした。 「先生も招待されたの?」 「仕事だそうだ」 由良先生は招待状を見せてくれました。やはり『姫に侍るP』という署名が添えられています。ぜひ写真を頼みたいと繰り返す文面は丁寧で、情熱的でした。 エントランスは円形で、吹き抜けです。マホガニーの階段がどっしりと聳え、二階にはいくつもの扉が備え付けられています。二人に気付いたのでしょうか、扉が開いて男の客が顔を出しました。 「おや。新しいお客さんかね」 「客だと? 何しにきやがった、クソ」 「ああ、お客だ。嬉しいな」 「ふああ……うるさいなあ」 「こ、こんにちは。うう、恥ずかしい」 「ようこそ。ハックション!」 「んー? 誰ー?」 男たちが次々と現れ、階段を下りて来ます。七人の男に囲まれた小夜は目をぱちくりさせました。 「あの。お姫様って……」 狩人に問いかけた時、 「ようこそ」 鈴を転がすような声が響きました。 ドレスの裾をつまみ、幼いお姫様が階段を降りて来ます。雪のように白い肌、血のように赤い唇、黒檀のように艶やかな黒髪。ドレスは肌と同じ純白で、スカートも袖もロマンティックに膨らんでいます。七歳くらいでしょうか、とても綺麗で、人形のような姿をしているのでした。 「女の子のサヨちゃんと、写真家のユラ先生? どうぞよろしくね」 お姫様は血色のないほっぺで微笑み、かくりと膝を曲げて挨拶をしました。小夜は息を呑み、由良先生は黙っていました。小夜も先生もぞっとしていたのです。お姫様が美しすぎるからでしょうか。彼女の姿が、マネキンみたいに完璧に整っているからでしょうか。 「白雪姫です」 狩人がぼそりと教えてくれました。 食堂の入り口で招待状が回収され、お茶会が始まりました。 狩人は寡黙に、使用人のように働きました。巨大な切り株で作られたテーブルに九人の客が着き、それぞれにお茶とお菓子が配られます。小夜は「いただきます」とカップに口をつけました。が、湯気を立てる紅茶は熱く、つい悲鳴を上げてしまいました。 「大丈夫?」 白雪姫が心配そうに小夜を覗き込みます。小夜は小鳥が震えるように肯きました。こんなに間近にいるのに、どうして白雪姫と目が合わないのでしょう。白雪姫の目は剥製の小鳥みたいです。まるでガラス玉のようです。 「口に合いませんかね」 狩人は不機嫌そうに由良先生に尋ねました。というのも、先生はじっと腕組みをしたままなのです。 「お上品なのは趣味じゃない」 「上品も何も。ただ食べるだけでしょうが」 「客に無理強いするのか?」 「そんな言い方しないで」 白雪姫がそっと眉を顰めます。ああ、なんて美しい表情でしょう。けれど、由良先生はあからさまに舌打ちしました。 「だったらあんたが毒見してみせろ。あいつ、やけに眠そうじゃないか」 由良は男客の一人を顎でしゃくりました。その男はこっくりこっくりと舟を漕いでいます。 「無礼だぞ。あいつは元々眠たがりなんだ」 別の男が怒りながらテーブルを叩き、他の男たちも一斉に肯きました。小夜だけが首を傾げました。男たちの目は、お酒に酔った大人のように妖しく潤んでいるのです。 眠たがりの男はとうとう椅子から転げ落ちてしまいました。 「大変。お部屋に戻らないと」 白雪姫がすかさず彼を助け起こし、退出します。他の男たちから羨望と嫉妬の溜息が漏れました。狩人も熱っぽい眼差しで白雪姫の背中を舐め回しています。一人、由良先生だけが「馬鹿馬鹿しい」と席を立ちました。 「座っててもらえませんかね」 狩人が立ちはだかります。由良先生は不敵に笑いました。 「俺は客だろ。囚人じゃない。指図される覚えはない」 狩人は黙って道を開けました。 (まさか……) 小夜は手の中のカップをじっと見つめました。透き通った紅茶の水面が小夜の吐息で震えています。 とうとう、思い切って口に含みました。かすかな苦みに顔がきゅっとしぼみます。次の瞬間、爽やかな香りがぱあっと咲きました。小夜の表情がほろほろと崩れていきました。 「美味しい。とっても」 「うん、美味しいな。幸せだね」 男客の一人がうっとりと応じました。 一人で廊下に出た由良先生はご機嫌斜めでした。この館は気に食わないし、おべっかまみれの招待状からして不快でした。それでもやって来たのは招待の言葉が引っかかったからです。 『どうか私めに先生の作品を』 と熱望する割に、仕事の内容が全く書かれていないのです。これでは何を撮っていいのか分かりません。 由良先生は足音を殺して廊下を歩いて行きました。日だまりがゆらゆらと揺れています。日だまりは縞模様です。由良先生でも手の届かない高い所に、鉄格子付きの窓がはまっているのでした。「まるで牢獄だな」と由良先生は思い、同時に招待状のことを思い出しました。 差出人は『姫に侍るP』です。この館が監獄(Prison)なら、館主はさしずめ看守でしょうか。 ごとり。重苦しい音がして、天井がみしりと軋みます。真上は七人の男客たちの部屋です。 「ユラ先生」 ぬう、と狩人が現れました。 「姫が呼んでます。戻ってくれませんかね」 「今、上で変な音がした」 「七人組が模様替えを始めたもんで」 「俺の仕事はどうなってる」 「おれは看守なんで」 二人の会話は噛み合いません。由良先生は「看守?」といびつに笑いました。 「あのお姫様を閉じ込めてるのか」 「姫のためです」 狩人はわけの分からないことを言いました。 「姫は嫉妬深い王妃に殺されかけたんですよ。とても美しいから。おれは姫の心臓を抉り出すよう王妃に命令されたけど、猪を殺して心臓を持ち帰りました。ちょちょいと偽装してね。あんな美しい人を殺すことなんてできない」 狩人の腰で短剣がちかりと光ります。武骨で幅広の剣です。 「姫をかくまうために森の道も偽装しました。見たでしょ、あの迷路みたいな森。おれが書いた地図がないと森は抜けられない。森を出ることもできない」 「お姫様をかくまうため?」 何かに酔っているような狩人を由良先生は遮りました。 「あんたのためだろ」 「そうです」 狩人はあっけらかんと答え、うっすらと笑いました。狩人はとても幸福そうでした。 「おれはあの方の看守で、しもべです。あの方なしでは生きていけない。あの方さえいればいい。あの方が望むモノを何でも揃えました。草に花に動物たち。遊具だって作ったし」 みしり。別の場所で天井が軋みます。 「あの方を守り、あの方を崇め、あの方に魅了され。さっきの男客たちも同じです。当たり前でしょ、ね、先生。姫はあんなに美しいんだから」 「どうでもいい。俺の仕事はどこだ」 「――分からない人ですね」 狩人は薄ら笑いを顔に張り付けたまま手を差し出しました。 「招待を受けたんならこっちに来て下さいよ」 「断る」 「いいじゃないですか。ねえ」 「……だ」 由良先生は昏く呻きました。よく聞こえなかったので狩人は首を傾げます。由良先生はゆっくりと顔を上げ、告げました。 「不愉快だ。とても」 ずんちゃっちゃ、ずんちゃっちゃ。るんたった、るんたった。 「うふふふふふ、あははははは」 ガラスの馬車の中で白雪姫が笑っています。隣に腰かけた小夜は不安そうに窓の外を見やりました。ずんちゃっちゃ、ずんちゃっちゃ。機械仕掛けの動物たちが小太鼓やアコーディオンを奏でています。 「あ、あの、お姫様」 「なあにサヨちゃん」 「少し速すぎる……と思うの」 二人は小さなメリーゴーランドに乗っているのでした。洋館の地下ホールの、秘密の遊戯室です。 「そう? 楽しいじゃない、うふふ」 「う、うん。楽しいね」 小夜はどうにか微笑み返しました。白雪姫が楽しそうにしているのが嬉しかったのです。 不可解な出来事ばかりでした。 由良先生が出て行った後もお茶会は続きました。男客は一人ずつ退出し、美味しいお茶が冷えきってしまう頃、とうとう小夜は一人ぼっちになってしまいました。狩人は由良先生を探しに行ったし、白雪姫は男客に付き添っていたからです。 やがて白雪姫だけが戻って来て言いました。 「こっちに来て。とっておきの遊び場があるの」 白雪姫は相変わらず美しい女の子でした。声も綺麗だし、とても親切だし、小夜の手を取る指なんてまるで白魚じゃありませんか。 るんたった、るんたった。メリーゴーランドが回り、世界がぐるぐる流れていきます。馬車と一緒に馬も回っています。馬は張り子ではなく剥製でした。ずんちゃっちゃ、ずんちゃっちゃ。楽器を持っているのも剥製でした。彼らは機械を埋め込まれて演奏を続けているのです。 剥製のことを「死体だ」と由良先生は言いました。よくよく見れば、草花たちもプリザーブドフラワーに加工されていました。お客以外で生きているモノは白雪姫と狩人だけです。小夜はたいそう不気味に思いましたが、決して帰ろうとしませんでした。お友達として招かれたのですから、白雪姫を一人ぼっちにするわけにはいきません。 「ねえ、大丈夫?」 白雪姫が小夜を覗き込んでいます。小夜はこくんと肯きながら「けぽ」と息を吐きました。メリーゴーランドの回転がきつすぎて、ちょっぴり酔ってしまったのです。 「お部屋で休もうか。ね」 ひんやりとした指が小夜のほっぺを撫でました。 手を繋ぎ、薄暗い廊下を歩きます。あちらこちらに色鮮やかな草花が植えられていました。背の高い花の陰にウサギが見えます。小夜は「わあ」と声を上げて触ろうとしましたが、伸ばした手がびくりと震えました。ウサギは剥製でした。 「死んじゃったの」 白雪姫は血色のない顔でひんやりと笑いました。 「寂しかったから、ペットが欲しくて。でも死んじゃった。ずっと一緒にいたかったのに」 「お姫様……?」 「サヨちゃんはずっといてくれるよね? そのために来てくれたんだよね? 私、とっても寂しいの」 マネキンのような微笑みと一緒に、作り物のように美しい指が伸びてきます。何だかぞっとして、小夜はそろそろと壁際に後ずさりました。背が壁に付いた途端、 「あっ!?」 小夜の体が後ろへ傾きました。隠し扉を押してしまったのです。小夜はたちまち暗闇の中に倒れ込み、濃い埃が靄のように立ち上ります。 咳込みながら起き上がると、ねっとりとした物が掌についてきました。小夜は目を見開きました。 錆びた鉄のにおい。屁の腐ったような臭気。ふわふわと舞う埃の向こうに、赤黒く染まった狩人が突っ伏しています。 「きゃ――」 悲鳴を上げる間もなく口を塞がれました。白雪姫です。どうにか振り返った小夜はぞっとしました。視界の端に映る白雪姫は、血の色の唇を大きく裂いて笑っていました。 「全部私が殺してあげたの」 二人の前に死体が降ってきます。一つ、二つ……全部で七つ。死体たちはごとんごとんと跳ね、どろりと横たわりました。あの男客たちです。関節のねじ切れたマリオネットのようになって、幸福に瞳を濡らしながら死んでいます。 「全部だよ。今までに招待した人たちも全部。狩人の力で隠してたけど、もういい。みんないらない」 「お姫様」 「サヨちゃんはどこにも行かないよね? お友達でいてくれるよね?」 ねっとりとした物で頬を撫でられ、小夜はぞわりと総毛立ちました。 狂ったお姫様は血の涙を流していました。涙は頬を伝い、血の色の唇をいっそう鮮やかに染め上げていました。 「サヨちゃん。どうして何も言わないの」 白魚の指が小夜の喉に食い込みます。 「お友達でしょ。ねえ」 気管を絞められ、小夜の顔が紅潮します。もう何も考えられません。必死でもがくうちに、手がポシェットに触れました。ポシェットの中にはシャボン玉のセットが入っていました。 小夜は朦朧としながらシャボン玉を吹きました。ふわり、ふわり。一つ、二つ。虹色のシャボン玉がゆらゆらと漂います。白雪姫がシャボン玉に手を伸ばしたので小夜はようやく自由になりました。そのまま、振り返らずに逃げ出しました。 後ろで爆発音が響きます。 轟音を聞きつけた由良先生が見つけたのは血まみれの白雪姫でした。先生は少し安心しました。小夜のシャボン玉はトラベルギアで、何かに触れると爆発する性質を持っているのです。 綺麗なシャボン玉を捕まえようとした白雪姫は手を吹っ飛ばされてうずくまっていました。 「痛い。痛いよう」 一人ぼっちのお姫様は純白のドレスを血に染めて泣いています。 「助けて。ねえ。ユラ先生」 「俺は仕事をしに来た」 「あはは。やっぱり私のこと嫌いなんだ」 白雪姫は夢中で由良先生の靴に縋りつきました。靴は、粘りつく血であっという間に汚れてしまいました。 「みんな私を求めて。貪って。私はすり減るだけ。でも、先生なら」 「――うるせえ」 白雪姫はぴたりと黙りました。 由良先生の目の中でタールのような炎が燃えています。 「不愉快だ」 先生はトラベルギアの手斧を振り上げました。 走って走って、小夜は玄関扉にぶち当たりました。鍵は開きません。窓には手が届かないし、そもそも鉄格子がはめられています。 「どけ」 後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになりました。由良先生です。先生は、小夜が話しかける間もなく手斧を振るって扉を破りました。 「来い」 「う、うん」 小夜は先生に手を引かれて走り出しました。 「先生、お姫様見なかった?」 小夜はとても不安でした。殺してしまったかも知れない、と。 「走って逃げて行ったぞ」 由良先生はさらりと答えて足を速めます。小夜も一生懸命走りました。けれども、小さな胸にはしこりがつかえたままです。 (走って……? 怪我した筈なのに?) ざわざわと笑う森が迫ります。 二日後、由良先生は一人で再び館を訪れました。狩人の力が消滅した今、森はただの森でしかありません。 「ようこそ、先生。きっといらっしゃると思っていました」 エントランスで待ってたのは爽やかな青年でした。金色の髪に宝石だらけの王冠、白タイツの足、豪奢な衣装。典型的な王子です。 「キャストが足りないと感じてはいた。あの招待状のPはPrinceのことか」 「おっしゃる通りです」 「俺に頼みたかった仕事は何だ?」 「もうしていただきましたよ」 王子はにっこり笑って奥を示しました。 ガラスの棺に、柘榴のような頭の白雪姫が閉じ込められています。 「死体は美しい。それにこの赤! 面積といい、広がり方といい……。ああ、佳い。最高だ。さすが先生です」 王子はうっとりと棺に頬ずりしています。ざわざわ、ざわざわ。森が鳴っています。 「ところで」 王子は濡れた瞳で由良先生を見つめました。 「小夜ちゃんは素朴で愛らしい少女ですね。白雪姫とは違った魅力がある。生きたままでは勿体ない」 「何が言いたい」 「お分かりになりませんか?」 ざわざわ、ざわざわ。相変わらず森が騒いでいます。 由良先生は陰気に舌打ちしました。 「どいつもこいつも」 ざわざわ、ざわざわ……。 (了)
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