踊り子の肢体が艶めく。白馬が飾り立てられていく。弦楽器を抱えた男が大道具にぶつかりそうになって立ち止まった。翻る台本。スコア。ドレス。立ち込める白煙は白粉か、石灰か。 雑音に満ちたステージでは主演のリハーサルが行われていた。「マエストロ・ラニエ。もう一度お願いします」「かしこまりました」 老人指揮者のタクトが楽団を導く。繊細な面立ちの青年は緊張と共に息を吸い込んだ。『集え、歌え、高らかなる夜。 駿馬のいななき、凱歌の金管! 魔女さえおののき、かしずくだろう――』 照明の下で汗が輝く。優男めいた青年の声は息を呑むほどに力強い。「あの体のどこから声を出しているのか」 舞台袖では座長のボルドーが苦笑していた。隣には妻のマルグリットの姿がある。「この劇場の最後の公演だもの。去年のようにはならないといいわね」「そのために傭兵を手配した。観客といい、どうなっているんだ。舞台は聖域だというのに」 ボルドーは舌打ちした。実を言えば、彼はこの町に好感を持っていない。客席での私語や飲食が絶えないのだ。マルグリットはとりなすように夫の腕を取った。「お客さんは演技で惹きつければいいの。ね」「……そうだな。声を荒らげて悪かった」「それより、剣のことなんだけど」「俺もそれを考えていた。――アーサー」 ボルドーは歌が終わるのを待って青年に声をかけた。マルグリットはスカートを翻して姿を消し、入れ替わりにアーサー青年が駆け寄ってくる。少年のように無邪気な笑顔だ。ボルドーはしかつめらしく咳払いして口火を切った。「良い出来だな。緊張するだろうが、気にすることはない。初めての主演はそんなものだ」「座長でも?」「もちろん。この人、最悪だったんだから」 マルグリットが戻ってきた。手には一振りの剣を戴いている。「アーサー。この剣を貴方に託します」「――は?」 これは座長家に代々伝わる名剣ではないか。 ボルドーは意地の悪い笑みを浮かべた。「お前の役は若き王だ。立派な剣が必要だ」「レプリカを使うと……」「一座と我が家の伝統なの。この作品の主演にはみんな使ってもらっているわ」「しかし」 微笑むマルグリットの前でアーサーは口ごもる。ボルドーが「面倒くさい」と舌打ちして剣を取り上げた。「息子の晴れ舞台だ。少しは格好を付けさせろ」 そして、無造作にアーサーに押し付けた。孤児であるアーサーの才能を見出したのがボルドーなのだ。 アーサーは呆けたように剣を見つめ、やがて押しいただくようにして受け取った。「必ずや務め上げます」 剣の柄で、瑞々しい緑の石が煌めいている。「竜刻の暴走の予兆が顕れました」 リベル・セヴァンはいつものように事務的に告げた。 ヴォロスの田舎町に古い歌劇座がある。そこを訪れる劇団の小道具に用いられている竜刻がターゲットだ。小道具といっても本物の剣で、持ち主も演者も竜刻であることを知らない。おまけに、剣は所有者の家に伝わる宝だそうだ。 竜刻が暴走すれば歌劇座ごと消し飛ぶだろう。それに魔力の歪みはヴォロスの自浄作用を弱め、ワームやファージにつけ入られる要因となる。「剣は主演が持つことになっています。ただ」 リベルは慎重に言葉を切った。「皆さんが目的地に到着してすぐに開演となります。オペラが始まる前に竜刻を手に入れる余裕はなく、竜刻の暴走は終幕間際に起こります。これは確定した未来です。よって、上演中に何とかしていただくしかありません」 歌劇座にはツーリストの小紫薫子が先発している。しかし彼女はただのオカメインコで、働きは期待できない。「座長のボルドーは上演の邪魔を嫌います。昨年の公演中に盗賊の襲撃があり、余計に神経質になっているそうなのです。真正面からの回収は難易度が高いでしょう。それからもう一つ気がかりがありますが、そちらは別班を派遣します。皆さんは竜刻の回収に集中してください」 竜刻の魔力を安定させるための『封印のタグ』が差し出された。 この町はかつて城塞を持ち、栄華を極めていたという。もっとも、今は崩れかけた城壁がわずかに残るのみなのだが。 古めかしい、しかし町ひとつが収まってしまいそうな劇場に人々が次々と吸い込まれていく。華やかな光景ではあったが、あちこちで睨みをきかせるのは強面の傭兵達だ。 屋根を支える裸婦像は金箔が剥げ、衰えた地肌を晒している。時間という、ひどく重厚で無慈悲な質量が劇場を軋ませていた。「ごめんなさあい。お役に立てなかったわあ」 小紫薫子が悄然とロストナンバーを出迎えた。「どうにか舞台裏に忍び込めたんだけどお、みんなぴりぴりしててえ。主演の人も分かんなくてえ……。代わりにこれを拾ったのお」 書き込みだらけの台本――今夜の演目の――と、歌劇座の見取り図だった。「いっそ出演者に紛れ込めばいいんじゃないかしらあ? だって大人数のシーンが結構あるのよお。台詞ならアタシが天井裏から教えればいいしい……。もちろん、お客や楽団に紛れてもいいと思うわあ」 天井には太陽を象ったシャンデリアが君臨している。!ご注意!このシナリオは『【歌劇座】聖域落日』と同時系列の出来事を扱います。『【歌劇座】聖域落日』との重複エントリーはご遠慮ください。重複参加された場合、満足な描写はいたしかねます。ご了承ください。
役者より先に歌劇を紡ぐ者がいる。オーケストラである。指揮者の老人は寡黙で、呼吸ひとつ、タクト一振りで産声を導いた。 勇壮な金管が吹き荒れる。馬の大群のようにドラムが轟く。圧倒的な音響は聴衆の私語ごと劇場を呑み込んでいく。 老眼の指揮者は楽団の最後列に座る中年に気付かなかっただろう。 「こういう場ではたまに奇跡が起こる。舞台の神の加護はあるかな?」 中年の名はロナルド・バロウズ。彼のバイオリンは不可思議な力を放ちながら劇場を席巻する。 金糸で縁取られた深紅の幕が生き物の腹に似て膨らむ。魔法のように左右に割れて、光と色彩が溢れ出た。 『歌え、集え、絢爛の宵に。 高らかに叫べ、彼の者の名を。 我らの同胞、我らの救い主』 演者の列が前後左右に入れ替わる。赤に青、緑に茶。踊り子がドレスを翻し、侍従が凛と剣を掲げる。 『聞け、蹄を!』 ダンスの列が扇状に開く。さっと上げられた手がアーチを形作る。 『偉大なる王がやって来る!』 アーチをくぐり、白馬に乗った王が現れた。甲冑を着込んだ彼の表情は固い。 「顔がこわばってるぞ!」 すかさず飛んだ野次は荘重なバイオリンに封じ込まれる。 舞台袖で、アマリリス・リーゼンブルグが軽く唸った。 「あれは本物の馬なのか。毛並も見事だ」 幻術で翼を隠したアマリリスは王の騎馬に注目していた。見事な毛並は葦毛ではなく白毛だ。 (アメリアと観に行った時は精巧な張り子を使っていたが) 刹那、記憶が別の空に飛ぶ。世界は違っても舞台というものの本質に差はないのかも知れない。華々しく、夢のようで、観る者を夢中にさせるのだ。 「あっ、すみません!」 小さなつむじ風がアマリリスにぶつかる。舞原絵奈だ。両手いっぱいに衣装を抱えた絵奈はピンク色の髪を弾ませながら走り回っていた。 「こちらこそ申し訳ない」 アマリリスはいつもの調子で微笑みかけた。 「お怪我はなかったかな、可愛らしいお嬢さん」 「お嬢、さ……?」 中性的な美貌の前で絵奈は目を白黒させる。何せアマリリスは騎士の衣装に身を包んでいるのだ。おまけに、整った指先が絵奈の髪へと伸びてくるではないか。 「失礼。糸くずが付いていたものだから」 「あ、ありがとうござ……」 「随分忙しそうだが、手伝えることはないだろうか」 「そんな! 雑用は私の仕事で、あの、その――」 「衣装が足りないぞ!」 半裸の男が怒鳴る。絵奈はすぐに「ただいま!」と応じた。 「じゃ、失礼します!」 そして、アマリリスにぴょこんと頭を下げて走り去った。赤くなった顔を衣装に半ば埋めながら。 「衣装が足りない、か。慌しいことだ」 絵奈を見送り、木賊連治は飄々と髪を直していた。灰茶に染めた髪は柔らかく跳ねている。 「どこかに『消失』したんだったりしてな」 連治は演者の衣装をくすねて着用していた。 とはいえ連治は劇団の人間ではない。見咎められれば言い逃れはできぬ。 「おい」 案の定、付け髭と兜で装った男に腕を掴まれた。振り返る連治のおもてにさっと緊張が走る。連治の腕を掴んだ男は舞台を顎でしゃくった。 「もう出番だ。準備してくれ」 「……了解」 連治は拍子抜けした。 男は構わずに連治を引っ張っていく。 「流れは覚えただろうな?」 「もちろん、完璧に。ショーの邪魔は本意じゃない」 男に応じ、連治は不敵に口元を歪めた。 「聖域なんだろ。中途半端な真似はできねえ」 連治もまた、奇術師という名のパフォーマーなのだから。 福増在利も舞台袖に入り込んでいた。 「オペラかぁ」 埃っぽい空気を胸いっぱいに吸い、味わう。 「ゆっくり見たかったけど、そうも言ってられないよね」 在利は緑色の蛇竜人で、旅人の外套を加味しても人目を引く。しかしアマリリスの幻術とロナルドの演奏の効果で誰何を受けずに動き回ることができた。 「うわあ綺麗だなー」 余っていた衣装を見つけ、平坦な感銘がこぼれる。 「他にないのかな? 別にいいんだけどさ。慣れてるけどさ……」 出陣式は山場を迎え、歌劇は密度を増していく。 『親愛なる王、加護の申し子。あなたの御手に国のすべてを』 剣を戴き、家臣が進み出る。彼の灰茶の髪は生き物のようにたゆたっていた。フットライトの炎――シャンデリアといい照明といい、火を使っているようだ――が上昇気流を渦巻かせているのだ。 『おお我が魂、父祖よりの誇り! 今、この剣に誓う。祖国の土を再び踏むと』 王が剣を取り、抜く。磨き抜かれた刃が凛と輝く。家臣は王を引き立てるようにひざまずき、ちらと剣を見上げた。 『儀式は済んだ。堅苦しさはこれでおしまい。 手を取って踊ろう、肩を組んで歌おう。 何という夜! 何という祝福!』 王がさっと手を上げ、波のように演者が入れ替わる。家臣たちは退出し、華やかな舞踏会が始まった。 「お手を、レディ」 中でも輝いているのは一人の騎士だ。凛々しい美貌は男にも女にも見える。騎士は淑女をエスコートし、流れるように舞台中央へ踊り出た。 「あなた誰? 見ない顔ね」 淑女役の女が声を潜める。途端にバイオリンの音色が厚みを増し、女はそれ以上の詰問をやめた。 「私も貴女の名を知らない」 とろけるような演奏を背に騎士は囁く。 「しかし貴女の美しさは知っている。それで不足か?」 「まあ」 女が吹き出し、騎士はそれをカバーするように体を入れ替えた。楽団最後列の中年と目が合う。タキシードを着崩した中年は素知らぬ顔でバイオリンを愛撫し続けた。 華やかな女たちと踊りながら、騎士は流れるように王に近付く。後押しするようにバイオリンが響く。 舞台袖は戦場だった。怒号と埃が飛び交っている。背景布を入れ替える滑車が軋む。 人いきれで汗が噴き出し、絵奈は素早く額を拭った。そして「はあ」と息をついた。 「舞台ってこんなに凄いんだ……」 劇というものを見るのは初めてだ。演技や演奏は無論のこと、劇団の結束力にも目を奪われてしまう。 「みんなの足を引っ張らないようにしないと」 立ち止まっている暇はない。じきに第二幕が始まる。 甲冑を鳴らしてアーサーが戻ってきた。 「お疲れ様でした」 絵奈はすかさずタオルを手に駆け寄った。メイクを落とさぬよう、慎重に額の汗を拭ってやる。 「初めての主演だって伺ったんですけど、本当ですか?」 恐る恐る話しかける。アーサーは衣装の重さを感じさせぬ風情で微笑んだ。 「はい。ようやく緊張が解けてきました」 「初めてだなんて思えません。演技も歌も素晴らしいです!」 「ありがとう。何だか体が軽くて」 「剣も凄いですね。あの……ほんの少しでいいので見せていただけませんか?」 柄に嵌っている緑の石こそが竜刻だ。剣に近付いた連治とアマリリスが確認済みである。 「申し訳ないが、駄目です」 アーサーは静かに、しかし毅然と絵奈の手を拒んだ。 「とても大切な物なので……僕の物ならいざ知らず、座長から託された剣ですから」 「アーサー!」 「はい! ――じゃ、失礼」 仲間の呼び声に応じ、アーサーは絵奈の前を去ってしまった。 「うーん。結構ガード固いですね」 在利がひょいと顔を出す。 「あれって、所有者は座長さんなんですよね。座長さんに話をしたほうがいいのかな?」 「……あ」 絵奈は我に返ったように瞬きを繰り返す。在利は衣装の裾をひらひらとさせながら肩をすくめた。 「ちょっと行ってみます。僕の出番、だいぶ後だし」 「え? 僕……?」 「あはは」 怪訝そうな絵奈の視線を在利はいなした。 彼らの脇を連治が駆け抜けていく。目指すは小道具部屋の、剣のレプリカだ。 「さっきすり替えたかったんだが」 舌打ちしつつ目的の部屋に侵入する。さすがの連治も開演までにレプリカを見つけ出すことはできなかった。何せ台本を読み込んだり、衣装を調達したりせねばならなかったのだ。 集中していた連治は道具部屋のドアが開いたことに気付かなかった。 「誰だ」 不意に肩を掴まれ、息が止まる。 険しい表情で連治を見下ろすのは座長だった。 「その格好、道具方ではないな。何をしている」 「申し訳ありません。ちょっと探し物を」 連治は慇懃に応じて切り抜けた。 客席の私語は懸念されたほどではなかった。圧倒的な演技と演奏は野次さえも黙らせる。 視線を感じ、バイオリンを抱くロナルドはふと目を上げた。 老マエストロと視線がぶつかる。マエストロの聴覚はこちらに気付いている。しかしロナルドは余裕たっぷりの微笑を返しただけだった。 (みんなの前では追い出せないし、乗るしかないでしょ?) 上演中に騒ぎは起こせない。熟練のマエストロだからこそ荒事は好まぬ筈だ。 それに、最後の公演とあっては楽団も底力を出すだろう。ならば音楽家として敬意を捧げたい。それに、芸術を愛する者達や劇場のために上演を遂げさせねばならぬ。 「ちょっと行儀悪いかも知れないけど。本気を見せて欲しいな」 弓が弦を愛撫し、神秘的な音色が膨らむ。指揮者は老いてなお枯れぬタクトを振るい続ける。視線の先は楽団か、座席か、それとも桟敷席か。 重厚な演奏の中、マエストロの囁きを聞き取ったのはロナルドだけだった。 ――「プチ・エリー」と。 第二幕が始まる。色鮮やかな書割が灰色の荒野へと取って代わる。 「何だと」 舞台袖で、座長のボルドーが神経質に声を荒らげた。一瞬、団員たちが身をこわばらせる。しかし出番が迫る彼らはそそくさと舞台に出て行った。 「しっ。騒ぎになりますよ」 ボルドーの前に立っているのは在利だった。 「剣に使われている宝石は竜刻で、それが暴走しそうになっています。暴走した場合、この劇場ごと吹っ飛びます。すみませんが、これ以上説明できることはありません。だけど、起こり得ることはこれがすべてです」 在利は丁寧に言葉を繰り返す。ボルドーは気難しく眉根を寄せて腕を組んだ。 しばし沈黙が流れる。 「その話が真である証拠は」 やがてボルドーは腕組みを解かぬまま在利を睨めつけた。 「はいそうですかと家宝を渡すわけにはいかん。道具部屋でこそこそしていた男といい、何なのだ。俺達を騙して剣を盗もうとしているのではないと証明できるのか」 「ですよね……そう思っちゃいますよね」 「いきなり信用しろと言う方がおかしい」 「ではこちらの秘密を明かします。ぼ……じゃない、我らは竜の末裔の一族です」 在利は咳払いし、貴人の所作を真似て一礼した。 「竜刻の暴走を感知して抑えるのが我らの務め。村や町が消し飛ぶ様も幾度か目にしてきました」 はったりである。しかしボルドーの眼差しが厳しくなった。在利は中性的な瞳をくりりと動かし、ひたとボルドーを見つめ返した。 「舞台の進行を止めたくないんです。ご助力願えませんか? ――きっと、何とかします」 上演は続く。 荒涼たる背景を前に王の叫びがこだまする。 『夢にまで見た愛する故郷。 この荒れ野こそが我が祖国だとは! 夢魔の仕業か。白昼夢なのか!』 『若き王よ、甘い夢はいかが。 私の手を取り、泉に参れ。 約束しよう、至福の夢を。とびきり甘美な、陶酔の日々を』 灰色の舞台に魔女が現れる。立ち尽くす王を魔女の手下が取り囲む。 『無垢な王は打ちのめされた。 弱き青年! 気の毒なぼうや!』 なまめかしい男女が挑発的に踊り、激昂した王が剣を抜く。 ひらり、と灰茶の髪の男が踊り出た。 王の剣が縦横無尽に走る。男は手袋をはめた手で刃を受け止め、肌に届く寸前に受け流した。剣が煌めく。衣装の裾が幻想的に翻る。 美しい殺陣に誰もが息を呑んだ。 男の立ち回りは洗練されているのに、決して王の邪魔をしない。抑制された高貴さが王の演技を引き立てている。 「そのまま聞け」 男は王に肉薄し、低く耳打ちした。 「何が起こったとしても舞台を続けてくれ」 「何の話だ」 王の眉間に不審が宿る。その時、絶妙のタイミングでバイオリンの旋律が加速した。神秘的な音色が空気を盛り上げ、演者をたかぶらせる。バイオリンの追い風を受け、男は素早く王に告げた。 「続けろ。聖域の最後に悔いを残すつもりか」 王の剣が閃く。男は身を仰け反らせ、ふわりと背後に倒れ込んだ。 次々と新手が襲い掛かる。王は剣を握り締めながら呑み込まれていく。 『荒野の他には何もない! 我の他には誰もない!』 血を吐くような咆哮は舞台袖の絵奈をも揺さぶった。 絵奈の視界が一面の瓦礫へと塗り替えられていく。それはかつての記憶。脳裏に焼きついた光景。 血の臭気。錆びて折れた剣。ずた袋のような死体。たった一人で立ち尽くす絵奈――。 「……やっぱり凄い、な」 絵奈はふるりとかぶりを振って感傷を断ち切った。 「私も頑張らないと」 ぱんと頬を叩き、第三幕の準備へと走る。 「お見事」 舞台袖に下がった連治にアマリリスがタオルを渡した。連治は寡黙に汗を拭く。愛想のない態度にアマリリスが苦笑した。 「随分堂々としている。薫子さんのフォローも突っぱねたそうだな?」 「劇団の意気込みを見れば本気で応えたくなる」 連治は口元を歪めて笑い、アマリリスも「確かに」と応じた。 「ところで、楽団の彼には気付いたか」 「バイオリンのことか。あれはただの演奏じゃねえだろう」 「恐らくは。彼からの提案なんだが――」 アマリリスが耳打ちする。連治はひょいと眉を持ち上げたが、すぐに「くくく」と喉を鳴らした。 「乗った」 舞台は佳境に差し掛かり、円天井でシャンデリアが輝く。シャンデリアの下のロナルドはふと口元を緩めた。 「芸術が好きな人なんだろうね。取り壊しは仕方ないにしろ、ちょっと残念かな」 太陽を模しているだけあって、シャンデリアの形状は球に近い。多面体にカットした硝子をピアノ線で連ねて編み、円周にはいくつもの燭台が突き出ている。硝子は年季でくすんでいたが、炎を照り返して宝石のように輝いていた。 「さて。山場だ」 哀切の旋律が妖艶なソプラノを導く。 『荒野の他には何もない。お前の他には誰もない。 ああ! 可哀相なぼうや。私の囁きに身を委ねなさい』 舞台は魔女の泉へと変わった。ほとりには王がひざまずき、陰気で淫靡な苔がざわめいている。 『魔女様の門を叩くのは誰?』 蠱惑的な衣装を翻し、エキゾチックな踊り娘たち――泉の精だ――がゆっくりと登場した。 『あなたはだあれ? 何を悩むの?』 ヴェール姿の踊り娘は半ば飛びながら王ににじり寄る。半分透けた衣装の裾が熱帯魚のひれのようにたゆたっている。ヴェールの下に見え隠れする目は少年のように真っ直ぐだ。 歌に乗せて王の独白が始まる。踊り娘は旋律に乗り、丁寧に肯きながら舞い続ける。 「そうかあ。とっても辛いんだね」 そして、無垢なしぐさで首を傾けながら王に近付いた。 「じゃあ、もう剣なんて捨てちゃえ」 「これは王家代々の宝なのだ」 「でも辛いんでしょ? 悲しいんでしょ?」 ヴェールの下で肉感的な舌がちらつく。踊り娘の手が剣へと伸びる。王は剣を抱きながら後退した。 『あなたはよくやった。国に身を捧げてきた』 エキストラが歌う。踊り娘もアドリブで追随した。 『もう自分を抑えないで。ほら、誰も見てないよ』 王は頭を抱えて膝をついた。踊り娘が衣装を翻して剣に近付く。弦楽の重奏が誘惑的にとろけ、ドラムのロールがどろどろと渦巻く。 『剣を貸して』 踊り娘の指先がとうとう柄に触れた。 『無理をしないで』 彼女の手が不可思議に柄を包み込む。同時に、王は水の匂いを嗅いだ。剣の間近にいた王だけが不審に気付いた。 「何を」 王の目と声が尖る。 見計らったようにバイオリンの音色が膨張した。聴衆、そして演者の耳目までもが楽団席へと集まる。最後列のロナルドが口笛を吹くしぐさをしたことに気付いた者はいただろうか。 踊り娘はその隙に手首を翻し、王に剣を返した。 「試すような真似をしてごめんね。王様の意志を確かめたかったの」 両手を後ろに隠しながら後退する。 「おまじないだよ。全部、うまくいきますように」 踊り娘の手には小さな瓶が隠れていた。 舞台袖に下がった途端、在利の全身から力が抜けた。 「お疲れ様です」 すかさず絵奈が駆け寄る。彼女からタオルを受け取り、在利はようやく安堵の息を吐いた。 「緊張したー。どうなるかと思っちゃいました」 在利はトラベルギアの中に封印のタグを仕込んでいた。瓶の中の水を操り、竜刻にタグを貼り付けたのだ。 「緊張だなんて! すごく堂々としてて、凄かったです。本物の役者さんみたいでした」 「あ、ありがとうございます……」 真っ直ぐな絵奈に在利は苦笑いだ。踊り娘として出演した在利は正真正銘男性なのだから。 しかし喉と体が軽かったのは事実である。ロナルドの演奏が魔法の羽衣のように在利を包み込み、高みへと運んでくれた。劇団のメンバーもかつてないパフォーマンスとたかぶりを見せている。 「何なのですか」 出番を終えて戻ってきたアーサーが苛立ちを露わにする。振り返った在利は悪戯が見つかった子供のように肩をすくめた。 「辛うじて演技は続けましたが……大切な剣なのに。お客様からも見えてしまうじゃありませんか」 憤るアーサーは貼り付けられたタグを剥がしていた。舞台袖の混乱の中では座長から話を通してもらう暇もなかったらしい。 絵奈は在利の前できゅっと唇を噛んだ。 「お役に立てなくてごめんなさい。アーサーさん、衣装替えの時も絶対に剣を手放さないんです。人の手に渡したくないみたいで」 そこへ連治がやって来る。 「やっと見つけた。後はこいつと竜刻をすり替えるだけだ」 第三幕の間じゅう探索に集中していた連治は剣のレプリカを手にしていた。しかし在利の表情は冴えない。 昨年の公演が台無しにされたことがよほどこたえているのか、座長のボルドーは頑固で神経質だった。家宝を舞台から下げることを決して受け入れようとしなかったのだ。 「剣を放っておくわけにはいかないことは分かってくれたみたい。僕たちの出演も渋々許してくれたよ。でも、回収は上演が終わるまで待って欲しいって言われて。それでタグだけ貼り付けようとしたんだけど……」 「竜刻は柄の石なんだろ。石さえすり替えればいい」 連治は意味深に笑った。彼の視線の先にはアマリリスがいる。アマリリスは連治と視線を交わしながら舞台を見やった。 「これで本当に最後だな。ならばせめて華々しく、人の心を熱くするような……そんな一幕であればいい」 アマリリスは凛と襟を正した。 幕間の空白が訪れる。 「あなた、誰です?」 隣席のバイオリンの男がロナルドに囁いた。ロナルドは意味深に微笑んで疑問をかわす。 「俺はただのおじさんだよー。あるいは旅の音楽家」 「凄い腕ですね」 「そちらこそ」 ロナルドの演奏は楽団にも力を与えていた。 「どうです? うちの専属になりませんか」 「平民の俺にはあのマエストロは恐れ多いよ。だって彼、ラニエ家の一族じゃなかった? ここの支配人と同じ血筋」 うそぶきながら水を向けると、隣席の男は肩をすくめた。 「その通りです。この劇場での公演もマエストロの懇願で……あの支配人は目に入れても痛くない姪っ子だそうですよ」 「“プチ・エリー”?」 「ええ。マエストロはずっと独身だから、我が子のように思っているみたいです」 「成程ね」 ロナルドは鬢に手をやり、ほつれた髪を撫で付けた。劇場は心地良い熱に包まれている。炎のライトによる上昇気流がたゆたい、太陽のシャンデリアへと吸い上げられていく。 舞台袖の連治もシャンデリアを見つめていた。 (歌劇座の怪異といえば……さて。お約束だが) 二階の桟敷へ目を移す。六番席にはロストナンバー達と支配人・エリザベートが陣取っていた。エリザベートの傍らでは由良久秀がカメラを構えている。見るともなしに見つめていると、カメラの向こうから由良のしかめっ面が覗いた。相変わらず陰気な男だ。 「何を撮るつもりなんだか」 熱気と思惑が渦を巻き、太陽の下で最終幕が始まる。 背景布と書割が入れ替わる。黄昏の中、王は崩れ落ちた城壁の前に膝をついた。 『こんな所に若芽があるとは。瓦礫の中でも息づいているのか』 灰色の背景に緑の草がぽつぽつと萌えている。 照明の色がふわりと変わり、清廉な白光が王の上に降り注いだ。 『王よ。帰還を祝福する』 ゆらゆらと、死んだ家臣たちが王を取り巻く。彼らの中で、手袋を嵌めた連治がしなやかに手足を煌めかせている。 『これは夢か。幻か。魔女が今も取りついているのか』 王のテノールが響き渡る。幻影の家臣たちは陽炎のようにひざまずく。 『よこしまは去りぬ。今はひとときの再会を』 連治が歌いながら立ち上がり、虚空に向かって手を伸べた。 陽だまりのような風が吹き渡る。 「王よ。幻でも会えて嬉しい」 騎士姿のアマリリスが忽然と現れた。 非現実的な演出に観客がどよめく。しかし不審を抱く者はない。舞台ではたまに奇跡が起こるからだ。楽団の演奏と、音色によって増幅された演技が聴衆をとらえて離さない。 侍従に扮した在利がアマリリスの手を取る。侍従と家臣に導かれ、騎士は優雅に膝を着いた。 『あなたの威光を今一度』 『この国の栄華を再び』 『あの時みたいに踊ろうよ!』 三人の家臣が交互に歌う。王が答える。荘重な重唱が波となって広がっていく。 誰もが息を呑んだ。 演奏。歌。演者。背景。すべてが渾然一体となって絶頂へと上り詰めていく。 (まずいね) 弓で弦を愛撫しながら、ロナルドのこめかみに汗が滲む。魔力の脈動を感じる。王の剣で、緑色の石が不吉に明滅している。 「王よ」 アマリリスがふわりと立ち上がり、王の剣に触れた。 「貴方と貴方を護る剣に祝福を」 柄の宝石に接吻した、その刹那。 バイオリンの旋律が加速し、目を射るような光が壇上で弾けた。 「おお」とも「ああ」ともつかぬどよめき。光の中に騎士が浮かんでいる。騎士の背には白銀の翼が生えている。呼吸のように羽ばたく度、美しい羽毛が天使の祝福のように降り注ぐのだ。 「済まない」 呆気に取られる王を抱擁し、アマリリスは素早く囁いた。 「だが、とても素晴らしい舞台だった」 その隙に連治が肉薄し、剣の石を抜き取った。手袋を嵌めた右手が閃く。次の瞬間にはレプリカの石が柄におさまっている。 『何という夜! 何という奇跡!』 同時に合唱が轟き、大人数でのダンスが始まる。興奮したエキストラが連治にぶつかった。連治は短く、峻烈に舌打ちした。石が――左手に転移させてタグを貼り付けたというのに――落ちた。 『始まりは終わり、終わりは始まり! 輪になって踊れ!』 トラブルと見たのか、エキストラが素早く石を蹴飛ばす。バイオリンが高らかに歌う。在利は掌の中にトラベルギアを隠し、ダンスを装って石に近付く。石はエキストラ達の爪先に蹴られて舞台の奥へと滑っていく。 それより早く、一陣の風が舞台上を駆け抜けた。ほんの一瞬の出来事だったから、風の存在に気付いた観客はいなかった。 『何という夜! 何という興奮! 共に祝おう、共に歌おう!』 何事もなかったように劇が続く。 「はあ、はあ……っ」 舞台袖で、竜刻を胸に抱いた絵奈が肩を上下させながらへたり込んだ。 「良かっ……良かった……!」 魔力の陣を自らに用い、敏捷性を極限まで高めて竜刻を拾ったのだ。 演出を仕組んだのはロナルドだった。 「せっかくの舞台だしさー。例えば、凄い演出して注意を引きつければ回収し易くならない? 俺は直接介入できないけど、協力するよ」 彼のバイオリンは聴く者の力や精神に介入する。様々な能力を底上げし、操作することはたやすかった。 「みんなの力を甘く見たわけじゃないよ。念のためにってこと」 「助かった」 アマリリスは本心から謝辞を述べた。 上演は無事に終了した。そう、何事もなく終わったのだ。盗賊の襲撃もなく、歌劇座の怪人物たるマダム・ソリュイも現れなかった。 観客たちが退出を始める。彼らは夢から覚めたように甲高くおしゃべりを始めた。 「拍子抜けだ」 シャンデリアを見上げて連治が呟く。絵奈もつられるようにして円天井を見上げた。太陽の形のシャンデリアは美しい。――怖気がするほどに。 乾いた拍手が轟いた。六番ボックス席の、エリザベートだった。 「素晴らしい公演でした。有終の美に感謝します」 高らかに口上を述べる。しかし彼女の挨拶が気まぐれな観客の気を引くことはない。 「エリー」 指揮台で、老マエストロが呆然と呟く。桟敷席のジャック・ハートがエリザベートを抱き上げ、客席へと飛び降りた。オーケストラ席に歩み寄るエリザベートにマエストロはのろのろと相好を崩した。 「プチ・エリー」 「私は年増ですわ」 エリザベートは小さく苦笑する。 マエストロはタクトを振り上げた。エリザベートは深く息を吸い、口を開いた。 『始まりは終わり! 終わりは始まり!』 力強いアルトが孤独に響き渡る。歌手のような声量に、去り際の観客達が足を止めて振り返った。エリザベートはスカートの裾をさばき、舞台袖から伸びるワイヤーに懐剣を振り下ろす。 『何という夜! 何という奇跡!』 「やめ――」 在利がはっと口を押さえた。 巨大なシャンデリアが不穏に揺らめいている。その真下で、皆の視線を一身に受けながらエリザベートが微笑んでいる。 「どうせ壊されるのなら同じこと」 エリザベートはスカートの裾をつまみ上げて流麗に一礼した。 「ならばせめて華々しく。――人々の記憶に焼きつくように」 太陽が落ちてくる。シャンデリアを繋ぐ滑車が狂ったように雄叫びを上げる。しゃらしゃらと、カットガラスが場違いに美しく騒いでいる。 「チッ。自分に酔いやがって」 一二千志が自らの影をナイフに変え、シャンデリア目がけて次々と投擲する。連治のトラベルギアが鎖と化し、網型となって放たれる。 「馬ァ鹿言ってんなよォ」 髪と目の色を変えたジャックが高笑いした。同時に、魔法のようにシャンデリアが消え失せる。ジャックが、能力を用いてシャンデリアを転移させたのだ。 「覚えとくかどうかは受け手が決めることだろォ? いいモンなら心に残る、それだけじゃねェか。ヒャハハ!」 劇場の裏手に放り出された太陽は地べたに叩きつけられて炎上する。エリザベートはよろけながら膝をつき、声も立てずに慟哭した。 「マダム。太陽は皆を包み込むものじゃよ」 ジョヴァンニ・コルレオーネがエリザベートの肩を抱く。持ち上げられたエリザベートのおもては濡れていた。坂上健は気の利いた言葉ひとつかけられずに唇を噛むばかりだ。 「お怪我はありませんか?」 在利が薬瓶を手にエリザベートに駆け寄る。絵奈も濡れタオルを手に後に続いた。エリザベートは泣きながら微笑み、絵奈の胸がしくっと痛んだ。これだけ悲しい笑顔を絵奈は知らない。 「マエストロ。どういうこと……なんて聞くのは野暮かな」 ロナルドが老指揮者を振り返る。指揮者は、肩を落として口を閉ざしていた。ロナルドは同じ音楽家の気安さをもって老人に歩み寄った。 「指揮を」 マエストロの右手を取る。そのまましっかりとタクトを握らせた。戸惑う老人の視線を受け流し、ロナルドは深々と一礼してみせた。 「マダムと劇場、それから劇場を愛した人に一曲。いいでしょ?」 バイオリンを構える。老人は呆けたように口を開けていたが、やがてタクトを持ち上げた。 優しい音色がたちまち劇場を抱擁する。 「依頼は果たした。ここにいる必要はない……が」 連治が肩をすくめる。 「去るには惜しい。もうちょっと聴いててもいいな」 「ああ。私はこの夜を忘れないだろう」 アマリリスが微笑んだ。 (了)
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