■0■ その日、公園を散策していた一人の世界司書のポケットから一つの小瓶が落ちた。ラピスラズリに精緻な細工の施された小瓶だ。だが司書は小瓶を落としたことには気づかぬ様子でその場を立ち去った。 小瓶の中には悪しき魔物が封印されている。先日、ロストナンバーが瓶ごと保護した魔物だ。ロストナンバーとはいえ封印されるほどの悪しき魔物。うっかり首を絞めたくなるほ憎たらしい、むしろ殺…もとい、迂闊に封印を解いてもいいものだろうかと持て余し…もとい思案していたのである。 だから司書は魔物を小瓶に封印したままポケットに入れ、その存在を忘れることにした。かくて公園に落としていったのである。(不可抗力) ■1■ そんな公園を、のんびり歩く男が二人。背の高い男、ロナルド・バロウズと、こちらも高いのだろうが背中を海老のように丸めているせいか、ロナルドと並ぶと一際低く見えてしまう男、有馬春臣である。 「絶対領域?」 ロナルドがオウム返すと、春臣は厳かに頷いて続けた。 「そう、オーバーニーソックスからミニスカートまでの露出部分をそう呼ぶのだそうだ」 「あぁ、それは聞いたことあるけどぉ…」 足に興味などない。それより胸か尻か。そんな面持ちのロナルドをよそに春臣は傲然と続ける。 「今、壱番世界で最先端をいく広告。それ即ち絶対領域広告なのだよ」 きっぱり。 「最先端は過言じゃないの?」 気のないロナルドのおざなりな突っ込みなど聞いていない顔で春臣は拳を握りしめ熱弁を奮い続けた。 「ミニスカートなどと、あたかも私の足を見て、と言わんばかりの出で立ちでありながら、その足を舐めるように見ると変態と謗られる理不尽!!」 「舐め回したら、変態だからね」 というか、そもそも春臣が変態と呼ばれることに抵抗を感じているとは到底思えないのだが。 「しかしここに壱番世界の同志たちによって画期的なシステムが生みだされたのだ!」 春臣はどこか遠くを見つめながら言った。たぶん、壱番世界の辺りを見ているのだろう。 「もったいぶらないでちゃんと説明してよ」 ロナルドが言うと、春臣はその顔をチラと見上げて、まだわからないのかね、とばかりにため息を吐いた。 「つまり、絶対領域に広告シールを貼った女性に街中を歩いてもらい宣伝効果を狙うというシステムだ。これにより女性はバイト代を手にすることが出来、そして…これまで変態のレッテルに臆し、目のやり場に困っていた男どもは公然と絶対領域を見ることが出来るのだよ!」 春臣はまるでスポットライトを受け止めるように両手を広げて目を閉じた。自分に酔っているらしい。 「なるほど…」 ロナルドは感心しながら春臣を見返した。これが変態先生の変態先生たる所以か。自信が変態と謗られることが問題なのではなく、その他の男どもにまで配慮されていたとは…。 「私としては絶対領域などにこだわらず、ふくらはぎからくびれた足首まで、余すことなく足ならどこでもいいと思ってるんだがな」 「うん、わかるよ。ドクなら足の裏でもいいって言いそうだもんね」 足の裏に貼られた広告シールを見上げながら踏みつけられ悦に入っている彼の姿が容易に浮かんで、ロナルドはなんとはなしに視線を傍らへと落とした。 「変態と罵られ、右頬をぶたれたら左頬を出していた苦渋の日々…」 「全然苦渋そうに見えないのは気のせいかな?」 とはいえ、普通の男どもにとっては苦渋かもしれない。 「だが、この絶対領域広告が普及すれば足を見ても怒られない!」 「まぁ、広告を見てると言い訳が立つもんな」 「まさにそこなのだよ。たとえ足を舐め回すように見ても…もう、変態ではない!」 「いや、変態は変態のままだと思うけど…ん?」 ロナルドは何かに気づいたように目を見張った。 「そこでこの画期的なシステムを是が非でもこの0世界に普及させようという試みなのだ。わかっていただけたかな?」 「もしかして、その広告シールって、鎖骨から胸の先端までの絶対領域にも使えたりする?」 「!? 私には全く考えつきもしなかったが、ありかなしかで言えばありだろう」 ロナルドは想像してみた。 店のロゴの書かれた小さなタトゥーシール。それが大きく開いた胸元を可愛らしく、エロティックに飾ったりする。ありかなしかで妄想したら、ありだった。 広告を見るという口実を盾に胸の谷間を凝視してもひっぱたかれない。なるほど素晴らしいシステムといえよう。夏になればビーチでハイレグ水着のお姉さま方のお尻にやっぱり広告シールを貼って貰えば…というわけである。 壱番世界、侮れない。誰がこんな恐ろしいシステムを考えたのか。 「よし乗った!」 ロナルドは挙手しながら言った。バイトの面接なら自分に任せろ、という顔だ。既に鼻の下は数cm伸びている。 「君ならそう言ってくれると思っていた。そこで我々はまず広告を出したいと思っている店を探さなくてはならない」 女の子が好みそうな可愛い広告を出していて、それでいて女性向けではなく、男女問わず利用するような店がいい。 「なるほど、わかったよ!」 と、意気込む2人の声がかかった。 「よぉッス! なんの話してるんッスか?」 ロナルドの弟的存在にして、春臣萌えの残念美少女、氏家ミチルだ。 「私が変態ではなくなる日の話だ」 春臣はミチルを振り返って、不気味な薄笑いに含み笑いを足してみせた。 「それは永遠にこないと思うな」 間髪入れずロナルドが突っ込む。 ミチルはうーんと考えこむに腕を組んだ。 「それはもったいないような? 大事なチャームポイントッス。でも姫のツンデレがなくならないなら百歩譲ってもいいッスよ」 そんな彼女の話を華麗にスルーして春臣はがさごそと持っていた紙袋からシールを取り出した。絶対領域広告のサンプル用シールだ。 「ああ、どうだ君も…」 と言って振り返る。 そこにはセーラー服にロングスカートのミチルがわくわくとした顔で立っていた。 「いや…なんでもない」 彼女には絶対領域がなかった。 「……」 ■2■ 「それは何だね?」 ミチルが先ほどから何かを手の中で弄んでいるのに気づいて春臣が尋ねた。 「さっき拾ったッス」 「空き瓶かな? ゴミ箱ならそこに」 ロナルドがダストボックスを指さした。 「綺麗だし、ゴミじゃないと思うッス…何か入ってるッス」 ミチルは小瓶を掲げて見せた。深い蒼に装飾が施されている。 「香水っぽい入れ物だね。落とし物かな?」 「中、光ってるッス…開けてみるッスか?」 「毒ガスなんてことはないだろうな?」 「さぁ?」 ミチルは蓋を開けてみた。 中から煙が吹き出して、3人は慌てて顔を覆う。程なくして煙が風に流されるとそこに現れたのは…。 『やぁー、娑婆だ、娑婆だ』 オヤジくさい男の声が聞こえてきた。 「……」 3人は呆気にとられたように、それを見ていた。それは何の説明もないまま言った。 『さぁ、3つ願い事を言うでやんす。叶えてやるでやんすよ』 なんとも押しつけがましい。 「3つ?」 ミチルは首を傾げる。 「なるほど、これは俗によく聞くアラビアンナイト的なアレか」 春臣が得心がいったように頷いた。 「じゃぁ、魔神ッスか?」 『まぁ、そんな感じでやんす』 魔神とやらは適当に頷いた。 「ちょっとミニマムな感じがするけど…」 ロナルドがうさんくさげに魔神を見やる。 「ふむ、魔神というより…」 春臣は言いかけた言葉をなんとなく飲み込んだ。身長100cm前後、3等身ほどの小太りなオヤジ。つり目を細めて愛想笑いを浮かべ両手で手揉みなんぞしている。アジアン風のベストにサルエルパンツ、ターバンの留め具に鳥の羽をあしらいぷかぷかと宙に浮いてるところは、なんとなくそれっぽい雰囲気を醸し出してはいるが、ベストが、某巨大電気量販店のハッピであっても驚かない。 『ちょうど3人いるし1人1つづつ聞いてやるでやんす』 魔神は訪問販売のセールスマンみたいな顔をして言った。なんともテキトーだ。 「願い事って急に言われてもなあ…」 ミチルは腕を組んで明後日の方を見やりながら考えこむ。 「うーん…」 ロナルドも考え込んだ。脳裏に浮かんだのは乳と尻であったが。 春臣が言った。 「もちろん、願い事など決まっている…ミチル君の前で言うのははばかられるがっ…「はばかれよ!」!!」 春臣の願い事はロナルドにかき消された。 そんな3人に焦れたのか。 『ないならこういうのは、どうでやんすか?』 魔神は言うが早いか指を鳴らしてみせた。 「!?」 ボンと何かが破裂したみたいな音がしてミチルの姿が変わってしまう。 酒瓶を首から提げ、笠を被ったたぬき。いわゆる信楽焼のたぬきの置物。ただ一つ良かったことは、等身大ではなく、小脇に抱えられるサイズだったこと…だろうか? 「何をする、貴様っ!?」 眉尻をあげた春臣に魔神がおかしそうに腹を抱えながら言った。 『戻してほしけりゃ、戻してくれと願えばいいでやんす』 「なるほどッス」 信楽焼のたぬきなミチルの言にロナルドは「感心してる場合か」と息を吐く。 案の定、魔神は『戻さないでやんすけどー』などと軽口を叩いている。 ロナルドはたぬきを小脇に抱え道の隅に移動させると魔神に向かって駆けだした。 その時には春臣が鞭を握っている。 「マザ「こんの!!」ファッ「豚がぁぁ!!」!!」 春臣の放送コードギリギリの罵声にロナルドの咆哮が重なって、ロナルドが魔神に飛び蹴りをかますのと、春臣の鞭が魔神を捕らえるのとはほぼ同時だった。 だが。 「!?」 目標を失い空をかくロナルドの蹴りを、反射的に腕を凪いだ春臣の鞭がかすめていく。 上空へと逃れた魔神が、2人の寸止めされた相討ちにちっと舌打ちした。 『残念でやんす』 「っざっけんな!!」 ロナルドが吼える。上空から二人を見下ろす魔神は二人に尻を向けると、ペンペンと叩いて見せた。 『あははははーでやんすー』 「待て!!」 『待てと言われて待つ奴なんていないでやんす』 ベロベロベローと完全に二人を小バカにした感じで魔神が逃げていく。 「こらー! 元に戻してけー!!」 ロナルドは魔神を追いかけようとしてハッとした。ここに信楽焼のたぬきを残して行ってもいいものか。魔神を捕まえた時、そこにミチルがいなければ始まらない。 それに、どこかの誰かが拾って行かないとも限らない。いきなり喋ったミチルに驚いてたぬきをうっかり落としたら…怖い想像をしてロナルドは血の気が引いていくのを感じた。 やっぱりだめだ。置いていくわけにはいかない。 ロナルドはたぬきを抱き上げた。 「えぇっと…大丈夫か?」 「ウッス!」 「こんな感じでも?」 と小脇に抱えてみる。 「大丈夫ッス!」 「あれ? 俺、もしかして変なとこ触ってる?」 たぬきの胴体を抱えているわけだが、もしかして、胸の当たりまで触っているのでは、とふと、思ったのだ。触っていると言ってもロナルドの手には残念ながら冷たい陶器の感触しかないわけだが。 弟扱いはしていても一応生身は間違いなく女の子なのである。 しかしミチルの返答はあっさりとしたものだった。 「大丈夫ッス」 「そうか?」 「抱えられてる感覚はあるッスけど、どこを触られてるみたいのはないッスから」 「それならいいが…向きとかも平気か? 苦しかったりしないか?」 「大丈夫ッス」 ロナルドの心配にミチルの明るい声が返ってきた。 「なんか不思議な感じッス。貴重な体験ッス」 と笑うミチルに、ロナルドはなんだか気が抜ける。いい意味で。 彼女の順応力や適応力はそんじょそこらのそれとは違うようだ。楽観的にも聞こえるが、それがロナルドに心の余裕を作っていた。もちろん早く戻してやりたい気持ちは変わらない。それでも、少し冷静になれたような気がして。 「落としたらごめん」 なんて冗談も言える。 「怖いこと言わないで欲しいッス」 と言うミチルの声は怒ったようなものではなかった。 「よし、ちょっと揺れるが行くぞ」 ロナルドが声をかける。 「ウッス」 ロナルドは信楽焼のたぬきを抱えて走り出した。普段からバイオリンケースを抱えて走り回っているおかげか、軽やかに魔神を追いかける。 それを見た魔神が再び指をパチンと鳴らした。 ロナルドの視界が公園から別のものに変わる。瞬間移動させられたのか。 橋があった。橋の向こうに、彼が願い事と聞いて脳裏を掠めたものが並んでいた。たわわな乳と、ぷりぷりの尻(死語)。それが、橋の向こうで早く触れてとばかりに揺れている。彼の視線は釘付けになった。それどころじゃないとわかっていても、据え膳食わぬは男の恥である。まっことエロ中年の鑑であった。 橋の袂に【この橋渡るべからず】と書かれてある。 「ふっ、これは知ってるぜ! 端を渡らなきゃいいんだろ」 「何の話ッスか?」 「あれ? 知らない? 結構有名なとんち話だよ。橋を端と読み変えて端を渡らず橋を渡る話」 「あ、それ、知ってるッス」 「だろ?」 そうしてロナルドは橋の真ん中を渡り始めた。 ズポッ!! 橋が抜け、あっさり川の中へ。 「なにぃ!?」 『やーいひっかかったでやんすー』 橋の向こうでゲラゲラと腹を抱えて笑う魔神。 「噴水の中で何をやってるんですか?」 春臣は呆れたように息を吐いた。ロナルドが何を見ているのかはわからないが、春臣には、彼が意気揚々と自ら噴水に飛び込み、水に落ちた途端慌てふためいているようにしか見えなかったのだ。ちなみにミチルにも橋や川など見えていなかったから、どこからとんち話が出てきたのかわからなかったわけである。 それはさておき。 川の中に落とすまいと頭上に掲げているたぬきに春臣が鞭を振るった。 しなやかに伸びた鞭がたぬきを絡めとる。手応えを感じて春臣は優しく鞭を握る手を翻した。 「ひゃーっっっ!?」 たぬきがロナルドの手をすり抜けて、宙でくるくると回転しながら春臣の腕の中に収まる。 「目が回るッス~~きゅう~~」 その時には魔神は姿を消した後だった。 春臣は噴水の中でじたばたしているロナルドを救出してやる。 「くそぉ~、ちょこまかと…俺、ちょっと取ってくる」 「ああ、誰に喧嘩を売ったのかその身に叩き込んでやろう」 その頃、ようやく世界司書がポケットの中の小瓶のことを思い出した。 「ま、いっか」 ■3■ 魔神を探すのは容易だった。 彼はその先々で騒動を起こしていたからだ。 女の悲鳴、男の絶叫。それに続く老若何如問わない怒号。 周辺には【殺す】と書いて【やる】みたいな不穏な空気が充満していた。 魔神の逃走経路を先読みし、路地裏で張っていると魔神があっさり網にかかる。 『あれ?』 逃げようともがく魔神だが、何故だか網が絡まって抜け出せない。 春臣の傍らからバイオリンの音色が響いていた。 「残念だけど、魔法が使えるのは君だけじゃないんだよ」 自分の使う力が魔法と分類されるものなのかはいささか疑問であったが、ロナルドは穏やかな口調で言った。但し、目は笑っていない。 「まずは彼女を元の姿に戻してもらおうか」 春臣が魔神の前に置物のたぬきを静かに置いた。 春臣の迫力に気圧されたように魔神は首をぶんぶん縦に振っていたが、たぬきの置物を見るなりぶんぶん首を横に振った。 「……どういうつもりだ?」 『これはただの置物でやんす』 「何!?」 ロナルドは春臣を見た。 春臣はばつが悪そうに視線をそらせた。 そういえば、途中から少し口数が減ったな、とは思っていたのだ。珍しいこともあるものだ。「可憐な姫に姫抱きされちゃったッス」とか「置物じゃなかったらいろいろ触れたのにッス」とか「あ、でもそれだと抱いて貰えないッス」とか「両手だけ動けば良かったッス」とか「このままずっと置物だったら、姫の部屋に飾って貰って、毎晩姫ウォッチが出来るッスね」とか不吉なことをずっと喋って春臣の心胆を寒からしめていたのに。それが途中から全然聞こえなくなったな、とは思っていた。 どうやらどこかで、本物の信楽焼のたぬきと取り違えてしまったらしい。 彼女の声を最後に聞いたのは確か…春臣は記憶をたどり始めた。 確か小料理屋の店先で一度たぬきを置いた。 願い事と聞かれて彼はすかさず答えたものだ。【酒池肉林】。ただしお肉の方は女体盛りでお願いします。出来ればポニープ(以下、自主規制)。 とにかく、いろんなことがあって一度置いた。 なるほど小料理屋なら店先に信楽焼のたぬきが置いてあってもおかしくはない。 「氏家君、氏家君!!」 春臣はたぬきを見つけて呼びかけた。しかし返事はない。 まさか、これではないのか。だがここに置いてあるたぬき以外に取り違える可能性のある場所は思いつかなかった。どこか壊れたり、皹でも入ってしまったのかと恐ろしい想像に不安を募らせ徹底的に置物をあらゆる角度から隅々まで確認する。しかし、それらしい跡はない。 「おい、返事をしたまえ!」 すると。 「……んあ? 姫? あれ? どうしたッスか、そんなに慌てて…」 ようやくミチルの声が聞こえてきた。 「よかった…呼ばれたらさっさと返事をしたまえ!」 「ッシタ!」 いつも通りのミチルがすみませんとばかりに言った。置いていったくせにと言われることを予想していた春臣は当てが外れてなんだか気が抜ける。 まるで、ここに置き去りにしてしまったことを知らないみたいだ。何故、知らない? 「うーん、寝てた?」 などと暢気に呟くミチルに春臣は海よりも深いため息を吐いた。 それがこの先の未来に大きな意味を持っていたことを、この二人は知る由もなく。 再び魔神の元へ戻ると見張りをしていたロナルドが冷たい視線を春臣に向けた。 「ありえないよな…」 「ちょっとした事故だ」 ぴしゃりと春臣。 「酷いッスよねぇ」 ミチルが言った。たぬきでなかったら口を尖らせていたことだろう。 「…寝てたくせに」 「ははは~」 ミチルは笑ってごまかした。 春臣は魔神に向き直ると今度こそとばかりにミチルを彼の前に置いた。 「さぁ、戻せ」 『それ、人にものを頼む態度じゃないでやんす』 「ほほぉ~、どうやら君は自分の立場がわかっていないようだな」 春臣が魔神の横っ面を踏みつけて、ぐりぐりと抉るように滲った。 「尿瓶に入れてディラックの海へ流してやろうよ!!」 ロナルドも「やる」気だ。 そもそも、この0世界で魔法を使えるのはこいつだけではない。とするなら彼でなくても魔法を解ける人間がこの広い0世界にならいるのではないか。ならば、こいつにわざわざ頭を下げる必要があるのかという疑問が2人の脳裏を掠めていく。 このまま本当にやってしまっても…。 「まぁまぁ」 そんな剣呑とした空気の中に割ってはいる場違いなほどにのんびりとした声。もちろんミチルだ。 「一応、彼の言い分も聞いてやるッスよ」 「寛大なことだな」 呆れたように、しかし春臣は一歩退いた。 「しょうがないなあ…」 ロナルドも取りあえず矛を収める。 「なんで小瓶の中に入ってたんッスか?」 ミチルは尋ねた。 「あっしの主人はひどく怒りっぽい性質だったでやんす。ほんのちょっとした出来心なのに、怒ってあっしを小瓶に封じたんでやんす」 ロナルドは内心で思った。本当に怒りっぽかったのかなあ、と。 春臣は思った。ちょっとでない出来心であったに違いない、と。 魔神はそれを咎められ、罰として一定数の願い事を叶えなければ小瓶から解放されなくなったのだという。 しかし。 『覚醒した今となっては馬鹿らしくなったでやんす』 確かにそれは少しわからなくもない。 元の世界ならともかく、0世界の人々の願い事は彼の手に余るだろう。彼以上の力を持つ者がうようよいる世界なのだ。それに、元の世界に戻るにしろ、そうでないにしろ、小瓶の中にいては何も始まらない。だが彼には呪いのようにその罰がついて回るのだ。 そういう日々の鬱憤が彼の厨房心に更なる拍車をかけたのか。 いつしか一喜一憂する人々をからかう事が彼の目的になってしまっていた、というわけだ。 『反省する気はないでやん…ぶふっ』 ツンとそっぽを向いた魔神の横っ面を再び春臣が踏みつけた。 「甘えるな」 「だからって許されると思うなよ!!」 いきり立つロナルドと春臣に。 ミチルが言った。 「願い事、するッスよ」 そうしてミチルはこう願った。 「貴方が自由になりますように」 『…………』 ロナルドと春臣は呆気にとられたようにたぬきを見た。魔神もたぬきを見た。 魔神を封じたのは魔神の主で、魔神の力など遠く及ばないほどの力であったはずなのに、魔神への呪縛は音もなく解けた。一定数の願いなどと曖昧なものではなく、もしかしたら、これが魔神の封印を解く鍵だったのではないか。 ミチルにも春臣にもロナルドにもわからなかったが、確かに魔神はその瞬間解放されたのだ。 とはいえ、彼を踏みつける春臣からは解放されたわけではない。 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 その日、ずいぶんと長い間、その広場に魔神の絶叫が響きわたったという。 彼は春臣とロナルドに血祭りにされた挙句、広場に下半身露出で逆さ吊りにされたのだ。そこに、彼のいたずらで酷い目に遭った人々が殺到したことは言うまでもない。 これでも改心出来なかったら、彼はそういう性分ということなのだろう。(合掌) 魔神が解放されたのと同時にミチルは元の姿に戻った。 魔神の断末魔を背にミチルがふと思い出したように尋る。 「そういえば2人は何を願ったッスか?」 春臣とロナルドは顔を見合わせた。 春臣が答えた。 「女子供の前では慎む。それが分別ある変態というものだ」 「え~、ずるいッスよ~」 ■大団円■
このライターへメールを送る