遠く、白い鳥の群れが駆けてゆく。 頬を撫でる潮の香は、嗅ぐだけで鼻に染み付きそうなほどに濃い。 帆をぱんと膨らませ緩やかに進む船の先、続く蒼は澄んだ空の色と混ざってぼんやり輝いているようにもみえた。 よく使い込まれ褪せた甲板の上、船とは不釣合いな豪華な赤いドレスを身に纏った少女が、緩く瞳を瞬く。 年の程は十代も半ばを過ぎた頃、といったところだろうか。橙色の瞳はまだ幼く好奇の色に満ちている。「リエルお嬢様、そろそろヴァレリアの海域に差し掛かりますので、船室にお入りください」「何よ、まだいいじゃない。船室なんかに居たんじゃ息が詰まるわ。ねぇ、ソワ?」 頷きかけたところをじろりと片眼鏡の青年に睨まれて、ソワと呼ばれた華奢な少年はあちこち視線を彷徨わせた。「あ、あの……私も、お嬢様は船室に下がられた方がいいと」「ソワもこういっておりますし、そろそろお下がりになられてはいかがでしょうか、リエルお嬢様」「うるさいルノー、私のソワを虐めないで」「虐めてなどはおりませんが……」 こほん、と咳払いを一つ。 ルノーは落ち着き払った態度で、未だ若く幼い貴婦人を諭そうとする。「ですがお嬢様。この海には危険な海魔のみならず野蛮な海賊どもが居り、クロード様も散々に手を焼いていると」「ねぇルノー、私思うのだけれど」「はい、何でしょうかリエルお嬢様」「貴方のせいで折角の船旅が台無しだわ」「……」 只でさえ台無しなのに、と小さくぼやき、少女は大きなため息を吐いた。「私は、ソワと二人きりでもよかったのよ」 そういって、背を向ける。 少女はじっと海の彼方を見詰め、それきり押し黙ってしまった。「……そんな訳には参りませんよ」 それまで表情ひとつ変えなかった青年は、どこか悲しげな色を帯びた瞳でぽつり立つ少女の背中をじっと見詰める。 何か云おうと口を開きかけたソワは、制するように肩に手を乗せたルノーを見上げ、そのまま甲板の上へ視線を落とした。「あーもう、あっつーい!」 空に向かって大きく叫んだ華城水炎の傍らで、柊白は物珍しそうに海ばかりを眺めている。「てか……何で交易船なの。太守の娘が嫁ぐんだから、もっと盛大に豪華な船で乗り込むもんじゃないの?」「あー、ほんとにね。あたしももっと派手なお見送りみたいのを想像してた」 今回彼らが護衛するのは海上都市「グラム」の太守の娘・リエル。 弱小であるとはいえ仮にも海上都市だ。一人娘であるリエルを嫁がせるというのに、太守の見送りは屋敷を出るまでだった。そのまま大した供もなく交易船でこっそり海へと出て、今此処に至っている。「まぁ、不審に思われるのもわかりますが……それは無理な相談です」「どうして?」 ふと姿を現しそういったリエルの側仕え・ルノーに、水炎は不思議そうに首を傾げた。「確かに。本来ならば貴族の御座船に乗り、グラムを出る時から盛大に祝うべきなのでしょう。ですがお嬢様の嫁ぎ先である海上都市「ヴァレリア」の状況が、それを許さないのです」 海上都市「ヴァレリア」の海域には海魔は勿論のこと、海を荒らしてまわる野蛮な海賊たちもいる。 海賊たちの中でも特に注意するようヴァレリア太守に強く言い含められたのが、女海賊「ビネタ」。どうも永きに渡りヴァレリアの海で幅を利かせている海賊であるらしい。 ビネタは主に縄張りを荒らし腹を肥やした海賊をカモとする「海賊を狩る海賊」であるらしいのだが、その他の船を全く襲わないというわけでもない。商船に船を寄せ「友好的に」商い品や高価な物品を頂戴したりする事例も幾つか報告されているらしいのだ。 そうである以上、これ見よがしの鴨葱船である御座船や観光船、商船に乗るわけには行かない。「ビネタはヴァレリアの海に浮かぶものすべてを自分のものだと言い張っています。そんな危険な海域に、のんきな貴族の御座船などで入り込んでは、襲ってくださいといっているようなものですからね」「なるほど……この貿易船ならば他に比べればまだましな方、ということか」 ジュリアン・H・コラルヴェントの言葉に、ルノーは苦笑し頷いた。 彼らが乗ったのは技術をやり取りするための貿易船。高価な商材を積んでいるわけでもなく、高価な装飾品で身を固める客もない。時にその技術ですらも売買のため襲わんとする海賊も居るにはいるが、その遭遇率は他に比べ格段に低いというわけだ。「でもお嬢様のあの格好はないんじゃね? 見られたらすぐにばれちゃうじゃん」 鰍はふと凭れるように手摺に両肘をつき、ルノーの後ろでぼんやりと海を眺める真っ赤なドレスのお嬢様を指す。 いざという時にあの格好では、どう見ても拙いだろう。ヴァレリアの海上で太守の花嫁が人質というのも、笑えない話だ。「ちょっと貴方、よけいなこといわないでよ! せっかく」「リエルお嬢様、やはりお着替えになられた方が……」 ルノーの言葉にげんなりとした顔をして、リエルは両手を腰にあてる。「ほら、また……絶対嫌って、出る時に散々いったじゃないの」「でもお嬢様……その、危険です」 傍らの気弱そうな少年が諌めるのもきかず、リエルはルノーにくってかかった。「だってその服だっさいんだもの!」「お、お嬢様、落ち着かれてください」 ぷうっと頬を膨らませたリエルと、その怒りを何とか宥めようとおろおろする少年をみて、ルノーは額を押さえてはぁと深いため息を零した。「苦労性だね」「恐れ入ります」「ま、いいんじゃないの? どんな格好でも狙われる時は狙われるんだし、いざって時に真っ先に目に付くってだけだしさ」 その言葉にリエルはぐっと言葉を詰まらせた。 じっと睨みつけるように白を見て、ふんと鼻を鳴らす。「その時のために雇われたんだから、貴方たちがしっかり仕事をすればいいだけの話じゃない!」 頭の上にはてなを乗せたクレフを抱っこした水炎が、ぽかんとした表情でリエルを見詰める。「……まぁ、そうだけど」「はは、その通りだね」「……大変申し訳ございません。太守様からの許可は得ておりますので、無事ヴァレリアに辿り着くことができましたら、皆様には披露宴にて十分にお楽しみ頂ければと思います」 それまでは当然皆様には、お嬢様が云うようにしっかりと働いて頂きますが。 きっぱりとそう云い放ったルノーの眼鏡が、きらんと光る。「まぁ海上都市近くまで行けば、迎えが待っているそうですので……ヴァレリアの船と合流できれば、凡その安全は確保されるでしょう」「迎えなんて要らないっていったのに」「クロード様も、お嬢様のことを心配されているのですよ」「……知らないわよ、そんなの」 ――とまぁこんな調子で、お嬢様は終始不機嫌なご様子で、一行の八つ当たられ気味の旅は幕を開けた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鰍(cnvx4116)ジュリアン・H・コラルヴェント(cutn5843)柊 白(cdrd4439)華城 水炎(cntf4964)=========
「順調順調!」 目映い太陽に手を翳す華城水炎。その傍らで果てない青の境界をじっと見詰めていた柊白は、ぱっと彼方を指差した。 「お、でっかい魚だ。晩飯アレにしようか?」 「っはは、食出がありそうだな」 「……また海魔か」 甲板には既に斬り捨てた海魔との格闘の跡がある。 招くように手を振る鰍の傍らで、ジュリアン・H・コラルヴェントは指先で剣に触れた。 「ほんと、でっかいなー!」 「捕まえたら何にする? 塩焼き? それとも味噌煮か?」 「ん? ……本当に食べるの?」 僅かに戸惑うジュリアンの背後で、ルノーがこほんと咳払いした。 「……何かお出ししましょうか?」 「え? いやいや冗談冗談ー」 「そうそう、もし捕まえたら何にして食べようかって話」 笑み混じり、けれど真剣にそんなことを話す彼らにソワも軽く微笑んだ。 鰍はふとルノーの方を振り向く。 「手持無沙汰でさ、なんかする事ない?」 「そうですか。でしたら此方をお願いします」 「おーって、あれ?」 手渡されたのはモップと雑巾、そしてバケツ。 「掃除をお願いします。特に……あの辺りを重点的に」 鰍は彼の指差した、先の戦いで海魔の体液がべっとりついた甲板をぼんやり眺めた。 「それが終わったら傷んだ帆の修繕をお願いします」 「……なるほど」 この感じ、さすが人使い荒い。 鰍はこきり首を鳴らし、早速掃除に取り掛かる。 「そういやさ、リエルとソワって普段からあんな感じなわけ?」 「概ねあのような雰囲気ですが……それが何か?」 「いや、苦労多そうだなと思ってさ」 「アレは幼い頃からお嬢様にお仕えして居りますし、慣れたものでしょう」 「ふーん、そうなのか。ルノーは? 何か一番苦労してそうじゃん」 ふむと呟き、ルノーは目を細めてリエルとソワを見た。 「苦労は苦労なのでしょうけれど」 目の前で繰り広げられる、お嬢様の我が侭に振り回される側仕えの図。 いつもなら彼もまたその輪に加わり、時に宥め、時に叱り、そうして今日まで来たのだろう。 「まぁ……それほどでもなかったですよ」 そういって小さく笑み零すルノー。鰍は珍しいものを見た気がして、幾度か瞳を瞬いた。 「彼女は結婚に納得がいってないのか?」 「嫁入りって面倒そうだし、案外最後の我が侭なのかも」 「じゃあ、あたしちょっと訊いてみよっか?」 「任せるよ」 「じゃ、ボーっとするのも暇だから、俺はソワ辺りに絡みに行くか」 「そうか、いってらっしゃい」 それぞれに近付いていく水炎と白の背を見送りながら、ジュリアンはふと思う。 ――何をすればいいんだろう。 ふと周囲を見回せば、懸命に甲板を磨く鰍の姿。ジュリアンは彼と何やら話し込む男へ視線を向けた。 責任者は彼なのだから、その目の届く範囲では彼の云うことを優先すべきなのだろう。 思うが早いか、こつり甲板に足音が響く。 「何かすることがあれば手伝うよ」 「そうですか、それでは――」 戸惑う様子の欠片も見せず、ルノーはきらんと眼鏡を光らせた。 水炎はひょいとリエルの顔を覗き込んだ。 「せっかくの船旅だしさー仲良くいこーよー? なー? なんつーの? 呉越同舟ってゆったっけ?」 リエルは何だか据わった目付きで水炎を見ている。 「ねーねー、着替えない?」 「嫌だって言ったでしょ」 きっぱり言い放つ彼女の表情は酷く険しい。 「どしてもドレス着たいっつーならあたしも着るー!」 「は? 護衛の癖に何言ってるのよ」 「ほらリエルだけ狙われないように身代わり? にもなるしさー。いざって時の対策も必要でしょ?」 きょとり純真な瞳ですっとぼける水炎に、リエルは言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせた。 「ま、まぁそうかも知れないけど」 「着たい着たいー、じゃなくて着た方が良くない?」 「……着たいだけじゃないの?」 盛大にごねる水炎に、リエルは盛大な溜め息を吐いた。 「いいわよ、着なさいよ。貴女なら入るんじゃないの? あ、もしかしなくても胸周りがきついかも知れないわね!」 「ちょ、なんてことを……!」 予想外の展開と辛口批評に水炎は思わず慌てた。盛大にごねてリエルが着替えてくれればいいとは思ったが、着用の許可が下りるとは思わなかった。 「ソワ、私のドレスを着せてあげて」 「はい、お嬢様」 白と何やら話していたソワがぱっと立ち上がる。 「え、ドレス着るの?」 「う……まぁ、これはこれで結果オーライかなー、とか?」 「まあ、一人で着てるよりはまだマシか」 その背を見送りながら、白はぼそりと呟いた。 程なく着替えを済ませた水炎がソワに連れられやってくる。 至る所にフリルとリボンをあしらった真っ赤なドレスを身に纏い、水炎は若干恥ずかしそうだ。 「似合う、かなー?」 「まぁ素敵! やっぱりいいドレスだわ」 「あれ? あたしはー?」 「流石グラム一番の仕立て屋ね!」 「ねーねー、あたしはあたしはー?」 「ぎゃあぎゃあうるさいわね、馬子にも衣装だって言ってんのよ」 「……それって褒めてる?」 「一応?」 無言のリエルに代わり、頬杖を付きながら海を眺めていた白が答える。 「汚したら殺すわよ」 「こわっ」 物凄い真顔でそういったリエルに、水炎は軽く顔を引き攣らせた。 「それで、なんでリエルは不機嫌なの?」 「不躾な人ね」 「……ルノーやソワに言えないこと聞くくらいは出来るよ。悲しいかな、あたしらこれっきり、だからね」 ふと笑んだ水炎の目の中で、リエルの瞳がきゅっと鋭く細められた。 「そう……これっきりだから、好き勝手に言い放題できるってわけね」 「まぁ、そうともいう?」 「なるほどね、よくわかったわ。これっきりの人間だからどうでもいいってことよね」 「えー、それはちょっと違う?」 「違わない! 貴女も、あいつも、最初っから私のことなんかどうでもいいのよ!」 瞬間的に激昂したリエルがきっと睨みつける。けれど当の水炎は何ら堪えていない様子できょとりと見詰め返した。 そっぽを向いて歩きだすリエルの背を、水炎はむーと首を傾げながら見詰める。それから、大量の索具を抱え爽やかな労働の汗を流すジュリアンを見た。 「……大丈夫、本当には怒っていないと思うよ」 「だよねぇ。でも、今のって誰に怒ってたの?」 「さあ……単純に考えれば、グラムを出る前に何かあったとか、かな?」 「うーん、あいつって誰だろ? 誰かと喧嘩でもしちゃったのかな」 もっかい行ってくる。にっと口の端を引き上げた水炎に、ジュリアンはふと笑み返した。 その間にも、新たな八つ当たり被害者が一人。 「ちょっと、そこ退いてよ! 何をちまちまやってるの?」 「ん? 俺か?」 「今、貴方以外に、誰が、私の目の前に居るっていうの!」 嫌味満載にはっきりきっぱり言い放つリエル。けれど鰍は特に逃げるわけでもなく、嫌な顔をするわけでもなく、床磨きに精を出している。 「ルノーに頼まれた、甲板磨きだな」 「訊いてないわよ」 「そうだっけ?」 「そうよ。退きなさいよ」 「んー。リエルは本当はさ、どうしたいんだ?」 「は?」 「本当に嫌ならさ、ちゃんと自分の意見言った方がいいんじゃないかって」 ――俺は思うんだけど。 そう零しながら、妙にこびり付いて取れない一点に集中する鰍。 血染みはすぐ拭かないと駄目なんだよなー、とまたしても関係のない事を零す彼に、リエルは眉を顰め、じっとその背を見詰めた。 「不満なんてないわ」 「あらま。そいつは意外な答えだな。どうみても不満たらたらに見えるぜ?」 にっと笑う鰍に、リエルはムッとしたような、けれど困ったような表情を浮かべる。 「この船旅だって最高よ、妙な人達と一緒でさえなければね!」 「っはは、違いねぇわ。まぁさ、何かあんなら溜め込んでないでいっちまえよ」 「……貴方に?」 「まあ、俺でもいいけど?」 そのまま何事かを考え込むようにむっつりと黙り込んだリエルに、鰍はふと口の端を引き上げる。 「ねぇねぇ、リエルー」 途端に溜め息を零すリエルの顔を、水炎はひょいと覗き込む。 「どしたらご機嫌直してくれる?」 「貴女、よく平気で来れるわね」 リエルはもう一度盛大に溜め息を吐いた。 「せっかく可愛いんだから笑った顔見せて欲しいのになぁ」 「……なら、貴女が笑えるようなことを言えばいいんじゃない?」 「えー、また難しいお題を……」 リエルはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。 水炎を困らせて遊んでいるような気がする――終始不機嫌かと思いきや、それなりに楽しそうに過しているように見えて、やっぱりなぁと鰍は小さく零す。 リエルは小さな吐息を零すと、ちらと鰍を見た。 「私はね……結婚することに、不満なんてないの。クロード様はとても素敵な方よ。結婚相手として申し分ないわ」 何よりこれでグラムは護られる。此方にとってはいい事尽くめなのだと、リエルは肩を竦めてみせた。 「だから、私はヴァレリアの花嫁となることに不満なんてない。不満が在るとすれば……あいつよ!」 リエルはお嬢様にあるまじき表情でギリィッとしながらある一点を睨み付けた。 水炎はその視線の先を辿り、驚嘆したように目を見開いた。 「えっ白!? 何でなんで??」 「ちっがーう!」 リエルの叫び声が、甲板に大きく響いた。 一方、その頃白は。 「我儘なお嬢様の護衛っつーのも骨が折れるねぇ」 「あ、えと……リエルお嬢様のことでしょうか」 「他に誰がいるのさ」 「え、ええと……は、華城さんとか?」 「あれは護衛」 「あ、そうでした」 照れたように赤らんだソワの頬を、白はとすりとつついた。 「披露宴のご馳走ってどんなのが出るんだろうな」 「と、都会っぽいお料理とかれひょうか」 「都会っぽい料理?」 「グリャムは割といにゃか料理とか、そういふのが多いのれ」 「ふうん、そうなんだ」 幾つかの見知らぬ料理名をあげるソワに、白は興味深げに聞き入った。 グラムは田舎、ヴァレリアは都会。料理や文化、それに都市の発展度も相応に違うらしい。 どうやらリエルには、都会への憧れがあるらしいことも分った。グラムを出、ヴァレリアへ行くことに関しては、さして不満はないということだろう。 「やけにお嬢様のこと心配してるけど、何か慕う理由でもあるのか?」 「いえ、僕は……その、小さい頃、お嬢様に助けて頂いて」 殊更頬を赤らめるソワに、白は興味深げに瞬いた。 「助けて貰ったって、何かあったの」 「え、えと。僕はそれまで孤児院にいたのですが、気に入って頂いて……その、特別にお嬢様の側仕えにと」 「ふぅん、そうなんだ。大出世だな」 それにしても妙に照れているように見えて、白はそれとなく訊こうとして思いっきり直球をぶん投げた。 「惚れてんの?」 「へっいやまさかっ恐れ多いです!」 あわあわしまくりで益々怪しい。 軽く過呼吸に陥りそうな勢いの彼を見遣り、白はふうんと小さく零した。 「婚約者ってどんな人?」 「あ、えと、素敵な方です!」 「カッコイイんだ?」 「はい、雄々しくて、立派な方です!」 「ふぅん、憧れたりしてんの」 「えとえと、男らしくて、豪爽っていうか……と、とにかく、憧れます!」 ソワとしては好い印象しか抱いていないらしい――しかも、軽く興奮する程に。 「柊さんもお会いになればわかります! あ、僕も一度しかお会いしたことがないんですがっ」 またしても頬を真っ赤に染め上げて力説するソワ。 どうやら只の赤面症のようだと、白は思った。 結婚式の後、彼らはどうするのだろうか。 ふと気になったジュリアンは、ルノーに問いかけた。 「結婚式の後、二人はどうするんだ?」 「私とソワのことですか?」 「あぁ、……彼女の傍に残るのか?」 「そうですね。ソワを連れてゆくことは、お嬢様立っての願い。クロード様も了承済みですし、婚姻を済ませた後も側仕えとしてヴァレリアで生きてゆくことになるでしょう」 「なら、ルノーは?」 「私は……」 ルノーは片眼鏡の端をつと持ち上げると、小さな吐息を零した。 「暫くの間、お暇を頂くことになっております」 意外なその答えに、ジュリアンは瞳を瞬いた。 「へぇ、そうなのか。グラムかヴァレリアで、暫くのんびりと?」 「いいえ、そのような予定はございません」 いつもなら素気なく流す処だ。けれど緩く首を振り静かにそう答えたルノーに、彼は僅かな違和感を感じた。 「……一人で、どこかへ旅行にでも?」 「まぁ、そういう事になりますでしょうか。……ジュリアン様は、もう次の仕事などは決めておいでですか」 「いや、僕もまだ特には」 誰かが彼がヴァレリアへ留まる事を快く思わなかったのだろうか。否、彼自身が拒んだ可能性もある。そう考える方が余程しっくりとくると、ジュリアンは思った。 先ほどの吐息は、一体何の吐息であったのか。 安堵、或いは落胆。 黙々と指示に当たるルノーの表情からは、それを読み取ることはできなかった。 * 警鐘が鳴り響く。 存在に気が付いた時、既にその船は目の前に居た。 岩陰で息を顰め、鴨が来るのをじっと待ち受けていたのだろう。 甲板にずらり歪みきった笑みを浮かべ、彼らは真横から一直線に突っ込んでくる。 「どこが友好的だって?」 「いきなり大砲を打ち込んだり、夜襲で皆殺しを狙ってこない辺りが友好的です」 ルノーは慌てることなく剣を掴むと、その一つを鰍の方へと放った。 「足が速い!」 「ていうかこれ、さされる?」 軽く顔を蒼褪めさせて、水炎が呟く。 「正気かよ? リエル、船室に入ってな」 「ソワが一緒でなくちゃいや!」 「ぼ、僕だって戦えます!」 「言い合いしてる場合か!」 鰍が素早くウォレットチェーンを走らせる。 龍と鎖、二連となった真鍮の色が視界を駆ける。この鎖によって張り巡らされた不可視の壁は、不用意に触れようとする者の身を焼く結界だ。 「この中なら安全だから、絶対出るなよ!」 強く言い含めながら、近くにあった樽を蹴倒す鰍。 伏せろと、誰かが叫んだ。続け様に激しい衝撃が船体を襲う。 木片を吹き散らし、海賊どもが次々乗り込んできた。 「さっき甲板に赤いのが居ただろ、とっととそいつを出しな」 やはり真っ先に目に付いたか。海賊の要求に白は僅かに眉を顰める。 「何かの見間違いじゃないの?」 「大人しく従えば命まで奪いやしねぇよ、俺達ゃ親切だからな」 「おい、あれじゃねぇ?」 げらげらと嗤う海賊達の視線が一人に集中した。 「げっあたし!?」 「あの女を捕まえろ!」 水炎へ襲いかかる海賊達を制するように、ジュリアンが声を張る。 「まて、確かにあれは船一番の品物だが、彼女がどうしても着たいと言って聞かなくて」 「ほう、商船でもないのにドレスを?」 「こりゃあ他にもイイ物がありそうだぜ?」 「てめぇら、派手に壊して暴れまくれー!」 オオと雄叫び海賊どもが暴れだす。 「うぅ、すっごい友好的」 「ホントにな」 げんなり呟く水炎、鰍は舌を打ち視線を走らせた。 ビネタと思わしき人物は此方の船へ乗り移ってくる心算はないようだ。自身の船の甲板で、にやにやと嗤いながら高みの見物を決め込んでいる。 「よう、姉さん! こんな船に目ぼしいものなんてあると思う?」 「何をいってんだい。あたしの興味を引くものがあったから来たのさ」 「おっと、そりゃ失礼。参考までに何に興味を引かれたのか聞かせてもらえると有難いんだけど?」 鰍は襲い来る敵の剣戟の幾つかを鞘で弾き、受け止める。 「全部さ。あたしの物をどうしようがあたしの勝手。そうだろう、坊や?」 ヴァレリアの海に浮かぶものはすべて自分のもの、つまりこの海域へ入った時点で、この船にある何もかもが彼女の物という訳だ。 「アンタだってあたしの物なんだよ」 「は?」 降り注ぐ剣閃の向こうで、女は唇を大きく歪めた。 ――生かすも殺すもあたしの自由なのさ。 「やばい、すごい暴論だ。ホリさんどうしよう」 威嚇するように炎の弾を打ち出すホリさんに訴えながら、鞘に入ったままの剣を振るう。 「なぁ、クロードの事どう思ってる?」 「クロード? あれだってあたしの物さ、手ぇ出すんじゃないよ!」 「誰が出すか!」 高笑いするビネタに噛み付きながら、鰍は素早く身がわした。 先ほどまで居た場所にドカドカと剣が突きたてられる。 「本当にさ、何でもない普通の船なんだけどな?」 できるだけ穏便に済ませたいと鰍は零す。だが最早それを聞く段階にはないらしい。海賊達の切っ先は、一般の乗員達へも向けられる。 間一髪、へたり込む乗員の前へ身を滑り込ませた鰍に、真横から海賊が突っ込んでくる。その背を剣の柄でがつんと殴りつけ、ジュリアンは素早く視線を走らせた。 振り下ろされた切っ先を寸でで身がわし、腕を掴む。 ほんの少しの念動力を添えてやれば、相手は面白いほどの勢いで仲間を巻き込み吹っ飛んだ。 ――妙な奴がいる。水面に波紋を広げるが如く、ジュリアンの存在に海賊達がざわつき始めた。 「サンキュ」 「ああ、気にしなくていい」 ジュリアンは素早く視線を走らせると、リエルの状況を確認する。 船体をぶつけた衝撃か、そこかしこに散乱する樽と木片。 甲板を走る鎖は恐らく鰍の物。幾重にも交差する鎖の中、樽の影で小刻みに震える赤い布が見えた。見つかるかどうかは運次第だが、恐らく海賊は指一本彼女に触れることは出来ないだろう。 ジュリアンはどっと甲板を蹴りつけ、襲い来る海賊達の合間をすり抜ける。目の前に立ち塞がる巨漢を一撃の元に叩き伏せ、足場を選ばず突っ込んでいく。 その動きを止めんと果敢に飛び掛ってくる海賊を、一人二人と細剣で斬り伏せる。時折混じる風刃に切り裂かれ、うめき倒れる海賊。その姿に困惑した様子で、海賊達は彼の進撃を積極的には阻めずにいる。微かに震え、動きを止める者さえ居た。 砕けた木片、引き千切られたロープ、それら全てが彼を導くようにふわと空で身を止める。 まるで、彼の周囲だけが時の止めたかのようだった。 ジュリアンが踏み込み、駆けゆく端からぼろぼろ崩れ落ちてゆく。 海賊船へと飛び移った彼は、素早く視線を走らせた。 たんと軽やかな足音を響かせ着地したその目の前、健康的に日に焼けた女がくいと顎をしゃくる。真っ赤な紅を引いた唇が、ぐにゃりと歪められた。 「独りで乗り込んでくるとは、余程腕に自信があるんだね」 「まあね」 ジュリアンは悪びれるでもなくそういって、切っ先を突きつける。 「退いてくれ」 ぴたりと宛がわれた剣先に、ビネタは微動だにせず咽喉をさらす。 その瞳は爛と輝いていた。 「この侭、殺してみるかい?」 「君を殺して怒り狂った海賊に暴れられるのは御免だ」 「ふふ。お前、人を殺したことがないの?」 「……君を海軍までエスコートするのは構わないんだが」 「ふぅん、さぞかし楽しいんだろうねぇ?」 妖艶に笑むビネタの指先が、撫でるようにジュリアンの剣先を滑りゆく。 「動かないで欲しい」 強く、刃を押し当てる。 ぷつりと裂けた肌から、赤い雫が這い落ちた。 ククと咽喉を鳴らし、ビネタが嗤う。 空へ向け打ち放ったマシンガンの弾が、雨矢の如く降り注ぐ。 その銃撃は水炎の見止めた海賊の手から武器を払い、或いはその手を撃ち抜いた。 「あー爽快!」 派手にマシンガンをぶっ放しながら、水炎が快活な笑みを浮かべる。 「なんじゃありゃあ、本物のお転婆ってのはああなのか?」 「犯罪級だろ。マジであんなのを?」 距離をはかりながらも、退く様子はない。収穫無しには帰れないのか、それとも。 「仕方ない、肉体言語という言葉で理解させるとしますか」 白がぐと拳を握り締めれば、不思議とその篭手についた青の宝石が色を増した気がした。 言うなり甲板を蹴り懐へ飛び込む。 繰り出された拳は相手の顎をばかんと撃ち抜き、高々空へ突き上げられた。 間髪容れず襲い来る敵を思い切り蹴飛ばし、それを踏み台に一人、二人と蹴倒してゆく。 「とりあえず部外者さんに手ぇ出すのやめてくれない?」 周囲に視線を配し次なる敵を見極めた彼は、ふと敵に襲われるルノーの姿に目を留める。 「……腕立つから大丈夫でしょ」 「恐れ入ります」 力任せに放ったらしきその一撃は、骨を砕いたかのような異妙な音を響かせた。すっと立ち上がったルノーの目の前で、海賊は顎を突き上げぐらり崩れる。 何か妙だ。白は微かにそう思いながら、視線を走らせた。 幾ら手を撃ち抜けど、海賊達は目を血走らせて襲い来る。忽ち乱戦と化した戦場で、水炎はぐと拳を握った。 「実は射撃よりこっちのが今は得意なんだよねっ」 功夫での接近戦に転じた水炎が赤いドレスを翻す。幾分動きにくいが、充分だと水炎は思った――が。 「しまった、汚したら殺されるんだっけ!」 襲い来る海賊を身がわして、思わず叫ぶ。 「おい、あの樽のか」 「黙れ!」 言いかけた海賊へ、叫びながらソワが突っ込んでくる。 もつれ倒れ込む海賊とソワ。そこへ襲い掛かる海賊の腹を、水炎が蹴り上げる。 「こういう時、女は守られるのが役目、男は守るのが役目さ」 水炎はソワを援護して戦う心算だったが――。 「よわっ」 「す、済みません……」 あっさりソワは捕まった。 羽交い絞めにされ、刃先を咽喉に押し当てられたソワの姿に、水炎は背後で動く気配を感じた。 「駄目です、お嬢様!」 「うー、卑怯者!」 「はぁ? このガキ殺されたくなかったら大人しくこっちへきな、お嬢ちゃん」 苦しげに息を詰める音。 リエルか、ソワか。水炎の目の前で強く押し当てられた刃の先、つと赤の雫が這い落ちた。 剣を突きつけるジュリアンの背後から、飛び掛かる海賊達の影。 「其処までだ。大人しくして貰おうか」 咄嗟に身がわした彼の眼前に、幾つもの剣先が連なり重なる。 これ程統率の取れた動きをするとは――ジュリアンは微動だにせず視線を走らせると、敵数を捕捉する。 「そう簡単にはいかない」 彼が反撃に転じようとした、その時だ。 「これを見ても?」 そういって妖艶な笑みを浮かべるビネタの後ろに、彼は赤い影を見た。 「……ごめん」 後ろ手に縛られた水炎が海賊達に連れられてくる。 「卑怯な」 「くく、褒めてんのかい?」 「ドレスが欲しいなら、好きに持っていけばいいだろう」 「あっはは、確かに高価そうな代物だけど、そんな物は要らないよ」 「……そうか」 やはり何か、目的があったのだ。 ジュリアンは貿易船へ視線を走らせた。 次々此方の船へと飛び移ってくる海賊達の後ろで、突き飛ばされ倒れ込むソワ。駆け寄る仲間の様子からは、懸念した類の動揺を見て取ることは出来なかった。本当に最悪の事態だけは避けられた、と見るべきだろう。 「いくぞ、野郎ども!」 「「「ォオオ!!」」」 海を震わせるような雄々しい叫び声。その間に間に叫ぶ仲間の声が響く。 「さぁ、どうする色男さん? 大切なお嬢様が人質だ」 水炎の首筋にぐっと刃が押し当てられる。暫しの逡巡の後、ジュリアンは剣を収め、おどける様に両手をあげた。 「賢明な判断だ――大切なお客人だ、縛り上げて牢にぶち込んでおけ!」 「お手柔らかに頼みたいものだな」 「ふん、お前の態度次第だ。大切なお嬢様の命が惜しけりゃ妙な真似はするな」 やはり、とジュリアンは思った。 彼らは水炎をリエルと勘違いしているようだ。 収穫に満足した彼らは、これ以上の追撃をあの船には仕掛けない。このまま大人しくしていれば、彼らは無事ヴァレリアへ辿り着くことができるだろう。 貿易船には鰍と白もいる。大丈夫だ――これ以上面倒な事にならぬ内に、逃がしてしまうべきだろう。 自分達の方はどうとでもできる。 その自信が、彼にはあった。 「おら、さっさと歩け!」 「お前はこっちだ」 どんと背を押され歩き始めるジュリアンと水炎。 その足が船の下部へと通じる階段へ差し掛かった、その時だった。 立て続けに轟音が鳴り響き、甲板が砕け散る。 よろめき倒れこんだ水炎を、慌てた海賊が押さえつけた。 「う……いたた」 「大丈夫か?」 その問いに大丈夫と笑んで返すと、ジュリアンは安堵したように顎を引いた。 続け様に放たれた幾つかの砲弾が船を逸れ、巨大な水柱を上げた。 響く破壊音が止んだ後、凪のように海が静まり返る。 「よお、ビネタじゃないか! 久しぶりだなあ」 「クロード、貴ッ様ァ!」 満面の笑みを浮かべ砲撃指示を発するクロード。 ビネタは水炎の腕を掴み、ぐいと前へ押し出した。 「クロード、この娘がどうなってもいいのか!」 「おいおい、相変わらずの卑怯さだな。リエル殿、ご無事か……ん?」 目元をごしごしと擦りながら、真っ赤なドレスの娘を凝視するクロード。 「クロード様、お嬢様に何かあったら如何するおつもりです、砲撃を止めて下さい!」 その声に視線を走らせたクロードは、ルノーの姿を見止めてぐと押し黙る。 やがて何か悟ったように、彼はこくりと頷いた。 「砲撃を止め。今すぐにだ!」 「賢い選択だな」 笑みを深めるビネタ。 貿易船の甲板で一連の光景を見ていた鰍と白は、砲撃が止んだ事に内心安堵した。 僅かに損傷し失速した海賊船は、けれどその侭彼方へ進みゆく。 「どうするんだろ、これ」 「……あっちが勘違いしてる内に、何とかしないと拙いんじゃね?」 「ぼ、僕のせいです……」 小刻みに震えるソワを、ルノーは叱咤する。 「立ちなさい、ソワ。今はお嬢様の安全を確保することが最優先です」 「リエルをヴァレリアの船に移して、さっさと追いかけた方が良いんじゃないか?」 「只でさえ足回りの早い海賊船に、損傷した貿易船で追いつけるとでもお思いですか?」 「……確かに、無理かもな」 ヴァレリアの船を借り追いかけるにしても、そこまで話を通すには時間がかかるだろう。仮にも相手は太守なのだから。 先ずは海上都市へ上陸し、ビネタに関する情報を集めるべきかもしれない。 長く彼らと対峙してきたクロードならば、何らかの情報を掴んでいる可能性が高い。 「ドレスを着たいだけの我が侭だと思ったのに」 ――本当に身代わりになるなんて、ね。 そう呟くリエルに、はっとしたようにソワが駆け寄る。 「お、お嬢様、ご無事ですか」 「大丈夫よ」 ソワがおずおずと伸ばした手をぱしりと叩き、リエルはきっと睨みつける。その手を強く取り、ルノーは手早く傷の処置を済ませた。 「それほど目立たぬ傷で良かったですね」 不満げな視線を向ける彼女にちらと視線を返すと、ルノーはヴァレリア勢へ視線を向けた。 「牽引をお願いし、早々に海上都市へ上陸しましょう。此方の都合で婚姻を遅らせる訳にはいきません」 「そんなこと、どうでもいいわ!」 「何をご不満に思おうと、ご自身でお決めになられた事です。そろそろ素直に受け入れられては如何ですか」 「うるさい、ルノー!」 「お、お嬢様」 「何よ、ソワまでルノーの味方をするつもり!?」 子供のように喚き散らすリエル、宥めようとするソワ、最早呆れた様子でそれを見詰めるルノーの姿に、鰍と白は複雑な視線を交わし合う。 「あのお嬢様、簡単に結婚するとは思えないよね」 「いやいや、こんなところまで来ておいて?」 「……悪い予感が外れればいいけど」 小声でぼやく二人を、ルノーはどこか影を帯びた瞳で見詰めていた。 ブルーインブルー。 この無限の海原での彼らの冒険は、まだまだ終わりそうにない。
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