ギィ。 船が軋む。 微かに感じる重力に、男は気怠げに呻いて寝返りを打つ。 浅く開いた眸でただぼんやりと一点を見詰めていたけれど、やがてそれも力なく閉じられた。 ギィ、ギィ。 まどろむその耳元に、柔々囁きかける優しい声。 それは煌めく蒼波が箱庭を、静かに、深く、揺する音。 「何だ、寝てるのかい?」 足音も莫く近付いてきた女が、ひとりごちる。「海賊に掴まったってのに豪気な男だねぇ」 その声に反応するようにもぞりと動いたのをみて、女は口の端をくと引いた。「おはよう、よく眠れたかい?」「……あぁ」「もうじきアジトに着くよ」「……そう」 静かな深い吐息を零し、男はやや反応鈍くそう返した。 けれどふと開かれた薄青の瞳には、凛とした光を湛えている。 疾うに覚醒していたのだろう。女は益々笑みを深めると、格子の向こうで腰を下ろした。「先ずは名前を聞かせて貰おうか」「……ジュリアン・H・コラルヴェントだ」 そう返し、ジュリアンはゆっくりと身を起こした。 手首から伸びる鎖が、じゃらりと金音を響かせ零れ落ちる。「ジュリアン、アンタただの雇われなんだろう?」「まあ、……そうだけれど」 額へ手を伸ばしたところでぴんと鎖が突っ張った。 仕方なく両手を持ち上げて、前髪を掻き上げ髪を整える。 一挙一動を面白そうにじっと見詰め続ける女に、ジュリアンは仕方なしに声をかけた。「何か用か?」「あたしは強い男が好きなのさ。アンタ、あたしの物にならないかい?」 ジュリアンは怪訝そうに目の前の女――海賊・ビネタをじっと見詰めた。「海賊にならないかっていってるんだよ」「僕が、海賊に?」「あぁそうさ。あたしは良いものは良いと素直に認める性質なんだ。アンタは度胸も根性も据わっていて腕っ節もいい、最高に好い男さ。報酬はケチらないし、条件があるなら前向きに検討させて貰う。余程のことでもない限り、好待遇を保証するよ」 半ばまで開きかけた唇を、ジュリアンはふと噤んだ。 爛とした光を宿す眼がじっと彼を見詰めている。 ビネタは格子に顔を近づけると、もう一度、赤い唇で弧を描いてみせた。「ゆっくり考えてくれて構わないよ。時間はたっぷりとあるからね」「ああ、……そうさせて貰おうかな」 取り敢えずの返答に満足したように、ビネタは立ち上がる。 ふと何か思いだしたかのように振り向くと、彼女は軽く握った拳で向かいの格子をこつんと叩いた。「お前たちも、心を決めたらいつでも言いな。水も食い物もたっぷりあるんだ」 ――この格子の外に、ね。 浅く歪められた唇には、罪悪感のかけらも滲みはしない。 恐らくは返答を返す気力もないのであろう。並ぶ鉄格子の奥に佇む闇の中、その気配はぴくりとも動かず、ただ静かに彼女が立ち去るのを見守っていた。 一方その頃、赤いドレスのお嬢様は。「……はぁ。何この扱い」 右手首から左手首へと繋がる鎖がじゃらり。 右足首からずるりと伸びる鎖は、お嬢様が腰掛ける頑丈そうなベッドの足に繋がっていた。「おっかしいなー、あたし今お嬢様なんだよな? どうしてこうなった??」 枕をだっこしながらうんうん唸る華城水炎を、扉の小さな窓から入れ代わり立ち代わりこそりちらりと盗み見る幾つもの影がある。 あれがグラムから来たお嬢様だって? 見かけに騙されんなよ、グラムのお嬢様はお転婆で我が侭って噂だぞ。 ああ、船でマシンガンぶっ放して大暴れしてたって噂だぜ。 あの赤いドレスの下から何十丁って銃が出てきたって話聞いたか? は? 何だそれこえーな、どんだけお転婆なんだよ。 その上我が侭って……最早邪悪だろ。 うあ、オレマジムリ。お前いってきて。 メシやるだけだろ、しっかりしろよ。 嫌だよ! 指食い千切られそうじゃん!! あー……な。じゃあじゃんけんな、負けたヤツいってこいよ。 うあー、マジかよ最悪だ。 くそっ! オレこの間ポーカーで運使っちまったばっかなんだよ! オレもだー、こんな事なら負けとくんだったー。 ――ホント何この扱い。「うるさーい! 見世物じゃないんだからねー!!」 イラッとした水炎は、小窓に向かって思いっきり枕をぶん投げた。 派手な音を立てて扉に激突した枕が、ぼてりと床に落ちる。 瞬間的にしんっと静まり返った扉の向こうで、どっと海賊たちが騒ぎ立てた。「うわーっびっくりした!!」「ぎゃーははは何この女! まじなの!?」「うあーっくっそ既に怒ってんじゃねぇか! 絶対ムリだろ!!」 蜘蛛の子散らすように消えた影を恨めしそうに見詰めていた水炎の顔が、やがて何かに気が付き蒼褪める。「しまった、あたしの枕がー!」 じゃんけんで負けた誰かが勇気を持ってこの部屋に入ってくるまで、ご飯も枕も抜きが確定した。 * * * ヴァレリアに着いて、一夜が明けた。 太守クロードに面会を申請していた鰍と柊白は、今朝方ルノーからの連絡を受け共に応接間へ向かっていた。 事後処理に奔走する彼を捉まえるのは中々に難しく、ルノーも一晩中張り付いて漸く話をすることが出来たらしい。 二人を呼びに来たルノーの顔には、はっきりと徹夜の疲労が浮かんでいた。 唯でさえ疲弊する船旅に、戦闘。そのまま徹夜とあっては、流石の彼もヨレるらしい。それでもきっちりと身を正し、努めようとする姿勢は立派なものだ。「しっかし、太守ってのも大変なもんだな」「ええ、しかしクロード様はあのご気性故に、人から頼られ過ぎるお方なのです。グラム太守を知る私から見ても、あのお方はお忙しい」「へぇ、そうなんだ」「はい。その只でさえお忙しいお方が、急遽時間を取ると云って下さったのですよ。どうか、お早く」 急かすようにそういったルノーに、二人は苦笑を零す。「わかってるって」「でも花嫁が駄々こねてる状態じゃあ、進むものも進まないんじゃないの?」「そうですね……それでも自らがお仕えする方を信じ、その時のための段取りをつけておくのが私たちの仕事なんです」「ふーん、やっぱり面倒くさそうな仕事だな」 白が吐いた何気ない一言に、ルノーは思わず苦笑を零した。 急ぎ足で応接間へ向かう三人の視界に、ふと見知った少年の姿が入る。「よ、ソワ。リエルの調子はどうだ?」 ヴァレリアへ着いて早々、リエルは具合が悪いといって自室に引き篭もってしまっていた。「あっ白さん、鰍さん……とと、ル、ルノーさんも。お久しぶりです」 慌ててぺこりと頭を下げる少年に、鰍は軽く頬を掻いた。「まあ昨日ぶりだよな」「……ソワ」「ははははい!」 それまでは彼を無視する勢いで歩いていたルノーは、不意に足を止め、今度は彼に向かってずんずん歩き出す。 眼前まで迫る勢いで歩み寄ったルノーは、片眼鏡をくっと押し上げ、しげしげとソワの顔を眺めみた。「あ、あああああの……?」「ソワ、任せ切りにしていて済みませんね。お嬢様のご様子は如何ですか」「えっと……その。め、眩暈がするようでして、自室でお休みになられています」「昨晩からずっとですか? 医者には見て頂いたのですか、ソワ」 その言葉に、びくりとソワの肩が跳ねる。「あ、ははははいっ! 大丈夫です、見て貰いました!」「……そうですか。医者は何と?」「え、えと、あの……疲労ではないかと」「…………ほう、疲労で眩暈。実にお嬢様らしい言い訳ですね。幾ら忙しいとはいえ、リエルお嬢様を貴方一人に任せたのは大失敗だったようです」「はうっ!!!」 ルノーは深い溜め息を吐くと、思いっきりソワの首根っこを引っ掴んで二人の方を振り向いた。「急用が出来ましたので、私はこれで。御二人は急ぎクロード様の元へ向かってください。ピンク頭と白頭の二人組だとお伝えしてありますので、御二人でも大丈夫かと思います」「お、りょーかい」「ま、がんばってな」 ちゃっと手を翳した鰍に、こっくりと頷くルノー。 涙目のソワにひらりと手を振って、白はさくさくと歩き始めた。 応接間にたどり着いた二人は、警備の確認を受け室内へと足を踏み入れる。 途端、よく通る男性の声が響いた。「おっピンク頭に白頭、ルノーの言った通りだな」 クロードは屈託のない笑みで二人を迎え入れた。その傍らには、双子と思わしき背の低い女性が控えている。「この二人は補佐官のルルとミミだ。右分けがルルで内政担当、逆がミミで外政に長けている。お前さん達の役に立てそうなのはミミの方だな」「「どうぞよろしくお願いいたします」」 ルルとミミは、二人揃ってぺこりと頭を下げた。「おう、よろしく」「よろしく。というか、ホントにその説明で通ってるんだ」 呆れたように零した白に、クロードはにっと口の端を引き上げた。「はは、あいつとは長い付き合いでね。二人っきりだと今でも下らない話に花が咲く」「え? クロードとルノーは友達なのか?」 首を捻る鰍に、あいつはヴァレリアの出なんだとクロードは笑った。「で、そのルノーはどうした?」「途中でソワに会って、そのまま一緒にリエルの所へ行ったみたいだ」「ああ、具合が悪いっていうアレか。話は聞いているが……心配だな。ちょっと様子を見に行こうか」「ん?」「は?」 その言葉に疑問符を浮かべ、じっとクロードを見詰める鰍と白。 クロードは二人の視線を気にも留めぬ様子で、机の上で書類を揃え、ぺしぺしと指先で弾く。その書類をすすと進み出受け取るルルとミミ。 そのまま二人を伴い扉へ向かって歩き出す彼を、二人は揃って呆然と見守った。 ここで待っていろということだろうか。 待っていても、もう二度と戻ってこない気がするが――。「あ、君たちもついてきてくれ。ルノーがいた方が話も捗るだろう?」 何というマイペース。 そして気紛れ。「そりゃそうだけどな」「ま、いいんじゃないの?」 彼が一晩中捉まらなかった原因の一部を垣間見た二人は、互いに顔を見合わせ大人しくクロードの後へ続く。 彼らが廊下に出た途端、その声は響いた。「あ、あああああのっそのっ! ももも、申し訳ございません……!!」 その脅えた声は、間違いなくソワのものだった。 五人は言葉も交わさず駆け出すと、素早く叫び声のした部屋へ飛び込んだ。「どうした、何かあったのか?」 打ち破る勢いで押し開いた扉の向こう。彼らが見たのは、頭を抑えて深い溜め息を零すルノーと、涙目で頭を下げるソワの姿。そして――空っぽのベッドだった。「……やっぱり」「うお、どこいった?」 はあ、と深い溜め息を零す白と、居ないとわかってはいてもきょろりと辺りを見回す鰍。 ルノーが無言で差し出したメモを読み、クロードは幾度か瞳を瞬いた。「はは、流石お前んトコのお嬢様だなあ」「……大変申し訳ございません」 そういって頭を下げたきりじっと身を起こさぬルノーに、クロードは苦笑を零すばかりだった。 ――けりをつけるまで戻らないわ。 リエル=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鰍(cnvx4116)ジュリアン・H・コラルヴェント(cutn5843)柊 白(cdrd4439)華城 水炎(cntf4964)=========
しんと静まり返る扉を一瞥し、華城水炎は隠し開いたノートを眺め見た。 彼女が最後に書いたのは『なんとかしてくれよー』の一文。 「……情けな」 ベッドの軋む音色と深い溜め息とが入り雑じる。 あちこち色々とガタガタ云わせはしたものの、やはりどうにもならず手詰まりの状態だった。 最終的にはトイレを要求し脱出を試みる心算ではあるが、それでは根本的な解決にはならない。 「ビネタがなんでリエルを欲してるのかよーわからん」 自分たちはリエルを無事ヴァレリアへ送り届ける為に雇われた。 その後のことは契約外――けれどそんな終わらせ方をしたくはないと、水炎は思う。 「……あたしら居なくなってから狙われたら意味ないじゃん」 ビネタは一体何をする心算なのだろうか。何をする心算も莫いのか、既に別人だとバレたのか、リエルを騙り捕らえられた自分には現状何も起こってはいない。 「あー……もしかしてクロードが好きとか?」 そんなことを思うも確認する術はない。 扉へ視線を移す。 時折視線を感じるため、きっと呼べば誰かしら来るのだろうが――水炎はもう一度ノートへ視線を落とした。 「……他捕まってるの、誰かの関係者じゃないよなー」 船室のどこかへ押し込められた『彼』からの報告が、少しだけ気になっていた。 * 「調子はどう?」 ふと視線を上げたジュリアン・H・コラルヴェントは、少し眩しそうに瞳を細めた。 「無傷だし、待遇は悪くない」 「ふふ、姐さんに刃を向けておいて無傷だって?」 優しげな表情を見せる彼に、女たちはより強い好奇を掻き立てられたようだった。 屈託のない笑みを零しながら、彼の反応を確かめるように見詰めている。 「ビネタはいつ頃からこの海域で活動しているんだ?」 「目立って動き始めたのはここ四、五年かねぇ?」 「それまでは何を?」 「さぁ……どっかの船で下っ端とか?」 「違うよ、好きな男が居て大人しーくしてたんだ」 「ありゃ酔っ払った姐さんの作り話だよ」 「そうなのかい? てっきりこういうクソ真面目な男が好きなんだと思ってたよ」 不意に見張りが咳払いし、女たちは肩を竦めて視線を交わし合う。 「そろそろ戻らないと」 「じゃあねジュリアン」 「……ああ、待って」 その声に、女が足を止め振り向いた。 「できれば、灯りを貰えないかな」 ゆらり揺れる仄灯りの中、捕われの男が伸ばした手に女はゆっくりと近付いてゆく。 「君を目に焼き付けたくて」 冗談めかしそう告げた男に、女は逆上せたような表情で灯りを手渡した。 「……また来るよ」 「ああ、でも無理はしないで」 彼の言葉に微笑み、不意に女が声を潜める。 「返事は早い方がいい。余り焦らすのは良くないよ、姐さんは一度でも嫌った奴にゃ残酷なんだ」 頷き女を見送ったジュリアンは、周囲に気を払いながらノートを開いた。 仲間たちの報告に一通り目を通し、闇へ視線を走らせる。海賊はさておき、一般人の事が気になった。 「君たちはどうして囚われているんだ?」 返答はない。感応力で反応を探るも、彼らは隅に蹲りぴくりとも動かずにいる。 しんと静まり返った牢獄で、ジュリアンはそっと灯りを翳した。 生きてはいる――片方からは大きな絶望が、もう片方からは酷い後悔の念が伝わってくる。 「……大丈夫か?」 「まだ、死にたく……ない」 嗄れた声が、牢獄の闇に吸い込まれた。 * 大雑把ながら鰍とホリさんが指差した方へと歩みを進めていた柊白は、ふと太守の屋敷を振り向いた。 「責任感じてるかどーか分からないけど、海賊のアジトも判らずでていくなんて無茶するよな」 「そうですね。却って無責任な行動とも取れます」 ぼやく白の後を、ルノーが地図を眺めながらついてくる。 ――海賊のアジト? 知らんねぇ。 適当な人物に声を掛け情報の入手を試みるも、返ってくる言葉は皆似たようなものだ。 「こうしていても埒が明かないか」 「そうですね、あまり効率的ではないかと」 気のない返事をしながら、ルノーはじっと地図に見入っている。 「何か面白いことでも書いてあった?」 「いえ、この辺りも随分様変わりしたものだと感心していたところです」 「ふぅん、ここの出身だっていうから、てっきり色々詳しいもんだと思ってたんだけどな」 「色々、ですか……一体どのような期待をなさっておいでですか」 「どんなといわれると困るんだけど……ほら、俺とルノーさんなら多少の荒事ならいけそうだし」 ばりばりと拳を鳴らす白に、ルノーはふむと一つ頷いた。 「なるほど、その類の期待でしたか」 ぱたりと地図を閉じ、ルノーは視線を上げる。 「ではご期待にお応えして、裏街へでも参りましょうか」 「裏街?」 「まぁゴロツキ共の憩いの場、とでも云いましょうか」 「あぁ、やっぱりそういうのってどこにでもあるんだな」 「人の集まるところには、必ず影ができますから」 漸く暴れられるといわんばかり、白はぐるりと肩を回した。 * 「君からの誘いを受けるよ」 躊躇いなくそう答えた彼に、ビネタは不思議そうに首を傾げた。 「本当に?」 「ああ、ただ少し条件がある……彼女の命は保証して貰いたい」 「ふん、律儀なことだねぇ」 ビネタは薄く笑い、有らぬ方へと視線を向ける。 「……まぁいい、命だけは保証してやるよ。ようこそジュリアン、今日からアンタもあたしらの仲間だ」 仄灯りの中ビネタが笑う。 ゆっくりと歩み出たジュリアンの手足の枷を外し、ビネタは彼を自室へと案内した。 「暫くはあたしの傍に居な。勝手な事をしたらぶっ飛ばすからね」 「ああ、わかった」 「ふふ、大人しそうな面してどうだかねぇ。ほら、得物を返しておくよ。それからこっちも……」 手渡された剣を佩きジュリアンは目を細めた。水炎のトラベルギアが同じキャビネットの奥に在る。 「んー、おかしいねぇ」 「どうかしたのか?」 「確かここに入れたはずなんだよ、アンタの持ち物」 「ああ、あれか……別に大したものじゃないし、構わない。それより少し聞きたい事があるんだ」 その言葉に、ビネタは身を起こしジュリアンと向き合った。 「どうして態々お嬢様を攫うんだ」 「またあのアレの話かい?」 ビネタは眉を引き上げ妙な物を見るような目で彼を見る。 「……別に、交渉を有利に運ぶにゃうってつけの駒だと思っただけさ」 「二人の結婚が気に入らないというわけではないのか?」 その言葉に一瞬小首を傾げたビネタは、今度は肩を揺らし盛大に笑った。 「あっはは、そういやお嬢ちゃんはあの安本丹と結婚するために遥々ヴァレリアへ来たんだったね」 「彼女を使って一体何の交渉を?」 「ふふ、気になるかい?」 ビネタはそっと伸ばした手でジュリアンの頬を撫でると、其の侭襟首を掴み乱暴に引き寄せた。 「あたしにはずっと欲しいモンがあったのさ。けどそれをあいつが隠しちまった、だから奪い返す。ただそれだけの話さ」 「……そんなに大切なものなのか?」 「でなきゃ追っかけたりしないよ」 そう嗤い、ビネタは押し退けるようにジュリアンを放した。 どうやら二人の結婚を壊したいわけではないらしい。アジトに着き次第一暴れする心算だったジュリアンは、考えを改めビネタの背を見遣る。 扉を叩く音が響き、顔を見せた男が彼を一瞥した。 「頭、もう着くぜ。あの嬢ちゃんはどうする?」 「大人しくしてんだろ? どうせまたすぐに出るんだ、放っときな」 男が頷き扉を閉じる。 甲板には薄闇が差していた。 * 「きゃぁあああっ」 「うぁああん、リエルお嬢様ぁあ!」 白昼響く少女の悲鳴と少年の叫び。 鰍は今、酒場で大乱闘を繰り広げた挙句、ごろつきに俵のように抱え上げられた麗しいドレス姿のリエルお嬢様を追いかけていた。 「ちょっと、もっと丁寧に扱えないの!?」 「るせぇ、んな余裕あっか!」 不穏な会話が風に乗って流れてくる。 どうも只の誘拐ではないらしい。どう考えてもこれは―― 「お嬢様がごろつき雇ってんじゃねぇ!」 ルル特製ヴァレリアマップをぐっしゃり握り締める鰍。 「煩いわねっ貴方が追いかけてこなければ雇ってないわよ! ソワ、お前裏切ったわね!!」 「ぼ、僕がお嬢様を裏切るなんてありえません!」 「じゃあ何で追いかけて来るのよ! 屋敷で皆を引き止めなさいっていったでしょう!?」 「だ、だってすぐにばれちゃったんですよ!」 「どれもこれもお前のせいじゃないの!」 鰍は背後を駆るお嬢様の共犯者を思い切り二度見した。 「ってぇええええ!? ソワ、お前初めから知ってたのかよ!」 「ご、ごごごめんなさい!」 「はっそうか、だから今朝ルノーを見た時様子がおかしかったのか!」 「ふぇええええっルノーさん怖いんです! 顔を見られただけで何でもばれちゃうんです!!」 馬鹿な。鰍は猛ダッシュしながら額を押えた。 「あーくそっ、こんなことしてる場合じゃねえ!」 鰍が羽根のチャームを手に取った瞬間、リエルの鋭い声が響いた。 「かかりなさい、A、B!」 「雇ったんなら名前くらい呼んでやれ!」 襲い来るAB目掛け、鰍は思いっきり鎖を放つ。ぎゃりぎゃりと壁を削り反り返った鎖がABの足を絡め取った。 「追いかけっこは、もう終いだ!」 どたどたと縺れ転げたABをひょいと飛び越え、鰍はリエルを担ぐ男の背目掛け突っ込んだ。 「うごぉおおっ」 「きゃーっ!?」 「アーッ!?」 あっさり体勢を崩した男は、狭い路地の壁にぶつかり鰍共々傾れ転げた。 男を下敷きに起き上がった鰍は、尚逃げようとするリエルの腕を引っ掴む。 「離しなさいよ、変態!」 「いてて……誰が変態か! ホリさん無事か?」 たんこぶを作ったホリさんが抗議するように鰍の頭をげしげしする。 それにしても何と迷惑極まりない我儘娘だろう。鰍はホリさんを宥めつつ暴れるリエルをソワの前へ引き摺り出した。 「ソワに言いたい事があるんなら顔を見て言え」 「この役立たず!」 「ぴえっ!?」 ソワ涙目。 「ってそうじゃねえ!」 彼女がずっと不機嫌な理由を、鰍は知らない。 結婚が決まって以来、クロードのことばかり気にするソワに嫉妬しているのだろうか。そう思いはするものの、反発を強める少女からその意図を汲み取ることは難しい。 「ソワ、正直に答えろ。お前はクロードとリエル、どっちが大事なんだ?」 「ぼ、僕が選ぶだなんて恐れ多い! どちらも唯一無二の大切なお方です。僕、これからは誠心誠意お二人に尽くすことを誓います!」 なんか使命感も新たに握り拳できりっと答えるソワ。体中から溢れる純真オーラが尚痛い。 ふるりと身を震わせた鰍は、錆付いたロボットのようにぎぎと首を曲げてリエルを見た。 「ソワ」 「はい、お嬢様!」 ばっちーんと平手が飛び、勢い吹っ飛びかけたソワが蹈鞴を踏んだ。 「一生こき使ってやるわ、覚悟なさい!」 「「ひっ」」 不意に眼を剥きくわっとソワに凄むリエル。 恐ろしい展開に二人は揃って身を竦めた。少年がクロードに尽くす夢は叶いそうにない。 「と、兎に角だ。自分の責任を果たす為に、リエルはクロードの元に帰れ」 必ず二人を助け出してくるから、そう告げた鰍をリエルはきっと睨み付けた。 「言われなくたってもう帰るわよ、馬鹿鰍ーっ! ……何か語呂悪いわね、もう馬鰍でいいわ!!」 「ば、馬鰍!?」 「お、お嬢様、落ち着いてください!」 ほっぺたを腫らしたソワが、爆発物製造に精を出している。 鰍は徐にノートを開いた。リエル捕獲完了を仲間に知らせる心算だったが、折り良くそこへジュリアンからの連絡が入る。 『ビネタの話だと、今僕たちはヴァレリアの裏手にいるらしい。でも此処へ徒歩で来るのは無理そうだ。買出し用の小舟を見つけたから、脱出はそれでどうにかなると思う。 水炎はまだ船の中だ。どうやらアジトへ移すつもりはないらしい。また直ぐに動きだすみたいだけれど、何とか時間を稼いでみるよ。 それから、僕は彼女の誘いに乗ることにした。何かあったらまた連絡する』 「か、海賊になったってことか?」 目を瞬き幾度も読み直す鰍の元に、続けて白からの連絡が入る。 『海賊ごっこも楽しそうだな。舟は分捕ったからさっさとアジトに乗り込もうぜ』 「誰から分捕ったの!?」 更に頭を抱える鰍。真性の苦労人だ。 「何一人で百面相してんのよ」 リエルの突っ込みに咳払いすると、鰍は気を取り直し二人へ向き直った。 「俺はこのまま海賊のアジトへ行く、お前達は屋敷へ戻ってクロードに援軍を頼んでくれ。ソワ、リエルを頼んでいいな?」 「はい!」 「待ちなさい、馬鰍!」 「……そんなあだ名絶対定着しねーからな」 「そうかしら? その内泣いて詫びることになるわよ!」 妙なあだ名を定着させようとお嬢様は躍起だ。 「やっぱり私もいくわ。けりなんて全然ついてないじゃない」 「危険だぞ、あいつらはお前の事を狙ってるんだ」 「解っているわ」 神妙な面持ちでこくりと頷くリエル。 「貴方が身体を張ればいいってだけの話よね」 鰍はひくつく頬を抑えて少女を見遣る。 「……絶対に俺の傍を離れるなよ?」 「勿論よ」 こくりと頷き合い、二人は駆け出した。 * 「貴女は馬鹿ですか。狙われていると知って何故赴くのです」 「主人に向かって馬鹿ですって!?」 「馬鹿だから馬鹿だといったのです、リエルお嬢様」 血走った目でぎーりぎりと歯を鳴らすお嬢様。 小舟の前に待機した白と鰍の視線が二人の間を行き来する。 「ルノー、リエルは俺が身体を張ってでも護るからさ」 「そうよ、馬鰍が私の盾になるわ」 「……肉壁ですか」 皮肉り嗤うルノー。 「それで、さっきまで絶対いかないとか言ってたルノーさんはどうするんだ?」 「実に不本意ですが……何かあったら都市間の問題にまで発展するんですよ」 白の言葉に、彼は眉間を押え深い溜め息を零した。 岩壁の闇に乗じ舟を横付けした彼らは、打ち下ろされた錨をよじ登り船へ進入した。 甲板へ顔を出した白が、見張りの後頭部を間髪容れず蹴り飛ばす。呻きを洩らす間もなく男は昏倒した。 「ちょっとお邪魔するよ」 「な、何だ!?」 白に気を取られた男へ、鰍がウォレットチェーンを投げつける。そのまま締め上げ転がすと、一気に甲板を駆け抜けた。 「うちのお嬢様を返してもらいに来たぜ」 階段を下り、報告のあった階を覗き見る。 見張りのついた船室を目に留め、二人は顧慮無く全力で突っ込んでいった。 「誰だてめ」 云い終わる前に顔面が拉げて男が吹っ飛ぶ。 着地した白の真横で、足を釣りあげられた男が床を跳ねた。 「おっと、わりぃ」 足蹴にした男が潰れた声を上げる。挨拶代わりにちゃっと手を翳す鰍の隣で、白が扉を蹴破った。 「お嬢様は無事かー?」 船室に飛び込むなり身構えた白と鰍が、背合わせに室内を見回す。 中に海賊の姿はなく、二人は揃って拍子抜けした顔でベッドの上を見た。少し遅れて入ったルノーとリエルが後ろ手に扉を閉める。 「皆助けに来てくれたのか! うわー助かった、腹減ったよー」 「第一声がそれですか」 「なんか元気そうだな」 「てか元気すぎね?」 「貴女馬鹿じゃないの?」 てんで堪えた様子もなく水炎は瞬いた。 「うわーリエルってば本当に来たわけ? もーあんま無茶しないでよー」 「……どうしてかしら。私今凄くがっかりしているわ」 苦笑し、鰍が足枷に手を伸ばす。暫し錠を眺めた彼は、水炎が数時間暴れて尚びくともしなかったそれをあっさり床に落とした。 「よし、楽勝」 「じゃあ特に問題もなさそうだし、俺はギアでも回収してくるかな」 「おう、気ぃつけてなー」 手枷に手を伸ばす鰍の向こうで、屈託莫く笑う水炎。 白が扉に手を掛けた瞬間、窓の向こうを影が過ぎった。 「おい、賊だーッ!」 「賊はそっちだろ」 男を蹴倒し階段を駆け上る。 途端、視界の端に何かが煌めいた。勢い良く振り下ろされた刃に、白の顔が僅かに引き攣る。咄嗟に身を引き致命は免れたものの、這い零れる生ぬるい感触と痺れとが右腕を伝う。 其の侭蹴倒され、白は甲板に転がった。 「舟もないのにどうやって逃げるんだ?」 海を指して男が嗤う。 「海賊のアジトを襲撃するなんて、まったく物騒だねぇ」 ジュリアンを伴い船へ乗り込んだビネタが肩を竦める。 「一人残らず引きずり出してやんな。間違ってもお嬢様は殺すんじゃあないよ」 「誰が黙って行かせるか」 「ホリさん!」 雄叫び突っ込んでくる海賊の足を払い、白が跳ね起きる。それと同時、鰍の声と炎の弾とがその足下を抜け海賊達に突っ込んだ。 「うわっ何だ!?」 「船上で火ぃ撒くんじゃねぇ!」 怒り狂った海賊たちが白に襲いかかる。それを退き躱し、白は左の手甲をぐと握り締め思い切り殴りつけた。 右腕にまで衝撃が響く。僅かに怯んだ白の眼前へ敵が迫るも、鰍の鎖がその足を払い飛ばした。 一気に階段を駆け上り隣に立った鰍に、白がぼそり呟く。 「なぁ、俺たちが乗ってきた舟流されたらしいんだけど」 「えっマジで?」 「どうしようか」 そんな二人の間にひょっこり顔を出し、水炎が手を翳しジュリアンを見る。 「暴れてりゃその内何とかなるって、おっ海賊ジュリアンだー」 水炎の声にビネタが嗤う。炎の向こうでその唇が動き、彼は柄に手を掛け前へと進み出た。 「げっ……ちょ、どうすりゃいいんだ?」 「それなりに、かな」 炎を踏み締めジュリアンが笑う。 鰍は顔を引き攣らせ、白は楽しそうに瞳を躍らせた。 「それじゃ遠慮なく」 ごきりと左の拳を鳴らし、白が改めて身構える。 「……おいおい冗談だろ」 「あたしもあたしもー!」 頭を抱える鰍の隣で、水炎がうずうずと腰を低めた。 「そのドレスを汚したら……」 階段の闇からおどろおどろしい声が響き、水炎は拳を握り締めたまま固まった。その傍ら、白は思い切り甲板を蹴りつけジュリアンの懐へ突っ込んでいく。 激しい衝撃音と共、炎に照らされた薄闇に青白の光が飛び散った。 ジュリアンの眼前、白の拳が捉えたのは不自然に静止する金属片。 「攻撃通すだけでも一苦労か」 鰍が鋭く放ったチェーンが、白の背へ襲い掛かる海賊の腹に減り込む。 突き崩された男を押し退けビネタが突っ込んでくる。大きく振り下ろした一撃を、鰍は地面を蹴り飛び回避した。続け様に突きを放たれ、体勢が整わず右肩を引く。 駆け抜ける刃が浅く胸を裂いた。蹴上げた足を器用に飛び躱し、ビネタが刃を大きく振るう。咄嗟に両手で掴んだチェーンを突き出し凌ぐと、鰍は舌打ちを零して衝撃に撓む鎖の向こうへ視線を走らせた。 「必死で可愛いじゃないか、坊や」 「くっそ……!」 「あぶなーい!」 真横から突きかかる海賊の脇腹を、水炎が蹴っ飛ばす。 序でに身を捻りビネタに一撃お見舞いしようとしたところで、ジュリアンの放った木片がカカッと水炎の足下に突き立てられた。 咄嗟に飛び退いた水炎の足先を、身を反転させたビネタの刃が過ぎる。 「っと、失礼」 「なぁ……今のどっちだ?」 「さあ、どっちだろう」 「どっちだっていいだろ」 お互いに解っている、これは只の時間稼ぎだ。 云うなり白の拳が甲板に減り込む。 一進一退の激しい攻防を繰り返す彼らの耳に、海賊の叫び声が響いた。 「おい、太守の船だ!」 「本船じゃねえか!」 声に振り向けば、ゆっくりと近付く一隻の大きな船。 「リエルお嬢様、ご無事ですかー!」 「ソワ!」 その声に階段から飛び出しかけたリエルを、背後から伸びた腕がぐと捕らえて引き戻す。ビネタは階段と海賊と遣り合う水炎を交互に見遣り、俄かに表情を険しくした。 「あれと見間違えたってのかい、この馬鹿ども!」 鰍のチェーンを弾き、ビネタが脇をすり抜ける。 「ビネタ!」 「アンタと契約したのはこの小娘の事じゃあない筈だよ!」 ジュリアンは素早く視線を走らせると、足下の金属片を蹴り上げた。 肉迫したビネタが、リエルを押さえつける腕を叩き落とさんと刃を振り上げる。 「そいつを渡しな!」 「きゃああっ」 悲鳴、悲鳴。ビネタが刃を振り下ろさんとしたその瞬間、ルノーが彼女の前へ飛び出した。 「なっ」 ビネタの瞳が大きく見開かれる。 迸る血飛沫の向こう、体当たりするように突っ込んだ鰍がずるりと崩れ落ちた。 「あー……くそ」 「……何故」 「約束、したろ」 鰍の身体を静かに横たえ、ルノーは後ろ手にリエルを押し遣った。 溜め息一つ。毟るように髪を掻き上げ、血に汚れた片眼鏡を踏み砕く。 「……ビネタ」 女は瞳を大きく見開いた。 血のついた手でその腕を掴むと、ルノーは真っ直ぐに彼女を見詰め低く囁く。 「困るんですよ……お願いですから、私の邪魔をしないで下さい」 ビネタの顔が一瞬引き攣るように震えたのを、その足下に伏す鰍の眸だけが捉えていた。 何かが激しく裂け砕ける音が響き、ぐらりと船が揺れる。船体が接触したらしい。 「……くそっ」 吐き捨て、唇を噛み締める。其の侭ルノーの腕を捻り上げ、ビネタはその首に刃を押し当てた。 「お前たち、引き上げな!」 「船は? 此処を棄てるのか?」 「俺たちゃどこへ行きゃあいい」 「此処でクロードと遣り合うってのかい、散るんだよ!」 鋭く睨みつけたビネタに圧され、海賊たちは次々船を飛び降りた。 じりじりと後退り、ビネタが距離を取る。 背後には海。彼女は惑うように一瞥し、クロードを睨み付けた。 「畜生、あたしにこんな真似をさせるなんて!」 「鰍、鰍っ確りして、貴女一体何なのよ! ルノーを放しなさい、放しなさいよ!!」 取り乱すリエルの腕を掴み、水炎が引き寄せる。 「なー、どうするつもりだ?」 「もしかして逃げられるとか思ってんじゃないの」 燃え盛る炎と船の軋む音。 間合いを詰める白の前に、ジュリアンが割って入った。 「まだそっちなわけ」 「ああ、……悪いね」 苦笑を一つ、ジュリアンが剣を突き付ける。 寄せる潮音に、クロードの声が響いた。 「ビネタ、間違えるなよ」 「……絶対に赦さないよ」 「……だろうなぁ」 その声と同時、ビネタは思い切りルノーの背を突き飛ばした。 倒れ込むルノーの身体を水炎とリエルが受け止める。 「先に行っていてくれ」 「あぁ、分かったよ」 ジュリアンの背を一瞥し、ビネタは手摺を蹴って海へ飛び込んだ。 派手に上がった水飛沫に、駆け込もうとする白をジュリアンが制する。 「……何かわけ解んなくなってきたな」 「そうだな、でも……今彼女を追うなら、僕が止める」 「なぁ、どーすんのこれ。追わなくていいわけ?」 じりと睨み合う二人を前に、水炎は誰とも無く問いかける。 船へ乗り込んできたクロードが、ぽんとリエルの頭に手を乗せ笑った。 「大丈夫だ。もう追わなくていい」 深い溜め息を零し、ルノーは鰍の傍から血塗れの金属片を拾い上げた。 「……命拾いしましたね」 「コントロール良すぎだろ? なんだっつーんだよ、なあ?」 痛みを堪え笑う鰍に、ルノーがふと相好を崩す。 手際良く手当てを施される彼の顔を、水炎が覗き込んだ。 「大丈夫かー?」 「あー、いってぇ。俺もうだめかも」 「なに言ってるの、確りしなさいよ!」 「……何か大丈夫そうだな」 顔を蒼くするリエルの横で、白は安堵したように頷く。 「さてと、僕はもう少し付き合ってこようかな」 「えー、もういいだろ?」 「……すぐに戻るよ」 剣を鞘に収め、ジュリアンは手摺を跳び越えた。 * じわり、足下に黒い染みが広がっていく。 滴り落ちる水滴に首を振るった彼を、ずぶ濡れの犬のようだと女は笑った。 「こんな近場に居て大丈夫なのか?」 「大丈夫さ、追ってきやしないよ」 「そうか」 傍らに腰を下ろした彼を一瞥し、女はごろりと寝転がる。 「あんた、何しに戻って来たんだい? まさか船も金もないあたしと本気で海賊ごっこなんてする心算じゃないだろう?」 彼はゆっくりと首を振った。 「僕は先約を優先するただの傭兵だ……ただ、もう少し付き合おうと思ってね」 「ふ、アンタみたいな男があんなあっさり誘いに乗るわけないさね」 「……悪いな、一年前に誘われたなら本当に乗ったんだが」 「ふん、タイミングが悪いのなんてしょっちゅうさ。もういいよ……いっちまいな」 犬猫でも追い払うように、女はしっしと手を払う。 「君はこれからどうするんだ?」 「何がだい?」 「彼は此処には留まらないといっていた」 「……そう」 頷き、静かに立ち上がる。 歩き出した彼の背に、女の掠れた声が響いた。 ――ありがとう。 * 医者に安静を言い渡された鰍は、暇を持て余しこっそりベッドを抜け出した。包帯でぐるぐるに巻かれミイラと化した彼の頭には、相変わらずちょこんとホリさんが乗っかっている。 屋敷内を忍び歩いていた鰍は半開きの扉に誘われ、明日のメイン会場である大広間を覗き込む。 「……でか」 バルコニーの扉が開きっ放しになっているらしく、深い夜潮の香が鰍の鼻を擽った。 導かれるように足を踏み入れれば、そこには独り静かにグラスを傾けるルノーの姿。 「こんな所で何してるんだ?」 「……どうかお静かに」 そういって人差し指を立てる彼に、鰍は首を傾げ歩み寄る。 あんたほんとそれでいいの? うるさいわね、今更言ったってもうどうしようもないのよ! 階上から響く声に成程と呟けば、彼は笑ってグラスを差し出した。 「サンキュ。誰か誘うつもりだったのか?」 「クロード様の部屋へ忍び込む心算だったのですが、うっかりこのような事態に」 「なるほど」 受け取ったグラスに口を付け、鰍はぼんやり天を仰いだ。 言えば解決するわけじゃ無いけど、言わなきゃ何も始まらないじゃないかー! うっさいわね、駄々捏ねないでよ、ガキ! でもさー、一生添い遂げる相手と誓う時に、別のこと考えてるなんてナシだろ? あたしらも結婚式には晴れ晴れした笑顔で参列したいしなー。 勝手に晴れ晴れすればいいじゃないの。 ……ちゃんと祝福させてよ。 はぁ……昔から解ってたことなのよ。あいつ、ずるいの。 あいつって? ルノーよ、いつも嘘ばっかり吐くんだから。 えー、嘘なんて吐く感じじゃないだろー。 あっさり騙されてるんじゃないわよ……この結婚だってあいつが裏で糸を引いてるの、話を持ってきたのは全部あいつなのよ。 ええ、まじで!? そうよ、お父様もあっさり騙されてしまうし、あのふわっふわ頭の阿呆なんて本当にへらへらと大喜び。『リエルお嬢様、素敵なお方に見初められてよかったですね』ですって、考えなしの阿呆にも程があるわ。おかしいじゃない、何の接点もないのにどうやってクロード様が私を見初めるっていうの? ルノーはククッと楽しそうに声を殺し笑う。 一体いつから飲んでいるのか、彼は既に酔っているのかもしれない。 「何か理由があったんじゃないのか?」 「さぁ……けれどもう会うことも莫い。これで、いいんです」 彼は瞳を閉じ、ふと静かな笑みを浮かべた。 「ところで、お加減は如何です」 「まあそこそこ?」 「それは良かった……それだけが少し、気掛かりでした」 彼は不意にグラスを傾け、鰍のグラスと弾き合わせた。 涼やかな音色が夜の海へと響きゆく。 翌日、ヴァレリアとグラムとを繋ぐ盛大な式が執り行われた。 花嫁は美しく笑み、人々は皆笑顔で寿いだ。 式は恙無く進んだ。 只、長く花嫁に仕えた青年の姿だけがどこにも見当たらなかった。
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