風は頬をぬるい温度で撫で、長い黒髪をざらりと揺らす。舞い上げられた砂埃が足元で白い靄のようになって、着物の裾から覗く足にちくちくとした感触を与えていた。 ある巨大な邸宅の前で、ひたりと足を止める。大仰な門構えをそっと見上げ、つぅっ、と、視線を何処かへ滑らせる。そのまま数歩後退り、俯いた。屋敷の警備の者だろうか、その姿を見とめた男が強面の男が近づいてくる。ほのかは男が声をかけようとする前に、豪邸に背を向けてその場を後にした。 インヤンガイのこの小さな街区の中央にたたずむその屋敷は、街区の象徴のような存在だった。古くからこの一帯を治め、街の繁栄へと貢献していたという。 風が吹く。巻き上げられた砂は白い靄となって、道行く人々の足元を覆っていた。商店が居並び、老若男女の話す声が絶えず四方から耳の中へと流れ込んでは鼓膜を揺する。混ざり聞こえるのはざりざりという砂の音。 ――おや、可愛い子ですこと。手を繋いでこれからどちらへ? ――『真ん中さん』のところへ参ります。この子はまんまと綺麗なおべべを頂きに。 静かに歩むほのかの脇を、仲睦まじげに手を繋いだ親子が通り過ぎる。みすぼらしい身形をした幼い少女は、赤い頬を綻ばせて愛しい母を見上げ歩いていく。娘に微笑みを返す母の顔は、ひどく青白いようだった。 ――あの親子は『真ん中さん』へ? ――可哀想に、あんなに可愛らしい子なのに。 ――あの身形じゃしょうがない。余程金がないのだろう。 ――大丈夫さ。何といってもあそこは街一番の長者だから、家より美味いまんまをたんと食えるだろうよ。 ――しかしあそこは長きに亘って数えきれぬほど子供を引き取っているというじゃないか、よく蓄えが続くものだ。 ――何人かは里子に出しているそうだが。 ――いるにはいるが、入っていく数と比べればわずかじゃないか。あの屋敷は広いだろうが、何処に子供を溜めこんでいるのだろう。 ――もしやあの富は子供を売って得たんじゃなかろうか。 ――滅多なことを言うもんじゃない。この街に子供を買うような商人も組織も来たことなど一度もないじゃないか。 ――しかし子供を引き取るようになってから、増々金が余っているようじゃないか。きっと身体の「良い部分」だけ切り取って売ってるんだ。 ――まさか。近くの病院じゃ、移植の内臓がいつまで経っても来ないと泣いてる患者が山ほどいるそうじゃないか。そんなにも売りさばいているなら、墓の数はもっと少ないだろうさ。 親子は、ほのかが来た道を逆に辿っていく。そのまま往けば、親子はあの屋敷へ着くだろう。そしてあの大仰な門をくぐり、屋敷へあがり、少女は温かい食事を腹いっぱいに頂いて、新しい服を着せてもらうのだろう。母はそれを眺めながら、そっと屋敷を後にするのだろう。屋敷に残った少女は、幸福になるだろうか。 ほのかは親子の方を振り返ることもなく、そのままひたひたと進んだ。風が絶えることはない。地面を覆う白い靄に足を浸したまま、ひたひたと往く。 耳に届くのは人々の他愛もないざわめき。ざりざりと砂を擦る音。砂埃で咽喉がちくちくと痛み、乾く。ふらりと角を曲がり、広い路地へ出る。人の数が増え、他愛もざわめきも、砂を擦る音も、数を増す。 ふいに、ほのかの視線がまた、つぅっと滑った。 ――おや、肩を落としてどうしました? ――『真ん中さん』へ譲った子を返してくれないかと伺ったのだけれど、もう遠くの富豪に引き取られたと追い返されてしまって……。 ――そうですか。それは残念でしたね。 ――せめて何処の家にいるのかだけでも知りたかったのだけど、一度見捨ててしまったのだから……今更仕方がない。 目元を袖で拭う男の傍らを過ぎて、先へ先へと歩を進める。風に吹かれて時折視界を遮る自身の黒髪を片手でそっと抑え、視線を下へ落とす。白い靄の中に足を這わせ、落とした視線はまたつぅっと滑る。 そのまましばらく広い路地を往き、ふっと、足を止めた。 人々の足元を覆う白い靄の中で、何かが黒く蠢いていた。四辻の真ん中、人の脚が絶え間なく往き返りする、その真ん中だった。 それを見ている「人間」は、ほのかの他に誰もいない。人々は落ちている影に気をかけることもなく幾度も踏みつけて、各々に往くべき場所へ急いでいた。ただ、人ならぬ者どもは惹かれるようにゆらりとその「影」の周りを漂っている。 ほのかは静かに、その影溜まりへ足を寄せた。 『 』 影は、気づき近づいてきた女にそう言った。ほのかは黙してただ、影を見下ろしている。 影の中には、童が在った。 裸で転がる身体は、黒い影の中に際立って紙のように白い。がさりと乾いた骨のように細い四肢は地表で這いまわり、その度に砂埃のような影が湧いてまた童の身体を覆うのだった。 『 』 童はそう言った。しかし何も言っていない。童には首がなかった。物を言うべき口を持たぬ童は何を言っても、何も発することもできはしない。それでも、童は何かを叫んでいるように見えた。叫ぶ代わりに、影は絶えず湧き出し童を覆う。 ほのかはその白い袖で口元を覆い、ただじっと、童を見た。影は童の怨嗟だろうか。何故童は怨嗟を叫ぶのだろうか。 首のない真白な裸体は、人々に何度も踏みつけられながら、砂の靄の中で蠢く。生まれたばかりの赤子の如くに、あるいは針で止められた蜘蛛の如くに、がしゃり、がしゃりと、もがく。しかしそのしわがれた四肢で幾度地面を掻こうと、その身体が其処から離れることはない。 童はもがきながら、身体を持ち上げ、無い頭をほのかへ向ける。頭の無い童に眼は無い。在るのは黒く変色した首の断面ばかりだった。しかし、無い眼で自分を見ているように、ほのかには見えていた。 (ああ、……この様は、犬神に似ているわ……) 餓えた犬の頭を斬り落とし、四辻に埋めて溜まる怨嗟を呪詛とする。幾度も、幾度も踏みつけられる童は、その蠱毒の様によく似ていた。 『 』 童は何を叫ぶのだろうか。己に気づいた女に何を言うのだろうか。怨嗟の影は、白い靄に紛れ風に吹かれてこの街に染み込んでいく。咽喉がちくちくと痛み、乾く。 この呪詛は、何をもたらすためのものなのか。何を得るために、何を成すために、何が童にこの仕打ちを強いたのだろう。 童はもがく。無い頭を求めているのか。怒りの矛先を探しているのか。何処へ往くべきかを知れぬ故に、口惜しくて足掻くのか。 枯木のような脚が地面の上で滑り、老人のような腕が繰り返し砂を擦る。首の黒い断面は、やはりほのかの方を向いていた。 ほのかは影の前に屈む。少し躊躇い、しかしもがく童の腕をとって、その身体の前に運んだ。童の身体が、ずるりと進む。それから、童はずるり、ずるり、と蛞蝓のように地面を這いだした。 「……首は、真直ぐ往った先よ……大きなお屋敷にお往きなさい」 幾度も踏み躙られながら、じたばたともがく童の姿があまりに哀れで。それ以上に、恐ろしくて。ほのかは童に囁いた。耳の無い童は其れを聞いただろうか。ずるり、ずるりと這って往く。風は砂を巻き上げ、人々の足元を白い靄で覆う。その白い靄の中に、黒い影が長い長い筋を作って往く。 ほのかは立ち上がり、去って往く黒い影を見て、その先へと視線を滑らせる。 其処には白い糸が張って在った。童の無い首から、真直ぐに伸びている。糸は真直ぐに、あの大仰な門のお屋敷へ伸びている。 糸は、あちらこちらから伸びている。皆、真直ぐに伸びている。皆、真直ぐに、街一番のお屋敷へ伸びている。街中で、長年に亘って続けられた蠱毒が生んだ怨嗟が蠢いている。 一点を中心に四方から糸が伸びるその様は、蜘蛛の巣にひどくよく似ていた。 * * * ――一晩のうちに、皆消えたそうだ。 ――お屋敷の者が、皆? ――神隠しだ。子供を売りさばいた罰があたったのさ。 ――やはり『真ん中さん』のあの富は、子供を売って稼いでいたのか。 ――いいや、きっと強盗だろう。金目的で皆殺して何処かへ隠したんだ。だって、家の金は何処かへすっかり消え失せていたのだろう? ――たった一晩で、あの屋敷のもの全て攫っていったって? そんな馬鹿な。 今日は風がない。ほのかは、蜘蛛の巣の消えた街を見た。街中にあれほど伸びていた糸がすっかり消えている。あの童が『他の者』に教えたのだろうか。童は首の在処に辿り着いただろうか。 巨大な邸宅の前で、ひたりと足を止める。大仰な門構えをそっと見上げ、すぐに俯いた。昨日の警備の者が来る気配はない。ほのかは豪邸に背を向けてその場を後にした。 【完】
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