無名の司書の『導きの書』が、音を立てて落ちた。図書館ホールに鈍い音が響く。「どうしたんだい?」 青ざめて片膝をついた司書を、通りがかったモリーオ・ノルドが助け起こす。「《迷宮》が……、同時に、ななつ、も。どうしよう……」 震える声で、司書は言った。フライジングのオウ大陸全土に《迷宮》が複数、発生したらしい。放置すれば迷宮は広がり続け、善意の人々に被害をもたらしてしまう。 たしかに、予兆はあった。先般、フライジングへの調査に赴いたジュリエッタ・凛・アヴェルリーノの報告によれば、《迷鳥》の卵は、駆除が追い付かぬほど多く発見されているという。それも、ヴァイエン侯爵領だけではなく、オウ大陸に点在するさまざまな地域に。「それは……。きみひとりでは手に余るだろうね。対処するための依頼を出すのなら、手伝おう。どうもきみはこのところ、オーバーワーク気味のようだし」「ほんと? モリーオさん、やさしい……」 無名の司書は、じんわりと涙を浮かべる。「じゃあ、お言葉に甘えて。あたし、ひとつ担当するから、あとむっつ、よろしく」「……ちょっと待った。なんでそういう割り振りになるかな?」「それだとモリーオがオーバーワークになるぞ。俺も手を貸そうか?」 贖ノ森火城が、苦笑しながら歩みよる。「ありがとう、火城さん。頼もしい~」「忙しいの? 私も手伝うよ?」 紫上緋穂も駆け寄ってくる。「ありがとう! 緋穂たんだって忙しいのに忙しいのに忙しいのに!」「よかったら、あたしもやるわよ?」 ルティ・シディがのんびりと声を発し、無名の司書はしゃくりあげた。 「ルティたーん! うれじい愛してる〜!」 同僚たちの配慮に、司書は胸の前で両手を組む。灯緒がゆっくりと近づいた。「フライジングに異変が起こったそうだな」「灯緒さぁぁぁぁ~ん。灯緒さんだって朱昏で大変なのにありがとうありがとう愛してる~!」「……いや? ……ああ、……うん」 まだ何も言っていないのに、というか状況確認に来ただけだったのに、灯緒はがっつり抱きつかれて、手伝うはめになった。『オレは手伝わねぇぞ?』 アドは、スルーします的看板を掲げ、走り去ろうとした。んが、無名の司書にあるまじきものすごい俊敏さで首を引っ掴まれてしまった。「ありがとうアドさん!」『手伝わないつってんだろーが!?』 ◇ オウ大陸の辺境、ヴァイエン侯爵領。 ホウ大陸との接点に在るその地の中でも特に境に近い、僻地の閑散とした山里に、ある日突然その《迷宮》は姿を顕した。《迷宮》の出現を示唆する《迷卵》の存在も、その孵化も、誰にも気付かれないまま。「異人の館――顕れた《迷宮》は、そう呼ばれている」 長い尻尾をふらりと揺らして、世界司書・灯緒は静かに導きの書を追って言葉を上げた。 朱い薔薇の蔦に覆われた壁と、タイルの剥がれた床から色とりどりの花が咲く、赤煉瓦で出来た廃墟の洋館――中世ヨーロッパに近しい文明を持つトリの國らしからぬその建築様式が、異人、或いは異形と呼ばれる所以なのだという。朽ちた壁の間からは木々がその枝葉を伸ばし、赤い館を緑のヴェールで覆っている。「一階……《迷宮》の入り口部分はそんな感じなんだけどね、二階から上は全く違った様相を呈しているらしい」 或る者は、戦乱で失われた故郷の村を見たという。 或る者は、幼少時を過ごした邸の姿を見たと。「……どうも、《迷宮》を訪れた人間の故郷の姿を映すらしいね」 訪れる者によって全く違う世界を描く、幻の《迷宮》だ。 もう戻れない風景、出会えない人物、還りたくとも還れない場所、そう言ったものを目の前に突き付けられ、訪れた者は思わず足を留める。懐かしさに苛まれ、そこから動けなくなってしまうのだという。 その《迷宮》を踏破するには、郷愁に囚われず、先へ進もうという強固な意志が必要となるだろう。「そして最上層まで辿り着けば、そこには巨大な焔が燃えている」 《迷鳥》の纏う、全てを拒む自衛の焔だ。 積極的に何者かを傷付けに行く事はせず、しかし下手に手を出してしまえばたちまち呑み込まれ燃え盛る、荒々しいまでの拒絶と、苦しいほどの怯えを顕している。それゆえ、奥に居るはずの《迷鳥》がどんな姿をしているか、導きの書でも把握できなかったようだ。「……基本、《迷鳥》は意志疎通のできない化物であるはずなんだけど、その《迷鳥》は、違うみたいなんだ」 孵化した弾みか、未知の景色への恐怖か。訳の分からないまま《迷宮》を生み出し、最上層に閉じこもっているだけであり、本来は言葉も意思も持った心あるトリらしい。 言葉をかけ、強張った心を絆してやれば、自ら《迷宮》を収束させるはずだと、虎猫は静かに語る。「《迷鳥》は孵化したての幼いトリだ、かれには身を包む焔以外に戦う力もない。手荒な真似をすれば逆に心を鎖してしまう――かも、しれないな」 心を残した《迷鳥》は、フライジングの歴史に於いても珍しい。 幸いにも未だ人を傷付けたという話もないから、できれば説得してトリの迷いを解き、《迷宮》から連れ出してやってくれないか、と、朱金の虎猫は穏やかな口調で云った。 ◇ ――此処は、何処? 甲高い鳴き声が、月の光射す庭に響き渡って、朱色の羽根が舞い散った。花吹雪と見紛うソレは空中で、乾いた音を立てて唐突に燃え上がる。 同時に、庭園の中央を飾る壮麗な薔薇のアーチを呑み込んで、巨大な焔が上がった。 夜の闇に沈む色彩豊かな花々が、柵を這う蔓薔薇が、天を覆う半球の硝子が、躍る焔と蒼い光に煌々と照らし出される。 閉じ込められていた場所を脱け出して、初めて手に入れた自由は、すぐに《迷い》へと変じた。 こわい。 この場所は、ずっと憧れていた、ずっと眺めていた、あの街じゃない。 ――かえりたい。 噫、でも。 そんな事、もう許される筈がないのに。 かえる場所を喪った赤子の叫びだけが、燃え上がる空中庭園を充たしていた。!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『春の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数の通常シナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません。
月光は冴え冴えと輝き、朱煉瓦の異人館を照らし出している。 大きな漆黒の扉の前に立ちながら、依頼を受けてやってきた三人のロストナンバーは、その異様な外装を具に見つめていた。 「……成程、確かにこれは、フライジングの建築様式にはそぐわぬようじゃな」 博識なジョヴァンニ・コルレオーネが感嘆するように声を上げる。西洋風の文化を形成するフライジングと似ているようで、何処かに齟齬を感じる建築。その出で立ちは重々しいが、おどろおどろしさは感じられない。異人館、と呼ばれるに相応しい建物だった。 「じゃ、開けてみますね」 好奇心を隠しきれぬ、と云った風で藤枝竜が入口の扉に手を掛ける。ひとりでは開けられぬと判断したのか、舞原絵奈が彼女の隣に立ち、もう片方の扉を引くのを手伝った。 軋む音と共に開かれる扉。《迷宮》は新たな客人を穏やかに迎え入れ、しかし大気の冷たさは背筋を射すような拒絶を顕している。 「二律背反じゃな」 「ニリツ?」 得心したようにジョヴァンニが頷くのへ、竜は首を傾げて鸚鵡返しに問い返した。咲き荒れる花たちと、緑に侵食される洋館の景色は目を惹くほどに美しい。 アイスブルーの理知的な瞳をふと優しく緩め、翁は埃に塗れた調度品を指でなぞった。 「この迷宮の主は誰も入れたくないと拒みながら、その実救いの手を求めて縮こまっておる。その想いが迷宮そのものにも顕れておるのじゃろう」 「そっか……こうして引き籠ってるけど、本当は助けてほしいんですね」 それならば、自分たちにできる事はたった一つだ。 明朗な色の瞳を強い意志に煌めかせて、絵奈が迷宮の心を代弁すれば、まるでそれが正解だと言わんばかりに、鎖されていたホール奥の扉が独りでに開いた。 「おおっ、ポルターガイストですね!」 目を輝かせた竜が、ホールの散策もそこそこに開かれた道の奥へと進もうとする。 「今度はあっち行ってみましょう! きっと奥の方に階段も隠されてるんですよ!」 意気揚々と扉を潜る少女を見送って、ジョヴァンニと絵奈は一度顔を見合わせ、笑みを交わした。彼女の異能をそのまま顕すかのような、炎のように底のない明るさが、今は貴重だ。 ◇ 蔓薔薇の階段を抜け、二階へと足を踏み入れる。 瞬間、彼らを取り囲んでいた洋館の風景が、ふらりと変質した。 融けて、再構築されるように作り変えられていく世界。訪れた者の心を取り込んで、描きだされる心象風景。彼らはそれを、心を決めて待ち侘びた。 そして現れたのは、壱番世界によく似た光景。一般的な高校の内部だ。 だが、何処か違う。何処かがおかしい。 それは小さな違和感のようでもあり、大きな差異でもある。 たとえば黒板のチョークに小さな顔と手足が生え、文字を書こうとしていた教師の手から逃げ出して授業の進みを妨害している。たとえば寝ている生徒の額から泡が幾つも幾つも浮かび上がってきて、彼の見ている夢の姿を克明に映し出している。たとえば廊下を消火栓の頭を持った人間が歩いて見回りをしている。かと思えば他の生徒は机を枕に変え、ふかふかの上でやはり居眠りをしている。五本の指が鉛筆になった生徒は、器用にも幾つものノートに文字を書き記している。 それは、異世界の人間の眼にはひどく奇妙に映っても、彼らにとっては愛すべき平凡な日常だ。 「これ、私の世界なんです。現代叙事詩、って言う」 「面白そうな所なんですね」 興味深そうに目を輝かせる絵奈に誇らしげに頷いて、居ても立ってもいられなくなった竜は教室の中へと飛び込んだ。見慣れた竜の教室は、ちょうど休み時間に入った所のようだ。 それを待っていたかのように、ふよふよと空中を漂って、一枚の便箋が彼女へとやってきた。その軌跡の先を追えば、竜の友人であるピータンの化身がひらひらと手を振っている。 「今日は帰り、何処行く?」 それとだけ記された文字の下に、「もちろんキリサキミート!」と元気よく書き添えて手紙を飛ばし返す。ふわふわとピータンを目指して飛んで行ったのを見届けて、竜は次の友人に逢いに廊下へと飛び出した。その先にもやはり、見知った人や化身の姿。ああ、此処はほんとうに、私の世界なのだ――。 「あれ?」 ふと、竜は駆けていた足を止める。 否、それ以上先に進めないのだ。 「壁……かな」 手を伸ばして確認すれば、見えない壁が、彼女の前に立ちはだかっているのがわかる。廊下の先はまだまだ続いていると言うのに。 「竜さん」 絵奈の静かで、柔らかに包み込むような声が、彼女の名を呼ぶ。 はた、と竜の瞳に宿る光が、燃え上がるように揺れた。振り返れば、ジョヴァンニのアイスブルーの瞳と絵奈の微笑みが、優しく彼女を見護っている。照れくさくなって、竜ははにかむように笑った。 目の前に在るのは現実の、《迷宮》の壁。全てが幻覚だと悟って、初めて胸を充たす、苦い光。故郷に帰りたいと願う、ほのかな郷愁。 「ちょっと、懐かしくて、嬉しかったです。……私らしくないですね」 「いや。そう恥じる事はないよ。それだけ君が故郷を想っている証じゃ」 「そう、ですよね」 ぱちん、と自分の両頬を叩く。小気味好い音に己を取り戻して、賑やかな笑みで少女は笑った。 「こんな幻覚じゃなくて、本物の故郷に帰らなくちゃ!」 「その意気じゃ」 「さあ、上へ行きましょう!」 絵奈の激励の言葉に頷いて、彼らは三階へと続く階段を上る。 ◇ 次いで、彼らの前に現れたのは、青空の下、何処までも広がる美しい庭園だった。 「あれ、もう屋上に着いたんですか?」 「いえ……これも多分、記憶の中の光景だと思います」 突然の解放された景色に面食らった少女二人が言葉を交わす中、ジョヴァンニだけはその風景の意味を理解し、郷愁に瞳を細める。 一面を黒薔薇と白薔薇に埋め尽くされた花園。彼が幼い頃暮らしていた、生家の光景だ。 優美な弧を描くアーチの下、二人の少年が駆け抜ける。薔薇園に点々と配された大理石の裸婦像が、使用人の代わりに彼らを優しく見守っている。 「あれは――少年時代の儂と、ジャンカルロ」 双子の兄の名を唇に乗せた時、ジョヴァンニは酷く懐かしげな、しかし愛憎の入り混じる複雑な笑みを浮かべた。 よく似た双子の兄弟だった。 今、ジョヴァンニの前を走る少年たちだった頃は二人の間に優劣など無くて、お互いに屈託のない表情で笑い合っていられた。 「よく屋敷を脱け出しては兄と遊び興じたものじゃ」 昔語りに目を細めるジョヴァンニの姿を、二人の少女が微笑んで見守る。 鮮やかな青空の元、陽の光の中を二人の少年は往く。宙を飛び花の間を舞う蝶を指し示し、どちらが多く捉える事が出来るか、競いあっているようだ。 「儂は残酷だからと標本は好まなんだが、ジャンカルロは無邪気に己の手柄を誇った」 捉えた蝶を籠から解き放つ心優しい弟と、揚々とそれを持ち帰ろうとする兄。しかし彼らの間に確執はない。お互いの気性の違いを認め合っているのだ。ひたむきな信頼を互いに寄せるように、少年たちは肩を並べて歩く。 『大人になっても、ずっと一緒だ』 自分たちに降り懸かる未来を知らぬまま、無邪気な少年たちはそう誓い合う。このままここに居れば、兄は確執を知らず、幼い少年のまま生きている――しかし。 「これはまやかしじゃ」 ジョヴァンニの仕込杖が、茨の鞭に変わって鋭い一撃を薔薇の庭に叩き付けた。鋭い一閃に、儚い幻は呆気なく霧散する。 「このまま此処に居る事は出来まい。儂が帰らねば、遺された家族が心配する」 娘夫婦と、愛すべき孫娘の居るイタリアの風景を思い起こす。老いたジョヴァンニが愛する世界、愛する人々を。 「それに、兄と妻の墓参りは誰が行く?」 美しく年を累ねた男は、穏やかな笑みで以って幻覚を討ち払う。 喪われし過去よりも、歴史を累ね、愛おしむべき現在がある――それを、知っているから。 湖水の瞳で毅然と前を見据え、ジョヴァンニはまっすぐ、次の階層へと足を進めた。 ◇ 蔦に覆われ砕けた手摺と、欠け落ちた段差を危なげなく乗り越えて行きながら、絵奈はふと踊り場に設えられた窓の外を覗き込んだ。 吸い込まれてしまいそうな、艶やかな闇が広がっている。月の光が蒼く、ヴェールのように幾重にも連なって空を彩る。その下に広がるのは、道中目にしたヴァイエン侯爵領――の街並み、の筈だったのだが。 「……あれ?」 首を傾げ、立ち止まった彼女に気付いて、二人も足を止めた。 「どうしたのかね、絵奈嬢」 「あの、外の景色が」 そういって絵奈が指し示した先を覗き込み、彼らはその言葉の意味を理解する。 窓枠で切り取られた外の光景。そこに広がっていたのは、深緋に沈む、煉瓦と茅葺の街並みだった。路に敷き詰められているのは石畳と臙脂の煉瓦。街を行く人の姿はないが、先程まで彼らが見ていた筈のヴァイエン侯爵領とは似ても似つかない事は一目瞭然だ。 「これは……」 「フライジング……じゃ、ないですよね」 「むしろ、日本に似ているような気がします」 異世界とはいえ壱番世界とよく似た文化に生きる竜が、首をかしげつつも言葉を添える。それも、竜の住む『現代』ではなく、もっと過去に遡ったような光景だ。 「ええと、タイショーワ時代……とか、多分そのへんです!」 「混ざっておるぞ。恐らくは大正か、明治時代の光景じゃろう」 博識で、日本の文化にも明るいジョヴァンニが解説を付け加える。 「それじゃあ、これは《迷鳥》さんの故郷の景色という事でしょうか?」 「恐らくは」 迷宮の裡(うちがわ)へと入り込んで、窓の外に見える景色も変質してしまったのだ。手を伸ばす事はできても、決して抜け出す事は叶わない。ただ、そんな画が広がっているだけ。 「舞台の背景に使用される、書き割りのようなものじゃろう」 ジョヴァンニの言葉に成程と頷き、三人は改めて、上層を目指して欠けた階段を上る。草花で出来た緑の絨毯が、生きた蔓薔薇の手摺が、彼らを送り出すように咲き誇る。 ◇ 四階へと足を踏み入れた彼らの前で、迷宮は三度目の変質を遂げる。 それは、古風な趣を持つ、広大な木造の屋敷の姿だった。誰一人として住人の姿は見当たらず、不穏な沈黙ばかりが室内を占めている。 息を吸う度肺に巣食う、噎せ返るような血の匂い。暖かだった二階、三階の景色とは違い、張り詰めた絶望の気配がひたひたと忍び寄る。生温い、それでいて手足が麻痺するほどに冷たい、息苦しいまでの空気が充ちる。 異様な光景に足を止めたジョヴァンニと竜の前で、絵奈だけが、何かを探すように茫と足を進める。木床を踏み締める度、乾いた音が無人の屋敷に悪寒めいて響く。 「ここが、絵奈嬢の?」 「はい……記憶にはありませんが、私の、故郷だと思います」 彼女自身には曖昧にしか答えられないが、何よりも、既に竜とジョヴァンニの幻覚を乗り越えてきた今、残されているのは絵奈の幻覚だけだという事実がそれを裏付ける。 どこか息苦しくて、広大な屋敷なのに手狭に感じる場所。 けれど、ひどく懐かしい。歩いているだけで、頭を揺さぶられるような郷愁が彼女を襲う。 「ここは……きっと、私にとって大切な場所だった」 ふらふらと、内側へ引き寄せられるように歩きながら、絵奈は独り言のようにそう零した。記憶には残っていなくとも、魂に焼き付いた哀しみと、胸のざわめきが絵奈にそう語りかけている。 ふと手を掛けた扉の、障子紙が大きな獣の爪で切り裂かれた痕に思わず身を竦めた。開いた部屋には色褪せた多量の血痕と、畳を荒らす爪痕が幾重にも刻まれている。――此処で何が起きたのか、今の絵奈には知る事が出来ない。 「昔の事なんて思い出さなくてもいいって思ってたのに……気になって、仕方がない」 今、目にしている光景の意味が。 自らが喪ったもののかたちが。 ひとつとして判らないのが、苦しいのだ。 「――でも、こんなところで止まっている場合じゃない」 一筋、零れ落ちた涙に見て見ぬふりをして、絵奈は部屋の天井を仰いだ。 その上には、今も尚救いの手を拒み待ち続ける者がいる。 「今の私には、鳥さんを助ける事の方が大事だから」 彼女にこの手を伸ばすまで、立ち止まってはいられない。 胸を締め付ける郷愁と、喪われた記憶への渇望とを振り払って、絵奈は二人へと振り返る。 「行きましょう、みなさん!」 ◇ 階段を上り切ってすぐ、それは彼らの眼に飛び込んできた。 煌々と夜空を照らす火。 火の粉散らし、燃え上がる鳥。 炎は留まる所を知らず、薔薇のアーチを、緑の垣根を、木々をも呑み込んで、月下の庭園の中央で丸く燃え続けている。 「あれが、《迷鳥》……」 そこに、悪意はない。 誰かを傷付けたいと言う意志も、全てを呪う憎悪も、何もない。 (……だあれ?) 不意に、硝子で包まれた庭園に、声が響き渡った。 幼い少女の声。舌足らずで、無垢な、震える言葉。 その声に我に返った絵奈が、炎の燃え盛るすぐ傍まで駆け寄った。 (来ないで!) 「私たち、あなたを助けに来たの」 心からの声は、鎖された炎の殻に響いただろうか。ちり、と長い髪が炎に焦がされるのも構わずに、絵奈は声をかけ続ける。 「あなたを傷付ける事は絶対しないから、話を聴いて……!」 そこから更に手を伸ばせば、ふと、外へ外へと広がり続けていた炎の手が収まる。 (来ないで、燃えて――燃やしてしまう) 炎の中から響く声に、絵奈は目を瞠る。 彼女を傷付ける事を恐れているのだ、この《迷鳥》は。それでいて炎の護りを全て手放し無防備になる事も出来ず、ただ熱の奥でじっと彼らの言葉を窺っている。傷付ける事はしない、それを信じていいのか、決めあぐねている。 「あなたを助けたいの」 だから、絵奈は言葉を重ねる。 ごうごうと燃え盛る、炎の奥の幼い鳥へ届くように。 「だって……この炎、とても悲しい音がする」 哀しいまでの拒絶と、痛々しいまでの救いを求めるこえ。炎が爆ぜる様は、まるで彼女が泣いているように、絵奈には聴こえるのだ。 「目の前のあなたがこんなに悲しんでるのに、放っておけないよ」 絵奈の真摯な呼びかけに、炎が一度、大きく揺らいだ。それは迷鳥自身の心の揺らぎなのだろうか。彼らを見極めようと、怯えてばかりいた鳥が三人に向き直る。 ふと、絵奈の隣を擦り抜けて、カシミアのコートが揺れる。彼女の先――炎の只中へと。 「ジョヴァンニさん……!」 「心配は無用じゃ、マドモアゼル」 人差し指を口許に持っていき、そっと、片目を瞑ってみせる。その優雅な仕種に絵奈は思わず口を噤み、彼の言動を見守った。ジョヴァンニの老いて尚瑞々しい、白い指先の向かう先を。 彼は一度、湖水のようなアイスブルーの瞳を細めて炎を見つめ、そして躊躇うことなくその中心に手を伸ばした。炎を潜り、燃え盛る熱が掌を舐めて行くが、軽く眉を顰める程度で怯えも竦みもしない。 「棘があるから薔薇は美しい。……が、棘があっては傷の手当てもできん」 (だ、め) 炎が、涙零すように震えた。火の勢いが衰えて、ジョヴァンニから逃げるように遠ざかり、中に居る存在の容をなぞるほどに小さくなる。小柄な鳥。寸胴で、どこか可愛らしいフォルムと真っ直ぐな嘴が炎の向こうからでも解る。 「ペンギン?」 「いや、これは……鷺の一種じゃな」 一般的に鷺を象徴するシラサギとは違う姿をしているが、ゴイサギと呼ばれる、紛れもない鷺だ。朱がかった褐色の散る毛並みは猛禽の羽根を思い起こさせる。幼鳥で、まだ羽根が生え変わっていないのだろう。 「迷子の雛鳥よ、君の名は?」 手を伸ばす事は止めぬまま、ジョヴァンニは優しい声で問いかけた。炎は一度震えて、閉じていた目がくるりと彼を見上げた。 (ときわ) 「ときわ嬢か。君が見たい光景は、この邸の姿なのかね?」 (わたし、が、見たいもの) きょとんと、あどけなくすらある仕種で炎鷺はジョヴァンニの問い掛けへの答えを探す。 (ずっと、庭から眺めていた……綺麗な、霧の街) その言葉に、はたと絵奈は硝子に包まれた庭園の外を見た。先程階段を上り際、目に焼き付いた窓の外の景色。深緋に沈む煉瓦と石畳の街は、今そこにはない。屋上の外側まで《迷宮》の効果は及ばないのだろう。ただヴァイエン侯爵領の果て、山里の姿が視えるだけだ。 「あの景色……やっぱり、彼女の故郷だったんですね」 (憧れていた。……庭の壁に、穴を空ければ飛んで行けるかな、と思ったの) 「成程。炎で硝子を融かそうとしたのか――これ、竜嬢、試そうとするでない」 振り返るまでもなく気配を察し、ジョヴァンニが竜を窘める。好奇心のままに火を起こそうとしていた竜は悪びれもせず舌を出し、彼らの許へと戻ってきた。 「――ではときわ嬢、君の望むものを見に行こう」 再び差し伸べられた手を、炎鷺は呆気に取られたように見つめていた。それを取る事まで思い至らぬように、首を傾げたまま。炎は最早熱の膜と呼んでいいほどに薄れている。 「そうですよ! 実は、私もあなたみたいにいきなり別の世界に出てきたんです」 (べつの、世界) 竜の言葉を鸚鵡返しに反復する雛鳥の、その頭上にフライジングの数字はない。――ロストナンバーだ、と、彼女を包む炎が消えてようやく彼らは理解した。 「でもそれを怖がってちゃだめです! 外には更に素敵な世界が待ってるんです!」 両手に己が炎を纏わせて、ジョヴァンニがそうするように竜もまた雛鳥へと手を伸ばす。 「ほら、私も炎が出せるんです。大丈夫、暖かいですよ……」 己と同じ炎を操る竜の姿に、鷺は僅かに目を見開いて、可笑しそうに微笑んだ。熱の壁越しにでも、彼女の纏う炎の暖かさ、彼女の心遣いを感じ取ったのだろう。 絵奈もまた、再び鷺へと向かい合った。先程までは視えなかった炎の向こう側に、確かに彼女が存在している、それが判るのが嬉しくてたまらない。 「ときわさん、私も、あなたの故郷を探すのを手伝いたいの。きっと見つける方法はある、だから、一緒に行きましょう」 鷺も今度は、拒絶の炎で耳を塞ぐ事はなかった。あの、哀しい炎の爆ぜる音も止んでいる。 (――ありがとう) 朱色の鷺は、炎を消して立ち上がった。猛禽めいた朱色の毛並みが、可愛らしい雛鳥のフォルムが、彼らの前に現れる。 一度その身が白く目映い光に包まれたかと思えば、そこには絵奈や竜と同じ年頃の、小袖姿の若い娘の姿があった。 娘は三人を見渡して、柔らかく微笑んだ。 ジョヴァンニの熱で腫れた手に、竜の炎に包まれた手に、絵奈の優しく伸ばされた手に、おずおずと手を伸ばす。 黎明の光射す中で、《迷宮》は迷い子の惑いと共に掻き消えた。 ◇ 0世界に居る朱金の虎猫から、トラベラーズノートを通して伝えられた、ひとつの事件の顛末。 鷺という単語にやけに動揺を示していた彼は、しかし事情を詳しく訊き出した後、すぐに伝手を使って調べてくれたようだった。 或る世界の或る都で、貴族の所有する館が突然炎上し、跡形もなく燃え尽きたと言う。 幸い館の人間は皆出払っていて、死傷者はなかったようだが――館の屋上の庭園で飼われていたゴイサギの親子が行方を眩ませた。 親鷺には、館を訪れた客人に郷愁の《夢》を見せる力があり、瑞鳥として館に厚遇されていた。 子鷺の方は、未だ生まれて間もなかったと言う。 ――世界の名は、『別たれた豊葦原・朱昏』と。 ◇ 新たな仲間を伴い、ロストレイルの<駅>へ還ろうと来た路を引き返し始めた三人の前に、明け方の空を飛ぶ白い翼が目に入った。 「あれは」 「シオンさん……?」 大きく、美しい白鷺の翼を備えた青年。 それは彼らもよく見慣れた、ロストナンバーの一人、シオン・ユングの姿だった。遠くの山を越えて、滞在していたヴァイエン侯爵邸から駆けつけて来たらしい。 「な、なあ! さっき灯緒から聞いたんだけど、ここで保護されたのって――」 その言葉には、その面には、何処か焦るような、期待するような色がある。三人は顔を見合わせ、しかし彼によく視えるよう、殿を歩いていた娘を示して見せた。 娘の纏う比翼迷界のものとは思えぬ小袖、そして頭上に目を遣り、青年は黄金の瞳を丸くする。 「ロストナンバー、か……?」 「はい、常葉(ときわ)さんって言います」 絵奈の説明に、シオンは茫と言葉にならぬ声を上げる。 「そう、か……」 白鷺の青年は力なく項垂れて、貌を覆って笑い出す。普段の彼らしからぬ動揺、そして茫然とした姿。 「あ――あの、ええと、ごめんなさい……?」 華奢な手で口許を隠し、おろおろとシオンの様子を窺う娘を庇って、竜が彼らの間に割って入った。 「駄目ですよ、女の子を泣かせちゃ!」 「そうとも。紳士としてあるまじき振舞じゃ、シオン君」 「あ、いや……悪い」 二人から窘められ、僅かに平静を取り戻した青年は、困ったように己の白い髪をかきまぜた。 「灯緒から『鷺の《迷鳥》が保護された』ってメールが入ったから、つい」 「それは……君の、姉君の事かね?」 フライジングに生まれ落ちた《迷鳥》そのものである白鷺・シオンの姉シルフィーラ。『鷺の《迷鳥》』とだけ聞かされた灯緒が早とちりし、一刻も早く、とシオンに連絡を取って彼はここまで来たのだろう。 「そ。……ごめんな、お嬢さん」 そっと、シオンは常と同じ柔らかな物腰で片手を伸ばす。 「……ううん」 ときわは目を丸くして、しかしゆっくりとその貌に笑みを咲かせ、彼の背に広がる白い翼を見つめていた。 黄金の瞳を細めて、シラサギの青年は明るい言葉でゴイサギの娘を迎え入れる。 「そしてようこそ、世界図書館へ」 <了>
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