――世界樹の膝下 巨木に埋め込まれた赤錆びた鉄扉には金で打たれた文字。 それはナラゴニアに存在する風変わりな倶楽部の入り口である。 錠についた獅子の面を三度ばかり鳴らすと外界を隔てる扉が除かれ火明りに揺れる薄暗い空間が広がる。 踏み入れた足を支える感触は樹木のそれではなく硬質な石の床、聳え立つ柱が支える天蓋は星々を散らした夜の帳が覆っていた。 初めに新たな客人を迎える音は微かな衣擦れ。 給仕服を纏う娘が燭台を携えながら一礼している。 娘は客人に歓迎の言葉を述べ己の主人との面会を要請する。 娘に先導されて進む巨木の内部は石造りの宮殿。 荘厳と言って差し支えないそこに漂うのは、独特の空気―― ――篝火の爆ぜる音に混じり響く歓声、嬌声、怒号 ――紅い灯りが作る影のゆらめきは交錯する人々の群 ――漂う甘い香に混じった鉄を噛んだような臭いと獣臭 ――――すなわち戦場のそれ 宮殿の奥へ至るに連れて喧騒は消え、娘の足音だけが石の床に同じ拍子を刻む。 最奥に位置する玉座で客人を迎えたのはフロプトと名乗る隻眼、白髭の老人。 老主人は片手を振り、娘を労うと挨拶もそこそこに新たな客人へ重々しく言葉を吐く。 ――戦士たる者の証を立てよ、汝の価値を示せば余は汝を歓迎する 証とは問を返す客人に老主人は応える。 曰く、それは七つの首を持つ知恵ある魔獣を狩り殺した逸話。 曰く、それは三百の兵で一万の軍勢を排除した伝説。 曰く、それは常人には理解できぬ達人同士が交えた死線。 戦士の証は戦場にあり、戦士の価値は敵を弑する意志にある。 沈黙を理解と取った老主人は再び客人に要求する。 ――然らば語るがいい汝の価値を、戦士の証を示すがいい
§ § § § § § ――遙か海底の繭に生きた守護兵の勲 海中二百米に浮遊するヒト種の揺り籠・海嶺府 限りなく安全な海底では外敵と呼べる生命体は極僅か。 その唯一に近い外敵が猛悪であるのは如何なる神の差配であろうか。 無機質な警告音が火急の事態を告げる。 外壁へ至る通路を一杯に照らす赤色灯の明滅の中に二つの人影が駆ける。 その姿は共にヒト型、いや先頭の女は第十二肋骨から張り出した皮膜を持つイレギュラーすなわちリュウと呼ばれし亜高等生物種。 質量ある物体が通路を移動する振動。 決壊した外壁から侵入する海水による大気の変化。 リュウの女――碧の体外に張り出した鋭敏な感覚器が具に捉える情報。 (湿度上昇、気温低下、奴らは第三内膜まで到達しているか――) ヒト種では知覚することのできない精緻な情報が正確な現状を碧に告げる。 『――居住区外輪三十七番地隔壁に損傷――cancerの侵入を確認急行せよ、繰り返す――』 (遅すぎる上に不正確、危機感が足りない――) 通信機から流れるノイズが耳に障る。 己の認識より遥かに劣る急報がなんの役に立つというのか。 ノイズを発信する機械を不要になった紙資料のように捻り切る。 掌の中の破裂音、背中越しに聞こえる文句、振り返らずとも相棒の渋面は想像できる。 「何度も言ったはずだ、我々はお前らヒトとは違う、こんなものは耳障りなだけだ」 些か屁理屈じみているとは思う、しかし、どうにもこの相棒が指摘すると癇に障る。 腹立ちまぎれに大きく踏み込んだ一歩は、ヒトでは決して踏み込むことの叶わない大きな間。 己の背と相棒の間を埋める音、背後に響く音は相棒が上げるであろうと期待した叱責ではなかった。 硬質の大質量が崩落する。旧区画ゆえの整備不良か、誤作動した隔壁が自分と相棒を分断していた。 ‡ 二度三度と叩きつけた拳が硬質な振動音と共に隔壁に僅かな凹みを作る。 隔壁の破壊は可能――しかしその時間はない 密閉された空間に響く音、隔壁の落下音と打撃音は誘引していた。 通路の先に姿を表した唸り声を上げて蠢く肉腫。 造物主の悪戯が生み出す名状し難きオブジェ。 常に変体を続ける定まらぬ姿をヒトは癌細胞に準えて呼ぶ。 ――CANCER 揺り籠に安閑とするヒト種を侵蝕するイレギュラー。 リュウ種と呼ばれたヒト型と同質の細胞を持つクリーチャー。 ――瘤が隔離されただけか 碧の口が歪む。 ‡ ‡ 床に滲み出る赤茶けた水が軍靴の底を濡らす。 老朽区画の赤錆に深海の黒を混ぜ、化け物の体液を加えたスペシャルブレンド。 ぶるぶると体を胎動させながら迫るCANCERの姿は、全身の皮を剥ぎ取られ何者かに握られたかのような巨大な人間のカリカチュア。 表面を這いまわる蟲のような肉腫が自身を喰らい、空いた孔から絶え間なく零れ落ちる腐敗臭と体液が床に広がる。 悪夢の中から這い出たような姿は、常人の精神など狂気の彼方に容易く持ち去る。 事実、多くのヒト種の兵が精神を病み、無為な特攻の末で奴らの糧となった。 ――人を象ることをできなかった瘤 敵を認識した碧の呼吸が変わる。 吐き出す息と吸う息が胎内でぶつかり臓腑がギリと悲鳴を上げる。 鋭く刻まれる呼吸のリズムと鋼鉄の床を踏み砕く鉄靴の音が重なる。 疾駆するリュウの女は跳ね上がる赤茶けた飛沫と無為な思考を置き去りに、己をただの戦人と染め上げる。 肉のたうつおぞましい姿、鳴動する肉腫の捩れた腕が撓り弾いたのは中空。 極端な前傾姿勢から地面に目掛けて飛ぶ碧の頭上を肉鞭が虚しく叩く、飛び込みざまに広げた女の五指が肉腫の脚部を掴み抉り取る。 筋繊維の引きちぎれる音と共に傷口から紫に爛れた汚濁をまき散らし体躯を傾けた肉腫。 怖気の走る凄まじい絶叫を金属が弾ける轟音が吹き飛ばした。 ヒトを遥かに超える膂力で行われた震脚が鋼鉄の床を砕き、宙に弾け飛んだ汚濁と瓦礫は肉腫を貫く白い錐――神速の打突が砕いた大気の壁に混じり螺旋の残心となる 錐体状の風穴を空け、弾け飛ぶ巨肉は区画の壁面をぶち抜き肉と紫の汚物をまき散らした即席のダストボックスになる。 常識の世界に住まう生き物同士の戦闘であれば決着は既についていた。 爆ぜた肉塊は動くこと無く腐臭を放つ芥となるはずである。 ――しかし CANCERは常識の中にいる生き物などでは決して無い。 その臓腑に収めた紅い核を人肌程の温度で叩き割るまで無限の増殖を続ける。 肉腫の納まったゴミ箱から紫の汚濁が吹き出し、肉腫が溢れでる。 急速に再生――否、増殖を始める肉腫は、人型を失い壁面に空いた孔から溢れ出る巨大な肉塊へと姿を変える。 『いTAあAAあAIいいいIIII!!!!!』 肉塊の表面にいくつも浮かびあがった歪んだ顔面が甲高く耳障りな鳴き声を上げる。 CANCERに痛覚など存在しない、悪意が選んだような無為な言葉。 (崩れた成り損ないが……鬱陶しい声を) 驟雨の如き拳撃が肉塊に激突する度に、金床をハンマーで打ち付けるような硬質の音が弾ける。 無呼吸の連撃、断続的な衝撃は肉塊を貫き風船のように膨らむ肉腫が内部で爆ぜた。 増殖を繰り返す肉塊、それを超える速度で砕く碧。 人を十倍する膂力は肉塊を超えて区画の構造材を粉砕していく、周囲に飛び散る肉片に瓦礫が混じり始める。 (見えた!!) 臓腑に埋まる紅い核が露わになった瞬間、碧の暴に耐えかねた区画が大きく蠕動し、己を傷つけたものに報復を行った。 視界が一寸消えた、巨大な瓦礫が碧の頭を直撃した。 一瞬の間隙は絶望的な時間。 CANCERの全身から飛び出した肉の槍が碧の全身を串刺した。 飛沫となった碧の鮮血がCANCERの体表を濡らす。 喜びの情とでもいいたいのか全身を律動させる肉腫、急所を晒したまま碧を宙吊りにし捕食口を拡げる。 「化け物風情が油断とは舐めてくれる」 串刺しにされた視界から見える朱い世界。 辛うじて動くのは顔と右腕のみ、嘲弄の形に口を歪めた碧は左肩の肉を噛みちぎる。 筋繊維が引きちぎれる音が耳を熱くする。 激痛が呼び起こしたのは悲鳴ではなく嗤い。 碧は千切れかけた己の左腕を引き抜き、紅い核目掛けて投じた。 澄んだ音が通路を満たす、CANCERの核が砕ける音はその醜さに反して清冽であった。 核を失ったCANCERは形を失う。 巨肉が支えであったのであろう破壊された区画は瓦解し、宙に投げ出された碧はそのまま意識を失った。 § § § § § § 「――その一時間後に自分は瓦礫の中から救出された。半身がまともに見られない状態だったと聞いた……さて、望みの話はこれでいいか? 老人」 白髭を撫ぜる老人は鷹揚に頷く。 「汝の戦技は戦士として充足するものである。我が客人として迎えよう、永らえるために歯車足らんとした兵士よ」 碧は訝る表情を見せる。この老人は心でも読んだのだろうか? 彼女がCANCERと戦う理由は、軍の提供する肉体の暴走を抑える薬。 そうでなければあれの影に怯え暮らす以上の対策も出来ず、己の眷属を贄として、海嶺府の薄膜内で暮らすヒト共。 唾棄すべきもの達のために戦う理由などなかったのだ。
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