思えば、鰍という男は見た目に反して大分に律儀かつ責任感の強い男であった。 そして、一度願ったことをやすやすと忘れるようなことはしない男でもあった。 会いに行って欲しい、元気かどうかだけでも確かめて欲しい。司書にそれだけを頼まれた鰍が、彼女……レイラ・マーブルを半ば強引に連れ出してロストレイルに乗せてしまった理由は、そのふたつでおおよそ足りてしまうのだ。__だがそれが何より、心強かったことだろう◆ リリイ・ハムレット襲撃事件が落ち着いてから少し日数の経ったある日。 鰍は事件の解決を自分に依頼した司書ルティ・シディに報告書を提出すべく世界図書館を訪れた。解決にあたり自分が何をしたか、怪我や支出の有無、簡単な所見と考察などを書き連ねたそれを渡し、報酬を受け取ればそれで終わるはずだったのだが。「ね、ついでにちょっとだけ頼まれてくれない?」 ついでにもう一つと頼まれごとを拾ってしまうところと、それをきっちり最後まで、いやもう少し先まで面倒を見ようとしてしまうところが、鰍の鰍たる所以なのかもしれない。◆ 鉄仮面の囚人、その力に心を囚われ、罪無きリリイを襲ってしまったことへのショックからか、レイラは事情聴取以来すっかり閉じこもってしまっているらしかった。「申し訳ないからって、あたしたちには会ってくれないの」__だってルティさんを襲ってたかもしれないから「怖がりだな、相変わらず」 鰍の小さな呟きは、アパルトマンのチャイム音に掻き消える。 この扉が開いて、臆病で弱虫な彼女が顔を見せたなら。 此処へ来る途中手配しておいたロストレイルのチケットを2枚。後ろ手に隠して、鰍はレイラを待つ。◆「あ、鰍さん……?」「思ったより元気そうだな。よし、行くか」「えっ?」 挨拶もそこそこにレイラを外に出させ、その背を押して鰍はターミナルの駅舎へと向かう。レイラは起こっている出来事に頭も心も追いつかず、ただ促されるままに久しぶりの街並みを歩いた。「あの……鰍さん、わたしたち何処へ」「ブルーインブルーに決まってんだろ」「えっ」「作ってもらう約束したろ、ストール」「……!」◆ 行き先はブルーインブルー、ディルリ島。島に自生する植物やそれらから成る工芸品で潤う、職人たちの島。レイラがリリイに頼もうとした、ブルーインブルー特産の織り糸『人魚の髪』を作っているところだ。「ディルリ島への定期船は、アヴァロッタからしか出てないんだとさ。行くだろ?」__怖ければ、俺も行ってやるから 鰍の言葉が、背中を押した。 レイラはロストレイルに乗らず、引き返すことだって出来たのに。 海に、行こう。 もうひとつまみの勇気をもらいに。◆!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>鰍(cnvx4116)レイラ・マーブル(cpet1434)
ディラックの空に浮かんだ仮初の線路の上を、ロストレイル射手座号がするすると走る。行き先はブルーインブルー。今日の乗客は、二人と一匹。 ホリさんを膝に乗せるレイラは鰍とあまり目を合わせなかったが、鰍はそれも微笑ましく眺めていた。親心というか兄心というか、とにかく、レイラに対してそんなものが芽生えてるくらいにはレイラを可愛く思っていたのもあるし、時折はにかむように唇をきゅっと結んでホリさんのおでこを撫でるレイラの様子はどう考えても、嬉しさにそわそわしているようにしか見えなかったからだろう。 「このレリーフ、綺麗ですよね」 沈黙があまり得意でないのか、それともこれから行く場所の話題が照れくさかったのか、レイラが天井を見上げて呟く。鰍がつられて同じように見上げると、射手座のモチーフであるケンタウロスのレリーフが二人の頭上で弓を引いていた。 「蠍が空で悪さをしないように、弓を引いたまま星になった……」 壱番世界に伝わる射手座と蠍座の神話の一節を口にし、レイラが目を眇める。その雰囲気にいつかの臆病な瞳を思い出し、鰍はホリさんを抱き上げて優しく笑った。 「不安か?」 「そう……ですね」 蠍座の神話に自分でも気づくことのなかった不安と激情を見立てたのか、ケンタウロスの鏃の先から目をそらしレイラは窓の外を眺める。 「お前なら大丈夫だ、もう二度としない。俺はそう思ってる」 己を戒める弓矢は自分で自分の心に引けばいい、不安な気持ちを誰かが見張る必要は無い。レイラならそれを出来るだろうと鰍は信じていたし、それに、何より。 「一人じゃないだろ」 「……うん」 窓越しに見た鰍の笑みに、レイラもつられて笑った。 暗く果てのない空がもうすぐ、終わる。 ◆ 「懐かしいか?」 「……はい、すごく」 アヴァロッタの太陽は今日も船乗りたちの陽気な日常を照らしていた。レイラはきょろきょろと周囲を見回しているが、懐かしさよりも先に立つ不思議な気持ちがあるようで、街をゆく人の話し声に何度も振り返っている。 「どうした?」 「……言葉が分かるの、すごく不思議で」 「ああ、そうだっけな。変な気分だろ」 以前この街に居た頃は言葉の通じないことに打ちひしがれていたであろうと思い、鰍は納得したようにレイラの視線を追った。二人が振り返った先では、非番の船乗りたちが昼食のメニューや景気の良し悪しについてを賑やかに語り、わちゃわちゃと酒場への道を歩いている。 「案外、その辺からギルバートが現れたりしてな」 「ううん、ギルはこの辺には来ません。あの人はわたしを置いてくれた酒場でしかごはん食べないの」 「ははっ。なんだ、そんな事まで知ってんのか」 「だってこの街に居たときは、酒場のお手伝いと……お散歩くらいしか、することが無かったもの」 ちょっぴりからかうつもりで投げかけた言葉をしれっと得意顔で返されて、鰍が思わず声をあげて笑う。そしてやっと以前の思い出を懐かしむようにレイラが目を細めるのを見て、その楽しげな様子に、ここに連れてきたことは間違いではなかったとひとり小さく頷くのだった。 ◆ ディルリ島への定期船が出る時間までは一時間ほど余裕がある。懐かしいだろうしその辺を歩いてきても構わないとレイラを送り出し、鰍はひとり、ギルバートがレイラを預けた酒場へと足を向けた。何も変わっていないように見えるこの穏やかな街だが、世界図書館から聞こえてくるこの世界の情勢は完全に安心出来るものとは言いがたい。 「……ま、建前だよなぁ」 本当に確かめたいのはそんな事では無いだろう、それを自分でも分かっているのか、眉を下げた鰍の笑みは最早レイラの兄のそれだった。呆れ笑いのような音を立てて、酒場の扉が鰍を歓迎する。 「ご注文は?」 「豆茶とマッシュパタのフリット、塩とバジルで」 「はいよ」 以前はエールを飲んでいたカウンターで軽食を頼み、店内を見回す。初めて訪れた日と同じように、非番の船乗りや内勤の男たちがまばらに集い、遅い昼食や煙草を楽しんでいる。彼らの様子には特に変わったところは見られない。この街の……せめて、この店に集う人々がレイラを忘れてさえいなければ、再帰属にあたっての不安要素もそう無いだろう。あとは……。 「なあ、女将さん。人魚の髪って知ってるか?」 「人魚の髪? ああ、そりゃあねえ。この街の女なら皆一度は纏った事があるはずさ」 この港から出ているディルリ島への定期船、それに積まれてやってくる人魚の髪は中の下程度の交易品として扱われている。本来は原料の若い花弁から取れる香油のほうが貴重な品だが、それが枯れて成熟した実から取れる綿のような繊維を使って作られる織り糸、つまり人魚の髪は、花の芳香がいつまでも残る為縫い糸や布製品としての用途が限定されているのが理由だそうだ。 「髪紐、肩掛け、襟巻き……何でもそうだね、人魚の髪から出来たモノを身につけた女に横恋慕しちゃあいけない。男はそれを分かってるし、女もそれっくらい強い想いでなきゃ、身につけちゃいけないのさ」 「へえ……」 「人魚といえば……あの子は元気でやっているのかねえ」 「レイ……ヌーシュの事か?」 「そう! そうだよ、懐かしいねえ。言葉も分からないのによく働くいい子だった」 そのヌーシュをここから連れ去ってしまったうちの一人が目の前にいるとは思わず、酒場の女将は洗い物の手を止めて嬉しそうに、そして少し寂しそうに言葉を続ける。 「あたしゃ見送りには行けなかったけど、家の誰かが迎えに来たんだっけね?」 「……きっと、戻ってくるさ」 迎えに来た自分たちよりも確実に、レイラがこの世界に足跡を残している事を確かめ、鰍は心の底から安堵した。あとはレイラの心が定まれば、真理数がその頭上に浮かぶのも時間の問題だろう。だが、その為には。 「あの子も若いんだ、今生の別れじゃあないだろうさ。ギルバートだって分かってるよ」 「そうか! まだ待ってるんだな」 「そりゃあね! 最初の三日こそ腑抜けて別人みたいだったけどね」 「はは、そりゃいい。で、その腑抜けたギルバートは今日どうしてるんだ?」 「確か今夜にでも帰って来るはずだよ」 「あー……じゃ、伝えといてくれよ。人魚姫のお供が陸に上がって来てやったから、今夜はシラフで待ってろってさ」 ハッピーエンドへの階段をひとつ上った事を確かめ、鰍がにっと笑う。ホリさんはノリで出たような鰍の台詞にちょっと引いていた。 ◇ 「……びぇっきゅしゅっ!」 「珍しいな、バカが風邪か」 「うるせえな! ヌーシュが噂してんだよ……多分」 惜しい! ◆ それぞれの想いを抱えてなお穏やかに凪いだ海を走るのは、アヴァロッタの港を出たディルリ島行きの定期船。島に近づくにつれ鼻をくすぐる甘い香りは、きっと人魚の髪のそれだろう。 「すごい、本当に海に出てもいい香り……!」 桟橋に横付けした船から待ちきれず飛び出したレイラの後をのんびりと追いかけ、鰍は島の空気を目一杯吸い込む。蜂蜜のように甘やかでいて、柑橘やミントを思わせる爽やかな香りは一度嗅げば忘れられないもののように思えた。香りの強い方向へ向かって足を進めると、レイラが既に興味深げな顔で職人たちの手作業を見つめていた。 「こういうの見ると腕が鳴るんだよな」 突然訪れたよそ者二人に目もくれず黙々と作業に勤しむ職人たちを見て、鰍がそわそわと腕をまくる。レイラが布と糸を手に入れる為に来たはずが、すっかり自分がやり方を教わる気でいるようだ。 「ほら、お前も座れよ。自分でやるほうがいいって」 「あ、はい!」 はじけた実から取れた繊維を集め塊にしたものを渡され、二人は見よう見まねで糸を紡ぎだす。 「ペダルを踏んで、戻して。そら、左手がお留守になると切れちまうぞ」 「おお? 意外と難し……!」 「わ、わ……!」 職人の介添えを受けながら生み出された糸は、時折虹色に輝いた。まるで朝の陽光を受けてきらめくさざなみのようで、なるほどこれが人魚の髪と呼ばれる所以なのだろう。ゆっくりと回る糸車に織り糸が少しずつ巻き取られていく様子に、レイラは嬉しそうに目を細める。 「(……こっちに住むんなら、仕事も要るだろうしな)」 いつまでも酒場の手伝いでは気まずかろう、好きになれる事や楽しくやれる事で働けるならそれがいい。そんな鰍の気遣いも手伝っての糸紡ぎはレイラに心からの笑顔ををもたらしてくれた。こんな風に笑えるのなら、きっともう大丈夫だ。 ◆ そして夜は更けて。 職人たちに見守られディルリ島を後にし、二人が行きに乗ったのと同じ定期船が再びアヴァロッタに着く頃、同じように仕事を終えて帰り着いた商船や漁船、護衛船で港はごった返していた。 「ギルの船……あっ」 既に荷降ろしを終えて一足先に灯りを落とした商船・サンタヴィラ号の姿を確かめ、レイラがほっと溜息をつく。 「会うの、怖いか?」 「……少しだけ」 はにかむようなレイラの姿に、臆病な光はもう見えない。あなたを待っている、まだ言葉にならないひとつまみの勇気が、花香を纏って確かにここに在るからだろうか。 「今日は時間切れだな。帰りの船ももう出る」 「……そっか、早いですね」 さっきの安堵したような表情が少し崩れ、寂しげに瞳が揺れる。その変化を見逃さなかった鰍はレイラの背をそっと押し、船着場の待合所……港の外からよく見える長椅子に座らせた。 「また来ればいいじゃねえか。……切符の手配してくるから、そこに居ろよ」 「はい」 方便とはいえ嘘は心が痛む。鰍はレイラに気づかれないようそっと港を出て。 「よう、ギルバート」 「! やっぱりお前かよ……」 曖昧な誘い文句と、今日のジャンクヘヴン行きの最終便の時間。それだけ告げれば、ギルバートはきっと来ると鰍は信じていた。それだけ、レイラとの絆が残っているはずだと。引き離した自分を覚えていた事に満足したように笑ってみせ、ギルバートの言葉を待つ。 「言ったよな、待ってやれって」 「待ってるに決まってんだろ!」 「……じゃあ大丈夫だ、今度こそ戻ってくる。俺はそれだけ伝えに来たんだ」 「元気なのか?」 恐らくは鰍より四つか五つ歳若い、勝気そうな風貌に不安を滲ませ、ギルバートは絞りだすように問いかけた。鰍にはそれで充分だった。 「見送るか?」 「来てるのか!?」 「ああ。……けどな、見送るだけだ。いいな」 ここではない場所でやるべき事がある、だからもう少しだけ待って欲しい。声をかけてしまえば、きっとレイラの心は揺らいでしまうから。神妙に頷くギルバートを連れて、鰍は船着場に踵を返した。 ◆ 「……遅いなあ」 風が出て少し冷える待合所で、レイラは言いつけを守り鰍を待っていた。島で手に入れた人魚の髪の縫い糸と布は、月の光を受けてほんのりと輝き、変わらず甘やかな香りを放つ。 「身につけてるって、ギルに伝えなきゃ駄目……よね」 それを伝えられるのはいつだろう。でも、鰍の言う通りまた来ればいい。でも。 言葉にならない想いが、レイラの指先に何かを紡がせた。 ◆ 「ほら」 「……レイラ」 「ああ、名前知ってたんだっけか」 「ご丁寧に、お前のお仲間がな」 船着場に佇むレイラの横顔に、ギルバートは胸が詰まる思いだった。こんなに近くに居るのに、手が届かない。 「また連れてくる。待ってろよ」 「分かってるよ!」 それじゃと片手を上げ、鰍はギルバートを置いて船着場に向かう。 「悪い、寒かっただろ。そろそろ行こう」 「はい。……また、来ましょうね」 「ああ」 布を抱え、レイラが桟橋を渡る。不意に、風向きが変わった。船に乗り込んだレイラの腕の中から、甘やかな香りが広がって。揺れる髪をおさめようと船着場の方を振り向いたレイラの視界に入ったのは。 「ギル……!」 桟橋と船を繋ぐ梯子が上げられ、二人が切り離された瞬間に、二人はもう一度出会ってしまった。 「よかった……元気そう」 駆け寄るギルバート、甲板から指を伸ばすレイラ。もう涙も不安も無かった。二人が触れ合う事は叶わなかったが、その代わり。 「……待っててね! 待ってるから!」 待合所で紡いでいた、勇気のもう一欠片。七色の光を浮かべた髪紐を受け取って、ギルバートは大きく手を降る。 __元気なのか? __よかった、元気そう 二人の想いが向かい合っているのをこっそりと確かめて、鰍はレイラを一人にしてやった。
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