イラスト/Jonau(ismp4072)
王国を去り、魔術師の塔へと独り篭るようになってから、どれ程の夜を見送ったのか。地底界と手を結び世界の支配を企んだ祖国の所業を防ぐため、名も無き魔術師が残していった書物を読み漁り、異世界と己のいる地上界を結ぶゲートの研究を進めてきた。 異世界と繋がり、天上界や異世界の神々と手を組めば必ず野望は阻止できる。そのために始めたはずの研究だったが、何の運命の悪戯か、祖国の野望はいつのまにか名乗りを上げたとある勇士の手により潰えることとなったのだ。 しかしてフェリックス・ノイアルベールは魔術師の塔で興味の赴くがまま、未だ研究の日々を送っていた。 あれから繰り返し行ってきた実験により、一瞬だけ異世界への門の隙間を抉じ開けることには成功するようにはなっていた。 不完全なゲートの隙間からは、異世界のものであろう様々な物体が落ちてくる。見たこともないような植物の一部や、まったく解読することの叶わない文字の綴られた書物など、それらは何れも異世界の文化の断片を感じさせ、研究心を擽られるものだった。 中でも興味を惹かれたのは、変わった衣装を纏った人々が行き交う様を独特のタッチで描いた絵である。後にその世界のものと思われる文字を研究したところによると、それは「浮世絵」と呼ばれるものであることが分かったのだ。己の世界とは全く異なる文化を持つその浮世絵の世界に、フェリックスは永く続く研究の日々の中でひどく執心するようになった。 * * * その日も、彼は実験をしていた。使用する魔術道具の配置をほんの少し調節し、いつものようにゲートが細く開く。常より開いた幅は広いようではあったが、安定性は悪いようだ。形状が絶えず波打ち変わる様を羊皮紙に記録する。 そのとき、ゲートの様子を観察していたフェリックスの足元に、ぽふん、と何かが落ちてきたような音がした。同時に、「ひゃぁっ」という何故か気の抜けるような悲鳴がする。ひとまず記録を続けていたペンの動きを止め、視線を自身の足先の辺りに落とす。 「……真綿か何かか……?」 林檎三つ分くらいの大きさの真白い毛玉のようなものが、もごもごと動いていた。動くということは生物だろうかと、フェリックスはペンと羊皮紙をすぐ傍の机の上に置き、その物体を片手で掴み上げる。 「あわわわわ何ダス!? 何が起こってるダスかーっ!?」 白いもこもこが、掴み持ち上げられた空中で手足を必死にバタつかせている。よく見ると、その言葉を話すもふもふには円らな目と黒い鼻や動物らしいもっふりした口、小さな丸い耳と尻尾もついていた。 「これはいったいどういう生物だ?」 両手で持ち直し、もう少しどういう生物なのか調べようと手足の形を見たり腹の辺りを探ったりするフェリックスに、真綿的謎生物はまた抗議するようにジタバタと暴れた。 「く、くすぐったいダス! ワシは熊ダス! だから降ろして欲しいダスっ」 「熊、だと? それにしては小型だな。魔物だとしても害はなさそうだが、言葉を話す小型の熊とは……」 「降ろして欲しいダスぅーっ」 その熊っぽい物体は、『ムク』と名乗った。見るからに異世界の未知の生物であることは明らかだったのでフェリックスはムクに自身がどういう生物なのかを詳しく説明させたが、結局分かったことは見かけによらずひどく長命な生物、ということくらいである。 「も、もういいダスか? ワシ、食事の途中だったダス……早く帰りたいダスよ」 「そうか。ではそこのゲートの方に、」 行けと言いかけて、止まる。先程まであったはずのゲートが消えていた。いつもより不安定だったためだろう。目を離していた隙に意図せず消えてしまったのだ。同じ場所に繋げられないかと念のため試してみるが、先程とまったく同じ条件で行ったはずなのにも関わらず、ゲートに顔を突っ込んだムクは未知の凶暴な生物を目の当たりにしたらしく悲鳴を上げて帰って来た。 「ワ、ワシ……もう帰れないダスか……ワシはこれからどうしたらいいダスか」 しょぼん、とムクの小さな耳が垂れる。一方フェリックスはというと、予想外の結果にひとまず先の羊皮紙に追加でメモをしていた。文字を綴りながら、視線だけを熊的生物に寄越す。ふむ、とほんの少し考えてから、ペンを置いてムクの前に立った。 「……仕方ない。お前はしばらく俺の使い魔として此処にいろ」 「? つかいま、って何ダスか?」 フェリックスの言葉に、ムクの垂れた耳がぴんっと立つ。それから瞬きをしながら、首を傾げた。 「言ってみれば、俺の下僕だ。俺の言うことを聞いて働くのが仕事だ」 「つまり、ワシは今日から……親分の子分ってことダスな!」 パッとムクは丸い両目を輝かせた。キラキラした眼差しを向けられたフェリックスは、ほんの僅かに眉を寄せる。 「……親分というのはやめろ。俺を呼ぶときは使い魔らしく「ご主人様」だ」 「分かったダス! 親分っ!」 「……」 永く独りきりだったフェリックスの生活に、そうして一匹だけ、とても呑気なしもべがやってきたのだった。 * * * また、随分長い日々が過ぎた。長命と聞いていたムクがいつまでも変わりないのは特別驚きに値することはなかったが、フェリックス自身もいつのまにか老化が止まっていたのは以外なことではある。原因はフェリックスが天上界の民の血を引いているためと分かったが、研究をより長く続けていられるということ以外に特別何を気にする訳ではなかった。 「親分親分! ワシ、「隠れ身の術」だいぶん上達したダス! 見てて欲しいダスよ!」 「ご主人様と呼べと貴様は何度言えば理解できるのだ、馬鹿者。……まぁいい、見せてみろ」 ゲートから流れてくるあの「浮世絵」の世界の文化についても熱心に研究しており、解読した書物を元にムクに「忍術」というものも覚えさせられるようになっていた。 穴の空いた隠れ布で体を覆い、丸い穴から白い毛を覗かせたまま壁に張り付いて「どうダスか!?」と叫ぶ使い魔にフェリックスは古い椅子に腰かけたまま呆れたように溜息をつく。 「使う道具の管理すらできないのか貴様は。針と糸を探して来い、今すぐにだ」 「わわわっ、分かったダス!」 言われてやっと穴に気づいたムクは驚き慌てた様子で、フェリックスの指した方向へと駆けていった。道中、自ら放り投げた布に足を引っ掛けて転倒する。それをまたフェリックスに叱責され、ムクは文字通り転がるようにして部屋を出ていく。 まっ白な体が視界から外れていくのを眺めていたフェリックスはふいに在りし日に親友が語った言葉を思い出した。 ――仕事と、美味い酒と、語りあえる友がいれば、たいていのことは何とかなるもんだ 相変わらず此処に酒はないが、前よりは随分賑やかになったものだ。フェリックスは手にしていた書物に視線を落とし、そう独りごちる。 遠くで、盛大に物が崩れる音がすると共に使い魔の悲鳴が聴こえた。ムクのドジの多さにも、もうすっかり馴染んでしまっている。フェリックスは再び嘆息し、開きかけた本を閉じて椅子から腰をあげた。 ………… …… … その日の実験は、限りなく上手く事が運んでいた。とは言っても、特別いつもと違う何かをしたという訳ではない。いつも通りに道具を配置し、いつも通りに使用する薬の材料の割合を前日の結果からほんの少し調整し、いつも通りに手順を進めていった。 ただ、ゲートが発生する際の周辺の空気の反応がいつもとは段違いだったのだ。このゲートはこれまでの実験で発生したものの中でも、大きさ、安定性、共に最高のものになるだろう。そう予感したフェリックスは肩の上で震える従者をよそに、時空が歪み現れる『扉』にじっと見つめていた。 「おっ、親分! いつもより反応が激しいダス!? 何か怖いダス!!」 「騒ぐな。貴重な反応を見逃したらどうしてくれ、――!?」 怯えるムクを叱咤しようとしたとき、完成しつつあったゲートがこれまで聴いたことのないような大きな音を発する。それは獣の咆哮と稲妻を合わせたような、聴く者を震撼させる恐ろしい音だった。ひぃっ、とムクは思わず悲鳴をあげて丸くなる。フェリックスもまた明らかに異常な様子に身を固くしていた。 激しい音は立て続けに発せられ、ゲートから嵐のような強風がフェリックスの研究室に雪崩れ込んでくる。部屋の中にある書物が吹き飛ばされ、研究の成果を記してきた紙束が宙を舞う。椅子が倒れ、机が部屋の端まで押し込まれる。明らかに様子がおかしい。飛ばされないように必死で肩にしがみついている使い魔をさりげなく片手で支え、一度ゲートを閉じようと魔術道具に手を伸ばした。 そのとき、一際大きく音が部屋に響く。部屋の中を攻め立てていた強風が、今度はゲートの向こう側へと逆流し始める。部屋の中のものが次々ゲートの向こうへと消えていく中、フェリックスはどうにか柱にしがみつくことで耐えていた。しかし、フェリックスの服の内側へ避難しようとしていたムクが足を滑らせて落下してしまったのだ。 「親分っおやぶーんっ!!」 悲鳴に気づいた瞬間、反射的にフェリックスの片腕が柱から離れる。だがその手は吹っ飛ばされていく小さな白い体を掴み損ねた。 「――――ッ」 不気味に黒く濁ったゲートの中へと使い魔が吸い込まれているのを目にしたフェリックスは、柱からもう片方の腕も離したのだった。 地面に叩きつけられるような衝撃の後、フェリックスは薄らと目を開ける。見覚えのある椅子や机や書物の類が散乱していることに気づくと、急いで身体を起こした。何かを探すように左右へ落ち着きなく視線を彷徨わせる。ひとまず立ち上がろうと地面に手をついたとき、もふっと柔らかい感触があった。 「お、親分……そんなに押さえつけられたらワシ潰れてしまうダス」 「! ……いつまでもそんなところで寝ていた貴様の責任だろう。文句を垂れる暇があるのならさっさと起きろ」 言われてのそのそと起き上がろうとするムクから目を離し、それから改めて周囲の様子に目を凝らした。 荒涼とした場所だ、とフェリックスは思う。草木の一本もなく、不気味にうねる岩場が何処までも続いている。空は黒く渦巻き、深い闇がフェリックス達のいる地面の方にまで降りてきているようだった。自分達が通ってきたはずのゲートは、既に何処にも見当たらない。 フェリックスは、この光景に覚えがあった。以前目を通した魔術書に、今自分が見ている景色とまったく同じ絵が描かれていたのだ。それを記憶から掘り起こした彼の脚が、ほんの僅かに震える。 「……地底界、か」 かつて祖国がそこに住まう魔物共の力を得るために目指した世界だった。ゲートは既に閉じている。フェリックス達に逃げる道は、残されていない。 ふと低い唸り声が鼓膜を振るわせた。振り返ると、見上げるような巨大な身体の異形の生物がこちらを見下ろしている。とにかく逃げなければと視線を逸らすが、逸らした先にもまた異形が迫っており、気がつくと完全に魔物共に囲まれる形になっていた。 「こ、怖い奴ばっかり来たダス……どうしたらいいダスか……!?」 不安げにこちらを見上げるムクに何を言えばいいのか躊躇ったとき、魔物の一匹が咆哮と同時に鋭い爪の伸びる凶暴な腕を振り上げる。勢いよく振り下ろされる爪の狙う先が己ではなく使い魔の方だと気づくと、フェリックスの脚は咄嗟に地面を蹴っていた。 背中に焼けるような熱い痛みが走る。腕の中でムクが何かを叫んでもがいているのが分かった。従者が無事だと分かると、フェリックスは地面に伏したままジリジリと迫ってくる魔物達を見上げた。 (これで、終わりか) ムクが何度も自分を呼んでいるのが遠くに聞こえる。フェリックスは、使い魔を抱える腕にぐっと力を込めた。 (だが、……こいつを守って死ぬなら、いいか) 逃げろ、と口を開きかけたとき、身体が浮くような感覚がした。魔物達の唸り声が遠くなっていく。いよいよ死を迎えたのかと思ったが、従者の声は何故か少しずつはっきり聞こえるようになっていた。 「親分! 怪物がいなくなったダス! 今度は何が起こったダスか!? ワシ達また知らない場所にいるダス!!」 薄く目を開く。視界を覆っていた白い毛玉をそっと掴んで退けると、確かにそこはまた彼らの全く知らない土地だった。 【完】
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