オープニング

「今回行ってもらいたいのはブルーインブルーだ」
 シド・ビスタークの手の中で導きの書がめくられていく。
「海上都市のひとつ、ジャンクヘヴンから出発する交易船の護衛をしてもらいたい。現地には船を守るための傭兵ということで話を通してある」
 集まったロストナンバーたちは互いに顔を見合わせた。護衛というからには敵となる何かが現れるということだ。
 シドは再び手元の書をめくった。
「この航海の途上で海魔が現れることになる。これは導きの書に顕れた予言だ。そこで船を海魔から守ってほしいのだが――」
 シドはそこで言葉を切り、ほんの少し眉を曇らせた。
「海魔の正体が分からない」
 ざわり、と皆がどよめいた。
「夜になるとどこからともなくハープの音色――といっても曲の体裁はなしておらず、無秩序につま弾いているだけのようだが――が聞こえてくる。何をもってしても音を防ぐことはできず、ハープの音を聞いた者は例外なく眠ってしまうそうだ。ある程度時間が経てば目を覚ますが、乗組員全員が眠ってしまったのでは操船もままならん。実際、そのせいで船が進路を誤ったり岸壁に衝突したりした例もいくつか存在する。セイレーンの類ではないかと言われているが、姿を見た者すらいないのが現状だ」
 それでは手の出しようがないではないか。ロストナンバーの一人がそう唱えると、シドは分かっているとでも言いたげに片手を挙げた。
「眠り自体はそれほど強力なものではない。要はいち早く眠りから覚めさえすれば良い、おまえたちに担ってほしいのはそこだ。目が覚めた後に自ら舵を取るか、乗組員たちを起こして回るかすれば何も問題はないと思われる。眠っている者は肩や頬を叩かれれば簡単に目を覚ますという。しかし」
 シドはそこで言葉を切った。
「肝心の、眠りから覚める方法がはっきりしない。ハープを聞いた者は必ず良い夢を見るという。ひどく心地良い内容の夢らしい。今のところ分かっているのはそれだけだ」
 済まなそうにそう結び、司書は導きの書を閉じた。
「ともかく、目的は商船の護衛だ。船を無事に目的地まで導くことを第一に考えてもらいたい。頼りになるのは腕っ節や異能ばかりとは限らん。よろしく頼む」


 青い世界が広がっていた。空の青とは異質な、しかし空にも引けを取らぬほど美しい青だ。
 ロストレイルは海中を進む。海水の透明度が高いのだろう、太陽の白い光が緩やかなレーザーのように差し込んでゆらゆらと揺れている。自然のライトアップを受けて泳ぎ回る色鮮やかな魚たちの姿は壱番世界でいう水族館のショーのようであった。
 海抜下に建設された駅で降車し、人知れぬ通路をくぐり抜ければそこはもうジャンクヘヴンだ。
 吹き渡る風はからりとして、暖かい。立ち並ぶ店々、行き交う人々。丸太のような腕に樽を抱えて歩く男はいかにも船乗りといった風情だ。かと思えば威勢良く腕まくりした女性も闊歩しているし、歓声を上げて走り回る子供の姿もそここに見受けられる。潮の香りと活気が心地良く満ち溢れている。
 シドから指定されたのは船着き場近くの酒場であった。この場所で商船の責任者と落ち合うことになっている。
「いらっしゃい……」
 旅人達を出迎えたのは初老の小柄な男であった。この酒場の主なのであろうが、痩せて、生気のない顔をしている。店主は人数分のお冷を出してさっさとカウンターに引っ込んでしまった。
 旅人達は見るともなく店内を眺めた。カウンター席が五つとテーブル席が六つ。店の奥にはステージらしき雛壇が据え付けられ、ピアノが鎮座している。しかしステージもピアノも埃をかぶっていた。
「おやっさん、邪魔するよ」
 しばらくすると大柄な男が店に入って来た。店主は「ああ」と力なく答えただけだ。男は店内を見回し、旅人一行のテーブルに近付いて来た。
「傭兵ってのァおまえさんたちか。ああ、海魔が出るかも知れねえってことも上の人間から聞いてる。よろしく頼むぜ」
 ジュードと名乗った男は潮焼けした顔を曇らせ、引き締まった腕を胸の前で組んで話し出した。
「俺は奴さんと遭遇したことはねえが、仲間から色々聞いてる。どうあがいても眠らずにやり過ごすことはできなかったらしい、甲板に出ていようが船倉にこもっていようがお構いなしさ。耳栓を使った奴もいたが、効果はさっぱりだ。ただ、聞いた話じゃ――」
 硬い短髪をがしがしと掻いてジュードは渋面を作った。
「必ずいい夢を見るらしい。ずーっとこの夢を見ていたいって思うような……な。別れた女房と子供の夢を見たって言う船乗りもいるくれえでさ。ま、夢を見続けたいばっかりに眠り続けて難破するんじゃシャレにならねえが。俺たちが知ってることはこれだけだ。何か質問があったら言ってくれ」
 というジュードの呼びかけにロストナンバーの一人が手を挙げた。
「海魔に呼び名やあだ名のようなものはないのか? 名がないのでは不便だ」
 ジュードはすいと目を細めた。
「ローレライ。……俺たちはそう呼んでる」
 いかにもそれらしい名に旅人たちは口をつぐんだ。
「悪いが、先に行っててくれ。船の場所はここに書いてある」
 旅人達に紙片を渡し、ジュードは店の隅から雑巾とモップを持ち出して来た。何をするのかと見ていると、彼は埃をかぶったステージとピアノの掃除を始めた。
「ジュード。掃除なんかしなくていい」
 それまで黙っていた店主が虚ろに呟く。「どうせもう使わないんだ」
「そうはいかねえ。このピアノは兄貴のモンだからな。……ん? ああ、済まねえな、内輪の話なんか聞かせちまって」
 旅人達の怪訝そうな視線に気付いてジュードは苦笑いした。
「俺の兄貴は楽器を弾いたり作ったりする仕事をしていてね、この店でも演奏してたんだ。兄貴のピアノに合わせてここの看板娘が歌ってさ……結構人気もあったんだぜ。二人とももう何年も前に行方知れずになっちまったが」
 ジュードは壁に目を投げた。細身の男と長い金髪の女が笑顔で寄り添った写真が飾られている。
「娘はおまえの兄の後を追ったんだ。絶望して自殺したのかも知れない」
「……兄貴は恋人を置いて勝手にいなくなるほど不実な男じゃねえ。きっと何か理由があるんだ」
「じゃあどうして何年も帰って来ないんだ。本当に娘を思うなら便りくらいよこしてもいいだろう」
 ジュードと店主のやり取りを背に聞き、旅人達は外に出た。
 出立の時は近い。港の船には人と荷物が慌ただしく出入りしている。今回の航海は同盟関係にある都市国家へ酒類を運ぶためのものだとシドが言っていた。
 船のバックに広がるのは青い空と青い海。美しく雄大な風景に、ここに来た目的を忘れそうになる。
 だが――この大洋のどこかに、得体の知れぬ魔物が潜んでいる。


 同じ青という言葉で表されてはいても、海の色と空の色は全く異質だ。水平線で真っ直ぐに隔てられた両者はどこまで行っても平行で、決して交わることはない。
 空が黄昏に染まり、海がシャンパンゴールドに煌めけば、その後はすぐに夜が来る。夜の帳が降りさえすれば空も海も同じ色に染まる。
 声は嗄(か)れた。代わりに竪琴を鳴らそう。
 豊かな金髪を潮風になぶらせ、“それ”は虚ろにハープを抱擁した。

品目シナリオ 管理番号228
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメントさて、今回はブルーインブルーへのご案内です。
正体不明の海魔がもたらす不可思議な現象に打ち勝ち、航海を無事完遂させてください。
ポイントは、眠った後にいかに早く目覚めるか。その方法はジュードの台詞をヒントに考えてみてください。

ノベル内では必ず「良い夢」を見ていただくことになります。
プレイングには対策とともに「どんな夢を見たいか」をお書き添えください。字数制限の都合上、断片的な描写しかできませんが、参考にさせていただきます。

所で、ジュードの兄は突然失踪してしまったようです。
どこかで聞いたような現象ですが…?

参加者
ベヘル・ボッラ(cfsr2890)ツーリスト 女 14歳 音楽家
歪(ceuc9913)ツーリスト 男 29歳 鋼の護り人
玄(cdpu7769)ツーリスト その他 9歳 求職中
雫石 楓(chnu3200)ツーリスト 女 17歳 ミミック
石川 五右衛門(cstb7717)ツーリスト 男 39歳 海賊

ノベル

 知っていた、知っていたの
 あなたはいつも空を見ていた
 この海じゃなくてあの空を
 遠い遠いあの空を……

   ◇ ◇ ◇

 ヒーユウゥ。風鳴りのような口笛に応じてイルカが海面に顔を出した。
「……何だ?」
 目が見えない筈の歪(ヒズミ)――なぜなら彼の顔の大半は包帯で覆われている――が不思議そうに、しかし興味津々といった様子で船べりから身を乗り出す。海に馴染みのない歪は先程からずっとこの調子で、風や潮騒にさえも新鮮な驚きを見せていた。
「イルカさ。落ちるなよ」
 子供のように危なっかしい歪に苦笑し、石川五右衛門はもう一度口笛を鳴らしてイルカを呼び寄せた。人語とは異なる言葉を発する五右衛門と、それに応じるように鳴くイルカを歪が怪訝そうに見比べている。
「おう。イルカと話でもしてるのか?」
 という声に振り返ると、この船の責任者であるジュードが立っていた。軽い語調とは裏腹にその表情は硬い。五右衛門はイルカに礼を言った後で斜めにジュードを見やった。
「あんたの兄貴の人となりは知らねぇが……まさかホレた女を捨てて消えるほどのロクデナシじゃねぇだろう」
「その通りだ」
「船乗りって訳でもねぇし、どっかに行っちまったッてぇンなら誰かが姿を見てる筈だ。それに、事故に遭ったなら土左衛門くらい上がると思うんだがなァ……」
 探るような五右衛門の視線の前でジュードは低く顎を引いた。答えようがないことは五右衛門にも分かっている。
「こっちが聞きてえくれえさ」
 やがてジュードは自嘲気味に肩を揺すった。
「兄貴が失踪した後、リーラ……ああ、恋人の名前なんだが、彼女の嘆きようったらなかったぜ。もちろん俺や仲間達も手を尽くした、近隣の都市国家にも出向いて探したよ。だけどどうしても見つからなくてな。兄貴の姿を見た奴すらいねえんだ。おかしいだろ?」
「ジュードさーん! ちょっといいっすかね?」
「ん、ああ、今行く。……済まねえな。護衛、よろしく頼むぜ」
 乗組員の呼びかけに応じてジュードは甲板を離れた。
 彼の背中が船室に消えた後で歪がぽつりと呟く。
「……あの男の兄はロストナンバーになったのではないのか?」
「かもな。しかしそれを説明することはできねぇってんだろ。どうしたモンかね」
 潮風は髪を軋ませるが、五右衛門はその感触が嫌いではなかった。しかし今ばかりは少々疎ましい。長い黒髪は湿気を含んで、重い。
「おーい犬っころ、こっち来い」
 という陽気な船乗りの声が響いた。歪は軽く首を傾げた。どういうわけなのか、犬っころという語に五右衛門の影が居心地悪そうに身じろぎする気配が感じられたのだ。
「おまえのことじゃねぇみてぇだぞ、犬っころ」
 五右衛門がからかうように影に呼び掛けると、影に潜む“それ”は更に体をむずむずとさせた。
「おーおー、可愛いな犬っころ。真っ黒だからクロでどうだ、ん?」
「単純すぎねえか」
「本人は気に入ったみたいだぜ。ほら、尻尾振ってるしよ」
 甲板の掃除をしていた乗組員二人が浮遊する黒い球体をしきりに撫で回している。ボーリング玉ほどの大きさで、大きな一つ目を持つ不思議な球体だ。
 <旅人の外套>の効果なのか、船乗り達の目にはこの玄(クロ)というロストナンバーが黒い犬に見えているらしい。やがて乗組員たちの手を離れた玄は船べりへとやって来た。耳も口もない玄だが、目は口ほどにものを言う。大きな紫の瞳は眼前いっぱいに広がる海を珍しそうに眺めている。どうやら玄も海に興味津々であるらしい。


(ふうん……海は綺麗だね)
 薄いコートを引っ掛けたベヘル・ボッラは下準備を兼ねて船内を歩き回っていた。船に乗るのも、もちろん航海も初めてだ。陽光を受けて輝く海はダイヤモンドの欠片を散りばめたようであったが、空からの太陽と海からの照り返しは彼女には些か暴力的すぎた。
(ここの太陽をなめてたよ。日が陰るまでは甲板に出ないでおこうかな)
 ふと背中に視線を感じた。振り返ると、胡散臭い物を見るような目をした船乗り達と目が合った。ベヘルのことを頼りにならないとでも思っているのだろう。彼女の姿は痩せた子供のようにしか見えない。
「ぼくは“せんもんか”だからね。音に興味があったんだ」
 ベヘルは彼らに向かって唇の端を吊り上げてみせた。つば付きのサマーニットの下の顔立ちはマネキンのようにつるりとして、冷たい。船乗り達は気後れしてそそくさと立ち去った。
(考えても仕方ないかも知れないけど――)
 機械の右腕を撫でながら窓の外に目を投げた。空も海も広大だ。しかし水平線が両者を明確に隔てている。
(海魔は何故そこで、何故奏でるんだろう? それに、あのジュードっていう人のお兄さんは……)
 ベヘルもジュードの兄が<覚醒>したのではないかと考えていた。海魔と無関係ではなかろうとも。
(お兄さんのこと、確認できるのかどうか司書に訊いてみたいけどね)


 船は滑るように海を進む。空は晴れ、帆は追い風を孕んで膨らんでいる。航海はすこぶる順調だ。――不気味なほどに。
 中天を越えた太陽は徐々に黄色っぽさを増しながら水平線へと近付いている。雫石楓は船室の喧騒を背に聞きながら佇んでいた。色の白い少女だ。どこか翳を背負っているようにも、単にぼんやりしているだけのようにも見える。
 だが彼女は喪服を身に着けているし、胸に頭蓋骨を抱えているのだった。
「ほら……綺麗でしょう」
 幼子に話し掛ける慈母のような声で呟きながら、白い手が頭蓋骨の上を往復する。空洞の眼窩からアメーバ状の物体――あるいは生物であるのかも知れない――がちらと覗いた。
 知識として知ってはいても、海を見るのは初めてだった。そうでなくともこの景色には魅せられていただろう。不定形に煌めく水と光を見つめ続けていると眩暈がしそうだが、それでも目が離せない。狭く閉ざされた洞窟に隠れ住んでいた楓にとって、遮るもののない海の景色はひどく新鮮だった。
 だが、この広い海のどこかにローレライが潜んでいる。
 楓はそっと睫毛を伏せた。
(……ローレライさんはどうして人を眠らせるんでしょう)
 その問いに答えてくれる者はない。潮騒の中に遠く近く海鳥の声が混じる。
 ローレライは船乗りに幸せな夢を見せるという。ならばきっと悪い者ではないのだ。もしも会えるのなら理由を聞いてみたい。
「幸せな夢、わたしも見られるでしょうか」
 願いにも似た感情が美しい唇からこぼれ落ちる。
「夢でもいいから……もう一度」
 あの人に逢いたい。
 頭蓋骨に頬を寄せる未亡人を見ているのは海と潮風だけであった。


「クロ、クロ、こっち来い。水欲しいだろ?」
「ああ? おまえ、犬と話せるのか?」
「いや、水を欲しがってるような気がしてな……」
 食事の準備で慌ただしく動き回る船乗り達の間で玄は皿の水を飲んでいた。船乗りたちの思念を見た玄は、彼らの目に自分が犬と映っていることを把握している。船内を探検している時も幾度となく声をかけられ、撫でられた。犬らしく振る舞おうと努める玄は、今やマスコット的な存在として乗船員達に可愛がられていた。
「クロ、そこの芋の袋取ってくれ」
「犬にそんなことできるかよ」
「クロは賢いんだよ。ほら見ろ、ちゃんと取ってくれたじゃねえか」
 潮焼けした手に撫でられながら玄は気持ち良さそうに目を細めた。一通り船を見物して回った後、客ではなく仕事として乗船していることを思い出し、こうして手伝いに勤しんでいる。
 時刻は既に夕暮れだ。ローレライは夜に現れる。音という概念のない種族である玄は眠りに落ちるほど心地良い音が気になっていた。もしかすると穏やかな母親のぬくもりのようなものなのかも知れないとも思う。
「お、いい匂いじゃねぇか」
 そこへ五右衛門がふらりと顔を見せた。隣には歪もいる。
「脅かすわけじゃねぇが……そろそろローレライの居場所に差し掛かる。イルカから聞いた情報だから間違いねえ」
 五右衛門がそう告げると、厨房はしんと静まり返った。
「ちょうど食事が終わった頃になるだろう。……護るために俺達が来た。信じてほしい」
 穏やかながらも凛とした歪の言葉に船乗り達は顔を見合わせ――やがてしっかりと肯いた。

   ◇ ◇ ◇

 知っていた、知っていたの
 あなたはいつも空を見ていた
 けれど私はどうすれば良かった?
 だってここには海しかないのよ……

   ◇ ◇ ◇

「ああ、いいね。日が暮れたらだいぶ過ごしやすくなった。だけど、潮風がべたつくって本当だったんだね」
 ベヘルはこんな時でもマイペースで、甲板で待機する旅人達は苦笑を漏らした。
 眠りから醒めた後で速やかに操船に戻れるよう、乗組員たちには通常通りの配置についてもらっている。外に居るのはロストナンバー達だけだ。
 夜空を仰ぎながら玄はふるりと身震いした。空はこんなにも晴れわたっているというのに――孤高に輝く月の女神に気後れしたとでもいうのだろうか――星屑たちが姿を見せないのだ。
 水平線すら見ることができない。境目を見失った海と空はどろりとした黒に融け合っている。
「――来る」
 最初に“感じた”のは気配に鋭敏な歪であった。
 ベヘルは機械の右腕の上に素早く指を走らせた。五右衛門は深く息を吸ってどっかりと胡坐を掻き、玄は二、三度瞬きを繰り返した。一歩離れた場所でただ楓だけが目を閉じている。
 それは風の睦言のようで。
 潮の囁きにも似て。
 優しく、甘く響き始める。
「臆するんじゃねェ!」
 船倉のざわめきに気付いた五右衛門が甲板から一喝した。
「このオレ様がぜってェ何とかしてみせる。それまで夢を楽しんでりゃァいい」
「オレ様“達”だよね? こういうことは正確に言ってもらわないと」
 ベヘルのとぼけた突っ込みに歪が苦笑した。
 ハープの音はぎごちなく、けれど切ないまでの慈愛に満ちて。
 目を閉じた楓はかすかに瞼を震わせる。
 良い夢を見せる筈の音なのに、どうしてこんなにも哀しいのだろう?
 行く船に追い縋るように。行く船を包み込むように。
 不器用な音色が響き続け、やがて意識がゆるゆると回転を始める――。


(……ん)
 ベヘルはゆっくりと目を開いた。
 薄暗い。換気を怠った部屋そのものの淀んだ空気、埃のにおい。しかしそれは決して不快ではなく、恍惚すら連れてくるのだ。故郷の仕事部屋だとすぐに分かった。
 穴倉のようなその部屋で、ベヘルは仕事に没頭していた。
 スイッチをいじるのもキーを叩くのももはや本能だ。張り巡らされたコードを通じて響くライブの音、客の声。仲間の姿は見えない。だが、その存在は仕事の成果として確かにそこに現れている。なぜだかひどく安心して、ベヘルは更に仕事に打ち込んだ。
「いいね。すごくいい」
 ぞくり、と寒気が背筋を貫く。悪寒にも似たそれは陶酔であり、恍惚でもあった。この“音楽”はまるで麻薬だ。感情というものをあまり露わにしないベヘルがいま確かに高揚し、誇りを感じていた。
 自分はこの場所を気に入っていたのか。今更のように、他人事のようにそんなことを考える。
 懐かしい。帰りたい。仲間のことも気になる。だが一方で、帰れないかも知れないことも、仲間が既に死んでいるかも知れないことも冷静に考慮している。
「いいね。この夢はすごくいい。――だけど夢は夢なんでしょ」
 やがてベヘルは唇の端を歪めた。笑ったつもりらしい。
「この気持ち良さを拒絶できればいいってことなのかな? だけどぼくは自分の精神力には頼らないよ」
 もっと信頼できるものを持っているからね、と。
 誇り高くそう宣言するのと、機械の腕にセットしたアラームが鳴り響くのとはほぼ同時だった。


 空は歪(いびつ)に砕け、けれど村人は笑っている。煌々と燃える篝火は幸福と生命の色だと歪は思う。火は獣を遠ざけ、食事を与えてくれる特別な存在だ。もっとも、歪がその色を視ることはもはやできないが。
 それでも歪には視えていた。篝火の周りで宴に興じる村人の笑顔が、“刃鐘”を手足首に飾って剣舞を披露する少年達の姿が確かに視えていたのだった。
 しかし歪は輪には加わらない。門番は門を守らねばならぬ。門から動くことは許されぬ。
 ただこうやって見守ろう。村の喜びが己の幸せ。村を――己の幸せを守るために歪はここに立ち続ける。今までも、そしてこの先もずっと。
 心地良い喧騒を遠くに聞きながら、歪はふと眉を動かした。
 不吉な星が降る夜空の向こうに、朧な人の影が見えた気がした。
 全身がすうと冷えた。性別も歳も背格好も判らないその誰かをずっと探していたのだと、なぜか唐突に気付いた。
「待って……くれ」
 知らず、駆け出した。朧な影は答えない。オーロラのようにゆらゆらと棚引いているだけだ。
「待ってくれ。待ってくれ。待ってくれ!」
 駆けても駆けても届かない。近付くことすら出来やしない。
「――――――」
 歪は叫んだ。喉が裂け、胸が潰れそうなほど絶叫した。それでも“誰か”の名を呼ぶことはできなかった。
 いくら走っても月や星には近付けない。なぜなら彼らは気の遠くなるような空の彼方にあるからだ。
 やがて歪はのろのろと足を止めた。
「――視えないんだ」
 そう呟いた途端、視界が真っ黒に塗り潰された。星も影も目の前から消え失せた。
「視える訳が、ない」
 光を喪った己にはもはや視えるものなど何も無い。悪夢も――希望すらも。
「夢なんだ。……まがいものだ」
 暗闇の中で自虐にも似た自戒を漏らした瞬間、歪の意識は急速に浮上を始めた。
(……そうか)
 目覚めへと近付きながら、歪は漠然と感じ続けていたものの正体を改めて悟っていた。
(俺が旅人となったのは、あの影の主を探すため……)
 体が唐突に現実感を取り戻す。気がつけば、歪は船の上に横たわっていた。


 薄暗く冷たい洞窟。狭く閉ざされた其処が楓たちの住処。
 だが、閉塞したその場所はとても暖かだ。楓と夫と、そして子供がいる。
「あ……ごめんなさい」
 欠けた碗を渡した拍子に手が夫の手に触れた。しかし夫は「何を今更」と苦笑するだけだ。肯き、はにかんだように俯く楓の膝の上には愛しい我が子――別の言い方をすれば“幼生”だ――がじゃれついている。
 食べ物も、着る物も質素だった。外に出れば殺されるかも知れない。隠れるように洞窟に住まい、日用品どころか食料の調達さえままならない生活を続けてもうどれくらい経つだろう。
 夫は楓と違って人間だ。にもかかわらず、楓の正体を知った後も楓とともにこの世界に留まることを選んでくれた。これ以上の幸いが他にあろうか。
 簡素な食事を美味いと言ってくれる夫の前で楓はそっと微笑む。夫と子の他には何もいらない。閉ざされたこの場所に一生住み続けても良い。
 だが、分かっている。
 本当の自分はブルーインブルーに居ることも、この光景がローレライの見せる夢であることも分かっている。
 憂いに濡れた目を伏せ、小さく唇を噛む。
(……構わないんです)
 夢でも良いからもう一度と望んだのは自分だ。幸せな夢を見ながら終わりを迎えられたらと、そんな風に望む気持ちすらある。
 だが、母親の気を引くように手の上にじゃれつく子供の姿が楓の意識を引き戻した。
 ――この子を遺して逝くわけにはいかない。そのために事故の回避に尽力すると決めて乗船したのではなかったか。
 きゅっと唇を引き結んだ瞬間、鈍い衝撃が唐突に額に降って来た。


 日の出とともに起き出して遊び、日が沈んだら眠る。食事は光だ。遊びながら、腹が減った時に好きなだけ摂ることができる。
 広がるのは青い空と緑の草原。そこここに花が咲き乱れ、美しい姿と香りを競い合う。玄は花も草も大好きだったし、土のあたたかさも大好きだった。
 ころころ、ころころ。柔らかな草の上を転がる。
 ころころ、ころころ。仲間たちと一緒に転がる。
 時には競走もした。仲間と体をぶつけ合い、ぽんぽん弾みながら遊ぶこともあった。それは静謐で、幸福な光景だった。言葉などなくとも玄は仲間と通じていたし、仲間も玄を受け入れてくれていた。
 ころころ、ころころ。どこまでも転がる。
 ころころ、ころころ。ひたすら転がる。
 疲れれば休む。渇けば小川で水を飲む。動いて火照った体は吹き渡る風が癒してくれる。
 ころころ、ころころ。
 ころころ、ころころ。
 玄は気付かない。隣星の侵攻によって母星が既に滅んでしまったことに。
 玄は気付かない。これがローレライの見せる夢であることに。
 ころころ、ころころ。
 ころころ、ころころ……。
 仲間とじゃれ合う玄は唐突に誰かの手に掴まれ、引き上げられていた。


「朝ー霧ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー」
 しゃらん。
「朝ー霧ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー」
 しゃらん。
 幼い禿に先導され、華やかな行列がゆっくりと進む。内八文字で進む花魁が鈴の音に合わせて流し目を送る度、沿道の男達はだらしなくにやけるのだった。
 日が暮れても色街の明かりは落ちない。桜色のぼんぼりが妖しい夜を艶やかに演出する。ぼんぼりと同じ色に頬を染める花魁に届けと、見物人に紛れた五右衛門は軽く手を挙げた。
「朝ー霧ー太夫ーにぃーございまぁーすぅー……」
(……お)
 気付いたらしい。匂うような流し目を送る花魁が五右衛門を見てくすりと笑った。悪戯な少女の如き笑みに五右衛門はくすぐったい苦笑いを浮かべた。
 客として通ううちはまだいい。だが恋仲となってしまえば話は別だ。数多の男と一夜の情交を結ぶことこそ遊女の生業。囲ってしまえればともかく、海に生きる五右衛門が彼女を独占することなどかなう筈もない。
 それでも彼女は待つと言ってくれた。満たされた仔猫のような目で、五右衛門がまたこの陸(おか)に上がるまで待つと言ってくれた。あるいはそれは閨の睦言であったのか。五右衛門にできたのは彼女の額に口づけを落とし、艶やかな髪を指で梳いてやることくらいだった。
 夜明けは近い。もう戻らねばならない。
(それでも――)
 たとえ夢でも、今はもう少しだけこの刻(とき)を。
(できるなら……ずっと)
 ずっとずっとこのままで。
 そんな甘やかな願いが胸を占めた時、何者かが五右衛門の額に手酷い打撃を加えた。
 

「ん、がァッ!」
 五右衛門はどら声とともに跳ね起きた。真っ赤に腫れ上がった額をさすりながら慌てて辺りを見回すと、普段は五右衛門の影の中に潜んでいる双頭の銀狼が冷めた目でこちらを見下ろしていた。
「テメェ……頭突きしやがったな」
「起こしてくれと頼まれていたから起こしたまでだ」
 人語を解する銀狼はにべもなくそっぽを向く。その態度が却って五右衛門の頭に血を昇らせた。
「もうちょっと優しい起こし方はねぇのかよ!」
「五月蠅い! これしきの事で眠るなんぞ、貴様は大うつけか!」
「うつ……うつけとは何だこの犬っころがァ!」
 大喧嘩を繰り広げる五右衛門達から少し離れた場所で楓は頭蓋骨を撫でていた。
「ありがとう。……起こしてくれたんですね」
 頭蓋骨を紐に結びつけ棒に掛けて吊るし、意識を無くして紐を手離したら頭上に落ちてくるという仕掛けを作っておいたのだ。コメディじみた方法だが、この頭蓋骨が楓を現実に引き戻してくれたこには違いない。
「起きてください」
 楓は玄をそっと揺すった。弾力のあるつるんとした感触に思わず気後れしそうになる。ゆっくりと目を開いた玄は楓に気付くと緩やかに瞬きを繰り返した。玄の無事を確認した楓は船室に入り、歪と手分けしながら乗組員達を揺り起こして回った。
「みなさん、えっと、朝だよー」
 ベヘルの声が響く。一瞬遅れて、不快な電子音が船中に響き渡った。寝ぼけ眼の男たちがめいめいに起き出す。玄も船乗り達の体の上でぽんぽんと弾みながら彼らを起こした。
「おはよう、みんな。目が覚めるようにキツめにしておいたんだけど、効いたかな」
 アラームを止めたベヘルは素知らぬ顔で言った。船中に散らしておいたスピーカーが一斉に鳴り止む。昼間のうちに設置しておいたのだが、もちろんベヘル自身には聞こえないように位置を調整してある。
「さて……音源の方向は判ったよ。どうする?」
 ベヘルが無造作に指した甲板の隅には豊かな金髪の海魔の姿があった。

   ◇ ◇ ◇

 知っていた、知っていたの
 けれどあなたは言ってくれた
 私の声が心地良いって
 私の腕に包まれたいって
 だから私はあなたを待つの
 気まぐれを許す慈母のように……

   ◇ ◇ ◇

 海魔の名が示す通り、ローレライの姿は海洋生物に似ていた。
 海藻のように濡れてうねる金髪。ぼろぼろの着衣。下半身は魚だ。人魚といったところだが、人魚と聞いて連想する美しさはない。
 そこにあるのはただただ虚ろな海魔の姿だ。
 ――酒場の娘に似た女だ。
「ローレライ……さん」
 律儀に“さん”を付け、楓は震える声で呼び掛けた。
「どうしてですか? 誰かを探しているのですか……?」
 船室に入って乗組員達を起こして回った楓は、ローレライが船乗りの顔をいちいち覗き込んでは物憂げにかぶりを振る姿を目撃していた。
 下半身が魚では立って歩くことはできない。ローレライは甲板の上に横たわり、上半身を起こしてぼんやりと旅人達を見つめている。頑なに胸に抱くハープは傷だらけで、所々弦が切れていた。
 まろぶように甲板に出て来たジュードはローレライの姿を見て息を呑んだ。
「おい」
 五右衛門は乱暴にジュードの胸倉を掴んだ。「ローレライが現れるようになったのはいつからだ? 大まかでいい」
「一年……いや、もっと前かも知れねえ。少なくとも、ローレライが出たのはリーラが行方不明になった後だ」
「てェことは」
 五右衛門の眉が峻烈に跳ね上がる。ジュードは苦渋の表情を浮かべた。
「分かる。おまえさんの言いてえことは分かる。だが……分からねえ。リーラに似てないこともねえが、印象が違いすぎる。あんなにやつれて顔色も悪いんじゃ……」
「まさか、彼女が恋人を探してローレライと成ったのか」
 歪が呻くように呟く。五右衛門はその言葉が終わる前に三叉鉾とサバイバルナイフを甲板に投げ捨てていた。
「来い。あんたの恋人を探してやるから一緒に来い!」
 そしてそのままローレライの前へと飛び出した。両手を広げたのは戦意がないことを示すためだが、後方で武器を構えた船乗り達からローレライを守らんとしているようにも見えた。
 船が静々と前進を始める。目を覚ました船乗りによって操船が再開されたらしい。
 ローレライは答えない。知能も意志も感じられない目をどろりと五右衛門に向けるだけだ。だが、恋人と言う言葉に反応したのだろうか、虚ろな瞳がかすかに揺れた。
「な、分かってくれ。来てくれよ。ここに居たら殺されちまうかも知れねぇんだ」
 ローレライが酒場の娘なのかどうかは誰にも分からない。それでも五右衛門は説得をやめない。このまま捨て置けばローレライはいずれ船乗りの敵として倒されることになる。
「一緒に来いって、どうやって? どこに連れて行くの? この世界から連れ出すってこと?」
 五右衛門の背中に現実的な疑問を投げかけるのはベヘルだ。
「彼女は海魔なんでしょ。この世界の住人だよ。どうやって他の世界に連れ出すの?」
「……それは」
「通じるか分からないけど。ねえ、どうして?」
 ベヘルはあくまでマイペースにローレライに質した。
「どうしてここで、どうして奏でるの? さっきも誰かが言ったけど、誰かを探してるの? ――その方法で見つかるの?」
 ローレライの髪の毛が震え、涙と同じ味の雫が滴った。
「戻って来てくれないか」
 ベヘルの問いを遮るように歪が五右衛門の隣に進み出る。
「もう探さないでいいんだ。……ただ、忘れないでくれ」
 彼女が恋人を忘れない限り、彼が消失することはない。
「彼が帰って来た時に、またその歌を聴かせてやってくれないか。――頼む」
 願いのように付け加えられた一言は潮風に絡め取られて消えて行く。
 音声を発することのできない玄はただ状況を見守っていた。だが、何もしていないわけではなかった。ジュードの兄がロストナンバー化したのかも知れないことにも考えを及ばせていた。
 ローレライの体が不意にびくりと震えた。
 彼女の脳裏には今、ジュードの兄の姿が唐突に映し出されている。玄がジュードの心から兄の映像を抜き取り、それを思念画像としてローレライに送ったのだ。
 玄には<真理>や<覚醒>をうまく説明することはできないし、説明してはいけないことも分かっている。
 物言わぬ、しかしあまりに雄弁な瞳が海魔を見つめる。
 恋人が帰って来ればいいと玄は思っている。
「……ア……ギ……」
 ローレライはハープをきつく抱き締めたままその場にうずくまった。潰れた筈の喉からしわがれた音が漏れ出す。苦悶の声であるのかも知れない。彼女の全身は小刻みに震えている。
「――ローレライさん」
 次の瞬間、よろよろと進み出た楓がハープごとローレライを抱きすくめていた。

   ◇ ◇ ◇

 知っていた、知っていたの
 いつかあなたは遠くに行くって
 だから私はいつまでも歌うわ
 あなたが愛したこの声で
 喉が潰れても、胸が裂けても
 あなたに声が届くまで……

   ◇ ◇ ◇

「もしあなたが本当にリーラさんなら……恋人を探しているのなら――」
 ローレライの髪から滴る雫が楓の顔を、喪服を濡らしていく。
「どこかで生きているかも知れないんです。……また会えるかも知れないんです」
 楓の夫は死んだ。だが、リーラの恋人は違う。
「だから……お願いです。ローレライさん。リーラさん……」
 感情が華奢な胸を塞いで、苦しい。伝えたいことはひとかけらも言葉になってはくれない。それでも楓は彼女をきつくきつく抱き締め続ける。気が弱くて引っ込み思案の楓が、懸命に前に出てローレライと話そうとしている。
「……エイ……ッウ……」
 楓の細腕の中で海魔の体が震える。
「グェ……ギィアアアェァァェェゥウエゥアアァァ!!」
 それは歌ではなかった。声ですらなかった。金属的な絶叫とともにローレライの口から血霧がしぶいた。喉が裂けたのだと誰もがすぐに理解した。
 その瞬間。
「………………!」
 脳裏に血まみれの夫の姿がフラッシュバックし、楓は喉の奥で悲鳴を上げた。
「!?」
 斬殺される花魁の姿が瞼の裏に浮かび、五右衛門は瞠目した。
「……何……これ……」
「……そんな」
 ベヘルと歪もそれぞれに顔をしかめたし、玄の大きな瞳からは大粒の涙がこぼれた。
 誰も彼もが、唐突に悲しみに襲われていた。
 誰も彼もが、痛々しい記憶を唐突に揺さぶられていた。
 ローレライは真っ黒な海へと身を躍らせた。海面には白い泡だけが残されたが、それもすぐに掻き消えた。
「畜生。畜生ォ!」
 五右衛門の咆哮が空しく轟く。
 後に残ったのは黒い空と黒い海、その狭間で虚ろに揺れる船ばかりであった。


 船は無事に航海を終えてジャンクヘヴンに帰還した。旅人達は初めに訪れた酒場へと向かった。
「……“恋人を探しに海に行ってくる”。置き手紙にはそんなふうに書いてあったよ。ほとんど走り書きでな」
 酒場の主は旅人達の問いに力なく答えた。
「その翌日だった、ひどいシケになったのは。船を出すことも出来ないような荒れ方で……」
 リーラは恋人を探してジャンクヘヴン中を訪ね回ったが、手掛かりは一向につかめなかった。陸にいないのなら海を探すしかないと考えた彼女は単身海原に漕ぎ出し、行方不明になった。店主が知っているのはそこまでだった。
「娘の部屋からは恋人が作ってくれたハープがなくなっていた。一緒に持って行ったんだろう、お守りみたいなもんだったからな。……けれど、まさかこんな……」
「馬鹿言うな。海魔のハープがリーラの物かどうかなんて誰にも分かんねえよ。そもそも、人間が海魔になるなんてことがあるわけねえだろう」
 うなだれる店主の肩にジュードが手を置いた。リーラの消息は誰も知らない。ローレライの正体も誰も知らない。真相は暗く深い海の底だ。
「……兄貴はいつも空を見てた。海は見飽きたから空に行ってみたいって冗談混じりに言ってやがった。まさか本当に空に行っちまったんじゃねえだろうな、クソ!」
 ジュードは拳を壁に叩きつけた。旅人達は答えなかった。もし兄が本当にロストナンバーとなったのならジュードの言葉もあながち間違いではないだろう。空へ旅立った者を探す術などありはしない。
「とりあえず、夢から覚めるための方法は分かりました」
 楓がおずおずと口を開いた。「もしまたローレライさんが現れたらその方法を実践すればいいんじゃないでしょうか……。それで事故は防げる筈です」
 伏し目がちの楓に玄がそっと寄り添った。大きな瞳がじっと楓を見つめている。滑らかな感触に安堵したのか、それとも玄が何らかの思念を送ったのか、楓の表情がほんの少し緩んだ。
 世界司書からの依頼内容は商船の護衛だ。任務を果たしたロストナンバー達は言葉少なに帰りの列車に乗り込んだ。ベヘルは機械の右腕をさすりながらしきりに首をかしげていた。ハープの音を確かに記録した筈なのに、再生されるのはノイズじみた潮騒ばかりだ。
 一方、五右衛門は腕組みをしたままむっつりと黙り込んでいた。
「……クソッ。このままにしておけってのか」
 という五右衛門の舌打ちで対面の歪は顔を上げた。
「ひょっとしたらローレライも<覚醒>したんじゃねぇのか? あの能力もそのせいかも知れねぇ。もしそうなら世界図書館に掛け合って――」
「司書はローレライをロストナンバーではなく“海魔”と称した。……彼女はブルーインブルー固有の住人なのだろう」
 という歪の弁に五右衛門は口をつぐんだ。導きの書は真実しか写さない。
「お疲れ様でした、皆さん」
 旅人達を出迎えたのは依頼をもたらしたシド・ビスタークではなくリベル・セヴァンであった。ベヘルはこれ幸いと口を開いた。
「ちょうど良かった。ブルーインブルーでロストナンバー化したかも知れない人が居るんだ。そういうのってここの図書館で確認できる?」
「ロストナンバーの名簿を調べることはできます。しかし名簿に名前がないからといって当該人物がロストナンバー化していないとは限りません。申し訳ありませんが、世界図書館はすべてのロストナンバーの存在を把握しているわけではありませんので」
「……そっか。でも一応調べてもらえないかな」
「分かりました、少しお時間をいただけますか。まずは現在の優先事項の説明から」
 リベルは導きの書を手に取り、小さく息を吸った。
「この度、依頼をシドより引き継ぎました。今後は私が担当させていただきます」
 彼女の前には他の旅人達も集まっている。帰還したばかりの五人の胸を不吉な確信が占めた。
「私からお願いしたいのはブルーインブルーでの海魔討伐です。ある海魔が船と船乗りに害をもたらすことになります。これは導きの書に顕れた予言で、確定した未来です」
 玄は何も言わない。玄には耳も、口もない。だが、かすかに震える雄弁な瞳がじっとリベルを見つめている。
 リベルは冷静な一瞥とともに口を開いた。
「“ローレライ”。――これより対象をそう呼称します」

   ◇ ◇ ◇

 知っていた、知っていたの
 あなたは遠くに行ってしまった
 だから私はいつまでも歌うわ
 あなたが愛したこの声で
 声と私が枯れるまで……

(了)

クリエイターコメントご参加くださった皆様、ご覧くださった皆様、ありがとうございました。
規定字数ぎりぎりまで使ってノベルをお届けいたします。

種明かしをば。
目を覚ます方法は、「夢を見続けることを願わない」(夢を拒絶する、現実に帰るべきだと自覚する等)でした。
しかしOPにおいて「眠った者は軽い衝撃で目を覚ます」という情報を出しましたので、それに準じた方法も可としました。

リーラ=ローレライ説はOPから容易に推察できたと思います。
ただ、OP時点ではPCさんはその可能性には気付かなかった筈ですよね(ローレライがリーラと同じ金髪であることは「PLさんは知っているけどPCさんは知らない情報」ですので)。
そのため、ローレライの正体に言及したプレイングは少し変則的に採用させていただきました。

尚、この結末は「失敗判定」でもなければ、「誰かのプレイングがまずかったから」でもありません。
ローレライが“海魔”(=敵となりうる存在)であるにもかかわらず、OPでローレライの討伐を明示しなかったのは初めからこの展開を予定していたからです(しかし、ローレライを倒すというプレイングがあればそれに従うつもりでした)。

近々、ローレライ討伐の依頼が出されることになるでしょう。
彼女が次に奏でるのは狂騒曲です。
公開日時2010-01-27(水) 23:40

 

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