無言だ。 ふたりとも、無言でそれを見下ろしている。 「……ジュリアンさん」 「ああ、どうしたのかな、優」 「あの、これ」 「皆まで言うと心が折れるからやめたほうがいいと思う」 「ですよね……」 遠い目をする相沢 優を傍らに見やり、深い深いため息を落としつつ、ジュリアン・H・コラルヴェントは手にしたそれをためつすがめつしている。 それは、たいへんに美しい布である。 手触りがよく、やわらかく、香を焚きこめてあるのかよい匂いがする。 優のそれは淡い桃色、ジュリアンのそれは上品な紫色をしている。 それは、極上の絹をふんだんに使用し、色とりどりの絹糸で繊細優美な刺繍を施し、裾を清楚でありながら贅を尽くした純白のレエスでかがった、貴族の姫君が身に着けるにふさわしいドレスである。 付属の装飾品もまた超一級品ばかりだ。 ティアラ、ネックレス、イヤリング、ブレスレットなど、すべて合わせればいったいいくらになってしまうのか、考えるだけでも恐ろしいほどセレブな装飾品ばかりだが、ふたりの口から出て来るのはアンニュイなため息ばかりだ。 「……これ、綺麗ですよね。職人さんの技術が光る素晴らしい品ばかりだなあ」 「そうだな、自分が身に着けるのでなければ」 ――つまるところ、それに尽きた。 要するに、ふたりは、これからこの美しい衣装を身に着け、貴族の館へ出かけてゆかねばならないのだ。 「火城さん、女性の心を持って行け、そうすれば必ず選ばれるって言ってましたよね……」 「持てるかそんなもの」 なぜこんなことに。 そう思うが、おそらく運命とかいう流れによってここまで運ばれてしまったのだ、きっと抗うだけ無駄なのだろう。 ――ヴォロスのとある地方に、古くから続く名家が存在する。 名をフェエトーアすなわち妖精の門というその家に、代々受け継がれている婚約指輪があるそうなのだが、その指輪の宝石は、実を言うと竜刻が転じたものなのだという。 そして、今回、その竜刻の暴走が予言された。 甚大な被害が出る前に『封印のタグ』を貼り付け、竜刻を鎮める必要があるが、誓いのあかしとして貴ばれる指輪の管理は非常に厳重で、次期当主の婚約者に選ばれない限りは、指輪に触れることすら出来ないという。 おりよく、もうじき若き後継者トレラント・フェエトーアの花嫁選びが行われるとあって、世界図書館としても人員を派遣し、危機の回避に向けて動き始めたところだった。 ――ところがである。 はじめ、依頼を受ける予定だった女性ロストナンバーが、急用で参加できなくなってしまったのだ。壱番世界を基盤に生活しているコンダクターの女性だったのだが、なんでも、身内に不幸があったのだという。 残念ながら他に引き受けられる女性ロストナンバーがおらず、暴走の時は刻一刻と近づいている……ということで、煮詰まった司書は思い切った行動に出た。 つまるところ、司書の出した結論が「違和感のない男性ロストナンバーをとっ捕まえて貴族の姫君に仕立て上げればいい」であり、そこで捕獲されてしまった運の悪い男子がジュリアンと優だった、というわけだ。 拝み倒された挙げ句あれよあれよという間にロストレイルへ押し込まれ、情報が脳みそへ行き渡りふたりが青褪めるころにはヴォロスに到着していた。 竜刻が暴走してしまったら、最悪の場合フェエトーア領の三分の一が壊滅する……などと言われたのもあって、このまま知らんぷりを決め込むわけにもいかず、悩みに悩んで今に至る。 「でも、お嫁さん選びって……そもそも俺たちで何とかなることなんですかね? 俺、貴族のお姫様の教養とか、ないんですけど」 「残念ながら僕にもないな……いや、知識としてはなくもないが、それを自分が実践できるかと言われたら、はなはだ疑問だ」 言いつつも、使命感と諦観に背を押され、ふたりはのろのろと準備を始めている。 しかしながら、『清楚系小顔のつくりかた』という資料と化粧品の数々が入ったポーチを見つけたときは、さすがに膝から崩れ落ちたい気持ちになったふたりである。 * フェエトーア家の若君、次期当主トレラントは、朗らかでやさしげな好青年だった。 優雅な所作が美しく、血筋のよさを鼻にかけることのない――真に高貴なものは、傲慢とも無縁ということだろうか――、気品ある美男子だ。 彼は、他の花嫁候補と同じく、イナンナこと優とグリゼルダことジュリアンを歓迎し、ここまでの道のりを労い、まずは旅の疲れを癒すよう勧めた。それだけ力が入っているということなのか、それともそもそもそういったことが好きなたちなのか、なんと手ずから茶を淹れ、振る舞ってくれたものである。 「……いい人ですね。きっと、ご両親もいい人たちなんだろうなあ」 「そうだな、穏やかな波動が伝わってくるから、いい意味で大切にされている人なんだろう」 現地の協力者のお陰で、立場的にも性別的にもばれずに潜り込めたことを安堵しつつ、ふたりはこそこそと会話を交わす。 集められた花嫁候補の女性たちも、その大半が高貴な血筋の姫君だったが、出自を鼻にかけることのない、おっとりとやわらかな娘さんたちばかりで、自分こそが花嫁に! というガツガツとした空気もなく、館は終始和やかな雰囲気に包まれている。 その日はそんなふうにゆったりと過ぎた。 女装さえしていなければもっと心穏やかだったのに、と心底思った茶会のあと、贅を尽くしていながら悪趣味ではない、ただ舌にも目にも美味であることのみを追求した晩餐をいただき、あてがわれた部屋で休んだ。 「これ、普通にお客さんとして来られたら最高だっただろうになあ」 翌日の朝食時、絶妙に仕上げられた生クリーム入りのスクランブルエッグに舌鼓を打ちつつ優は溜息をついていた。外はカリッと、中はふんわりと焼き上がったパンを片手に相槌を打つジュリアンもどこか遠い目をしている。 「まったくだ。気持ちのいい人たちに場所、穏やかな時間……出来れば、『仕事』以外で来たいものだ」 これが、自由な旅の一日に、ふらりと立ち寄って滞在した……という設定なら、どれだけ心穏やかに、豊かに過ごせただろうか。 そんな自分たちを夢想して現実逃避するものの、しかしもうじき戦いが始まる。いや、実際にはもう始まっているというべきか。 と、 「次はイナンナさまとグリゼルダさまの番ですわよ」 優雅な所作でティーカップを持ち上げつつ、娘のひとりが優を呼んだ。 「え? あ、えーと……ごめんあそばせ、わたくしお話を聴き逃してしまって。ねえ、グリゼルダさま」 「ああ、はい、ええ、そうなんですの」 無想の狭間に遊んでいた意識を引っ張り戻し、言葉を取り繕って、ふたりは『良家の姫君』らしい笑みを浮かべる。――引き攣っていなかったかだけが心配だ。 答えたのはトレラントだった。 「フェエトーア家の女主人となるからには、お客様をおもてなしして、お楽しみいただくことも必要となります」 「なるほど、その通りだ……ですわね」 それで? と視線だけで先を促せば、トレラントはおっとりと笑った。 しかし次に発せられた言葉は、 「なので、面白いことを言ってください」 「えっ」 「場がひと息に和んで、皆が愉しい気持ちになるような、おもしろいことをお願いします」 「ええっ」 イナンナさんとグリゼルダさんに眼を剥かせるに十分なインパクトを持っていた。 「お……面白いこと、ですか」 まさかそういう方面での教養を求められるとは思わなかった。 こういう無茶振りはホント勘弁してください、などと思いつつ、メイクが解けて流れるのではないかというほどの冷や汗ないしは脂汗をかきながら考えたが、残念ながら出てこない。 「どうです?」 トレラントは純粋に楽しげだ。 花嫁候補、イナンナさんグリゼルダさんの“人知れぬ好い部分”を発掘しようとでも言うように、その眼差しには好意と好奇心があふれている。 そんなキラキラした目で見つめないでくださいとは、頭を抱えたいふたりの偽らざる内心だった。善意から発せられた言葉と判るからなおさらタチが悪い。 しばし固まったのち、ややあって優が口を開いた。ジュリアンが勇者を見る眼差しで彼を見つめている。 「ね……」 「ね?」 トレラントが首を傾げた。 「猫が、」 「猫が?」 ごくり。 生唾を飲み込み、拳を握り締める。 しばしの沈黙ののち、意を決したように、 「――猫が、寝転んだ!」 カッと目を見開き、優は高らかに言った。 なんともいえない沈黙が落ちる。 トレラントをはじめとした皆が気まずそうに目をそらし、ジュリアンは優それは面白いことというかただの駄洒落だ、などと小さくつぶやいている。 猛烈な勢いでスベったことは明白で、優が、穴があったら入りたいどころか、穴を空けてでも入りたいなどと、表面上は笑顔のまま全身から血涙ならぬ血汗を流していたところへ、 「……判りました」 差し出された助け舟はやはりトレラントからだった。 「それでは、別の質問をしましょう。家族になるなら秘密はなしでなくてはね」 「つまり?」 「これまでに経験した中で一番恥ずかしかったことを教えてください」 「えええ!?」 思わず素で声を上げ、ハッと気づいて軽い咳払いとともに取り繕う。 「それは、あなたが私たちを信頼してくださるかどうか、ということですから」 トレラントはどこまでも穏やかだ。 悪意でもって発せられた言葉でないぶん、ダメージが大きい。 「ええと……あの。わたくし、小さいころ、冒険小説に憧れたことがございまして」 「へえ、イナンナ姫はお転婆ですね。いや、しかし、勇ましくていい」 「はあ……ありがとうございます。それで、どうしても自分でも経験してみたくなって、こっそり旅に出たことがございますの。――その日の夕方、警備隊に保護されて自宅へ送り返されましたけれど」 あれは今でも優の中で黒歴史である。 時々帰ってくる両親が、苦笑半分からかい半分にその時のことを持ち出すたび、その節は大変ご迷惑をおかけしました、と地面に埋まりたくなる。勇敢と無謀は違うものなのである。 穴がなくても空けて入りたいモード突入中の優だったが、意外と反応は好意的だった。 「イナンナさまは克己心あふれるお方なのですわね。すてきだわ。わたくし、おねえさまとお呼びしたい」 「男も女も関係なく、自ら道を切り開こうという姿勢……憧れますわ」 「えっ……あ、あー……はい、ありがとう、ございます……?」 小首を傾げつつ礼を言い、ジュリアンの脇腹をつつく。 促されたほうは、やっぱり僕もかと呻きつつ記憶を探る。……出来れば思い出したくもない領域の記憶なので、自然、どこか遠くを見る眼になる。 「僕、じゃなくてわたくし、実は幼少時より剣の手ほどきを受けておりまして」 「おや、こちらも勇ましい」 「はい、好いた方をお守りするにはやはりそうでなくては」 「なるほど、それで?」 「その。初めて手にした剣に、名前をつけましてですね」 必殺技まで考えて、稽古の際にそれらを叫び、悦に入っていた……というのは、以前、まだ敵対関係だった世界樹旅団との対抗運動会でジュリアンが暴露させられた黒歴史である。 しかし実は、それには先があった。 「銘を与えると、剣はよく働いてくれるといいますよ」 さすが、トレラントのフォローには隙がない。 が、 「ああ……はい。いえ、設定……もつけたりつけなかったりで」 「設定?」 「はい」 「それは……どういう……?」 今ひとつ事情が呑み込めない様子のトレラントや娘たちを前に、 「……聖剣、でした……」 蚊の鳴くような声でそれだけ言って、ジュリアンは顔を覆う。優が、それを、同情と共感と「よくごまかさずに言ったね」的温かな視線で見つめていた。 ――その後も、数日にわたって試練は続いた。 何より、衣装そのものがまず精神的苦痛を叩きつけてくる中、自分たちが得意な料理や護身術といったものはまったく役に立たず、精神の正常な値をごりごりと削られて、「そういうことばかりなら楽だったのに」「そういや俺、最近トルコ料理に凝ってるんですよ」「トルコ料理っておいしいらしいね、今度レシピを教えてほしいな」などと現実逃避すら始めたほどだ。 次に、詩情あふるる豊かな心を表現してください、とポエムをつくらされた。 このポエム、歌にして皆の前で披露させられたのだが、小器用なジュリアンはともかく、『歌は好きだけど得意ではない』優は、むしろトレラントが「そういう不器用なところも素敵ですよ」と慰めてくれたほどアレなナニを披露してしまい、べっこり凹む羽目になった。 この辺りでは、母が生まれてくる我が子に襁褓を縫うのがしきたりらしく、腕前を試すという名目でハンカチを縫わされた。 女主人は若さと美貌を保つのも仕事のひとつ、とそれぞれが行っているスキンケアや美容方法を披露および実践させられたときは、双方、「女の人って本当に大変だな」という結論に至ってぐったりした。 などなど、それぞれの無茶振りを潜り抜け、ようやく花嫁選定最終日。 今日は、必須技能ということで、ダンスの腕前を披露するという。 ……というのは名目で、実際には、数々の試験を粘り強く乗り越えた姫君たちへのねぎらいが大半の理由だそうだ。 美しく装って大ホールに集う娘さんたちは、活き活きと愉しそうに輝き、華やいでいる。 室内管弦楽団が美しい音楽を奏でる中、ジュリアンはトレラントにダンスを申し込まれ、知識と経験を総動員して姫君役に徹していた。 そもそも富裕階層の出身で、仕えていた女主人には女性の扱い方や女性のエスコートの仕方を叩き込まれているものだから、ついつい、男役のほうを踊りそうになって苦労したが、堂に入ったものだ。 「剣をたしなまれる方のダンスは、ステップに切れがあって美しいですね」 トレラントの言葉も、非常に好意的だ。 悪い気はせず、ジュリアンがほとんど素で礼を言った、その時だった。 ジュリアンの意識を、ちりりとささくれた何か――殺意だと認識するのに時間はかからなかった――が撫でていく。同時に、けたたましい音を立てて窓が割れ、 「お命頂戴する……悪く思うな!」 地域ひとつを預かる貴族ともなれば権謀術数とも無縁ではいられないのだろうか、黒ずくめの衣装を身にまとった男が、目にもとまらぬ速さで飛び込んできた。手には凶悪な輝きを放つナイフがある。 姫君たちが悲鳴を上げ、トレラントの名を呼ぶ。 ふたりの行動は早かった。 優が、他の姫君たちに危険が及ばぬよう、彼女らをさりげなく誘導するのを確認したのち、ジュリアンはこっそりと特殊能力である念動を発動させる。 能力でもって暗殺者の動きを止め、素早く襟首を掴むや否や強く引き、バランスを崩させて、一気にその場に引き倒した。相手が体勢を立て直すより早く、同じく念動で操った花器を頭部に落下させ、意識を刈り取る。 ほんの一瞬のできごとだった。 恐縮する衛兵たちに暗殺者が引っ立てられていき、安堵という名の沈黙が落ちる。 そんな中、 「やはり……あなただ、グリゼルダ姫」 「えっ」 「好いた人を護るために強くありたいと言ったあなたの強さに惹かれました。そして、事実、あなたは私を護ってくれた」 トレラントの目が感激に潤む。 辛い労働を知らぬ流麗な手がグリゼルダさんの手を取る。 片方の手には、見事な輝きを放つ宝石のあしらわれた指輪があった。 「どうか……私と生涯をともに」 好青年の見せる情熱に、なんやかやで押しに弱いジュリアンは、指輪を受け取りながら、「お返事は一晩お待ちになって」と返すのが精いっぱいだった。 その夜、封印のタグを竜刻に貼り付けた指輪を宝石箱へ戻し、『一夜限り、あなたのお心をいただきました』のメモとともに部屋に残して、ふたりは一目散に――脇目もふらずに館から逃亡した。 その手際があまりに見事だったものだから、若き次期当主は婚約者が消えたことを哀しむよりも先に、あれは何かの導きだったのだと結論づけるに至ったそうだ。 そして、その地方には、よき人を危機から護るために大いなる意思が遣わした、ふたりの女神の伝説が永く残ることになったという。
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